中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

第一二章 過去の模倣から作家の個性へ

一.「模樣より模樣を造る可からず」

苦悩の末、一九一三(大正二)年八月二〇日、ついに富本憲吉は、「一切の製作を止めて暗い台處から後庭に光る夏の日を見ながら……旅に出た」。沼津で下車し、知人宅を訪問したあと、富本の足は箱根へと向かった。そこには家族とともに避暑を楽しむバーナード・リーチが待っていた。リーチは、この時期箱根で過ごした夏を、こう振り返る。「妻と私は、一九一一年から一九一三年までの三度の夏を箱根湖で過ごした。古びた村の水辺に建つ草ぶき屋根の田舎家を借り、そして、エンドウ豆の色に近い緑色で塗装され、一枚の縦長の帆をもつ小さなヨットも借り受けた……ひとりのときは、絵を描くか、あるいは、あちらこちらへとひたすらヨットを操って楽しんだ」。富本は事前に自分の悩みをリーチに告げており、箱根訪問は、リーチの誘いによるものであった。

[自分の悩みを]リーチにも書いてやりました。リーチも「同感である。今自分は箱根に避暑しているから、やってこないか、二人で考えよう」というのです。そこで箱根に出かけて、十日ほどリーチと話したり、山に登ったり、湖で泳いだりしているうちに、とうとう決心がついたのです。決心というのは「模様から模様を作らない」ということです

模様や装飾の製作にかかわって精神的に極度に追い詰められていた富本であったが、箱根でのリーチとの交流をとおして、その絶望感も少しは和らぎ、「模様から模様を作らない」というひとつの大きな製作理念に到達した。それは、それ以降の自らの歩みを厳しく戒め律する、まさしく、富本芸術の精神的指針となるものであった。のちに富本は、このように回想する。

 「模樣より模樣を造る可からず。」

 此の句のためにわれは暑き日、寒き夕暮れ、大和川のほとりを、東に西に歩みつかれたるを記憶す

「模様から模様を作らない」、あるいは「模樣より模樣を造る可からず」――この黄金句は、過去の模様や外国の模様を手本にしたり摸写したり改変したりして自分の模様にしないことを意味していた。裏を返せば、真に求められなければならない模様とは、自分の目だけを信じ、感動する心をもって直接植物や風景を観察し、ひたすら自分独りの手によって製作される模様にほかならなかった。

模様製作についての一応の決心がつくと、箱根での滞在を切り上げ、一度上京したのち、九月のはじめ、富本は安堵村へと帰っていった。しかし、今回のこの二週間あまりの放浪の旅によって苦悩が完全に払拭されたわけではなく、依然として富本の体内にくすぶり続けていた。

旅は自分が生れて初めての種類のものだった。目的もなくプランもない実に漫然たるもので伊豆箱根東京と金の無くなる迠ホツき歩いた。親しい友達に遭ったり珍らしい景色に接しても春以来の苦るしみは一向変って呉れなかった

富本の「苦るしみ」は、製作の問題だけではなく、留学から帰国後、常に結婚の問題がつきまとっていた。東京から帰ると、ただちに富本は南薫造に手紙を書いた。東京滞在中、南にも会って、結婚について相談していたのであろうか――。以下は、一九一三(大正二)年九月一七日付の南宛て富本書簡の一節である。

……諸兄から色々御注意にあづかったハウス、ホールドを探がさにゃならぬ。いよいよ本気になって、誰れかなかろふか。

東京で育った若い女がコンナ沈むだ様な村の人になるか何うだか。然し大和の先生は御免してもらひたい。或は君の言ふた様に今年中にラチがあくかも知れぬ。夏以来仕事が一向手につかぬのも勿論この件に関係がある。

四五日のうちに素焼カマをたてる。

美術界の事を思ふ毎にナサケなくなる。


 ロクロすれば小さき

 画室なりを ママ

 女知らぬ馬鹿と云ふ声す

 かなしきかなや

そうしたなか、次の展覧会に向けての製作が再開されていった。一〇月二四日の「よみうり抄」に目を向けると、「富本憲吉氏 本年の製作品の内特に陶器及び陶器図案百餘點を以つて本日より廿八日迄五日間神田三崎町ヴ井ナス倶楽部に展覧会を催す 因に本日は午前を接待とし午後公開す」と告知されている。そしてその二日後、この「工藝試作品展覧會」の展覧会評が『讀賣新聞』を飾った。富本のみずみずしい感性を讃える、実に好意に満ちた紹介であった。以下の引用はその一部である。

陶器が七十點、何れも富本君が自ら描き自ら窯いたもので、形にも模樣にも色にもよく富本君の趣味が現はれてゐる。否な趣味と云ふより感興と云つた方が適當であろう、時々刻々の感興が一ツ一ツに陶器となつて現はれてゐるのである

一方このとき南は、「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」と題した一文を『美術新報』へ寄稿し、富本芸術の本質を、こうも鋭く指摘したのであった。

茲に最も吾々の注意す可き點は、[富本]君の趣味は、世間に最も普通に見られる藝術品が多く、床の間の藝術、お座敷の美術、如何にも美術品であると看板を掲げた樣な狭まい範圍の藝術品なるに反して、甚だ廣い塲面を持つて居る事である、即ち富本君は臺所の片隅に於いても其の世界を見出し得る人である……此の民間的藝術の氣分と云ふものは今日の日本に於ては甚だしく忘れられて居るものであるので、此の作品を見て殊に自分等の血管の底に流れる偽らざる血の共鳴を感ずるのである

西洋に倣った絵画や彫刻の形式であれば「芸術」の仲間入りができ、それ以外の形式であれば仲間から外される、あるいはまた、床の間や応接間に飾られれば「芸術」としてあがめられ、台所で使われれば無価値なものとしておとしめられる――こうしたその当時の一般的な芸術観からすれば、たとえ色や模様に高雅な趣向が認められたとしても、富本の徳利や菓子器や皿といった展示作品は、その形式において、最初から取るに足らないものになりかねない運命をもっていた。身近な日常に存在するがゆえに理不尽にも「芸術」の王国から門前払いされる工芸の宿命、あるいは、人知れぬ日陰に生息するがゆえに物言わず姿を消しゆく装飾の悲嘆とでもいおうか――。南はこの部分を「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」のなかで「最も吾々の注意す可き點」としたうえで、「今日の日本に於ては甚だしく忘れられて居るものである」ことを指摘し、誰の脳裏にも残存する歴史や伝統への追憶を、陶器というひとつの「民間的藝術」のなかに視覚的にも身体的にも読み取ろうとしていたのである。

英国からの帰国以降、東京の美術家や美術界のなかにあって、富本が常に傷つき苦しんできたひとつの側面がここにあったといえる。英国にはヴィクトリア・アンド・アルバート博物館がそびえ立ち、ウィリアム・モリスの瞠目すべき活躍があった。当時富本の製作上の立場を適切に理解していたのは、英国を知る南と英国人のリーチをおいてほかにいなかったのではないだろうか。ちょうど二年前の一九一一年、『美術新報』に寄稿し掲載された「保存すべき古代日本藝術の特色」のなかで、富本の憤懣に言及しながら、リーチもまた、装飾の正当なる価値について述べていた。

自分の友人富本君の曰ふには、粧飾などは多くの靑年美術家から藝術の劣等種類であるかの樣に見られてゐるさうだ。全く驚いてしまう。

都ての偉大なる藝術は装飾的である、そして都ての眞の粧飾は偉大なるものである

南は、この一〇月二四日から二八日まで神田三崎町のヴィナス倶楽部で開催された展覧会に並べられた作品を、「富本君が陶器に就いての第一回とも云ふ可き試作である」10と、位置づけた。この夏、伊豆、箱根、東京と大きな苦悩を抱えながら放浪する富本の姿を南は身近で見ていた。疑いもなく、それを踏まえて、この展覧会評「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」は書かれている。まさしくこの一文は、南から富本への友情に満ちた一種の応援歌だったのである。

それでは、身を裂くような苦悩のなかにあって箱根でたどり着いた「模様から模様を作らない」という、富本にとってもはや決して曲げることのできない製作にあたってのこの原理は、この時期の作品にどう貫かれていたのであろうか。当時の心境を富本は南に、次のように打ち明けている。

而して実際に野に出て模様を造る事をする時には古いそれ等を一切忘れたい。若し忘れたいと考へた人が居るなら、忘れ様としても後ろから後ろから影の様に好い古い模様が付いて来て自分の新工夫をさまたげる筈である。自分は ママ もそれに困る。

最初から古い模様を知らずに製作する事はそう云ふ困難が無い代りにこれが自分の創意であるか何うかを判断する事も出来まいと思う。

九月以来の苦るしみは只其處にあった。然し多少は見当が付き出した様にも思へる。然し出来ない11

富本は、「模樣より模樣を造る可からず」という製作の原理を発見するものの、南宛ての書簡では、「多少は見当が付き出した様にも思へる。然し出来ない」と書く。この書簡が書かれる少し前にヴィナス倶楽部で展示された「工藝試作品展覧會」の作品群は、過去の他人の作品からの模倣ではなく、「模樣より模樣を造る可からず」という思考のもと、はじめて独創性と個性とが決然と追求された、まさに富本にとっての「試作品」だったのである。

それから二箇月に満たない月日が流れ、一九一三(大正二)年も終わりに近づこうとしていた。「連日の地主會も昨夜決着。本日は朝来一度に持って来る小作米を母を助手にして一日に約五十石取った。一日の勞を入浴に洗ひおとし、今御端書拝見」12。一二月二三日付で南に宛てた富本の書簡は、こうした書き出しではじまっている。決して不満を漏らすこともなく、本来の富本家の家長としての役割を務めている憲吉の姿がそこにはあった。また、書簡のなかで紹介している歌の近作にも、決して迷いはない。「桐のひともと寒風に葉を振り落とし/なほ天をさす勇ましいかな」。そして製作も、さらに勢いづく。「いよいよ轆轤師が京都から来る。秋以来百五十枚の図案を画室中の壁へ張りつけ兄の謂ゆる中世紀のラッパをふく事となる」13。このときすでに、年が明けた三月五日から一四日までの期間、東京の尾張町の三笠で個人展覧会を開くことが決まっていたのであろう。もう二箇月あまりしか残されていない。

壱二の二ヶ月間に約三百の陶器を造る、つもり。モウこの位出来れば

 「ヴイレージ、ポタリー、バイ、ミスター、トミモト」

と云ふ廣告を雑誌アート、エンド、クラフトと云ふ様な處へ出したい程だ。

非常に健康良好な自分は歌に、模様に、凡てのものに突貫する14

まさに、一九世紀後半から世紀転換期に英国にみられた「田園回帰」「ロマン主義的詩歌」そして「アーツ・アンド・クラフツ」の再現である。目指すところはウィリアム・モリスなのか――。この書簡を受け取った南は、この夏の絶望的な苦悩から、完全に立ち直った富本の姿を読み取り、胸を撫で下ろしたにちがいなかった。そして、自分が『美術新報』の一二月号に書いた「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」が、少しでもそのことに役立っていたとするならば、南の喜びは弥増したことであろう。

二.富本憲吉圖案事務所の開設

一九一三(大正二)年八月号の『青鞜』の「編輯室より」を見ると、尾竹紅吉(一枝)の退社について、以下のように広報されている。

尾竹紅吉氏がまだ本社の社員であるかのやうに思つてゐる方もあるやうですが、同氏が自分から退社を公言されたのは昨年の秋の末だつたかと思ひます。……同氏の特殊な性格を知つて居ますから社は大抵は黙許して参りました。けれども今日はもう社とも、社員とも全然何の關係もありません。従って同氏の言動に就ては……社にとつてもらいてうにとつても誠に迷惑なものであります15

表紙絵「太陽と壷」と巽画会への出品作品《陶器》にはじまり、「同性の恋」「五色の酒」「吉原登楼」そして「恋の破綻」を経て、表紙絵「アダムとイヴ」の製作と巽画会への《枇杷の實》の出品をもって、ここに紅吉の青鞜社時代はすべて終わり、幕を閉じることになった。かくして七月の下旬、傷心のうちに紅吉いや一枝は、信州から北越、そして秋田への旅に出る。

信州に続く次の訪問地の新潟から一枝は、『東京日日新聞』に紀行文(一九一三年八月一八日の「新潟から」から一九一三年八月三一日の「左樣なら新潟」まで九回にわたり連載)を寄稿した。「おゝ佐渡ケ島」という見出しがつけられた「新潟より七信」の書き出しは、こうである。「ぽかりと、氣まぐれに晴れた朝、新潟の濱をみる。裏濱から砂原にかけて松の木がうねり砂丘の上は海に入るまで靑く光つて蔭をなげてゐた。日本海の浪がどたりどたりとうちつけられてまだ夏の繪心を忘れられない旅の者の私を騒がした」16。日本海に面した砂浜と松の木立を見ていると、ちょうど昨年のこの時期、茅ケ崎の南湖院で転地療養をしていた自分の姿が一枝の脳裏に蘇ってきたのかもしれない。そこも松林に囲まれ海岸に面していた。しかしそこは、平塚らいてうと奥村博が劇的に出会い、その結果らいてうの愛を失うことになる、決して忘れることのできない悲惨な思い出に色塗られた場所でもあった。それに加えて、このときの入院が絵の製作を妨げ、結局昨年の文展には出品できなかった、苦い思い出もまた、一枝の胸中をかすめていったかもしれなかった。この時期になると、画家であれば誰しもが、秋の文展へ向けて血が騒ぐのであろうか――「まだ夏の繪心を忘れられない旅の者の私を騒がした」。

他方、ちょうどそのころ、製作にかかわる深い悩みに落ち込んだ憲吉は、避暑を楽しむリーチを箱根の別荘に訪ねていた。佐渡ケ島を望む浜辺と箱根の湖――満たされぬ苦悶を引きずる若いふたりが、そこには、距離を隔てて別々にあった。憲吉はここで、これまでの製作方法を毅然として断ち切り、「模様から模様を作らない」という信念を得た。一方、一枝はかの地で、いかなるものにも動じず、自然を自然のままに受け入れている他者の姿を見て羨ましく思い、それとは逆に、何かいつも物影や人影に怯え、気に病んで萎縮している自己に気づいては哀れんだ。以下も同じく、「おゝ佐渡ケ島」のなかの一節である。

 私はいつの間にか自分の生活や仕事に對してなんの迫害も圧迫も感じてゐない、濱の人や田舎の人が羨ましく思はれた。そして自分がいつまでも子供にやうにひとりぼつちを怖がつたりどろぼうやおひはぎ、ひとさらひを恐ろしがつてゐたり、有るのか無いのか居るのだか居らぬのだか分らないのを恐ろしがってゐるようなことを憐まずにはおれなかつた17

「秋らしい風が吹いてゐる。秋らしい色が見江てゐる。私の『藝術』はいつも私からはなれずにぴつたりついてゐる」18――こうした思いを胸に、紅吉は、新潟から秋田へと旅の足を延ばした。東京へ帰ると、一枝は、文展へ向けての作品づくりに邁進したものと思われる。出品作は、《弾琴》であった。一〇月九日より三日間、鑑査が行なわれた。この年度の第一部日本画第一科の出品数は五六八点で、合格数は三三点、日本画第二科の出品数は七二七点で、合格数は七五点であった。しかし一枝の《弾琴》は、合格作品のなかには入らず、一六日からの展覧会に陳列されることはなかった。この時期を最後に、二度と一枝は公に発表する作品製作のために絵筆を握ことはなかった。すでに一枝の思いは、文芸雑誌『 番紅花 さふらん 』の刊行へと向かっていたものと思われる。というのも、ちょうど半年前のことになろうか、らいてうが一枝から距離を置くようになり、一方、第一三回巽画会絵画展覧会において一枝の六曲屏風一双《枇杷の實》が褒状一等に選ばれたとき、四月五日付の『多都美』は、「尾竹一枝氏は ママ 父尾 ママ 竹坡氏の後援に依て文藝雜誌を發行するさうである」19と、「消息欄」において報じ、一枝の次の計画について短く言及していたからである。

年が明けると、具体的な編集作業が進んでゆき、一九一四(大正三)年三月一日に東雲堂書店から『番紅花』第一巻第一号が刊行された。月刊誌として一冊三〇銭で販売され、編集所は、一枝の自宅の「下谷区下根岸町八十三番地」に置かれた。同人は、尾竹一枝、松井須磨子、原信子、小笠原貞、神近市子、そして小林哥津の六名であった。それに、八木麗子と澤子の姉妹が、編集に協力した。まさしく『青鞜』に対抗する、女性による女性のための雑誌であった。

創刊号は森林太郎(鴎外)の「サフラン」が巻頭を飾り、そのなかで、サフランは「ひどく早く咲く花だとも云はれる。水仙よりも、ヒヤシンスよりも早く咲く花だとも云はれる」20と描写した。これは、いまだ二一歳に満たない早咲きの一枝の手になる『 番紅花 さふらん 』を意味していたのであろうか――。

一枝は、表紙のデザインを憲吉に依頼した。ちょうどそのとき憲吉は、二月一八日付の「よみうり抄」が伝えるように、三月五日から尾張町の三笠で開く展覧会のために「目下郷里で製陶に熱中してゐる」21ところであった。寸時を惜しんでの製作中だったにもかかわらず、憲吉は好意的であった。大和から送られてきた表紙絵が【図四七】で、裏絵に使われた《女の顔》が【図四八】であった。

創刊号への一枝の投稿作品は、「私の命」他一編(詩)、「夜の葡萄樹の蔭に」他二編(詩)、それに「自分の生活」(手紙)の三点であった。以下は、「私の命」の最後の一連である。青鞜社からも、絵画製作からも離れ、新たな仕事と労働のなかに自己の成長と生活を積極的に見出していこうとする一枝にとっての、陽光に照らし出されたまばゆいばかりの人間宣言でもあったにちがいなかった。

私は 太陽 ひかり のなかで働いてゆく

私は 太陽 ひかり をみてゐる

私は生きてゆかねばならない

私は命をもつて私の仕事もしなけりやならない

私の仕事、私の勞働、私の成長、そして私の生活、

私はこれらの上に絶對の命を求めてゐる22

『番紅花』の創刊にあたかもあわせるかのように、三月五日に、一〇日間の会期で、憲吉の展覧会が幕を開けた。さっそく、七日の『讀賣新聞』でこの展覧会が取り上げられた。好評であった。以下はその記事「二種の個人展覧會 荒井氏と富本氏と」の一部である。

富本憲吉氏の製作品展覧會が五日から京橋區尾張町の三笠で開かれた。壺、瓶、鉢、皿等陶器九十點に圖案三十點何れも氏一流の豊饒優雅な趣味上の産物で、古都の情趣が夢の如く、豊かに漂よつて居る所に一種温雅な藝術的な味の通じてゐる事を思ふ23

さらに一三日には、黒田鵬心が『讀賣新聞』の「美術時評」でこの展覧会を取り上げ、「大躰の趣味は ママ 去年の『ヴ井ナス[倶楽部]』のと同じであるが、あれよりはきちんとした圖案のものが増加して來た」24と評した。一方、『美術新報』の四月号では、「早春の諸展覧會」で雪堂(主筆の坂井犀水)が紹介し、「特殊の趣味を有し、非凡なる個性を現はして居る」ことを賞讃したうえで、「中には工人を使役したらしいものがあつて、冷やかな機械的な整巧に流れたのも見受けられたのは遺憾であつた」25との苦言も書き加えた。「工人」とは、憲吉が京都から呼んだ轆轤師のことを指しているのであろう。評者の雪堂の目には、陶器の作品にあっては、とりわけ「壺(リンドウ)」【図四九】、「徳利(涅槃之民)」【図五〇】、「筆筒(柳)」【図五一】が秀逸と映った。

展覧会が終わり、大和に帰郷すると、さっそく富本は南に宛てて三月一九日付で便りを出した。「秋の展覧會の様なのを開いて今東京から歸へった處。賣れる事は安い陶器が大分賣れた。自分は今、安住の地を撰定するにまよって居る。『人生の孤獨』と云ふ事がヒシヒシと真劍にせめよせて来て困る」26

この時期富本は、『番紅花』の表紙絵だけではなく、美術店田中屋の機関誌『卓上』の装丁にも携わっている。【図五二】が、四月二〇日に刊行された『卓上』第一号の表紙である。そして富本は、五月五日付の手紙で、近況を南にこう告げる。「六月或る田中屋と云ふ少し気のきいた店でよりぬいた陶器二三十列べ様と思ふ」27。東京の京橋区竹川町にある美術店田中屋【図五三】において、六月二三日から七月二日まで、すでに南に予告していた「富本憲吉氏陶器及陶器圖案展覧會」が開かれ、「陶器新作百點の中精選したるもの六十點及新圖案四五十枚」28が展示されたものと思われる。富本はこの「自作陶器展覧會の爲め[六月]廿日上京」29した。そうした経緯を背景に、「富本憲吉氏圖案事務所」が誕生してゆくことになる。

八月二五日、美術店田中屋が発行する『卓上』第三号に「富本憲吉氏圖案事務所」の広告【図五四】がはじめて掲載された。これには、「來る九月一日から富本氏の圖案事務所を當店内に設置し、各種圖案の御依頼に應じます」と案内されていた。加えて、製作品目として、印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案が挙げられていた。小さくて、あまり目立たないものであったかもしれないが、この広告は、図案家(デザイナー)としての富本を知るうえで、幾つもの示唆に富んだ内容を含んでいた。

まず、「図案」という用語法について――。

富本は、図案という用語について、晩年次のように語っている。「図案という語は、英語の Design という語から来たものと思う。同じ字を建築で通用しているような計画とか設計とかの意味なら字義がもっと判然とするように思える」30。英国留学を経験した富本であれば、すでにそのとき、図案という用語を、英語の「デザイン」の原義に照らして使用していたとしても、何ら不思議はない。そうであればこの事務所は、明らかに、原義にいうところの「デザイン」の事務所であり、生活に必要な品物すべてがデザインの対象となり、したがって、多様な製作品目がこの広告に列挙されていたとしても、それは当然のことだったといえるだろう。また当然のことながら、今日に至るまで富本は、陶工とも、陶芸家とも呼ばれる。結果的に生涯にわたる製作の中心が陶器だったことが、そう呼ばせているのであろう。しかし、事の起こりと、その精神は、最初から陶器造り一点に集中していたわけではかった。そうではなくて、「富本憲吉氏圖案事務所」の広告にみられるように、それぞれの素材のもつ特性を別にすれば、陶器も染織も木工も、ひとつの同じデザインの原理により、その造形が可能であると考えられていたのである。それは、後年の次の言説からも明らかなように、表面に現われるか否かは別にしても、富本の全生涯を貫く、内に秘めた確たる精神であった。

私は[初めて陶器に親しみ出した]その頃から、染物や織物や木工の事或は家具建築の事について忘れた事なく、陶器の一段落がすめば又、別の工藝品に手を染めて見たい考へで居た。命が短く恐らく望みだけ多く持つて私は下手な陶器家として死んで行かねばならぬ運命にあるだらう。それでもその位決定的になしとげ得ぬ望みであつても、私はその望みを捨てずに此の儘で進むで行く31

この言説から十分推量できるように、たとえ具体的な活動をなしえぬまま、すぐにも自然消滅したとはいえ、この「富本憲吉氏圖案事務所」こそが、富本の芸術家としての原点となるものであり、事務所開設にあたって見受けられたあらゆる工芸領域へ向けての製作願望が、結果的に「なしとげ得ぬ望み」となる運命にあったとしても、その後晩年に至るまで、生き生きたるものとして富本の内面に残存していったといえるであろう。

一方、昨年(一九一三年)の夏、「模樣より模樣を造る可からず」という信念に到達した富本は、それ以降の展覧会において、陶器だけではなく、しばしば新しい模様も展示してきた。これは何を意味していたのであろうか。富本は、陶器のことだけではなく、「染物や織物や木工の事或は家具建築の事」も心に留めて、それらのすべてに適応できる模様を、この間常に用意していた、と考えても差し支えないのではなかろうか。富本の精神は、製陶のみを支える狭い精神ではなく、工芸の全領域、すなわち人間生活のすべてを支える、さらに強固で広がりをもった精神として、このときすでに存在していたのであった。一九一三(大正二)年一〇月の東京の神田三崎町ヴ井ナス倶楽部における「工藝試作品展覧會」や、一九一四(大正三)年六月の大阪の高麗橋三越呉服店における「富本憲吉氏工藝試作品展覧會」などが示しているように、展覧会の名称に、しばしば「工藝試作品」という用語が使用されていたことからみても、この時期は、「富本憲吉氏圖案事務所」の設立へ向けての準備期間だったと考えることもできよう。

次に、「分業」について――。

手工芸において本来有機的また連続的に関連し合う、着想することと製作することが分離するところに、近代のデザインの発生基盤があった。つまり、着想することにかかわって美術家を、一方、製作することにかかわって技術者を、近代社会は要求してきた。その点について富本は、晩年、次のように回顧している。

 私は工芸の図案については音楽の場合に楽譜をつくる作曲家と、実際に楽器で演奏するプレーヤーとがあるのと同じような関係を考えているんです。……私なんか模様をこ[し]らえる側のコンポジ[シ]ョンのほうに固執しているんじやないか32

そしてまた富本は、別の箇所でこうもいっている。

私の知って居る約五十年前の英国では、既に図案者と製作者との名が別々に記されている事が普通であった33

一九一二(明治四五)年に「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に発表するにあたって、富本は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を読んでいた。それを根拠に考えるならば、上記に引用した富本のふたつの言説には、疑いもなく、「(ウイリアム)モリス案」「モリス事務所製作」「モリス下圖」という、デザインと実製作とにかかわるヴァランスの書物のなかの図版キャプションにおける使い分けが投影されていたものと思われる。ここで注意を払わなければならないことは、こうした早い段階で、デザイン(富本のいう、計画や設計)と実製作との分離、つまりは分業に対する理解が、富本のなかに生まれていたという点である。

たとえば、一九一二(明治四五)年一月二二日に、南薫造に宛てて書かれた手紙のなかで、富本は、「製作及び案 By Mr. & Mrs. Minermi と云ふ刺繍が出来 ママ るそうだが面白いだろう」34と、述べている。この場合、「案」つまり「デザイン」するのが南薫造その人で、「製作」するのが南夫人であることを示している。こう考えるならば、約二箇月前の七月一二日に一枝に宛てた手紙で憲吉は、「事務所は真に独立した完全な意味の ルーム ですから、其処で仕事されたらば、東京であって東京で無い様なものです。私は其処に行けばロンドンに行ったつもりで、食事から何から一切その様にするつもりです……只心を落ちつけて私の新計画に幾分の御助力あらむ事を祈ります」と書いていたが、その意味するところは、デザインと製作を分かち合いながら、協同してこの「富本憲吉氏圖案事務所」を運営していかないかという、一枝に対する仲間を求める呼びかけだったようにも読めるであろう。

さらにこのことで付言すれば、分業という観念が早い段階にあって富本の内に起生していたがゆえに、その後、量産という展望へと適切につながっていったわけであり、そうしたなかにあって、柳宗悦が擁護する「民芸」と富本が主張する工芸とのあいだには、個性や独創性の問題だけではなく、製作方法としての分業もまた、問われるべき問題として、こうしてすでにこの時期に、その種子が胚胎していたのであった。

そして最後に、「モリス商会」との比較において――。

今日では、‘Morris and Co.’(正式には ‘Messrs. Morris and Co.’)に対しては「モリス商会」という訳語が使われるのが一般的であるが、富本はこの用語を、「ウイリアム・モリスの話」の、キャプションにあっては「モリス事務所」と訳し、一方、本文にあっては「モリス圖案事務所」という訳語もあてている。おそらく、この用語法が、「富本憲吉氏圖案事務所」という名称につながったものと思われる。それでは、製作品目については、「富本憲吉氏圖案事務所」と「モリス商会」(もともと一八六一年に「モリス・マーシャル・フォークナー商会」として八人の芸術家の共同経営として設立され、一八七五年からモリス単独の経営による「モリス商会」となる)との異同は、どうであったのであろうか。エドワード・バーン=ジョウンズの娘婿で、モリスの伝記を執筆したJ・W・マッケイルは、その本のなかで、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」の設立に際して作成された趣意書に言及している。以下はその一部分の引用である。

多年にわたってあらゆる時代と地域の装飾美術の研究に深く関与してきた、これらの芸術家たちは、本当の美しさを備えた作品が入手できるか、製作してもらえるような、何かひとつの場所の必要性を、それを待ち望む多くの人びと以上に、痛感している。そこで彼らは、自らの力と監督のもとに、以下のものを製作するために、今般一商会を設立したのである。

一.絵画かパタン作品による壁面装飾。あるいは、住宅や教会や公共建築に用いられるような、もっぱら配色による壁面装飾。

二.建築に用いられる彫刻一般。

三.ステインド・グラス。とりわけ壁面装飾との調和を考慮したもの。

四.宝石細工も含む、すべての種類の金属細工。

五.家具――デザインそのものが美しいもの、これまで見過ごされてきた素材が適用されたもの、あるいは、人物画なりパタン画なりが結び付けられているもの。この項目には、家庭生活に必要とされるすべての品々に加えて、あらゆる種類の刺繍、押し型皮細工、これに類する他の素材を用いた装飾品が含まれる35

このようにみてゆくと、「富本憲吉氏圖案事務所」と「モリス・マーシャル・フォークナー商会」における営業品目に、大差はない。差があるとしたら何であろうか。それは、ひとえに協同者の有無であった。『美術新報』主筆の坂井犀水(雪堂)や美術店田中屋のような、よき理解者には巡り会うことができたものの、富本の周りには、製作を協同して行なう芸術家の仲間がいない。一枝が同意したとしても、それだけでは十分といえない。このことが、「富本憲吉氏圖案事務所」の存続を短めた直接の要因であったかどうかは別としても、富本はそのことを自覚していたものと思われる。それから六年が立った一九二〇(大正九)年に執筆したある文章のなかで、前後の文脈から逸脱し、次のようなことを唐突にも述べているのである。

 ウィリアム・モ ママ リスにつき私の最も関心する處は、彼れのあの結合の力、指揮の力である36

この言葉は、モリスに倣った実践形態が富本にとってひとつの理想の姿であったにもかかわらず、しかしそれがいかに困難であるものかを、このとき経験した挫折を踏まえて告白しているようにも読める。富本のいう「結合の力、指揮の力」は、ここでは、モリスのいう「フェローシップ」に置き換えて考えることができるであろう。モリスの哲学と実践によれば、人と人とが人間的に結び付いて成立する共同体にあっては、「フェローシップ」は、芸術的にも政治的にも、極めて重要な原理となるものであった。社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に一八八六年から掲載が開始された「ジョン・ボールの夢」のなかでモリスは、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である。つまり、フェローシップは生で、その欠如は死なのである」37ことを表明していたのである。

憲吉は、七月の半ばに大和を出て、上州の鹿沢温泉へ行き、ここで一枝に求婚すると、大和へ帰ることなく、そのまま東京へと向かった。こうして、九月一日に美術店田中屋内に「富本憲吉氏圖案事務所」が開設されるのに先立って、富本の東京での新しい生活がはじまった。『藝美』一〇月号の「消息集」には、こう記載されている。「富本憲吉氏 下谷區茅町二丁目十四番地へ卜居。田中屋美術店内へ設けた圖案依頼事務所へは、毎週火、木、土午後に出向してゐる」38。そしてこの地で、富本は「東京に來りて」を執筆した。そのとき、「富本憲吉氏圖案事務所」の発足にかかわって、やはり、イギリスやモリスのことが思い出されたのであろうか。一方ヨーロッパでは、第一次世界大戦が勃発していた。留学中に知り合った友だちの顔が一人ひとりまぶたに浮かんできたのかもしれない。

 世界は大戰の波に渦まき、フツトボールの競技に號外を以て熱狂せしロンドンは今如何にして野蠻にして禮を知らぬ新興の國を打たむとはする。われに禮をおしへ義を開發せしわが友は如何に又何處にあらむ。血と劍は争ひの最後の手段にして第二位に屬すべきものなる可し。最後にして第一位にあるものは藝術なる可し。友よ健闘せよ、第二位も第一位も皆藝術家にして戰士なる汝の手にあり39

この一文にも、戦争嫌悪の情感が宿る。さらに富本は、続けてこう書いた。

 工藝家にして繪畫を談じたるを、卑下したる口調を以て批評したる人あり。詩人にして哲學を談じたりとて笑える類か、われはむしろ詩人にして政治を知り財政を論じ得る人を待つものなり40

ここで富本がその出現を待ち望んでいる、「詩人にして政治を知り財政を論じ得る人」とは、どのような人であろうか。まさしくそれは、詩人にして政治活動家であり、モリス商会のれっきとした経営者でもあった、デザイナーのウィリアム・モリスのような人だったのではあるまいか。もしこうしたモリスのような人が、あと数人でもいて、富本の協同者になっていたならば、「富本憲吉氏圖案事務所」は、また別の運命をたどっていただろう。しかし残念なことに、富本の目からすれば、世の美術家と批評家の大多数は、「工藝家にして繪畫を談じたるを、卑下したる口調を以て批評したる人」たちであった。

「モリス・マーシャル・フォークナー商会」が八人(形式上アーサー・ヒューズを含む)の芸術家の共同経営として設立されたのが一八六一年、モリスが亡くなるのが一八九六年、富本が英国で工芸を学んだのが主として一九〇九年、そして「富本憲吉氏圖案事務所」が設立されるのがこの年、一九一四年。さらにその翌年の一九一五年、英国ではデザイン・産業協会が創設され、徐々にモリスから、そしてアーツ・アンド・クラフツから離陸し、デザインにおける 近代運動 モダン・ムーヴメント が胎動してゆくのである。このようにこの時期、英国と日本のあいだにあっては、半世紀にも及ばんとする工芸の思想的、実践的成果の隔たりが存在していた。それはひとりの人間では埋めようにも埋められない、大海のごときものであったにちがいない。富本の製作活動は、こうした日本の文化的、社会的状況のなかにあって、当時、無理解と孤立のうちにおおかた成り立っていたのであった。

しかし、南やリーチ以外にも、富本のデザイン思考を真に支持する新たな仲間たちがいた。東京での生活が少し落ち着いたのであろうか、富本は、「九月一四日夜 池之端の新居にて」南に宛ててペンを執った。「 信州 ママ [上州]の中から出水に閉口して東京に出で見たが面白い事もない。只皆むなが繪をかくより[秋の展覧会の事で]騒ぐばかり ママ 困る……田中屋へ事務所をおいて火木土の 土曜 ママ に出張するのと来月号の新報に信州でやった花草の模様がある位が変った事だろふ」41

その『美術新報』一〇月号に、富本の「模樣雜感」が掲載された。これは談話記事で、とくに鹿沢温泉での滞在には触れられていないが、使われている図版(【図五五】から【図五八】はその一部)が、南への手紙で言及されている「 信州 ママ [上州]でやった花草の模様」なのであろう。さて、この「模樣雜感」のなかで、富本は、津田靑楓に触れた箇所では、「今津田君は職人の樣な圖案家が日本國中に充滿して居ると慨嘆して居られますが、私も同感で、その慨嘆も無理もないことであります」42といい、小宮豊隆に触れた箇所では、「小宮君が行住坐臥、日常生活に於ける模樣をも新しくしなければならぬと云はれた事も、解らない世間に向つてアゝ云ふことを云つて頂いた事に付て、私共から感謝の意を致すべきだと思ひます」43と述べている。そして、自分については、「[去年の]春から夏にかけて一枚の模樣も出來ず、モウ一切美術家となることはよそうかと思つた位苦み抜きました。全く古い模樣を忘れて、野草の美しさを無心で見つめて、古い模樣につかまれずに、自分の模樣を拵へ樣とアセリました。が一時的に忘れる事は出來ても、ウツカリすると直古いものと新しいもののねじくれたものになつて仕舞つて實に困りました」44と告白していた。

当時、津田はどう「慨嘆」していたのだろうか。その言説を「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」(『藝美』九月号)に求めると、その一部は、次のようになる。

 自分は今日我々の日常生活に觸目する、一切の工藝品や、或はいろいろの工藝品に付いてゐる模樣に不快を感じない事がない。何を見ても氣に喰はないものが多い。殆んど氣に喰はないもの許りと云つていゝ位のものである……自分は斯云ふ點からも職人主義を絶對に隠滅させ度い。何日か小宮君も斯云ふ意見を話された事があるが。職人主義を排した結果を一口に云へば、圖案界を今日の文藝界の樣にしたいと思う……漱石氏の小説は漱石氏の自己を語るもので、漱石氏の愛讀者があり……富本憲吉の圖案の好きなものは、富本憲吉の圖案に依つて出來たもので日常生活の一切のもの――茶碗、皿、或は椅子机、それから女や子供の着物の模樣に至るまで一切を富本模樣によつてそろへる事が出來……る樣に成ればいゝと思う……「職人主義の圖案家を排す」と云ふ事を逆に考へて見ると「藝術的圖案家の排出を望む」と云う事に成りそうである45

書かれた時期からして、この小論は、「茶碗、皿、或は椅子机、それから女や子供の着物の模樣に至るまで一切」の図案の製作を行なおうとする「富本憲吉氏圖案事務所」の開設にあたっての、津田からのまさしく「富本模樣」への「祝辞」を意味していたのではないだろうか。もしそうであるとすれば、富本の「模樣雜感」は、明らかに、それに対する「お礼の言葉」ということになる。そして一方、『文章世界』一〇月号に小宮の「圖案の藝術化」が掲載された。「小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に」という副題をもつ津田の小論に、すかさず小宮本人が反応したのである。

 私は在來の「型」に はま つた圖案 ママ 見ることに堪へられない。然し堪へられないとは云ひながらも、 それ を今直に うすることも出來ない處から、こんな世に生れ合せた是非もないと諦めて我慢してゐる。然し今日の日本人の凡てを 圍繞 ゐぎやう する圖案は、悉く職人の手になつた、藝術の域を去ることの遠い、醜穢な不愉快なものゝみであると思へば、私は一日も早く特殊な藝術家の手にとつて、此醜穢と不愉快とが取除かれむことを希望して止まない……今の圖案界に新生面を拓くと云ふことは、單に今の圖案を藝術にすると云ふのみに止まらず、大にしては日本の文明史に大きな貢献を 寄興 きよ することにもなるのである。例へば今我等が日常に使用する茶碗の模樣や皿の模樣が、全然藝術的なものに改革されて日本國中に行き亘ると云ふことを空想するとき、夫は一 にん の藝術家によつて、一部局の賞翫者の讃嘆に限られた繪畫に腐心してゐるよりも、幾層倍かの痛快事でもあれば、有意義なことであると思ふ……私は其藝術家に、光琳や 埃及 いぢぷと の藝術家や若しくは 露西亜 ろしあ の農民藝術家の樣に、純粋な意味に於て「自然主義」の藝術家になることを要求したい。「自然」を閉却しては遂に新しい命を表現することは出來ないからである46

ここに述べられていることが、この間富本が追い求めていた事柄のほぼすべてであったし、周りに理解が得られないまま、ひとり苦悶していた中身そのものであった。その意味で、この一文は富本の心情を適切に代弁するものであり、同時に、貴重な救いの手であったにちがいなかった。そしてそれはまた、これまでの暗闇のなかにあって、「特殊な藝術家」として期待されている富本の前途を指し示めす一条の灯にもなったことであろう。「モリス・マーシャル・フォークナー商会」と違い、「富本憲吉氏圖案事務所」には、製作における協同者はいなかった。しかし富本には、理論面での支持者がいた。それが、このときの津田靑楓であり、小宮豊隆だったのである47。その主張にみられるように、両者ともに、職人主義や伝統主義を排した、個人主義的で自然主義的な芸術観の持ち主であった。そしてこのことは、富本の芸術観のみならず、同時に結婚観にも、等しく投影されていた。次の第一三章「封建的な家制度の否定」において述べるように、「富本憲吉氏圖案事務所」の開設へ至る道程と、尾竹一枝との結婚へ向かう過程とは、明らかに同一の思想的背景から、導き出されたものであった。

(1)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 68.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、60頁を参照]

(2)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、74-75頁。口述されたのは、1956年。

(3)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、104頁。

(4)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、76頁。

(5)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、69頁。

(6)「よみうり抄」『讀賣新聞』、1913年10月24日、金曜日。

(7)「陶器展覧會 神田ヴイナス倶楽部にて 富本憲吉君の工藝試作品」『讀賣新聞』、1913年10月26日、日曜日。

(8)南薫造「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」『美術新報』第13巻第2号、1913年、13頁。

(9)バァナアド、リイチ「保存すべき古代日本藝術の特色」『美術新報』第10巻第12号、1911年、15頁。

(10)前掲「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」、14頁。

(11)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、77頁。

(12)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、78頁。

(13)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(14)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、79頁。

(15)「編輯室より」『青鞜』第3巻第8号、1913年8月、195頁。

(16)尾竹紅吉「おゝ佐渡ケ島」『東京日日新聞』、1913年8月26日、火曜日。

(17)同「おゝ佐渡ケ島」。

(18)同「おゝ佐渡ケ島」。

(19)「消息欄」『多都美』第7巻第7号、1913年4月5日。

(20)森林太郎「サフラン」『番紅花』第1巻第1号、1914年、3頁。

(21)「よみうり抄」『讀賣新聞』、1914年2月18日、水曜日。

(22)尾竹一枝「私の命」『番紅花』第1巻第1号、1914年、17-20頁。

(23)「二種の個人展覧會 荒井氏と富本氏と」『讀賣新聞』、1914年3月7日、土曜日。

(24)黒田鵬心「美術時評」『讀賣新聞』、1914年3月13日、金曜日。

(25)雪堂「早春の諸展覧會」『美術新報』第13巻第6号、1914年、40頁。

(26)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、80頁。

(27)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、83頁。

(28)「週報 展覧會」『美術週報』第1巻32号、1914年5月24日。および、『卓上』第2号、1914年6月15日の巻末広告を参照。

(29)「個人消息」『美術週報』第1巻37号、1914年6月28日。

(30)富本憲吉「わが陶器造り」(未定稿)、辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、30頁。

(31)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、36頁。

(32)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、10頁。

(33)中村精「富本憲吉と量産の試み」『民芸手帖』178号、1973年3月、36頁。

(34)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、18頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(35)J. W. Mackail, The Life of William Morris, Volume I, Longmans, Green and Co., London, 1899, pp. 151-152.

(36)富本憲吉「美を念とする陶器――手記より」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、48頁。

(37)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 230.

(38)「消息集」『藝美』第1年第5号、1914年10月、47頁。

(39)富本憲吉「東京に來りて」『卓上』第4号、1914年9月、21頁。

(40)同「東京に來りて」、22頁。

(41)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、24頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(42)富本憲吉「模樣雜感」『美術新報』第13巻第12号、1914年、8頁。

(43)同「模樣雜感」、同頁。

(44)同「模樣雜感」、9頁。

(45)津田靑楓「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」『藝美』第4号、1914年9月、1-7頁。

(46)小宮豊隆「圖案の藝術化」『文章世界』第9巻10号、1914年、260-262頁。

(47)『藝美』九月号の津田の「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」、『美術新報』一〇月号の富本の「模樣雜感」、そして『文章世界』一〇月号の小宮の「圖案の藝術化」――この三つの図案に関する文章の公表は、たまたま偶然にこの時期に重なったとは考えにくいのではないだろうか。というのも、あまりにも論旨が共通しているからである。津田、小宮、富本をつなぐ糸は何か――以下は、いまだ推論の域を出ない、このことに関するひとつの仮説であるが、おそらくこの時期までに、夏目漱石の小説の装丁を行なっていた津田が、二人展を開いたこともある富本を連れ立って「漱石山房」での「木曜会」へ行き、そこで津田は旧知の漱石門弟のひとりである小宮に富本を紹介すると、かねてから漱石も関心を抱いていた装丁談義に端を発して、広く図案についての論議が三人のあいだで交わされ、日本における図案の貧弱さの原因とその解決の方途にかかわって共通の認識が得られるなかで、その論議の内容の一部が、「富本憲吉氏圖案事務所」の開設のこの時期に、うまく三人の連携のもとに公表されたのではないかと思われる。