中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

第一六章 量産の実践とデザイン思考の深化

一.量産陶器の試作と西洋モダニズムの影響

富本憲吉の作陶の場は、自宅 工場 こうば の窯だけに止まらず、冬場は地方の窯へと移った。冬の地方窯での研鑽について、富本は、以下のように語っている。

 東京の新窯をはじめて使ったのは一九二七年の八月でした。東京では冬になりますと風がひどくて、地下室のない私の仕事場では素地が凍って仕事になりませんので、一月から二月にかけては地方の窯場を廻り、その地方の特色ある技法を研究しました。 信楽 しがらき 益子 ましこ 、瀬戸――瀬戸は二、三度―― 波佐見 はさみ 、京都――二回ほど――など廻り、その土地の材料を使い、その土地の職人と一緒になってやりました。こうして各地方の伝統を研究して、最後に(四十九歳の時)焼物の技法としては最も複雑な色絵の研究に九谷に行きました。ここには牡丹の咲くころから米を刈り取るころまで、およそ十ヵ月ばかり北出塔次郎君の所にいて、研究を重ねました

富本がはじめて地方の窯に出かけたのは、一九二九(昭和四)年のことで、信楽だった。この間、片時もウィリアム・モリスの思想を忘れることはなかった。つまりそれは、裕福な一握りの人のために存在する芸術ではなく、万人が享受できる芸術であった。特権的な階級が崩壊し、民主化された平等な社会が出現した暁には、人びとが日常の生活に必要とする物質、たとえば焼き物、家具、織物などは、どのような姿へと変化することになるのであろうか。その形や模様は、あるいは生産の仕組みや体制は――。これが、英国留学に先立って美術学校の学生であったころから芽生えていた課題であった。富本は、このようにいう。「私はまだ陶芸をめざす前から、ばくぜんと心に描いていた英国のウイリアム・モリスの思想にいくらかでも自分の道を近付けたいという念願をいだいていた。信楽へいったとき、私は一つの試みをした」

それは、あらかじめ向こうの職人に注文の寸法を出して、大皿のロクロを引かせておき、あとで行って自分で絵付けをすることである。こうしてできた何十枚という鉄絵の大皿を、従来にない安い値段で市販したものである

人びとの生活における物質的平等性を担保しようとすれば、どうしても一定の量を確保しなければならないし、同時に、安価でなければならない。これが富本の一貫した念願であり、いままさしく、安くて美しい量産陶器の試作に挑んでいるのである。信楽での試作について、富本はこうもいう。

 私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた。信楽にいったときは、その考えを実行に移したもので、このときの大皿は絵だけを私が描いたものだから、安く売ることができた。ロクロから仕上げまで、一貫して自分で作る陶芸と、ロクロは職人まかせにして、絵付けだけをやる場合とでは、そこにハッキリした区別をおき、後者にはあまり高い値段を付けてはならないというのが私の終始一貫した信条である

こうした日常の生活に向けての安い陶器が、富本の手によって国画会の展覧会に陳列され、販売された。「この信楽の大皿を作った前後のこと、昭和三、四年ごろだったと記憶するが、国画創作協会のあとに国画会というものができ、私はその工芸部の展覧会で、前記の方針にもとづいて、一点制作の高いものと、そうでない安いものの両方を売ったことがある」。しかし、評価はあまり芳しくなかった。「私の考えは、必ずしも歓迎されたとはいえないようだ。そのころ、まだ工芸家は一点制作の“芸術品”に専念すればよいという考え方が支配的だったのである」。その時代の人びとの期待は、「芸術家」としての工芸家を日常生活品の製作に向かわせることを許さなかったのであろう。富本の回想するところでは、このようなこともあった。

 その時分、東海道線静岡駅の駅売り土びんに「山は富士、茶は静岡」と書いたものをお茶入り五銭ぐらいで売っていたことがある。私はこの土びんに二、三百個ばかり簡単な たで の花の絵付けをして、国画展の展覧会で売ったことがある。……駅売り土びんのような身近な焼き物にも、よい意匠が浸透することを望んだからである。土びんは伊賀で焼いたものだった

信楽に続いて、翌年には波佐見へ出かけた。一九三〇(昭和五)年二月二八日夜、長崎の光永寺の二階にて、富本はこう書き記している。「千九百参拾年壹月、家族五人が東京の家や工場を閉めきり長崎への旅に上つた。寒い千歳村の寒氣を避けるため、一方では私の仕事での年中行事の一つになつて居る地方窯を訪ひそこで安價な陶器を試作する爲でもある。最初は別に一家を持ちそこから波佐見に行く豫定であつたが、正木氏の好意によつて五人の居候がこの光永寺の隅から隅迄走り廻り飛び歩いて約壹ケ月半の日を過ごした。……波佐見には都合四度行つた。……私は此の[波佐見への]旅行で中尾で貳百五拾、西原で前後千五百の既成素地に筆を執り、或いはゴム版を使用し、木原では五拾の自製素地と百の既成素地に染附して陶器を造つた」

富本の地方窯での量産陶器の試作はさらに続いた。一九三二(昭和七)年には、瀬戸へ出かけた。「瀬戸では 信濃 ママ [品野]という部落で六寸の中皿を作らせたことがある。これは運賃、荷造り全部を含めて東京の私のところに着いて一枚十二銭だったが、それに私が模様付けして焼いたものが市中の茶わん屋で五十銭ぐらいに売られた。私の絵付けは一枚三十銭ほどで一日に二、三百枚くらいは軽く描いたものだ」。こうした大量の絵付けを試みているとき、百枚の皿の真ん中に折松葉の模様を描いた貧しい工人のことが、富本の頭に繰り返し浮かぶ。

 百、描いて幾文といふ工賃のために、おそらく貧しい工人の一つづゝ描いたと思へる折松葉を一つ 中央 まんなか に描いた皿。その折松葉を描いて私の皿模樣とするだけでは私には足ない。

 何としてそれと同等の力を人にも自分にも與へるだけの模樣を創りたい。皿の眞中に一つ模樣を描いて置いた時いつも思ひ出すのはこの皿である。ああ、百描いていくらと言ふ工賃のために描かれた此の一筆の折松葉10

この富本の言葉は、一九三二(昭和七)年の「陶片集(二)」(『新科学的』第三巻第六号所収)からの引用であるが、すでに同じ文言が、一九二七(昭和二)年の「陶片集」(民藝叢書第壹篇『雜器の美』所収)のなかにも現われている。これは、貧しき無名の工人と、その人が描く折松葉模様への富本の嫉妬心とも競争心ともとれるし、量産陶器の宿命的課題へ向けられた情熱的なまなざしともみなすことができるであろう。

富本は仕事場のことを「 工場 こうば 」と呼んだ。そして陶器家は、そのなかで仕事をする、自営業の肉体労働者でもあった。「轆轤し繪附けする仕事場を飾りたてて、應接室のやうにしてゐる陶器家があるが、私はさういふことをするのは嫌ひである。それで製作と云はず仕事と云ひ、工房などと稱へずにコウバと云ふのが私の永年の習慣である。陶器をつくるといふ仕事は、肉體的にも容易ならぬ苦しい仕事である。……如何に私が泥にまみれ、身をすりへらすやうにして仕事をしてゐるか――一見されるとよく解らうと思ふが」11。もちろん陶器家にも、矜持というものがある。「陶器家と雖も政治家文藝家に伍してゆづる可きでない。乾山、偉大なる彼は芭蕉と伍し、或は當時の政治家に比してその偉大さ、むしろ旗は乾山にあがらざるを得ない。陶器家よ進む可きではないか」12

そうしたなか、窯開きには多くの人が富本邸の工場を訪れた。そのなかに、日本画家の小倉遊亀がいた。富本の郡山中学校時代の恩師が水木要太郎であり、その後水木は、奈良女子高等師範学校の日本史の教授となり、入学した小倉を指導する。小倉の作品には、しばしば富本の陶器が描かれる。「あのころ、窯のあくたびに招いていただいて、帰りがけにはいつもお土産にお作品を頂戴したものだ(もったいないことだったと思う)」13。その小倉が富本を回顧する言葉のなかに、次のようなものが残されている。

 大分前にきいたことであるが、富本憲吉先生が「使って非常に使いよいと思う器はね、形も非常に美しいよ」それからまた、「これはその作家からきいた話だが、もっとも性能のよい機械を作ってゆくと、形も美的になってしまうということだ」と伺った覚えがある。工芸品や機械までがそうだということは考えさせられる14

明らかに富本は、工芸品や機械の美しさは性能や機能に由来するということを指摘しているのである。この時期富本が挑戦していたのは、量産陶器の試作的実践に止まるものではなかった。小倉が耳にしたように、あわせて富本は、この両大戦間期にあって別の課題にも挑戦していた。それは、モダニストとしてのデザイン思考のさらなる展開にかかわるものであった。それではここで、その一端について見ておきたいと思う。

轆轤で形をつくる。そうして出来上がった二、三〇個の皿や鉢や壺を戸外の干し台の上に一列にならべる。

そのうちから最も形の整った約三分の一を白磁に選ぶ。次の三分の一を彫線や染め付けに用いる。最後の三分の一を色絵の素地とする15

その理由は、「染め付けや色絵は、いわばほかに見どころがあり、形の欠点を補うことができるが、白磁の形は、いっさいゴマカシのきかない純一のものでなければならないと考えている」16からである。富本は、白磁の美しさを、人間の裸体の美しさになぞらえる。

 模様や色で飾られた衣服を脱ぎすて、裸形になつた人體の美しさは人皆知る處であらう。恰度白磁の壺は飾りである模樣を取り去り、多くの粉飾をのぞきとつた最も簡單な、人で言へば裸形でその美しさを示すものと言へよう。……私は白磁の壺を最も好んでいる17

このように、いっさいの模様や彩色を排除した、純粋な形態の美しさだけで成り立つ白磁に、富本は心を奪われる。白磁同様に、全く無駄のない美しさをもったものが、確かに富本の少年時代にあった。それは時計という機械だった。

 私は時計の裏をひらき機械を見ることを一つの楽しみとしてゐる。今はあまりやらないが、少年時代にはこのことに熱中したあまりに時計師にならうと本氣に考へたものだ。……私が少年であった時代には勿論、飛行機も自動車の玩具もなく、手に持つていじることの出來たものと言えへば、この時計だけであつた。……もし私の現在が少年期であつたなら、私は自動車のエンヂンを楽しみ、その美しさに心をうばはれてゐよう18

すべての造形美術が、時計や飛行機や自動車のような機械のもつ美しさに倣うとするならば、美というものは、装飾という美術的要素に由来するのではなく、その形態に必要不可欠な構造という工学的要素から発生することになる。富本は、こう明言する。

 今私は、建築及び工藝を通じて、必要缺くべからざる構造が必然的に美をうむと言う理論の根本的な問題に達した。すくなくとも装飾は第四第五次的のものであつて、殆んどすべての既成造型美術に對して感興をひかなくなつてゐることは本當である19

これこそ、まさしくモダニズムの論理であろう。富本ははっきりと、こうも言い切る。「装飾の遠慮と云う語が建築にあるが、装飾の切り捨てを私は要求する」20

それでは、美と用途の関係については、どう考えているのであろうか。それについて富本は、「陶器に詩はない、然し實用がある。美も用途という母體によつて生み出された美でない限りは皆嘘の皮の皮といふ感がする。用途第一義」21を唱える。明らかに、機能主義に立っている。一方、機械についてはどうか。

古い道具時代から研究され發達し切つた陶器といふ技術が、今の機械時代の實用工藝品としては見捨てられ過去のものとして扱はれるのもさう遠くはないと確信する、私はさう信じて私の道を進める22

富本の展望するところが、「工芸からインダストリアル・デザインへ」と向かっていることは、明瞭であろう。富本は、紛れもなく、純然たるモダニストであった。

 所謂趣味ある陶器が床や棚に列び、讀む書物、着る衣服から室までを、現代のものを使はずに金にあかし心を勞してよせ集めた古いもので飾りたてて住む人がある。この種の人々に限つて、味といふことをやかましくいふ。私より見ればこれこそ憫むべき俗物の一種であると斷定する。現代を本當に考へるならその人のいひ望む工藝の殆どすべては死んだ殻に同じく、決してこの現代に生きてはをらぬことを知るであろう23

死んだ殻に寄り添うのか、それともこの現代に生きるのか――富本が選び取ろうとしている世界は、明々白々、いうまでもなく歴然としていた。

ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の研究部に所属していたポール・グリーンハルジュは、デザインにおける近代運動が終焉して久しい一九九〇年という年に、西洋におけるモダニズムの理論と実践を振り返って再検証するにあたって、九名の著名デザイン史家に寄稿を求め、『デザインのモダニズム』として編集し上梓する。そして、その「序章」のなかで編者のグリーンハルジュは、国際様式が出現する段階以前にあっての主として両大戦間期にみられた理論上の特質を一二項目に分けて列挙し、一つひとつについて詳しく論述することになる。すでにこれまでの幾つかの章において、富本のデザイン思考が、グリーンハルジュの着目する項目のうちの「反細分化」「社会倫理」「真実」「総合芸術」「反歴史主義」「神学」の観点に照らして、どのように類似していたかを指摘しているが、ここではさらに、「技術」「機能」「進歩」「反歴史主義」という観点にかかわって、その類似点を述べておきたい。

上で見てきたように、富本は、いっさいの模様のない、形態の美しさだけに根拠を置く白磁の壺を「最も好んでいる」という。また、「装飾の切り捨てを私は要求する」とも、「装飾は第四第五次的のもの」ともいって、装飾の排除を唱える。さらに富本は、時計や飛行機や自動車のような機械固有の美しさを賞讃し、「もし私の現在が少年期であつたなら、私は自動車のエンヂンを楽しみ、その美しさに心をうばはれてゐよう」と告白する。そして、その考えの延長として、「古い道具時代から研究され發達し切つた陶器といふ技術が、今の機械時代の實用工藝品としては見捨てられ過去のものとして扱はれるのもさう遠くはない」ことを確信する。かくして富本は、「死んだ殻」ではなく、「この現代」に生きる道を選ぶ。

これらの富本の言説の内容は、どれもが、「真実」「技術」「機能」「進歩」「反歴史主義」にかかわるものである。グリーンハルジュは、それぞれについて、以下のように述べる。

「真実」について――。「作品(オブジェクト)が生み出される道筋は明瞭でなければならなかったし、視覚上の魅力は、そうした建造の過程から直接表われ出るものでなければならなかった。そういうわけで、ひとつの理念としての真実は、全面的な装飾の拒絶へとつながっていった」24

「技術」について――。「『技術』は、経済性を促進し、それによって製品入手の可能性を高めるために、その最も高い水準において使用されなければならなかった。……しかしながら、少なくとも先駆者たちのなかにあって、大量生産は依然としてひとつの理念であり続けたことは、強調されなければならない。事実上、モダニズムの第一段階でデザインされたもので、大量生産に移されたものは何ひとつなかった。……国際様式が正当性を勝ち得たとき、大量生産されたモダニズムはようやく現実のものとなったのであった」25

「機能」について――。「デザインされたすべての製品が首尾よく『機能すること』は、極めて重要であると見なされた。……作品(オブジェクト)は効果的に働くように計画されなければならなかったし、効果的に計画されたとき、ものは美しくなる傾向にある、という提起がなされた。こうした美学の根拠は機械に存在しており、その形態が主として機械の働きに規定されていたがゆえに、機械は美しかったのである」26

「進歩」について――。「多くの人びとにとって、民主主義の登場と社会主義への期待は、社会の進歩を示しているように思われた。実際、そうした進歩がひとつの歴史現象となることが、すべてのマルクス主義者たちにとって必須の条件であった。……新しい技術は、諸科学が直線的に進歩するうえでの実際的な模範を明示した。同じようにデザインもそうすることができた。モダニストたちが信じていたものは、単なる美学上の変化についての観念というよりも、むしろ美学上の進歩の観念だったのである」27

「反歴史主義」について――。「こうした考えに従う限り、歴史上の装飾と技術は、可能な至るところで、排除されなければならなかった。進歩の過程に人類があり、不満足な状態を過去がさらけ出しているとすれば、社会はそこから抜け出そうとしてまさに奮闘中であった。その場合過去の様式は、美学のうえからも倫理のうえからも、望ましいものではなかった。したがって、大多数の装飾が歴史的なものであった以上、『反歴史主義』は反装飾と同義語であった」28

このように見てくると、この時期の富本のデザイン思考が、同じ時期にヨーロッパで進行していたモダニズムの思想と、ほぼ完全に一致していることがわかる。それでは、こうした西洋由来のモダニズムを富本はどのようにして入手したのであろうか。

富本は、「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた」29と書いている。「ステユデオ年冊」とは、英国の美術雑誌『装飾美術――ザ・ステューディオ年報』のことであろう。「矢張り第一にリーチのものを見る。今の自分とは遠い氣がする。……リーチは矢張り英國人だつた。……數多い英國作家のうちでは何んといつても光つては居るが、自分とは大變な加速度で互に離れて行くと思つた」30。富本は、掲載されているリーチの作品図版を見て、自分の目指すものとの違いを感じ取る。しかし、富本の目は、リーチの作品以外にも向けられたものと思われる。富本が手にした『年報』が何年の版なのかを正確に特定することはできないが、いずれにしてもこの時期、富本とリーチの二人展がロンドンのボザール・ギャラリーで開催される一九三一年の前後にあっては、『装飾美術――ザ・ステューディオ年報』は、富本の愛読雑誌になっていたものと思われる。たとえば、一九二六年版の『年報』を見ると、六葉のリーチの作品が掲載されている【図六四】【図六五】。そしてそれとは別に、「今日の家具と銀製品」と題された評論文があり、そのなかに、「模倣」についての次のような一文を読むことができる。「確かにうまくつくられてはいるが、古い家具の模倣では、ほとんど本質的な価値を備えているとはいえない。……すでに変化の兆しがある。国中が、偽造された家具や骨抜きにされた過去の作品の模倣であふれかえっている。しかし、そうしたやり方に対して、知的な人びとのあいだでは、嫌悪感のようなものが確かに生まれつつあり、何か動きが始動するのに、そう時間はかからないかもしれない。もし変化が起きるとするならば、そのときの新しい流儀は、ヴィクトリア時代の家具を模すようなかたちをとることはないであろう、といったことが期待されているのである」31

富本が実際にこの評論文を読んだことを示す証拠はないが、「模倣」の嫌悪にかかわって、富本のデザイン思考が、遠く離れた英国と、ほぼ同時進行的に展開されていたことは明らかである。他方で富本は、すでに引用で示しているように、飛行機や自動車のような具体的な機械について言及している。この源泉となるものは、何だったのであろうか。自分の脳裏から自然と湧き上がった機械の事例だったかもしれないが、何か洋書のなかに掲載されていた図版が、具体的事例の源泉になっていた可能性も排除できない。可能性があるとするならば、ル・コルビュジエの『新しい建築に向って』という本だったのではないだろうか。というのも、この本には、橋梁、穀物貯蔵庫と揚穀機、それに都市建設といった建造物だけではなく、船舶や飛行機、そして自動車といった工業製品の図版が、多数使用されているからである。ここに選んだ【図六六】から【図七一】までの六点の図版は、それぞれに対応する事例図版の一例である。この本のなかで著者のル・コルビュジエが最も主張したかったことの決定的なひとつは、明らかに「量産住宅」であった。【図七二】から【図七四】までの三点が、その将来的展望を明示するために掲載されている幾多の図版のなから選択した典型的な画像である。「量産住宅」の章のテクストと図版を見た富本が、自己の「量産陶器」へ向けた信念を、このときさらに強固なものにした可能性もまた、決して否定することはできないであろう。

フランスで原著の初版が出版されたのが一九二三年で、フレデリック・エッチャルズによるフランス語から英語への翻訳書の初版がロンドンで刊行されたのが一九二七年のことであった。もしこの本を目にしていたとするならば、富本を魅了したのは、次のような一節だったかもしれない。「量産住宅」の章は、次の語句ではじまる。

 偉大な時代がはじまっている。

 新しい精神が存在する。……

 私たちは大量生産の精神を創り出さなければならない。……

 もし、住宅に関する死せるすべての観念を心の底から葬り去り、批判的で客観的な視点からこの問題を眺めるならば、私たちは、「住宅-機械」、つまりは量産住宅へとたどり着くであろう。それは、私たちの生存に随伴する作業用の道具や器具類が美しいのと同じように、健康的で(道徳的でもあり)、そして美しい。

 それはまた、厳格で純粋な機能的要素に対して芸術家の感性が加わるとき、全く生き生きとして美しい32

この時期、英国留学から帰国して、二〇年近くが立とうとしていた。富本は、こうした雑誌や本を通して、その間の英国のデザインの動きにかかわる知識を入手し、自らの血肉にしようとしていたものと思われる。

二.イデオロギーと技法の「進歩」

一九三一(昭和六)年四月のある夜のことであった。前年の七月に、当時の共産党中央委員会の命令のもと非公然とソ連に渡り、モスクワで開かれたプロフィンテルン(労働組合国際組織)の第五回大会に出席したのち、党の事情でそっとこの二月に日本に帰ってきていた蔵原惟人が、村山 籌子 かずこ の案内で、畑のなかの暗い道を通って密かに富本家を訪れた。蔵原は、当時の日本にあってプロレタリア文化運動を理論面で支える中心的な人物であった。一方、蔵原を富本宅へ案内した村山籌子は、舞台芸術の演出家の村山知義の妻であり、当時童話作家で詩人として活躍していた。おそらく『女人藝術』を通じて、一枝と籌子は親しくなっていたのであろう。もっとも、籌子の最初の富本夫妻との出会いは、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科の一期生として関西へ卒業旅行に出かけたおりに、安堵村の富本家を訪問したときのことであった。蔵原は約一箇月間、富本家にかくまわれた。そして蔵原は、一九六三(昭和三八)年に富本が死去すると、ただちに「富本憲吉さんのこと」と題して筆を取り、そのときの様子を公表した。以下はその一部である。

ある時「社会主義になったら私の仕事など役にたたなくなるのだから」という意味のことを私にいった。私は「そんなことはありません。社会主義になったらその時こそあなたの作品はほんとうに大衆のものになるのです」というと、「そうですか」と、なお半信半疑の様子だった。

 「実は私はほんとうに多くの人が平常使えるような実用的なものを作って安く売りたいのですが、まわりのものがそれをさせないのです。美術商などは、“先生、そんなに安く売られては困ります”というのですよ」ともいっていた。若い時ウイリアム・モリスの生活と芸術の結合の思想に傾倒していた富本さんは生涯その理想をすてなかったようだ33

さらに蔵原は、こう書き記す。「当時は非合法の共産党員をかくまったというだけで、治安維持法違反の罪にとらわれる時代だった。それから一年たって私が検挙された時、私はその間にとまって歩いた住居についてきびしく追及された。……すでに『調書』の一部を勝手につくりあげて、私にその承認を強要した。そのなかには富本憲吉宅の名もあがっていた。党の中央部にいて党を裏切った男がそのことを売ったのである。私は頑強に抵抗し、そこから富本さんの名前を消さなければ、今後ともいっさい取調べに応じないと頑張った。警察ででっちあげられ、検察庁におくられた私についての簡単な『調書』からは富本さんの名は除かれていた」34

村山知義の二度目の収監が、一九三二(昭和七)年の二月で、蔵原惟人が獄窓の人になるのが、同年の七月のことであった。そして、次の年(一九三三年)の二月二〇日に、今度は小林多喜二が逮捕され、同日、拷問により死亡する。当時のプロレタリア文化運動にとって、最大の受難の時代であった。富本の妻の一枝が、そして続けて長女の陽が検挙されたのも、この一九三三(昭和八)年の八月のことであった。

『讀賣新聞』は、この件について、「富本一枝女史 検舉さる 某方面に資金提供」の見出しをつけて、次のように報じた。「澁谷區代々木山谷町一三一國畫會員としてわが國工藝美術界の巨匠(陶器藝術)富本憲吉氏の夫人で評論家の富本一枝女史(四一)は去る五日夕刻長野懸軽井澤の避暑地から歸宅したところを代々木署に連行そのまゝ留置され警視廰特高課野中警部補の取調べをうけてゐる、さきごろ起訴された湯淺芳子女史の指導によつて、某方面に百圓と富本氏制作の陶器を與へたことが暴露したものである、女史は青鞜社時代からの婦人運動家で女人藝術同人として犀利な筆を揮つたことがあり、最近では湯淺女史らと共にソヴエート友の會に關係左翼への關心を昂めてゐた」35

一週間後には、「富本一枝女史 書類だけで送局」の見出しで続報。その一部は、次のとおりである。「すべてを認めたうへ従來の行動一切の清算を誓約したので十五日起訴留保意見を付して治安維持法違反として書類のみ送局となつた」36

そして、さらにその三日後、『讀賣新聞』は、「富本女史の令嬢も検舉」の見出し記事を掲載した。以下はその全文である。「某方面に資金を提供して代々木署に留置されてゐた女流評論家富本一枝(四一)女史は既報の如く轉向を誓つたので起訴留保となり十八日朝夫君憲吉氏の出迎へをうけて釋放されたがこんどは愛嬢で文化學院高等部二年生陽子(一九)さんが皮肉にも母親が歸宅する前日十七日朝突如澁谷區代々木山谷町一三一の自宅から代々木署に検舉、警視廰特高課から出張した野中警部補の取調べを受けてゐる 陽子さんは日本女子大學を中途退學して二年前文化學院に入學したもので、地下深くもぐつて左翼運動に關係してゐることが判明したゝめで 母親の一枝女史とは何等關係がない、特高課では母親と一緒に検舉する筈であつたが同家には子供が多く女手を一度に失ひ家事に差支へるので一枝女史の釋放が決定するまで検舉を差しひかへてゐたものである」37

一九三三年は、西洋のデザイン史においても、極めて重要な年であった。ドイツではアドルフ・ヒトラーが首相に就任すると、共産党への弾圧がはじまり、その手はバウハウスへと伸び、ついにはその息の根を止めてしまった。バウハウスは、第一次世界大戦後の一九一九年にヴァルター・グロピウスによって設立された、理念、方法論、様式においてモダニズムの核心部分を用意したデザインの学校であった。『デザインのモダニズム』の編者のポール・グリーンハルジュは、この一九三〇年代を次のような言葉で描写する。

デザインの近代運動にはひとつの年代的なものがあることがわかる。それはふたつの時期から成り立っている。最初は、私が「先駆的段階」と呼んでいる時期で、これは、第一次世界大戦の雷鳴のごとき砲弾が耳をつんざくなかにあって開始され、一九二九年から一九三三年のあいだに幾つかの重要な運動がついえ去ることによって終焉した。ふたつ目は、一九三〇年代のはじめに開始されたもので、私は「 国際様式 インターナショナル・スタイル 」という呼び方をしている。……さまざまな挑戦を受けたにもかかわらず、国際様式は一九七〇年代の終わりまで進行していった。そういうわけで、一九三〇年代は、ひとつの状態から別の状態へと移行する混乱の時期にあたり、いわばさまざまな国において「純粋な」モダニズムがさまざまなレベルで展開していったのである38

それでは、富本の場合にあっては、一九三〇年代以降、どのような展開がみられたのであろうか。前述のとおり、富本は、いっさいの絵画的要素も彫刻的要素も排除した白磁を好んだ。白磁こそが、「反装飾」というモダニズムの原理に適切に従うものであった。しかし、富本はいう。「白磁には特別の情熱を傾け、自分でも会心の作を得たと思うが、世人にはなかなか受け入れられなかった」39。モダニズムの造形を巡っての、つくり手と使い手のあいだに存する溝とでもいうものであろうか。使い手は、色を求め、模様に価値を見た。それが直接的な動機になっていたかどうかは即断できないが、理念として社会が「進歩」するように、富本の技法もまた、ある意味で直線的に「進歩」していった。

一九三五(昭和一〇)年一一月二三日から二七日まで、上野松坂屋において、「富本憲吉新作陶磁展」が催された。そのとき『東京朝日新聞』に掲載された松坂屋の広告には、「現代陶匠の最高峰をなす新帝國美術院會員富本氏の新作陶磁約二百點を蒐めて!」40とのコピーがみられる。この年の五月の帝国美術院改組に伴って、富本は新会員に任命されており、そこで「新帝國美術院會員」の肩書がつく。さらに出品点数から判断して、大和時代を含めてこれまでの過去の個展をはるかに超える大規模なものだったにちがいない。富本は、「東京に移って間もないころは、大和にいたころにつづいて白磁と染め付けとを主として焼いた」41といっている。そうであれば、このときの陶磁展は、主に白磁と染め付けの新作二〇〇点ほどが、六階会場に壮観にも並べられ、販売されたものと思われる。

年が明けた一九三六(昭和一一)年の一月一九日から二二日まで、同じく上野松坂屋で「富本憲吉日本畫展覧会」が開かれた。続けてこの年、「ぼたんの花の咲くこ ママ から稲の穫り入れまで、およそ八ヶ月も[九谷]に滞在して、じっくり絵付けの研究に打ち込んだ」42。ついに富本の関心は、色絵磁器の研究へと向かった。

楽焼きからはじまり、白磁、染め付けを自家薬籠中のものとしたので、最後には磁器の上に模様をつける上絵が残ったわけである。磁器に上絵することは焼き物の技巧としては最高のものであり、最も複雑で、それだけに非常に豊かな表現力を持つものである。九谷へ行ったのは、いわば私の焼き物造りの技法上の総仕上げだったともいえるだろう43

九谷では、色の合わせ方が秘密になっており、親方がすべて自分で色を合わせたうえで職人に与えられる方法がとられていた。しかし、富本にとっては、「色の事はすでに研究ずみで問題なかった。そこで北出塔次郎さんという方の窯を借りて主として、窯の構造、材料の詰め方、薪のたき方を勉強した」44。八箇月の長期滞在が終わり、東京にもどると、さっそく憲吉は、「色絵の窯を築き、上絵をほどこした焼き物を作って松坂屋で展覧会をやった。小品ながら百点ばかりの作品が八割まで売れてしまった。当時としては大成功であった」45。同年の一〇月一〇日の『東京朝日新聞』の上野松坂屋の広告には、「富本憲吉第二回新作陶器展」と銘打って、「加賀九谷の窯にて先生が研究制作された、古九谷を偲ばしむる多彩な繪付けせる妍麗にして氣韻高き試作品に會心の近作をも併せて展觀」46とある。同じく一〇月一四日の『東京朝日新聞』には「富本憲吉氏作陶展」の見出しで展覧会評が出た。評者いわく、「淡々たる手法に終始して來た氏が、古九谷を研究し、それを取入れた結果一段と重厚さを増した、殊に藍色の茄子文の大皿、山歸來の大皿にその感が深く、嘗つての清純そのもの味は多少欠けた憾みはあるが、氏の研究の結果によつて、古九谷の持つ嫌味は失せ、古九谷としての新しい境地が開拓されんとするの曙光が見えるのは嬉しい」47。こうして、富本の色絵磁器に関する九谷での研究成果が、好評のうちに世に出て行ったのであった。

次の年の一九三七(昭和一二)年五月一一日の『京都日日新聞』に目を向けると、「世紀の一斷面」という見出しで、「機械工業への認識と文化的教養を與へよ」といった内容の富本の談話が掲載されている。しかし、富本の思いなど届くはずもなく、機械工業の生産力は、民生用品から離れ、軍事物資へと集中してゆく。時代の推移は加速する。この年の七月の盧溝橋事件に端を発し、日支事変(日中戦争)が起こる。その拡大とともに、言論や物資がさらに統制され、自由や人権が一段と制約され、戦時国家へ向けた体制再編がいよいよ急速に進む。暗黒のアジア・太平洋戦争へと向かう道を、ひたすら日本は転がり落ちてゆくことになるのである。

一九四〇(昭和一五)年六月に、富本にとっての二番目の随筆集となる『製陶餘録』が世に出た。その「序」において、富本はこう書いている。「年齢の故であらうか近頃の私は、文章、繪、特に陶器に對し、以前程の感激を以て接する事が出來なくなつた。これは一つには、矢張り世界中が熱鐡を互の柔かい身體にぶちこみ合つて居て、今日ありて明日なき命と云ふはかない世情の反影による事と思ふ」48。戦争嫌悪の感情がみなぎる。この間も、富本家には官憲の目が光っていた。のちに詩人で作家としても活躍することになる辻井喬は、このような言葉を残している。「彼[富本壮吉]とは中学・高校・大学を通じて一緒だったが家に遊びに行くようになったのは敗戦後である。それまで富本の家は警察の監視下にあるような状態だったから、壮吉も私を家に誘いにくかったのである」49

終戦の翌年(一九四六年)の六月、富本は独り祖師谷の家を出て、大和へ帰郷した。東京を去り、生まれ故郷の大和に帰ったものの、家は荒れ果て、窯もなく、食べるものや着るものにも事欠く過酷な生活が、いよいよ老境に近づこうとする富本を待ち受けていた。独身時代にも「英国逃亡」の願望はあったが、このときもまた富本は、曾遊の地である英国へ逃げ出したいという強い思いに駆り立てられている。「ボクはもう日本が嫌になった、英国にでも行きたい、一人だけならどうにでもなる」50。大和でも、東京でもなく、家族関係の猥雑さや美術界の醜悪さから完全に解き放された、地球の反対側に位置する英国こそが、遊学以来、憲吉が終生求めてやまなかった心安らぐ理想郷だったのかもしれない。しかしそれは、あくまでも理想郷にすぎず、富本は、当時の現実的な苦境を次のように振り返る。

 大和の生家では工房も窯もなく、思うように仕事ができないので京都へ通うことにした。蛇ケ谷の福田力三郎という新匠[美術工芸]会会員のへやを借りたのが京都で陶芸生活にはいった初めである。だが、大和から京都まで通うのには往復に四時間を費やし、それだけで体力を消耗することが激しかった。それにもまして、仕事が中途半端になるのがやりきれなかった。

 本窯も色絵窯も持たず、絵の具一式を新たにつくったが、その材料も不足がちだった。非常な努力で焼いた作品が、何人かの人手に渡っていった。だれも同じであろうが、この時分がいちばん、つらい時期であった51

長時間を要する京都通いの不便さを解消するため、富本は京都住まいをはじめた。こうして、京都での晩年の活動が幕を開ける。

(1)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、75-76頁。口述されたのは、1956年9月12日。

(2)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、218頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]

(3)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(4)同『私の履歴書』(文化人6)、219頁。

(5)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(6)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(7)同『私の履歴書』(文化人6)、219-220頁。

(8)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、207-213頁

(9)前掲『私の履歴書』(文化人6)、220頁。

(10)富本憲吉「陶片集(二)」『新科学的』第3巻第6号、1932年、41頁。
 なお、この引用文は、次の資料にも見ることができる。富本憲吉「陶片集」、日本民藝美術館編『雜器の美』(日本民藝叢書第壹篇)、工政會出版部、1927年、78頁。この書籍の復刻版は下記のとおりである。森仁史監修『雑器の美』(叢書・近代日本のデザイン51)、ゆまに書房、2013年。

(11)前掲『製陶餘録』、113頁。

(12)同『製陶餘録』、114頁。

(13)小倉遊亀『続 画室の中から』中央公論美術出版、1979年、112頁。

(14)小倉遊亀『画室の中から』中央公論美術出版、1979年、145頁。

(15)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(16)同『私の履歴書』(文化人6)、214-215頁。

(17)前掲『製陶餘録』、64-65頁。

(18)同『製陶餘録』、139-140頁。

(19)同『製陶餘録』、140-141頁。

(20)同『製陶餘録』、107頁。

(21)同『製陶餘録』、109頁。

(22)同『製陶餘録』、108頁。

(23)同『製陶餘録』、134頁。

(24)Paul Greenhalgh ed., Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 9.[ポール・グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、9頁を参照]

(25)Ibid., p. 10.[同『デザインのモダニズム』、10-11頁を参照]

(26)Ibid., p. 10-11.[同『デザインのモダニズム』、11頁を参照]

(27)Ibid., p. 11.[同『デザインのモダニズム』、11-12頁を参照]

(28)Ibid., p. 11.[同『デザインのモダニズム』、12頁を参照]

(29)前掲『窯邊雜記』、116頁。

(30)同『窯邊雜記』、116-117頁。

(31)DECORATIVE ART, 1926 “THE STUDIO” YEAR-BOOK, The Studio, London, p. 87.

(32)Le Corbusier, Towards a New Architecture, translated from the French by Frederick Etchells, The Architectural Press, London, first published 1927, reprinted 1978, p. 210.
 なお、翻訳書として、ル・コルビュジエ『建築をめざして』(吉阪隆正訳、SD選書21、鹿島出版会、1967年初版)がある。また、この本の巻末にある訳者による「あとがき」には、「日本では早くも一九二九年に宮崎謙三氏の訳で『建築芸術へ』として訳出されている(構成社書房刊)」(210頁)との注釈がみられ、富本憲吉がこの訳書を手にした可能性も否定できない。
 一方、DECORATIVE ART, “THE STUDIO” YEAR-BOOK に掲載された1930年前後のル・コルビュジエによる手紙と論考に、次のようなものがある。
 ‘Letter to the Editors from Monsieur Le Corbusier’, DECORATIVE ART, 1929 “THE STUDIO” YEAR-BOOK, The Studio, London, p. 3-5.
 Le Corbusier, ‘Twentieth Century Living and Twentieth Century Building’, DECORATIVE ART, 1930 “THE STUDIO” YEAR-BOOK, The Studio, London, p. 9-17.

(33)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、58頁。
 それでも、富本の思想上の弱点はあった。あるいは、モリス思想との違いはあった。富本は、製陶の道に入る最初の段階から、多くの人びとが手にすることができるように安価な量産陶器の製作に専心し、さらにこの時期になると、ヨーロッパのモダニストに倣い、一品製作から機械生産への移行も視野に入れていた。しかし、憲吉が焼く量産陶器は、本人の意に反し、現行の政治経済の体制下にあっては、高価な焼き物と化して市場に出回り、一部の比較的裕福な人にしか手に入らないものになっていた。ここに大きな矛盾があった。一九世紀のモリスも、二〇世紀のモダニストも、共通して抱いていたのは社会改革への展望であった。近代の新しい精神に基づいた視覚制度の出現に先行して、政治や経済にかかわる社会改革が必要とされたのである。言葉を換えれば、視覚制度の刷新と社会制度の刷新はコインの表と裏の関係にあることが認識されていたといえる。富本の量産は、人びとの生活の解放へ向けての大きな力となることはなかった。むしろそれとは反対に、資本主義経済体制の懐のなかへと、やすやすと絡めとられてゆくのである。富本の苦悩はここに集約されていたものと思われる。しかしながら、社会制度の革新へ向けての大衆的運動に直接身を投げ出すことはなかった。

(34)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、59-60頁。

(35)『讀賣新聞』、1933年8月9日夕刊、2頁。

(36)『讀賣新聞』、1933年8月16日夕刊、2頁。

(37)『讀賣新聞』、1933年8月19日夕刊、2頁。

(38)Paul Greenhalgh ed., op. cit., p. 3.[同『デザインのモダニズム』、2-3頁を参照]

(39)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(40)『東京朝日新聞』、1935年11月20日、5頁。

(41)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(42)同『私の履歴書』(文化人6)、215頁。

(43)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(44)同『私の履歴書』(文化人6)、215-216頁。

(45)同『私の履歴書』(文化人6)、216頁。

(46)『東京朝日新聞』、1936年10月10日(夕刊)、7頁。

(47)『東京朝日新聞』、1936年10月14日(夕刊)、5頁。

(48)前掲『製陶餘録』「序」1頁。

(49)辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)弘隆社、2001年、2頁。

(50)辻本勇『富本憲吉と大和』専門図書株式会社、1972年、15頁。

(51)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、225頁。
 この引用文なかで富本憲吉は、「新匠会」の名称を用いている。「新匠美術工芸会」から「新匠会」への名称変更は、『新匠』(創刊号)の最終頁の展覧会記録によると1951年のことである。したがって、『私の履歴書』の執筆時は、この団体は「新匠会」と称していたものの、記述の内容に即して表記するならば、憲吉が京都で作陶をはじめた当時は「新匠美術工芸会」だったということになる。このことは、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)のなかの「富本憲吉自伝」においても、同様のことがいえる。なお、現在(2017年時点)は、「新匠工芸会」の名称が使用されている。