一九一四(大正三)年三月一日に、尾竹一枝が主宰する『番紅花』の創刊号が世に出た。そして四日遅れて三月五日から京橋区尾張町の三笠において富本憲吉の展覧会が開催された。一枝は、三笠に憲吉を訪ねた。話題は主として、今後の『番紅花』に使用する表紙についてであった。『番紅花』四月号(第一巻第二号)の「編輯室にて」が、こう伝えている。
表紙は富本憲吉氏が是非違つたのにしたいと、先達三笠で話してゐられた。表紙は氏の木版畫になる。色彩は三色の版になる。併しそれより版かずが加はるかも知れない。とにかく非常にいいのをして下さることになつてゐる。扉繪もカットもみんな等しく出來てくる1。
四月号で、扉絵が小林徳三郎のものから憲吉の作品《温暖》【図五九】に替わった。そして、五月号からさらに一新され、表紙絵が【図六〇】に、また扉絵も【図六一】に差し替えられた。こうして、憲吉と一枝は急速に接近していった。
憲吉も製作に力が入る。五月一〇日に駿河町三越で第三回「小藝術品展覧会」が開幕。「出品作家二十餘人、連なる人々には、富本憲吉氏、リーチ氏、鍋井克之氏等にて、陶器盆、莨入函等新らしき氣分に充たされたる小作品數十點を陳列せり」2。次に、五月一五日から二一日までを会期に「大阪三越十五日會第三回作品展覧會」が開催され、「壺」「煎茶々碗」「湯呑」「花器」「香盒皿」が展示される3。六月に入ると、一〇日から一六日まで、大阪の高麗橋三越呉服店で「富本憲吉氏工藝試作品展覧會」が開かれ、そこで「近作陶器百數點を陳列展覧」4。それに続き、今度は東京の京橋区竹川町にある美術店田中屋において、六月二三日から七月二日まで、「富本憲吉氏陶器及陶器圖案展覧會」が催された。
このようにこの時期、頻繁に富本は上京している。おそらくそれぞれの機会に、一枝と会っていたであろう。しかし、大柄の一枝との接触は人目につきやすく、それを避けるために、リーチ宅がデートの場として提供されていたようである。リーチの回想するところによると、こうである。
彼ら[憲吉と一枝]は互いに惹かれていったが、そのころスキャンダルを巻き起こすことなく安心して会える場所がどこにもなかったので、私は妻と相談して、自分たちの家をその使用に提供した。こうして彼らは、相互によく知るようになり、婚約した5。
ふたりの逢瀬は、リーチの家だけではなかった。それは、奈良、そして大阪へと伸びた。六月号の『番紅花』(第一巻第四巻)の「編輯室より」のなかで、一枝は、「この間の旅に大和に富本さんを訪ねた。焼きあげられた陶器が静かに書院にならべられて富本さんは静かにそこで憩んでゐられた」6と、書いている。そして、同号に掲載の「五月の雨」という詩には、「大阪にゐる美しいTに捧ぐ」という副題がつけられ、ふたりの別れのつらさが詠われている。次は、その第一連である。
別れの悲しき日に
雨 ( あめ ) はしとしと 銀色 ( ぎんいろ ) にふる
泪 ( なみだ ) は優しうさしぐまれ
二人のこころが 啜泣 ( すゝりな ) く7。
七月号の「編輯室より」には、もう一枝の文章は見当たらず、八木麗子が、神近市子と一枝の不在のなかでの編集作業に不満を滲ませながら、こう書いていた。
今後の號の編輯には随分まごつかされた。神近[市子]さんは月初めの九日に歸郷してしまつた。その前から犬吠岬に行つてゐた尾竹[一枝]さんは、歸京すると間もなく、今度は又た大阪に行つてしまつた。それで否應なく編輯の雜務が小林[哥津]さんと私との上に落ちて來てしまつたのだつた8。
一枝はこの号に「いたづらな雨」と題された詩を寄稿する。その末尾には「六月廿四日大阪にて」9と記されていた。
美術店田中屋での「富本憲吉氏陶器及陶器圖案展覧會」が終わると、憲吉は安堵村へ帰り、ここから七月一二日に、一枝に宛てて手紙を書き送った。何度会っても、まだまだ伝え足りないものが、憲吉の胸に残っていたようである。
人々がする様な手紙の上での空論を止めて何うか直接に遇って話して見たい(オープンリーに)と、最初五月にお遇ひした時から考へて居ましたが、御説の通り幾度お目にかゝっても云ひ残した様な感じがします。
ふたりにとって安心の地はどこだったのだろうか、大和、それとも東京――。両者の考えに溝があった。それにしても、『番紅花』を創刊したばかりの一枝に、どうして「東京を去る必要がある」のであろうか。『番紅花』第一号に寄稿していた複数の作品から読み取れるように、本当に一枝は、「悲しきうたひ手」が唄う喧騒の東京における過去の世界から逃れ、未来の「私の命」を大和の牧歌的な田園に求めようとしていたのであろうか。
兎に角、今の処では大和をにげ出すことです。にげ出す様な処に来られても、仕様がないでしょう。
あなたの方では東京を去る必要がある、その事も私にはよく解りますが、私も、大和を出たい。
そして、富本は、東京でのこれからの新しい計画を打ち明ける。これは、九月一日から美術店田中屋内に開設を予定している「富本憲吉氏圖案事務所」のことで、ここでの仕事の協力を一枝に求めるのである。
事務所は真に独立した完全な意味の 室 ( ルーム ) ですから、其処で仕事されたらば、東京であって東京で無い様なものです。私は其処に行けばロンドンに行ったつもりで、食事から何から一切その様にするつもりです……只心を落ちつけて私の新計画に幾分の御助力あらむ事を祈ります。
最後に追伸として、「鹿沢温泉に四、五日中に行き、九月一日頃より東京の生活を初める」10と、その手紙には書き記してあった。
この手紙を受け取ったと思われる「七・一五・夕暮れ」に、一枝は、「 薄暮 ( たそがれ ) の時」という詩をつくった。そのときの心情がこの詩にどう投影されているのであろうか。末尾に「しみじみとして二人して泣けば/いつしか暮れて/にほやかに鈴虫のなく。」11とある。
追伸に書かれてあるとおり、富本は鹿沢温泉へ向かった。到着するとすぐにも、七月一六日の日付で再び東京の一枝に宛てて、原稿用紙二枚にペン書きで一筆したため、それを逗留先の増屋旅館の封筒に入れて投函した。
トウトウ気狂ひの様に安堵村を飛び出し、中央線のトンネルに困りながら、此の鹿沢温泉に参りました……話しにこちらへ来ませむか……来られるなら半分の道程二里を出迎える……来られてはどうです。さう云ふよりも来られることを切に祈ります……兎に角、手紙だけでもいただければ結構です……若しいよいよ来られるならば、四里全体、御出迎えしても良いと思ひます12。
この手紙が一枝のもとに届いた。それを一枝はどう読んだであろうか。「七・一九・午後三時」――一篇の詩「 紅 ( あか ) し 紅 ( あか ) し」13が、このときでき上がった。二度繰り返される「 剃刀研人 ( かみそりとぎ ) の過ぎてゆく」のフレーズ。「剃刀研人」とは、誰。「 紅 ( あか ) し」と「剃刀」の関係は。この詩は、『番紅花』八月号(第一巻第六号)に掲載された。そして、八月号『番紅花』の「編輯室より」――。編集室から人が消え、とうとう八木ひとりの執筆になってしまった。
氣の利いた人は山に行つたり海に行つたりして、熱い東京には氣の利かない人ばかり残つてせつせと働いてゐるのかも知れない……九州に歸へつてゐる神近さんは、此頃頭腦をわるくして大へん困つてゐるといふお便りであつた……それから尾竹さんは又大阪に行つてしまつた。今日明日には歸へられるだらうとアテにはしてゐるのだけれど、随分アテにはならぬ話らしい……此號に載る筈だつた尾竹さんの『人形買ふまでの戀』も次號まで待つていたゞきたい14。
このとき、この詩でもって『番紅花』を閉じることを、一枝はすでに自覚していたのであろうか。一枝の「人形買ふまでの戀」が次号に掲載されることなく、『番紅花』は本号(八月号)をもって、あっけなくしおれてしまった。
七月二四日付の『萬朝報』は、「富本憲吉氏は數日前群馬縣鹿澤温泉へ出かけ、植物冩生をやつて居る」15と、報じていた。野に出て植物の写生を楽しむ一方で、「気狂ひの様に安堵村を飛び出し」た憲吉は、ひたすら一枝の来訪を待ち続けた。居ても立ってもいられない憲吉。さらに七月二三日と七月二八日に執拗に誘いの手紙を出す。そしてついに一枝が、憲吉の前に現われた。この地に一枝は、「八月一日から一一日まで滞在した」16。その間ふたりは、「 信州 ( ママ ) [上州]の海抜五千尺の上で脚の下に白雲が飛ぶのを見ながらガラになく結婚と云ふ話をして居た」17。
鹿沢温泉での出来事以降、両人の会話は、当然のことながら、自分たちが直面する結婚に関する内容に集中していたにちがいなかった。封筒のない巻紙が残されている。内容からして、憲吉から一枝に宛てたもので、置き手紙だった可能性も、また、直接手渡された手紙だった可能性もある。いずれにしても、すでにこのころから、ふたりは、「下谷區茅町二丁目十四番地」で、実質的な共同生活に入っていたのではないだろうか。その巻紙の一部には、こう綴られていた。
アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい18。
ここには、「家」に拘束されない、対等の個人たる両性の結び付きとしての結婚観が示されている。一八九八(明治三一)年に公布された「明治民法」の第七五〇条では「家族カ婚姻又は養子縁組ヲ為スニハ戸主の同意ヲ得ルコトヲ要ス」と、また第七八八条では「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と、規定されており、そのことを想起するならば、ここで示されている憲吉の婚姻についての見識は、両者が双方の家の跡取りであることに対する配慮の結果という側面が幾分あったとしても、それだけでは説明がつかない、家制度を乗り越えた、まさしく革命的なものとなっている。過去の先人の模様を模倣しないという決意が、ここでは、旧弊な婚姻の制度をそのまま踏襲しないという決断へと置き換わっているのである。つまり、「図案の近代化」と「結婚の近代化」が、憲吉の場合にあっては、ひとつの思想のもと同時並行的にこの時期進行していたといえるであろう。「九月一四日夜 池之端の新居にて」南に宛ててしたためられた書簡のなかで、さらに続けて憲吉は、間近に迫った自らの結婚について、こう伝えている。
僕の婚礼の事もいよいよ此の秋を以てやる事になるらしい。親類に一言の相談なしに「新潟縣画家尾竹越堂氏長女一枝と婚約相結び候に付御報知申し上げ候」と云ふ手紙に大分大和では面喰って居るらしい19。
そして、結婚後に住む場所についても、すでにこのとき、ふたりは合意に達したのであろうか――「拾壱月末に大和に住宅と本ガマを新築してそれに がま ( ママ ) る事となる。そうすれば実用になる陶器を随分澤山こさえてみせる」20。大和に住むことは、やはり一枝の希望だったのであろうか。それとも、結婚に際しての富本家から出された条件だったのであろうか。憲吉にとっては、「富本憲吉氏圖案事務所」を開設したばかりでもあり、いまだ揺れ動いていたにちがいなかった。いずれであろうとも、住む場所としては東京よりは大和の方が、この結婚について親族の同意を得るうえからは、当然都合がよかったであろう。結果的には、「富本憲吉氏圖案事務所」の主宰者を諦めて、半農半美術家を選んだことになる。そして、これまでの楽焼きから、本窯での製作に希望を託す。重要なことは、憲吉が目指していることは、床の間や応接間に飾られるような、世にいう「芸術作品」のたぐいではなく、「実用になる陶器を随分澤山こさえてみせる」ことなのである。
それにしても、「親類に一言の相談なしに」結婚の話しを進めることは、現実が許さなかったものと思われる。その手紙が書かれてから三日後の九月一七日に、ついに憲吉は東京を発って大阪へ向かった。東海道を下る夜行列車のなかで、一枝に葉書を書き送った。宛て先は、先に挙げた「下谷區茅町二丁目十四番地」の住所になっている。
明日来る わが一生の
最強の言論 思ひ見つ
君もつよかれ
われも つよかれと
祈りて 眼をとづ21
翌日憲吉は、大阪に着くと「わが一生の最強の言論」をもって親類を説得した。夕陽丘高等女学校の卒業生で、大阪に多少の縁があったとはいえ、何といっても結婚相手は、少し大袈裟にいえば、世にその名が知れ渡った、まさしく泣く子も黙る「新しい女」尾竹紅吉なのである。しかし、案じていたよりは、ほぼ憲吉の思いのままに話しは進んだのだろう。首尾よく終わると大阪を出て、降り立った法隆寺駅において打電した。「コトハコブ サチワレラニアリ」。それから、安堵村の自宅の門をくぐり、今度は祖母と母親の同意を得ることに努めた。それもうまくいった。翌九月一九日、法隆寺駅から再び一枝に宛てて――「アキバレ ウツクシ ヤマトヨシ ヨテイスミ オオサカニタツ」22。これらの短い電文からも、事を成し遂げた憲吉の喜びの雄叫びが十分伝わってくる。
尾竹家では、いよいよ結婚へ向けての準備がはじまった。当日の一枝の衣装は、「父の圖案で染めた振袖姿」23に決まり、裾模様に笹の葉をあしらった意匠が越堂によって用意された。一枝は、娘時代を「割合自由にふるまえたのも父が自分の跡取りとして扱っていたから」24であることを改めてこのとき思い返したかもしれない。一方、娘らしく厳格に育てようとしてきた母親のうたは、このとき、自分が嫁ぐときにもってきた先祖伝来の九寸五分の短刀を一枝に渡し、「帰りたくなれば、これで死ね」といい、「ごはんは三膳たべてはいけない。おつゆは一杯だけにしなさい」25と教えた。一枝が思い出すところによれば、「『新しい女』で世間が批判しはじめたときなど、母は、世の中に申しわけないという氣持が先に立つて心をいためていたようでございます。ことに、親戚などに對してはそれこそ首を縮めておりました」26。画家として跡取りを考えていた父親の一枝に寄せる思いも、この結婚により裏切られることになったし、大和の旧家の長男に嫁がせる母親の気持ちにも、おそらく言葉で表わせないような実に複雑なものがあったであろう。
仲人は白瀧幾之助夫妻に依頼された。憲吉は、ロンドン滞在以降、白瀧を「入道」と呼んで慕っていた。一〇月に入ると、披露宴の案内状が招待客に発送された。そこには、白瀧幾之助と同夫人しほの連名で、次のように印刷されてあった。
謹啓益御淸穆奉恭賀候陳者此度富本憲吉氏と尾竹越堂氏長女一枝子と結婚仕り候に付御披露の爲め粗餐差上申度候間來る廿七日(火曜日)午後五時築地精養軒へ御賁臨の榮を賜り度右御案内申上候 敬具
しかし、一方の憲吉は、結婚を間近に控え「落ちつかぬ、さみしさ」に襲われる。以下は、「一四年十月」に「新居秋興」と題して憲吉が詠んだ詩である。
忍ばずの池にのぞむ、/小さき家に、/道具なき小さき家に、
拾五になる書生相手に、/ひとり寝むと/蚊帳に入れば、
なさけなや/落ちつかぬ/さみしさ、甚だし。
小さく道具なき家に、/寝むものと電氣ひねれば
秋の夜の暗さ、/つめたく心を打つかな27。
そして、いよいよふたりにとって記念すべき一九一四(大正三)年一〇月二七日の火曜日が訪れた。憲吉二八歳、一枝二一歳。ふたりは日比谷大神宮での挙式に臨んだ。【図六二】は、日比谷大神宮で結婚式を挙げたところの憲吉と一枝で、憲吉は英国紳士風のタキシードとシルクハットによる正装に身を包み、一方、あでやかな振袖に高島田の一枝は伝統に則った見事な婚礼姿であった。その日の午後五時から、築地の精養軒でふたりの結婚披露宴がはじまり、そのあと、憲吉と一枝はただちに北陸へ向けて旅立っていった。新婚旅行先から憲吉は、『卓上』の「消息」欄へ次の短文を書き送った。「無秘事。有秘事。北陸之雨滲々。(十月二十九日夜富山 憲)」28。憲吉の結婚を知る、限られた読者のみが理解できる、夫婦の交わりにかかわる内容であった。
新婚旅行をすませた憲吉は、一度安堵村へ帰っている。一枝を同伴していたかどうかは定かでないが、この地で御礼参りをしたのかもしれないし、何か御披露目のようなものがあったのかもしれない。ちょうどその滞在中に、南からお祝いの品が届いた。家族の誰かが病気になり、南は東京での披露宴に欠席していたものと思われる。下記の引用は、それに対するお礼の手紙の一部で、一一月二五日に安堵村で書かれている
随分手紙もかゝず又随分長がく遭はない。先づ第一に昨日は小包便で御祝ひを有り難う……御病人その後は如何。御平癒をいのる。……
――――
四五日のうちに上京。本ガマを一度試しに焼き、来年初此處へかへる。その上で今の画室の地連きへ三室の小さい家をたて本宅の中央にいよいよ本ガマを築く。(僕もいよいよ陶器師になりにけりさ)本焼きをやれと云ふ事は東京の連中、特に大阪三越の特別な注文による事だが、これが出來るようになれば使えるものが多く出來て一寸よかろふと思ふ。
只、米が安いのと東京の生活がはなやかなために金がいって困る。(そろそろダラクの初まりか)29
一一月二五日にこの手紙を南に書いた富本は、予定どおりその四、五日後に、安堵村から東京の自宅に帰ったものと思われる。するとそこには、過激な雑誌記事が待ち受けていた。それは、一二月一日発行の『淑女畫報』一二月号に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」30という題がつけられた暴露記事であった。「深草の人」と名乗る執筆者は、冒頭でまず、「Tさま」に宛てて紅吉[一枝]の書いたものであろうと思われる手紙の原文を紹介したうえで、「私はこの不思議な手紙、謎の手紙の註解者として、またこの手紙を鍵として彼女の『不思議な過去』不思議な性格、不思議な行為の秘密を語る魔法使いになりませう」と宣言し、それから本論が開始される。書かれてあることを要約的に引用すれば、こうである。「月岡花子嬢こそ、不思議な謎の手紙の主のTさまで、Tは月岡の頭文字なのです……花子嬢が女子美術の生徒であり、紅吉女史も一時女子美術に席を置いたことがあると云ふ関係から、おそらく 知己 ( ちかづき ) となり友達になつたと云ふことはだけは確かです……紅吉女史は當時『若き燕』と呼ばれた青年畫家奥村博氏の問題から、 らいてう ( ・・・・ ) 事平塚明子女史と悲しくも別れなければならない事となり……例の不思議な謎の手紙を花子嬢宛に書いたのでした……それからと云ふもの、二人の仲は親しい友と云ふよりも、その友垣の垣根を越えて、わりなき仲となつたのでした。同性の戀!まア何といふあやしい響きを傳へる言葉でせう」。そして執筆者は、紅吉の結婚と新婚旅行に触れ、こう述べる。「新郎新婦手を携へての新婚旅行!それが新しい女だけに一種の矛盾と滑稽な感じをさへ抱かせます。男性に對する長い間の女性の屈辱的地位、そこから跳ね起きて、あくまでも女性の 開 ( ママ ) 放を主張し、男性と等しい權利を獲得し、そして男ならで自立して行くと云ふ所に新しい女の立場があるのです。然しながら我が新しい女の 典型 ( タイプ ) とも見られてゐた尾竹紅吉女史は若き意匠畫家富本憲吉氏と共に、目下手に手を携へて北陸地方に睦まじい新婚の旅をつゞけて居ます」。さらに執筆者は、この結婚の陰に隠れて涙を流している、もうひとりの別の若い女性がいるというのである。「やがてその次にあらはれたのが大川茂子といふやはり女子美術の洋畫部の生徒でした。茂子嬢と紅吉女史との戀……は花子嬢のそれと比べてはなかなかにまさるとも劣ることない程の強く深く切ないものでありました……悲しい戀の犠牲者、茂子嬢は今はどうして居るでせう?……紅吉女史と富本氏との今日此頃の關係を茂子嬢はどんな氣持できいて居るでせう?私は紅吉女史の新生活を祝福すると共に、あえかにして美しい茂子嬢の生涯に幸多きことを祈つて居ります」。
この記事のなかでさらに注目されるのが、紅吉(一枝)のセクシュアリティーに関して記述された箇所である。「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、このように描写されていた。
紅吉女史は女か男か?この質問ほど世に笑ふべき、馬鹿らしい、不思議な質問はありません。然しそれ程紅吉といふ女は不思議な女とされてゐるのです。彼女は勿論女である、而も立派な女性であることは争はれない事實です。然し彼女の一面に男性的なところのあるのも事實です。先づ第一にその體格の如何にもがつしりとして、あくまでも身長の高い所に『男のやうだ。』と云ふ感じが起ります。セルの袴に男ものゝ駒下駄を穿いて、腰に印籠などぶら下げながら、横行闊歩する所に、『まるで男だ。』と云ふ感じが起ります。太い聲で聲高に語るところ、聲高に笑ふところ、其處にやさしい女らしさと云ふ點は少しも見出すことは出來ません。男のやうに女性を愛するところ、その女性の前に立つて男のやうに振舞ふところ、それは彼女が愛する女と楽しい食卓に就いた時のあらゆる態度で分ると云つた女がありました。甘い夜の眠りに入る前に男のやうに脱ぎ棄てた彼女の着物を、彼女を愛する女が、さながらいとしい女房のやうにいそいそと畳んだと云ふことを聞いたこともありました。
實際彼女は男のやうに我儘で、男のやうにさつぱりとして、男のやうに無邪氣で粗野な一面を持つてゐるのです。それがやがて彼女を子供のやうだとも云はしめ、新しい女といふ皮肉な名稱を彼女に與へた動機ともなつてゐるのです。そしてまた彼女が同性を惹き付ける點もおそらく其處にあるのです。
この記事の記述内容が真実であるとするならば、ほぼ間違いなく、紅吉(一枝)はレズビアン(女性間の同性愛者)ではなく、肉体的には女性であるも心的には男性を自認するトランスジェンダーであったということになる。そしてまた、性的欲望や恋愛感情が女性へと向かう性的指向を示していることから判断して、紅吉のその愛は、同性愛ではなく、異性愛だったということになるであろう。
すでに憲吉は、この記事が世に出るに先立って、「紅吉女史は當時『若き燕』と呼ばれた青年畫家奥村博氏の問題から、 らいてう ( ・・・・ ) 事平塚明子女史と悲しくも別れなければならない事」と相成った顛末については知っていたであろうし、一枝のセクシュアリティーに関する悩みも、「あなたの方では東京を去る必要がある、その事も私にはよく解ります」という上述の手紙のなかの文言からして、少しは本人から事前に聞かされ、理解していた可能性もある。しかしながら、一枝のセクシュアリティーの特異性をもって、「富本憲吉氏圖案事務所」廃業と安堵村移転の理由とするには、それを立証するにふさわしい十分な証拠はない。もっとも、そのような推量を積極的に排除しようとする合理的な根拠もまた残されていない。いずれにせよ、「若き意匠畫家富本憲吉氏」と「問題の婦人尾竹紅吉女史」の結婚は、この暴露記事「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」によって、広く世間に告知された。しかしこの記事について、憲吉も、そしてまた一枝も、調べる限り、何も発言していない。
結婚から二箇月が過ぎ、一九一四(大正三)年も終わり、憲吉と一枝はふたりにとってはじめてとなる新年を迎えた。この時期憲吉は、『富本憲吉模樣集 第一』の刊行を前にしてあわただしい毎日を送っていた。『美術新報』一月号は、「 富本憲吉氏 ( ・・・・・ ) は自作の 模樣集 ( ・・・ ) を近日發行する。部数を少數に限り、豫約を以て希望者に頒つ。其大部分は自刻自摺の木版だそうであるから愉快なものが出來るであらう。(犀水)」31と告げていた。【図六三】は、『卓上』第六号の巻末に掲載された、その『模樣集』の広告である。この広告に記載されているところによれば、この本は、一七葉の自刻自摺の木版画と三葉の写真版で成り立ち、七〇部(うち一〇部が特製)限定で販売され、定価は二円(特製は三円)であった。「模樣より模樣を造る可からず」の精神が貫かれた、この一年半の「富本模様」を、まさしく集大成するものであったにちがいない。この広告頁には、くしくもリーチの『A Review(管見)』(柳宗悦訳)が併載されていた。こちらの本は、昨年の秋、ちょうど富本が結婚した時期に出版されていたもので、一九〇九年から一九一四年までの日本での滞在が回顧されていた。
さらに二月二〇日から三月一日まで、美術店田中屋において富本は、「富本憲吉氏陶器及素描展覧會」を開催した32。これが、数箇月間の東京での新婚生活中に開かれた唯一の展覧会であった。昨年末から試作していたと思われる本焼きが、このとき並べられた可能性もある。『模樣集』の刊行とあわせて、本窯を築くための準備も、このようにして整えられていった。そして『美術新報』三月号は、その「消息」欄において富本の動向をこう報じた。
富本憲吉氏 ( ・・・・・ ) 三月五日郷里に歸り本窯を築く、同氏著「模樣集」第一は京橋竹川町田中屋美術店より發賣せられたり33。
かくして一九一五(大正四)年の早春、いよいよ大和の安堵村に場を移して、憲吉と一枝の新しい生活がスタートすることになった。ともに、複雑な思いが胸中を駆け巡っていたにちがいない。しかし、それはそれとして、東海道を西へ下る車中、ふたりは一枝のお腹に手を添えたであろう。希望の新生活にふさわしく、一枝の体内にはもうひとつの生命が胎動しはじめていた。
青鞜社に集う女たちは、「新しい女」とも「新しがる女」とも呼ばれた。その呼称には、皮肉も侮蔑も批判も含まれていた。とりわけ尾竹紅吉(一枝)に対してそうであった。平塚らいてうと同性の恋に陥り、メイゾン鴻ノ巣では五色の酒を食らい、紅灯の吉原へは足しげく通う紅吉の姿を、当時の新聞や雑誌は、興味本位に書き立てた。しかし、紅吉本人の自己認識は、決して「新しい女」などではなく、旧態依然の「旧い女」そのものであった。
取材のために自宅にやってきた『新潮』の青年(記者)が、「それで貴方は、貴方自分を世間の云ふ『新しい女』と自認して居ますか」と問うと、それに答えて紅吉は、こういっている。「いゝえ、――世間で云ふ新しい女と云ふものは、よく分りませんけれども、不眞面目と云ふ意味が含まれて居るやうですね[。]私は不眞面目と云ふことは大嫌ひです。私は寧ろ、世間で言はれて居るやうな『新しい女』と云ふものが實際にあるならば、『新しい女』を罵倒して遣り度く思ひます。『新しい』『舊い』と云ふことは意味の分らない事ですけれども、舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます。そして、私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます」34。
また、以下の引用は、旧知の間柄であった中野重治の回顧的一枝評である。「富本一枝さんはむかし青鞜社の一員だった。それは知っていたが、眼の前に見る一枝さんには一向『青鞜』らしいところがなかった。……『新しい女』どころではない。『古い日本の女』がそこにいた」35。一枝の「古い日本の女」の側面は、先祖を敬い、親に尽くし、夫に従うことに徹した、厳格なしつけを子どもたちに行なった母親の影響が大きかったようである。次の引用は、これについての一枝の記憶の一例である。
考えてみるまでもなく、これは幼い時から受けてきた母の教育や躾の結果、自分の考えの中の矛盾と戦う力が失われていたとも言えましょうし、また、自分も非常に古いものを持っていることを気づかずにいたのではないでしょうか。自分の中の古さを知らずにいることは、何に反抗しなければならないのか、それさえわからないでいたのではないのかと、よく考えあぐんだものですが、それにしても幼い時からの母の教え、と言うより、その母の育った時代、そして私を育てた時代、その時代に生きた人たちの考え方の根強い古い大きな力の、あまりにも後々まで尾を曳くことを思うばかりです36。
一方憲吉は、少年時代に父親を亡くし、それによって家督を相続した、富本家の戸主の立場にあった。大和の安堵村での生活がはじまった。そのころの様子を一枝は、こう回顧する。「私の結婚しました先は、大和でもたいへんな旧家で、小地主の家でした。結婚するとき、東京で生活することになっていましたが、夫の仕事の都合と、都会嫌いな夫の言い分にまけて、田舎についてきましたものの、なにしろ村きっての旧家の生活はただびっくりするようなことばかりでした」37。しかし、憲吉が妻に要求したのは、旧いしきたりに従うことではなかった。たとえば食事のときには、妻の一枝に自分と一緒に座って食べるように求めた。
大和に来ますと、今言いましたような旧家で、夫はあくまで戸主の座で食事をとるさだめで、姑も弟妹たちも、そして嫁である私も、それは夫と離れたところに坐って食事をするような生活でした。夫は、私と食事を共にしようとします。私は姑への気がねでそれを拒みます。すると夫はひどく腹を立てて怒るのですが、私はどうしても姑をさし置いて夫の座の近くに坐れません38。
憲吉にとっては、夫婦とは、対等の個と個の結び付きであり、上下の支配、被支配の関係ではなかった。憲吉は、戸主の立場を顧みることもなく、夫と妻とが相並んで食事をする仕方を望んだ。ここに、未来形としてのひとつの「近代の夫婦」のかたちがあった。しかしながら、これにはおそらく富本家の誰もが驚いたにちがいない。そして、憲吉の激怒の矛先は、因習を越えきれず、むしろ踏襲するかのような一枝の「古い日本の女」の態度に向けられた。日本画家としての彗星のごとき登場、青鞜社での自由奔放な言動、それに加えて、その後の雑誌創刊へ向けての強い意欲――東京にあってこのように積極的に物事に挑戦しようとするひとりの女の姿を、この間遠く大和の田舎から新聞や雑誌で眺めては、憲吉は一枝のことを、旧弊で全体主義的な家制度を乗り越えて、個人主義に立脚した思想や判断を果敢にも推し進めることができる「新しい女」とばかり勘違いしていたのかもしれない。憲吉がパートナーとして求めたのは、真実としての「新しい女」であった。しかし、一枝がそうした女でないことを知つたとき、憲吉の怒りは頂点に達し、一気に表に現われ出たのであろう。
安堵村への転居から二箇月が過ぎようとしていた一九一五(大正四)年の五月、ふたりは、富本家の本宅から少し離れた地において居宅と本窯の建設に着手した。八月、娘の陽が誕生した。そして年が押し迫った師走の二一日、家と窯と庭、すべてが整い、憲吉と一枝と陽の家族はここに移り住み、それ以降、新しい生活がこの地から生み出されることとなった。新生活にあたっての決意を、憲吉は次のごとく述べる。
我等此處にありて心淸淨ならむことを願ひ、制止するを知らざる心の慾望を抑壓しつゝ語りつ、相助け、相闘ひ、人世の誠を創らむとてひたすらに祈る39。
これは憲吉独りの陶工としての創業宣言ではない。これは「我等」という家族共同体の決然たる創設宣言なのである。家庭とは、一方が一方を抑圧する場でも、それに対して一方が忍従する場でももはやない、欲望を抑えた清廉な夫婦の闘争の場であり、協力の場であり、創造の場なのである。これが、憲吉にとっての「近代の家族」のイメージであり、同時に、この新しい夫婦の営みの原点となるものであった。
この地において最初に執筆した一枝の本格的なエッセイが、一九一七(大正六)年の「結婚する前と結婚してから」(『婦人公論』一月号)であった。そのなかで一枝は、結婚する前の生活を、こう振り返る。
私は思ふ。自分の過ぎこしは、あの美しくしか く ( ママ ) 果敢い 石鹸玉 ( シヤボンダマ ) の、都大路に誇ら[し]くかなしく吹きすぎたるやうに!!40
そして後段で、再び次のように、同じ石鹸玉の比喩表現を使う。意識的であったのか、無意識的であったのかはわからないけれども、繰り返しの手法を用いることによって、結果的に、「都大路のシャポン玉」は、より一層強調されることになる。
私の意志と、私の希望は最後まで騒音の都大路に高く誇ら[し]く、しかし悲しく浮き上り光つた果敢い 石鹸玉 ( シヤボンダマ ) に過ぎなかつた41。
明らかに以上のふたつの引用からわかるように、一枝は、誇らしく美しくもあるが、悲しくはかなくもある、あの空高くに舞い上がったシャボン玉のような両義的な存在として、自分の結婚する前の生活を認識しているのである。そして、青鞜社時代の自分を、こう振り返る。
評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと 悶躁 ( もが ) いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした42。
振り返って内省してみると、青鞜社員のときの自分が、寂しく、もがき、そして、うそをつき、人をだまし、またあるときは、人をいじめ、人を愛する――そのような人間であったことへと思いが至る。これこそが、数年前の自分の「新しい女」の内実だったのである。確たる信念があるわけではなく、確たる理想があるわけでもなく、おもしろおかしく、奔放に振る舞う「紅吉」がそこにあった。
一枝は、この「結婚する前と結婚してから」のなかで、こうも書いている。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」43。そしてさらには、「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」44。憲吉と一枝の夫婦は、結婚をひとつの好機ととらえ、一枝のいうところの「落着のない心」、つまり同性へ向かう性的指向が二度と誘発されることがないことを強く望んだ。そのためには、都会を離れ、対象となるような若くて美しく才能あふれる女性と触れ合う機会がほとんどないこの大和の田舎へ移転し、高い精神性のもとに新しい生活をはじめることが、ふたりにとっては、どうしても必要であったのであろう。
そのこととはまた別に、すでに述べているように、一枝は、必ずしも「新しい女」ではなく、本来的に、母ゆずりの良妻賢母主義的な「旧い女」の側面を有していた。そこで、青鞜社時代に脳天気に振る舞った「新しい女」からも、そしてまた、いつの間にか体内に染み付いていた「旧い女」からも自己を解き放し、まさしく真の意味での「近代の女」へと生まれ変わらなければならない状況に立たされていることを、この時期一枝は、正しくも自覚したであろう。そしてまた、夫である憲吉も、そのことを指摘したであろう。セクシュアリティーの問題に加えて、女としての生き方の問題が、そこにあった。しかし、頭ではわかっていても、一瞬にしてすべてを葬り去ることは、容易なことではない。アイデンティティーの喪失にもつながりかねない問題なのである。簡単に前へも進めない、かといって、後ろにしがみつくこともできない、極めて深刻な心的環境に身を置いていたにちがいなかった。しかも憲吉は、自己の仕事に課した「模樣より模樣を造る可からず」という金言の精神に沿って、一枝にも、強く過去の思想や生き方との決別を求めたであろう。しかしながら、憲吉と一枝には、近代精神の体得という観点から見れば、年齢的な差もあり、体験、知識、語学力のどの面においても、おそらくいまだ大きな開きがあった。一枝は、ふたりのあいだの意識の隔たりだけが、大きな口を開けて、飛びかかってくるような思いに、ときとして駆られていった。
彼と私は、思想に於いてまだまだ 酷 ( ひど ) く掛け離れてゐる。長い間語らずに怒り合ふ時もある。二人とも興奮しきつて沈黙つて大地をみてゐる時もある。もう別れてしまふやうな話までもち出す。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない45。
憲吉は離婚について口にすることもあった。そのようなとき、周りの美しい自然に目を向ける。「私達は今田舎にゐる。それが心の爲めにも身體の爲めにも非常に好い。ここは美しい。私達は結び合つた山と、いくら見ても遥かな田園の空氣を吸つて常に最も深い熱心を以て生活を營むでゐる」46。そして、いまの自分たちの姿を見つめなおす。喜びが胸に込み上げる。「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる。そして私達は、私達の全力を注いで幼兒の敎養と私達の仕事につき進んでゐる」47。憲吉が、一枝を「指導してゐる」のは、ひとつには、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題であり、いまひとつには、妻であり母であることにかかわる問題だったにちがいない。一方では、体の性と心の性がどうしても一致しない違和感や不安感、他方では、自我を殺し、家に縛られる女性像と、そこからの解放や自立を求め、行動する女性像とのあいだの越えがたい溝――つまり、ある意味宿命的ともいえる、二重の克服すべき困苦を一枝は背負っていたのである。憲吉はこの時期、自分の仕事に対してのみならず、こうした一枝が抱える問題に対してもまた、前時代的で封建的な精神を乗り越えて、求道者のごとくに「高い思想生活」を追求しようとしていたものと推量される。
「結婚する前と結婚してから」と題された一枝のエッセイをよく読むと、主語にはしばしば「私達は」が使われ、所有格も単数形ではなく複数形の「私達の」が用いられ、「私達の生涯」「私達の全力」そして「私達の仕事」といった用例を認めることができる。他方、憲吉もまた、この間「われら」とか「小生等」とか「我等」といった複数形の所有格を用いた表現を手紙や文章のなかで使用していた。これらのことから推量できることは、この時期この夫婦には、「私の――」ではなく、たとえば「私達の家」「私達の子ども」「私達の窯」、そしてそこから誕生する「私達の陶器」といった「私達の」にかかわる所有の観念がすでに定着していたのではないかと思われる。これこそが、憲吉が結婚の意思を一枝に伝えるときに表現した「尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家」の具体化された一例だったのではないだろうか。
一九一七(大正六)年六月一二日の『東京朝日新聞』の「文藝美術」欄に、以下の予告記事を読むことができる。
富本夫妻の陶器 神田小川町流逸荘にては來る十五日より廿一迄富本憲吉氏夫妻の作品たる陶器六七十點、素描畫卅點を陳列す48
たとえその一部に一枝が絵を描いた陶器や素描が含まれていたとしても、いや、おそらく含まれていたであろうが、それにもかかわらず、ここに予定されている展覧会は、この記事の「富本憲吉氏夫妻の作品たる陶器と素描」という表現が端的に示すように、憲吉と一枝が独自に製作した作品が独立してそれぞれ個別に展示される二人展や合同展のようなものではなく、まさしく分割しがたい一組の夫婦を製作主体とする協同作品が陳列される単独の個展だったものと考えられる。すべてが対等かつ共有によって成り立つ家族という単位の共同体が、この新しい家にあってこの時期に胎動しており、その反映として「富本夫妻の陶器」あるいは「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」という名称が生み出されたのであろう。いまここに、封建的なそれに代わって、まさしく近代的な、家庭内の組織原理の革新が起きているのである。そうしたなか、次女の陶が、この年の一一月に誕生する。
一九二〇(大正九)年、憲吉は、『女性日本人』一〇月号に「美を念とする陶器」を寄稿した。そのなかで憲吉は、陶器だけではなく、自分たちの考えや生活も見てほしい、と読者に呼びかける。
私の陶器を見てくださる人々に。何うか私共の考へや生活も見てください、私は陶器でも失敗が多い樣にいつも此の方でも失敗をして居りますが陶器の方で自分の盡せるだけの事をしたつもりで居る樣に此方についても出來るだけ良くなるためにつとめています。それが縦ひ非常に不十分なものであつても49。
ここからわかることは、明らかに憲吉は、陶器と生活とのふたつの事象についてともに改善を図ろうとしているということである。生活における改善のなかには、一枝のセクシュアリティーの克服に関する問題や、女性としての近代的な生き方に関する問題が含まれていたものと思われる。
家庭運営上の革新的な原理は、生み出される陶器は夫婦共有の協同作品であるという認識をもたらしただけではなく、家事にかかわる夫婦の役割分担にも、変化をもたらした。
二三日雨が降りつゞいて洗濯物がたまる時がある。そんな時、私と女中が一生懸命で洗つても中々手が廻りかねる[。]それを富本がよく手傳つて、すすぎの水をポンプで上げてくれたり、干すものをクリツプで止めてくれたりしてゐるのを見て百姓達はいつも冷笑した。「いゝとこの主人があんな女の子のやる事をする」といって可笑しがる。……可笑しいと云ふより、本當は危険視してゐたかも知れない。同じ村に住む自分達の親類になる人さへ、私達の生活は「過激派の生活だ」と言つて、自分の若い息子をこゝに遊びに寄すことをかたく禁じているのだ。私達が一緒に、一つの食卓をかこみ、同じ食物で食事をすまし、一緒に遊び、一緒に働くことが危険でたまらないのだ。私達は、その人達の考へこそ可成り危険だと思ふのに50。
読んでのとおり、一枝は憲吉のことを、「旦那さま」とも「主人」とも呼ばず、「富本」と呼んでいる。他方憲吉は、家事のすべてを一枝に押し付けるのではなく、積極的に自らも参加する。こうした生活の実態こそが、ふたりにとっての、封建的な旧い習俗から解き放された、正直で、真実で、純粋な生き方であったであろうし、一枝のいう、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」、その具体的な実践例だったのかもしれない。しかし、村人や親類はそうした生活や考えを危険視した。それだけではなく、官憲の目にもまた、それは「過激派の生活」に映った。『近代の陶工・富本憲吉』の著者の辻本勇は、すでに英国に帰っていたリーチに宛てて出された手紙のなかで憲吉は、こうしたことを書いているという。
「日本や国家のことについては書かないで下さい。警察がぼくへの君の手紙を調べているようだ」とか、「手紙は陶器のことだけを書いて下さい、君の手紙は竜田郵便局からまず警察署へ送られ開封され読まれているようだ、君には考えられもしないことだろうが……これが近代日本なのだ」51。
かつて憲吉が「ウイリアム・モリスの話」を書いたことも、また、かつて一枝が青鞜社の社員であったことも、官憲の目からすれば、体制に抗う行為のひとつとして、受け止められていたのであろうか。あるいは、当時の人的交流に疑いの目が向けられた可能性もある。数例を挙げるならば、一九一七(大正六)年に憲吉と一枝は、幼子の陽を伴い、和歌山の新宮にある西村伊作邸を訪ね、そこに約一箇月間滞在した。西村は、叔父の大石誠之介が大逆事件に連座して死刑に処されていたし、友人には、美術家や文学者のみならず、社会主義者の賀川豊彦や堺利彦なども含まれており、のちには、自由主義的な校風をもつ文化学院を創設する人物である52。一九二三(大正一二)年には、自由学園の創設者の羽仁もと子が、卒業旅行として第一期生を率いて富本家の本宅に宿泊している。そのなかには、のちに社会運動家として活躍することになる石垣綾子や、童話作家で児童文学者となる村山 籌子 ( かずこ ) が含まれていた。それからしばらくして、一枝は、川崎・三菱両造船所での労働争議の際に陣頭に立って指揮した賀川豊彦へ宛てて綾子を紹介する文を書いているし53、一方籌子は、富本一家が東京に移転したのちの一九三一(昭和六)年に、ロシアから帰国したプロレタリア文化運動の指導者である蔵原惟人を密かに連れてゆき、富本家にかくまわれるように手配を整えた54。また、当時しばしば安堵村の富本家に顔を出していた、奈良女子高等師範学校の学生だった丸岡秀子が記憶するところによれば、マルクス主義者の片山潜の娘が、日本を去る前に富本家に立ち寄っていた55。こうした人的な交流の影響もあってのことであろうか、警察の監視下にあるような状態は、安堵村時代以降も、アジア・太平洋戦争が終結するまで連綿と続く56。
米価の高騰が民衆の生活を圧迫し、暴動事件へと発展したのが、いわゆる米騒動と呼ばれるもので、一九一八(大正七)年の七月の富山での勃発以降、全国規模の広がりをみせた。そのとき以来、何らかの対応を富本家の戸主としての憲吉に迫るような状況が生まれたのではないだろか。以下は、当時の一枝の証言である。
此頃は私共の村にも産業革命の波が押寄せて参りました[。]小地主の苦痛は一方でありません[。]小作人は組合を作つて地主側と對抗し、いろいろの運動を起しますので大地主は別ですが小地主は全く立つ瀬がないやうです、私は先だつて富本の實家へも、其産業革命の近附いた事を話して地面を賣り拂ふやうに告げましたが都會と異り田舎に居ると、そんな事がハツキリわかります。けれどそれは不思議でもなんでもない當然の事で今迄の社會がそんな風でなかつた事が寧ろ不思議なんです57。
地主であるがゆえの不安と苦悩が常に憲吉の身に影を落としていたことは、十分に想像できる。それでも憲吉には、地主と小作農の関係が今後どのようなかたちへ向かうのか、つまりこの社会的課題の決着の方向性として農地の解放のようなことがどう行なわれるのか、ある程度の確信をもって展望されていたにちがいない。というのも、憲吉はのちの座談会で、モリスの社会主義が話題になる文脈において、こう語っているからである。
私は大正のはじめ頃、いまに小作権を持っている者が、地主から田地をとってしまうようになるといったんですが、叔父がそんな因業なことをいうなといってけんかした。戦後叔父が死ぬ前にあいつのいうようになってしまったが、どうしてあいつは知っていたのだろうといったそうです58。
座談会でのこの発言が『民芸手帖』に掲載されるのは、一九六一(昭和三六)年の九月号なので、憲吉が死去する二年前のことである。この発言は、自分が社会主義者、ないしは社会主義の適切な理解者であったことを自ら告白する最後の語りとして受け止めて差し支えないであろう。
「過激派の生活」として村人や親類の者から恐れられ、他方で官憲の監視の目が注がれる、そうした無理解と孤立のなかにあってこの夫婦が展開する、解放された生活に強い衝撃を受けた学生が、奈良女高師の丸岡秀子であった。丸岡は晩年、自伝的小説『ひとすじの道 第三部』を書き、そのときの衝撃をこう表現する。「恵子」が丸岡本人である。
恵子は、はじめて、バッハだの、ショパンだの、ベートーヴェンだのの名をここで知った。それらの音楽を聞きながら、いつも故郷[長野県南佐久郡]の女の生活を思った。生涯を土に埋もれ、生き死にの持続のなかで、自分を抑圧し通している女の生活と、富本夫婦のこの生活とを比べた。
自分の育った村の主婦たちとは、まったく異質な生活がここにある。それらは、当然、こうであっていい人間の、ひとつの生活であった。コーヒーを飲むこと、レコードを聞くこと、本を読むこと、話し合うこと、感想をのべ合うこと、おたがいの道を創り合うこと、対等に助言し合うこと、解放といえば、より適切といえるような人間の暮らし方を、奈良の小さな村のなかで、この村に住む二人のなかで、恵子は発見した。その驚きと悦びに、恵子の心は、初めて《わたしも生きられる》と思うようになった59。
世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設、他方、教育に目を向ければ、一九二一(大正一〇)年の文化学院や自由学園の創立にみられるような自由教育への関心の高まり――。憲吉と一枝が、旧い生活秩序を否定し、それに代わる新しい夫婦関係の構築に向けて、この安堵の地において奮闘していたこの時期は、変革を求める政治、社会、教育上の新しい動きの顕在化と重なる。
(1)「編輯室にて 同人」『番紅花』第1巻第2号、1914年、184頁。
(2)「週報 展覧會」『美術週報』第1巻32号、1914年5月24日。
(3)同「週報 展覧會」『美術週報』、同日。
(4)「週報 展覧會」『美術週報』第1巻34号、1914年6月7日を参照。および、『三越美術部一〇〇年史』三越編集・発行、2009年、26頁。
(5)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 114.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、123-124頁を参照]
(6)「編輯室より」『番紅花』第1巻第4号、1914年、181頁。
(7)尾竹一枝「夢をゆくわが船の」『番紅花』第1巻第4号、1914年、167頁。
(8)「編輯室より」『番紅花』第1巻第5号、1914年、143頁。
(9)「いたづらな雨」『番紅花』第1巻第5号、1914年、142頁。
(10)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、74頁。
(11)尾竹一枝「 薄暮 ( たそがれ ) の時」『番紅花』第1巻第6号、1914年、48頁。
(12)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、同頁。
(13)尾竹一枝「 紅 ( あか ) し 紅 ( あか ) し」『番紅花』第1巻第6号、1914年、48-49頁。
(14)「編輯室より」『番紅花』第1巻第6号、1914年、218-219頁。
(15)「文藝消息」『萬朝報』、1914年7月24日、金曜日。
(16)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、75頁。
(17)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、85頁。
(18)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、同頁。
(19)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、24頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。
(20)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、25頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。
(21)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、76頁。
(22)同「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、同頁。
(23)「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、137頁。
(24)「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、127頁。
(25)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、177頁。
(26)前掲「『靑鞜社』のころ」、128頁。
(27)富本憲吉「新居秋興」『卓上』第5号、1914年12月、12頁。
(28)「消息」『卓上』第5号、1914年12月、12頁。
(29)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、85頁。
(30)「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。
(31)『美術新報』第14巻第3号、1915年、47頁。
(32)『美術新報』第14巻第5号、1915年、32頁を参照のこと。
(33)同『美術新報』、同頁。
(34)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。
(35)中野重治「富本一枝さんの死」『展望』第96号、1966年、101頁。
(36)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、178頁。
(37)同「青鞜前後の私」、同頁。
(38)同「青鞜前後の私」、177-178頁。
(39)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、25頁。
(40)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、70頁。
(41)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71頁。
(42)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。
(43)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、72頁。
(44)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。
(45)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、74頁。
(46)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、63頁。
(47)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。
(48)『東京朝日新聞』、1917年6月12日、7頁。
(49)富本憲吉「美を念とする陶器」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、50頁。
(50)富本一枝「私達の生活」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、56-57頁。
(51)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、121頁。
(52)『我に益あり・西村伊作自伝』紀元社、1960年、271-274頁を参照のこと。
(53)石垣綾子『我が愛 流れと足跡』新潮社、1982年、44頁を参照のこと。
(54)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、57頁を参照のこと。
(55)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、128頁を参照のこと。 同じく丸岡は、富本家の本棚に並べられた蔵書について、こう述べている。「その書架には、女高師という名の学校の図書館では見られない“禁じられた本”が並んでいた。トルストイ、ドストエフスキーからはじまって、ツルゲーネフ、ゴーリキーなどのロシアの作家のもの。そしてまた、バルザック、ユーゴー、デュマ、ゾラ、モーパッサン、ロマン・ローランなどのフランス文学者の名が背文字に並び、数え上げられないほどだった」(同『ひとすじの道 第三部』、111頁)。
(56)詩人で作家の辻井喬は、このような言葉を残している。「尾竹紅吉は私の同級生富本壮吉の母親であった。彼とは中学・高校・大学を通じて一緒だったが家に遊びに行くようになったのは敗戦後である。それまで富本の家は警察の監視下にあるような状態だったから、壮吉も私を家に誘いにくかったのである」(辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)弘隆社、2001年、2頁)。
(57)『讀賣新聞』、1925年9月28日、7頁。
(58)「座談会 富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号(9月号)、1961年、44頁。
(59)前掲『ひとすじの道 第三部』、109-110頁。