中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

おわりに

死去翌々日の六月一〇日の『朝日新聞』は、「陶芸界に新しい道開く 惜しまれる富本氏の死」の見出しをもって、いち早くその死を悼んだ。

「早いことなおらんと学生に講義できない」――日本陶芸界の巨星、富本憲吉氏(重要無形文化財)は後進の指導の責任を痛感する言葉を最後に、八日夜、七十七歳と三日の生涯を閉じた。……富本氏の座右銘は「平常心」で、その遺作は「金銀彩春夏秋冬壺」。これはことし三月に同大学[京都市立美術大学]で開かれた教授クラスの人たちの「作家展」に公開された。……陶芸家の河井寛次郎氏は……「前代の伝統のキズナ[写し]を断ち切り、陶芸界の一階段上った大事な人でした」と語っていた

富本は生前、次のような詩句を陶板に書いている。「独り生れ ひとり死に行く 人の身も亦 可なし」。そして、「私には墓はいらぬ。死んでも拝んだりするような事はして欲しくない。作品が墓だ」が、富本の晩年の口癖だった。それを聞いた弟子の藤本能道はこう受け止めた。「自分の行った行為を、作品を見、感じることによって正当な評価を望むだけで、結果としての地位や伝説のような論議は困るとの教えのように感じられた」

墓不要、作品をもって墓となすという富本の考えには、多様な解釈が可能であろう。すでに言及しているように、独身時代の富本は、「自分には東京にも大和にもホントの宿る家がないのだと云ふ事がコミ上げる様に涌いて来る」という表現をしているし、晩年の京都での暮らしについては、「嫌な京都住まい」という言葉を使う。他方で、独身時代においても、そして、戦後家族から離れて大和に帰ったときも、英国への逃亡願望を口にしている。加えて、最晩年の座談会では、「[東京や京都に比べて]やはりイギリスが好きですか」という問いかけに対して、富本は「イギリスの方が好きですね」と、はっきりと答えている。おそらく富本にとっては、大和も東京も、そして京都も、安心していのちを預けられる場所ではなかったのであろう。それでは何に自分のいのちを預けるのか、それは作品以外にない。晩年の富本の心のなかは、こうした強い思いが渦巻いていたものと思われる。しかし思うに、墓不要、作品をもって墓となすという富本の考えは、単に私生活に由来する決断のレヴェルに止まらず、別の観点に立てば、モダニストとしてのイデオロギー的決断に根拠を置くものであった可能性も、あながち否定できないのではないだろうか。つまり、作品が自分の実践のすべてであり、そのなかに「近代」にかわる自己の全き思想が凝縮されており、それゆえに、それを見た人には、きっと「意識の変革」のような覚醒がもたらされるだろうという、富本の強い認識が隠されていたのではないか。『デザインのモダニズム』の編者のポール・グリーンハルジュは、デザインの近代運動の指標のひとつに「意識変革」を挙げて、これについて次のように述べる。「デザインには、それに接した人の、『意識を変革する』力がある、との認識が示された。……そういうわけでデザインは、『偉大なる改革者』としての機能、つまり、人びとの気分と展望を変えることができる、洗練された一種の精神療法としての役割を果たすことができた」。すでに上に引用した『朝日新聞』の記事のなかの「前代の伝統のキズナ[写し]を断ち切り、陶芸界の一階段上った大事な人でした」という河井寛次郎の言葉にも、また「自分の行った行為を、作品を見、感じることによって正当な評価を望むだけ」という藤本能道の解釈にも、直接その用語が使われているわけではないが、「意識変革」にかかわって、富本作品のその本質部分が指摘されているように感じ取れる。つまり、富本の意欲は、「近代」が含み持つイデオロギーを作品に語らせ、見る者、使う者の旧弊な意識や価値観を変えることだったにちがいなかった。

富本が死去して一年後の一九六四(昭和三九)年の六月から七月にかけて、朝日新聞社の主催による富本の遺作展が開催され、大阪大丸、東京伊勢丹、倉敷美術館を巡回した。東京新宿・伊勢丹六階を会場とする「富本憲吉陶芸展」の会期は、六月一二日から二一日までの一〇日間であった。初日には、バーナード・リーチによる「憲吉と私」と濱田庄司による「憲吉の作品について」、このふたつの講演会が、午後一時より同百貨店七階のホールにおいて行なわれた。リーチは、富本の処女作《梅鶯模様菓子鉢》をイギリスから持ち帰り、この講演会で披露した。

この遺作展の会期中の六月一五日。『朝日新聞』の「画廊」欄は、「『美と用』の融合の世界」と題して、次のように、この展覧会を評した。

 こんどの遺作展には楽焼の処女作(明治四十五年)から未完成の最終作(昭和三十八年)まで、二百二十六点の陶芸をはじめとして、画帳や書なども出品されている。が、会場を歩きながらとくに心を引かれた作品は、晩期の花やかな金彩・銀彩の仕事ではなく、昭和十年前後から戦前にかけての仕事だった

「画廊」欄の執筆者は、晩年の金銀彩の飾り筥にみられる華麗な「人工の妙」よりも、むしろ、戦前の白磁にみられる「端正なフォルム」を賞讃した。そして執筆者は、最後をこう結んだ。

 もう十年ほど前だったろうか、富本は、一品制作ではなく、小ざらや茶わんなど、量産してゆきたい、と話してくれたことがあった。クラフトマン・デザイナーとして富本の意匠感覚が陶芸の分野以外にもひろがっていったらどんなにたのしいことかと、その時考えたが……この問題はまだ今後も続いている。富本の仕事を、そのひとつの出発点と考えられないだろうか

「クラフトマン・デザイナーとして富本の意匠感覚が陶芸の分野以外にもひろがっていったらどんなにたのしいことか」と書いたその執筆者の思いは、すでに富本本人の最初期の願望でもあった。それは、一九一四(大正三)年の九月に美術店田中屋内に設立した「富本憲吉氏圖案事務所」に凝結した。しかしそこでの活動は、見果てぬ夢として潰え去っていた。一方でその執筆者は、「富本は、一品制作ではなく、小ざらや茶わんなど、量産してゆきたい、と話してくれたこと」を記憶に留めていた。

終生持ち続けた富本のこの思いに焦点をあわせた展覧会「富本憲吉展」が、一九七二(昭和四七)年の一二月に浜松市美術館で開催された。展覧会図録によると、「量産見本」としてほぼ製作年順に「色絵染付花弁コーヒー碗皿」から「色絵染付酒器」までの計六四点が展示された。以下は、図録のなかに書かれた「ごあいさつ」の全文である。

 富本憲吉は、民芸運動に徹した陶芸の巨匠であります。

 陶工として立った若い頃から、イギリス人ウイリアム・モリスの影響をうけ、単なる一品製作の名工としてよりも、よき趣味の大量生産の指導者であることを夢見ておりました。

 しかし当時の日本の陶芸界は、一品製作の名工を尊重しており、このため幾多の困難にぶつかりましたが、簡素な上絵の、さまざまな日常生活のための原型を工夫しました。

 とくに晩年は、京都において大量生産のためのモデルギバー(手本供与者)としてよい製品を安価に供給しようとしました。

 富本憲吉のこの試みは、近代の工芸家として重要な先駆をなすものと思います。

 今回の展覧会は、量産見本のための作品を中心に、多種多様の作品を展示して、富本芸術を紹介するものでありますので、十分にご鑑賞いただきたいと思います。

 おわりに、ご所蔵の品々を心よくご出陣下さいました皆様に、深く感謝の意を表します

冒頭の「富本憲吉は、民芸運動に徹した陶芸の巨匠であります」という認識は、あまりにも歴史の真実から逸脱したものであったが、それに続く、富本の作陶紹介は、実に見事な、的を射た描写となっている。疑うことなく、富本の大量生産の試みは、「近代の工芸家として重要な先駆をなすもの」であったし、富本の作陶のすべてを体現するものであった。

西洋に目を向けると、この展覧会が開かれたころまでには、『新しい建築に向って』を著わしたル・コルビュジエが一九六五年に、バウハウスの初代校長を務めたヴァルター・グロピウスが一九六九年に、相次いで「近代」の巨匠建築家たちが世を去っていた。そして、あたかもそれを待っていたかのように、七〇年代に入ると、「反モダニズム」や「ポスト・モダニズム」といった用語のもとに、「近代」への懐疑と批判が現われるようになる。本稿においてしばしば援用した、一九九〇年刊行の『デザインのモダニズム』も、そうした歴史的文脈を踏まえて、一〇名のデザイン史家によってそれぞれの観点からモダニズムが論じられた一冊であった。そのなかで、編者のポール・グリーンハルジュは、デザインの近代運動が瓦解して久しいこの安全な地点からモダニズムを振り返って、このように述べる。

 おそらく最終的には近代運動は、それ相当の生活を営む機会がヨーロッパとアメリカの大多数の人たちに与えられたのはせいぜい二〇世紀に入ってからのことであるということを絶えず想起させる役割として機能するであろう。実にその生活にあっては、飾りに満ちたというよりも現実に即した用語法に従って、適切に作品(オブジェクト)と観念に接近することが可能になっていた。先駆者たちの理論なり実践なりの正当性がどうであろうとも、私たちは、すべての人間の尊厳を文化活動にとっての絶対的必要条件にしようとした不服従のうねりの一角を、同じく彼らも担ったことを想起すべきであろう10

このような歴史の再検証の作業は、他方、日本にあっても不断に続けられる必要があるであろう。そのとき、のちのデザイン史家は、モダニストとしての富本憲吉の思想と実践をどのように評し、近代工芸および近代デザインの全体的通史のなかに、いかように再配置するであろうか。

最後に、いま一度、富本の原点と初心とを想起しておこう。まず、憲吉が製陶の世界に身を投げ出したばかりのときの妻一枝の言葉である。

どうして彼の模樣がもつとよく人々等に解つてくれぬか。……總てこんな事が彼に孤獨の感じを起させてゆく、彼の道は寂しい、しかも、苦しい。けれど、それは總ての「先驅者」の運命ではなかつたろうか。いきほい彼は、沈黙で心の感激を抑えてゐる。……これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう。けれ共、不幸にして、そんな時期は、まだまだめぐつて來まい。……何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか、私は眞當に考へずにはおれなくなる11

これ以上の富本憲吉という生き方に、とりわけ量産に対する憲吉の熱望に、理解を示した言辞はないであろう。孤独と沈黙、確かにそれは、「豊富に生産されてくる」ことを見つめる「先驅者」が宿す運命だったにちがいなかった。 他方で、この時期の安堵村において憲吉と一枝の生き方に触れた、当時奈良女子高等師範学校の学生だった丸岡秀子は、このように書く。

 青田の中に、ちょこんと建てられたあの家の二人は、当時いっぱしの大人だった。だが、十代を苦悶し、その苦悶に支えられて二十代を翔ぼうとしている小鳥のようなわたしに対して、いささかの差別もない。子ども扱いもしなかった。大人振りもしなかった。人間として、まったく平等な扱い方をしてくれる人という信頼を持たせた。

 それはなぜだったのか。このことは、差別に敏感なわたしの環境から、自力で脱却をはかる芽を創り育ててくれた。これこそ、まさに「近代」とのめぐり合いといえよう12

富本夫妻が生み出す「近代」に遭遇した丸岡は、その後も憲吉と一枝の生き方に接し続け、女性解放運動家として、さらには社会評論家として、自らの人生を生きる。このふたりが鬼籍に入ったのち、再び丸岡は安堵村を訪ねた。そこには、かつての憲吉の生家が「富本憲吉記念館」に姿を変え、そして、近くの廃寺と化した富本家の菩提寺である円通院に、ふたつの簡素な墓標が立っていた。「恵子」が丸岡本人である。小説の形式を借りた自叙伝のなかで、丸岡はこう綴る。

 [墓不要を遺言に残した]憲吉にとっては文化勲章も、陶芸家としての名声も、京都美術大学学長としての地位も、精魂こめた制作陶器の一個の価値に及ぶものはなかったのだろう。……恵子が、憲吉の作陶や、一枝の生活から得たものは、寂しさと近代精神の響き合いであった。……文化を創り、それにかかわる生活の底にあるものは、孤独であり、それに耐えるしかない。これは憲吉も例外ではなかった。……人間は、古い習慣と決別して、自立の道へと旅立とうとするとき、限りない孤独に耐えなければならない。恵子は、自分のなかの孤独こそ、これによって、封建的な家制度や、血縁主義やそこにわだかまる途方もないエゴイズムからの解放を求めて、新しく生きられる契機だと思えた。そのことは、後年、憲吉たちの墓へ詣ったとき、あらためてはっきりと思い知らされた。……記念館のはからいで、庭の隅にあった鶏頭の一本を持った恵子は、長いあいだ、二人のお墓の前にうずくまり、語りかけていた13

明らかに丸岡は、グリーンハルジュがいうような、「すべての人間の尊厳を文化活動にとっての絶対的必要条件にしようとした不服従のうねりの一角を」富本憲吉というひとりの陶工の生き方から読み取った。紛れもなくそれは、日本の工芸とデザインにおけるモダニズムの、旧い拘束服と約束事から解き放されて前に進もうとする、自己を凝視した決然たる雄姿そのものの化身であった。

(1)『朝日新聞』、1963年6月10日(朝刊)、14頁。

(2)『生誕120年 富本憲吉展』(展覧会カタログ)朝日新聞社、2006年、118頁。

(3)藤本能道「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、167頁。

(4)同「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、同頁。

(5)座談会「富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号、1961年9月、44頁。

(6)Paul Greenhalgh ed., Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 13.[ポール・グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、14-15頁を参照]

(7)『朝日新聞』、1964年6月15日、11頁。

(8)同『朝日新聞』、同頁。

(9)「ごあいさつ」『富本憲吉展』(展覧会カタログ)浜松市美術館、1972年、ノンブルなし。

(10)Paul Greenhalgh ed., op. cit., p. 24.[同『デザインのモダニズム』、27頁を参照]

(11)富本一枝「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』第1巻第6号、1917年、29頁。

(12)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、27-28頁。

(13)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、121と126頁。