緒言
富本憲吉(一八八六―一九六三年)は、いうまでもなく、大正と昭和の両時期を通じて活躍した日本を代表する「陶芸家」のひとりである。しかしながら、「陶芸家」という用語は、今日にあって一般化している名称であって、富本自身は、ほとんど「陶芸家」という用語は使っていない。はじめて焼き物をつくる自分を意識したとき、富本は「陶器師」という言葉でもって自らを呼んでいるし、しばしば「陶工」、晩年には「瀬戸物屋」という言葉も使う。同じように、陶器をつくることは、「陶芸」ではなく「製陶」、仕事場については、「アトリエ」や「工房」ではなく「
それでは、富本憲吉を構成する陶工としての様態の実相とは、とりわけ彼の造形思想とは、一体何だったのであろうか。富本が死去して一七年が経過した一九八〇(昭和五五)年に美術評論家の今泉篤男は、次のように書いた。
富本憲吉(一八八六―一九六三)は、一つの思想を持った作家であった。
そして今泉は、「私自身のモリスについての不勉強を棚に上げて想定するわけであるけれども、富本憲吉がウィリアム・モリスから学んだ思想の、陶芸家としての富本憲吉の上に投影したこととして私は三つのことを考えている」2と、前置きしたうえで、「アマチューリズム(amateurism)(ディレッタンティズム)の尊重」「模様についての示唆」「大量生産に繋がる問題」――この三点を挙げて、詳しく論じている。その指摘は、資料に基づき厳密に実証されたものではないが、富本を「一つの思想を持った作家」とみなす見解は、示唆に富んでおり、今日にあっても、大いに検討の余地を残しているといえる。
さかのぼって、一九二六(大正一五)年二月七日の『東京朝日新聞』に目を移すと、前年の一一月に富本が刊行した第一エッセイ集である『窯邊雜記』に対しての書評を、建築家の岡田信一郎が書いている。富本の卒業製作の指導教官が岡田であった。その書評は、「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」と題された長文で、そのなかで岡田は、富本の陶器にも、この著書にも、美しい「詩情」を見出し、こう叙述した。
「土を化して玉となす」と言ふ語は、支那陶師が陶器に對する理想と言はれる。然し富本君は土を化して詩となした。玉を愛する事に疎い私達日本人にとつては彼の土で作つた詩は玉以上の價値がある。常に土を以て詩を作る彼はこの『窯邊雜記』では至る所に美しい詩を讀ませてくれる3。
そして岡田は、富本の思想に、全き「近代人」、つまりは「モダニスト」を見出した。
彼は又言ふ「千百の宋窯の
さらに岡田は、富本の所説に、ウィリアム・モリスに倣う「建築論」を見た。
建築家である私にとつては、彼の建築に對する一々の言葉が強く響く。……美術學校で學習し、欧米にも渡航し、印度にも見學した。然しウヰリアム・モリス、と、同じように、建築に對する研究は、彼を廣い工藝の理解に導いて、モリスが工藝に志したに對して、彼は陶器に走つた。それ故にモリスの言説がしばしば建築に觸れるやうにこの雜記の中にも、建築が時々引合に出される。しかして彼の深い理解が、職業的に堕し易い私達の心をおのゝかす事がある5。
このように、『窯邊雜記』を読んだ岡田は、疑いもなくそのなかに、富本の「近代人」としての「詩情」と「建築論」を読み解いていたのであった。換言するならば、この書評のきわだつ特徴は、富本を近代人(モダニスト)としてみなしたうえで、その造形観に内包されたロマンティシズム(詩情)とモダニズム(思想)について言及したことであり、同時に、それを支える母体として、ウィリアム・モリスの業績に着目した点であった。
この書評が紙上に現われた一九二六年という年は、ヨーロッパに目を向けると、校長のヴァルター・グロピウスの設計によるバウハウスの新校舎がデッサウに完成し、モダニズムという新しい造形教育の理念を視覚的に象徴する建築デザインが誕生した、歴史的に見て特筆すべき年だったのである。
それでは、デザインにおけるモダニズムとは、とのような原理によって成り立つイデオロギーであろうか。参考までに、ポール・グリーンハルジュが指摘するデザインにおける
一 反細分化
二 社会倫理
三 真実
四 総合芸術
五 技術
六 機能
七 進歩
八 反歴史主義
九 抽象性
一〇 国際主義/普遍性
一一 意識革命
一二 神学7
この構成要素のどの特徴を、富本の作品と主張は体現しているのであろうか。たとえば、今泉が指摘する「一つの思想」は、「社会倫理」を連想させるに十分であるし、『窯邊雜記』のなかから岡田が引用した「千百の宋窯の
あえていうならば、富本を「一つの思想を持った作家」とみなす今泉篤男の分析内容、そして、富本を「近代人」とみなした岡田信一郎の書評内容、それに加えて、ポール・グリーンハルジュのモダニズムに関する論述内容――この三点が、本稿「富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す」を考察するにあたっての、基本的土台となる前提部分なのである。
以上の三者の言説を念頭に置きながら、生涯にわたる富本の造形活動と造形思想を通覧したとき、果たして、どのようなモダニストとしての富本の姿が現われてくるのであろうか。ひいてはこれにより、日本における造形の近代化の一端が、とのような特性をもって現像されてくるのであろうか。とりわけ、ヨーロッパにおけるウィリアム・モリスからモダニズムへ移行する過程と、富本におけるその移行過程とのあいだには、どのような異同が存在していたのであろうか。他方、富本が胚胎したモダニズムは、家庭生活という、公的な場ではなく私的な場のなかにあっては、それはどのように実践されていったのであろうか。
それではこれより、歴史のなかに残された富本本人の言説と、周囲の人びとによる富本評とを主たる分析のための資料として援用しながら、富本にかかわるモダニズムについて論述してゆくことにする。
注
(1)今泉篤男「新しい思想と陶芸の出会い」、乾由明編『やきものの美 現代日本陶芸全集全14巻 第3巻富本憲吉』集英社、1980年、44頁。
(2)同「新しい思想と陶芸の出会い」、乾由明編『やきものの美 現代日本陶芸全集全14巻 第3巻富本憲吉』、46頁。
(3)岡田信一郎「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、1926年2月7日、6頁。
(4)同「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、同頁。
(5)同「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、同頁。
(6)Paul Greenhalgh ed., Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 2-3.[ポール・グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、3頁を参照]
(7)Ibid., p. 8.[同『デザインのモダニズム』、8頁を参照]