一九二五(大正一四)年一一月、富本憲吉のはじめての随筆集である『窯邊雜記』が文化生活研究會から上梓された。内容は、これまでに美術雑誌等に掲載されたエッセイを主として集めたもので、一一月二六日の『東京朝日新聞』にこの本の広告が掲載された。そしてこの広告には、柳宗悦の次のような推薦の辞が添えられていた。「私は此出版を早くから望んでゐた一人である。之は稀に見る一人の藝術家の手記である。陶工としての著者を愛する人は、漏れなく此本を求めるであろう。……かゝる本は世に多くはない。私は私の愛し敬ふ友の一人によつて、此本が世に出たことを眞に悦ぶ」1。
年が明けて、一九二六(大正一五)年二月七日の同じく『東京朝日新聞』に、今度は、岡田信一郎による「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」と題する長文の書評が掲載された。岡田は、富本の陶器にも、この著書にも、美しい「詩情」を見た。
「土を化して玉となす」と言ふ語は、支那陶師が陶器に對する理想と言はれる。然し富本君は土を化して詩となした。玉を愛する事に疎い私達日本人にとつては彼の土で作つた詩は玉以上の價値がある。常に土を以て詩を作る彼はこの『窯邊雜記』では至る所に美しい詩を讀ませてくれる2。
そして岡田は、富本の思想に、全き「近代人」(つまり、モダニスト)を見た。
彼は又言ふ「千百の宋窯の 作品 ( ママ ) [仿古]が出來上がるよりは、一つの拙くとも現代に生れた陶器を見たい」(一一〇頁)と、やはり彼は近代人だ3。
さらに岡田は、富本の所説に、ウィリアム・モリスに倣う「建築論」を見た。
建築家である私にとつては、彼の建築に對する一々の言葉が強く響く。……美術學校で學習し、欧米にも渡航し、印度にも見學した。然しウヰリアム・モリス、と、同じように、建築に對する研究は、彼を廣い工藝の理解に導いて、モリスが工藝に志したに對して、彼は陶器に走つた。それ故にモリスの言説がしばしば建築に觸れるやうにこの雜記の中にも、建築が時々引合に出される。しかして彼の深い理解が、職業的に堕し易い私達の心をおのゝかす事がある4。
『窯邊雜記』を読んだ岡田は、見まがうことなく、そのなかから、富本の「近代人」としての「詩情」と「建築論」とを読み解いていたのであった。富本にとって、これほど正鵠を射た書評はなかったのではないだろうか。
柳宗悦が、「日本民藝美術館設立趣意書」への同意を求めて、安堵村に富本を訪れているとすれは、ちょうどこのころではないかと思われる。富本は、民芸とのかかわりについて、後年こう振り返っている。
民芸というものは柳君がはじめて私のところへきて、フォーク・アートこういうことをやっていこうと思うんだけれども、なんと訳すべきかと、きくくらいのものでしたね。私ははじめっからそういうものをやるとどうも狭まくなるからだめだ、というていた。その時分に私がおぼえておりますのは、柳君に向って、君が民芸は工芸の一部だというのなら承認しよう、しかし全部の工芸を民芸だけにしてしまうということには不賛成だ5。
富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、柳宗悦の連名によって「日本民藝美術館設立趣意書」が発表されたのは、一九二六(大正一五)年の四月一日のことであった。そしてその年の秋、突然、富本家に大きな事態の変化が生じた。晩年に執筆した『日本経済新聞』掲載の「私の履歴書」のなかで、富本はこう述べている。
大和の一隅でロクロを引き、画筆をにぎる私の仕事も、だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった。しかし、そのころ、東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった。東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願であり、また陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきたのである。
かくして大正十五年[一九二六年]の秋、十年余親しんだ大和の窯を離れ、東京郊外、千歳村(現在の世田谷区祖師谷)に居を移した6。
富本は、転居の理由として「東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願」だったことを挙げる。しかし、ここでは詳しくは触れないが、真の理由はほかにあった。一枝のセクシュアリティーにかかわる問題であった。また富本は、「陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきた」とも告白する。満で四〇歳という年齢が、そういわせているのであろうか。上京すると四人家族は、しばらく高田馬場で仮住まいをした。そして年が明けた一九二七(昭和二)年の一月、長男の壮吉が生まれた。新居と窯が完成し、五人家族が高田馬場の借家を出て、千歳村へと引っ越したのは、それからしばらくしてからのことであった。
かくして東京という新天地での、妻子をかかえての再出発がはじまった。忠告してくれる人も多かった。「十數年前友達の忠告をふりすてて田舎に歸り住んだ私が、又親子四人で東京に移り、まだ住居さへ決まらぬうちに出産があつて五人となつた。ある人は貧乏について、ある人は作品の不安を、色々と矢張り私がひとりで田舎にかへつた時の樣に忠告して呉れた」7。作品については、「都會に住めば都會から生まれる作品を、私がもし作り得る樣なら、私は本當に美術家として生きて居る」8ことになるだろうし、貧乏については、「貧乏は恐らく私共に來ることは可なり決定的のことではあるが、それについて恐れないつもりで居る」9。続けて、こうもいう。「どこに住まうと富本は富本ではないか。出來る陶器にも考へにも變りはないではないか」10。東京であろうと、自分は自分。悲壮感が漂う。そして――。
十年以上貯へられ燃やされた石炭の力が働くに充分な蒸氣を一杯につめこんで來たつもりで居る。安全辨から餘分な蒸氣が立ち上るほどに用意されたつもりで居る。死は近い[、]仕事を待つ。このエンヂンを使へるだけ使う人はないか。その意氣込みを私ひとりで胸に持つて東京に出て來たつもりで居る11。
いつしか訪れるであろう死期も、意識に上りはじめる。残された時間はそう多くはない。美しくて安い陶器の量産――富本憲吉というエンジンを使いこなす人はいないのか。使い慣れた安堵の窯を閉じ、未知のこの地に新たに築窯する富本は、改めて自分が、「模倣から模倣に生きなければならぬ人」ではなく、「創り出し得る人」として生きる定めをもって生まれてきたことを、諦観にも似た境地に立って、静かに悟る。
いかにもがき躍進を志したところで、太いものは太い樣に、細いものは細い樣に、或は創り出し得る人と模倣から模倣に生きなければならぬ人とは生れたその時から決まつて居ると思へる。四十二歳(一九二七年)になつて私の考へがここまで來たような氣がする12。
壮吉の誕生から一箇月が立ち、今度は『富本憲吉模樣集』が産声を上げた。一九二七(昭和二)年二月五日の『東京朝日新聞』にこの書籍の広告が掲載され、それには、「富本と模樣」と題された、次のような柳宗悦の推薦文がつけられていた。
富本の模樣集が出版された。幾十枚の挿繪を見れば、鮮かな一個性の世界が目前に展開する。……陶磁器のために準備せられたものではあるが、全く模樣として獨自の價値をおびる。……如何に出發し、苦闘し、成就したか、一個性のよき歴史である。寫眞及び製版は田中松太郎氏の技による。共に完璧に近い13。
それから二箇月が立った四月、梅原龍三郎の推薦により国画創作協会第六回展において、富本は陶磁器と素描写真一〇〇点を出品した。これが、国画会工芸部の誕生へ向けての第一歩となるものであった。二〇〇六(平成一八)年発行の『国画会 八〇年の軌跡』には、このときの様子が、こう記されている。
国画会工芸部は一九二七年(昭和二年)四月の国画創作協会第六回展に、第二部(洋画)の梅原龍三郎の勧めで、友人であった富本憲吉が陶磁器と素描写真一〇〇点を推薦出品し、五月に第二部の会員として迎えられ、工芸部を新設したことに始まる14。
富本にとって、この推薦出品は、十余年の歳月のなか安堵村において創案した模様を集大成した『富本憲吉模樣集』の内容にかかわって、実作をもって展覧する絶好の機会になったものと思われる。そして同時に、日本画、洋画、彫刻の各部門に加えて工芸の部門を新設できたことは、これもまた富本にとって、「繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模様も亦模様の世界」というこの間に到達していた美術領域を俯瞰する独自の視点が現実のものとなったことを意味していた。国画創作協会第六回展は、そうした点において、安堵での製陶活動を総括し、締めくくる場であったし、同時に、東京での新たな展開に向けての幸先のよいスタートの場となったにちがいなかった。この国画創作協会が、ひとたび解散し、第一部の日本画が解消するとともに、梅原龍三郎が主導する第二部の洋画部が「国画会」として独立し、展覧会名も通称の「国展」を継承し、絵画、彫刻、工芸の三部門をもって再出発したのは、その翌年(一九二八年)のことであった。このとき、あるいはその次の年に、濱田庄司とバーナード・リーチが新たに会員として工芸部に迎えられた。
これまで富本は、文部省が開催する文展、農商務省が催す農展、そのいずれの官設展に対しても批判的な態度をとってきていたし、公募団体の運営に直接携わるようなこともなかった。そうしたなか富本は、国画会工芸部の運営の舵取りを任されることになったわけである。当然ながら、アカデミズムとは異なる、在野精神にあふれる審査の基準や考え方を富本は明確化する必要があったであろう。これについて富本は、こう述べている。「展覧會だからとて作の大きさを競ふことはない。小さくても會場で見劣りがするなど考へない。反對に色を強くしたりなどする當て込みの會場藝術は排斥する」15。
単に展示のための「会場芸術」を退ける。そして「写し」を戒め、「独創力」の重要性を強調する。「作者自身が手盬にかけた作品が欲しい。自ら轆轤をひき、繪を描 く ( ママ ) てい の ( ママ ) もので楽しみ乍らの製作こそ望ましいが、ものの寫しなどでは困る。研究消化するのならいい。今の作品は獨創力が缼けて居る」16。さらに続けて、国画会工芸部の公募の考え方に触れて、このように主張する。「國展は作者の履歴などを問題にしない。玄人でも素人でも其區別はない。ただ官設展の樣に固くなるとアカデミックに傾くから、此點を避けて楽しみ面白味のある作品を集めたい。單に陶器ばかりではなく染織も刺繡も……」17。こうして一九二八(昭和三)年に、国展工芸部の最初の公募がなされた。
この間柳宗悦は、一九二五(大正一四)年に、雑誌『木喰上人之研究』に研究成果を寄稿していたし、翌年(一九二六年)の四月には、「日本民藝美術館設立趣意書」を公表し、九月には地方紙『越後タイムス』に「下手ものゝ美」を発表していた。『雜器の美』と題された「民藝叢書第壹篇」が工政會出版部から上梓されたのが一九二七(昭和二)年のことで、ここには、柳宗悦の「下手ものゝ美」、濱田庄司の「正しい美」、富本憲吉の「陶片集」、河井寛次郎の「陶器の所産心」などが所収されていた。他方で濱田庄司は、関東大震災の翌年(一九二四年)に英国から帰朝すると、沖縄の壺屋窯で作陶を進めながら、柳や河井寛次郎とともに、一九二五(大正一四)年には、木喰上人の遺跡訪問のために紀州へ旅をし、一九二七(昭和二)年には、東北、山陰、九州でその地の民芸品の調査を行なっていた。
富本が創設し、一九二八(昭和三)年から公募が開始された国画会工芸部では、その後、極めて変則的な運営が強いられるようになる。それは、立場や考え方が異なる民芸派の人たちの参入に起因するところが大きかった。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記述されている。「ここに、もう一人工芸部に大きな影響を及ぼしたのが柳宗悦であった。柳は民芸運動の指導者で宗教哲学者であったが、美術についても造形が深く……その後河井寛次郎、芹澤銈助、柳悦孝、外村吉之助、舩木道忠、棟方志功らの民芸運動の作家たちが工芸部に加わり活動を続けた」18。
一九三〇(昭和五)年五月一九日の『東京朝日新聞』に目を向けると、「富本陶展」との見出しで、銀座鳩居堂での展覧会の記事が掲載されている。内容は、柳宗悦の影響下にある濱田庄司や河井寛次郎の「下手物」趣味と比較した、富本憲吉の作品紹介である。
木食五行にはみそをつけた柳宗悦君が工藝鑑賞に向つて投じた一石『下手物美』の論は以外の波紋を畫いて、陶に携はる新人達が競争の形でらちもなきゲモノの濫作に浮身をやつして居る圖は昭和の一奇観である、富本憲吉君は河井君とは違つて始めから貴族的なものは作らず……もつとも富本君は全くゲモノ屋になり終せた次第でなく、肥前波佐見で試みた磁器の中には銀らん手も赤繪もあるのだが、濱田君の……繪高麗陶に至つては……大悪陶の亂舞である19。
さらに、一九三三(昭和八)年四月二九日の『東京朝日新聞』に目を向けると、美術評論家の仲田勝之助の署名入り記事「春陽會と國畫會(四)」が掲載されている。これはおそらく、その年の国画会の展覧会評として読むことができるであろう。民芸派の人たちの作品と富本の作品を対比して、こう批評する。
工藝部は帝展にもあるが、ここのはあゝした種々雜多な工藝家の集まりとは事變り、いづれも趣味を同じくする友人同士といったやうな人々で、柳宗悦氏等の稱へる民藝風な作品が多い。……富本憲吉氏の作はやゝこれらとは類を異にし、ずつと高級な精良品で……これならどこへだしても恥しくない。黒釉壺白磁大壺等をその代表的作品とする。かうした立派な藝術作品に至つては價の廉不廉など問うべき限りではない20。
一九三四(昭和九)年の四月にリーチが訪日し、約一年間、この地に滞在した。自著の『東と西を超えて――自伝的回想』の巻末年譜の「一九三四年」の項目には、「日本工芸協会によって日本に招待される。柳と濱田と一緒に地方の工芸品を調査するために日本各地を旅行。七箇所の工房(濱田、富本、河井の工房を含む)で製作。松坂屋と高島屋で展覧会。松江でスリップウェアを製作」21と記されている。
リーチが富本の仕事場を訪れたとき、富本は、「安い陶器を焼く理由、器機製の陶器、圖案のオリヂナリテーについて、經濟組織の事等々」22を話題にしたであろう。しかしながら、返ってくる言葉は、必ずしも好意ある肯定的なものではなかったにちがいない。むしろそれよりも、リーチの口をついて出たのは、富本と柳とのあいだに存する工芸思想上の隔たりの穴埋めにかかわる提案だったものと思われる。以下はリーチの回想である。
はじめのうちは、柳と富本はかなりうまくやっていたが、しかし、のちになって、工芸のあり方に関する柳の考えが美術館や工芸品店で具体的なかたちをなすようになったころから、だんだんと相違点が目立ちはじめてきた。性格の違いも一因としてあった。遅きに失した感はあったが、柳は私に、二人の溝を埋めてもらえないかと頼んできた。私は実際努力してみたが、失敗に終わった。富本はせっかちだった。極めて鋭敏な知覚力をもつ彼の眼識は、柳の意見に常に共鳴するわけではなかったし、また同時に、これこそ民芸であると主張する工芸品店の多くを認めてもいなかった。柳が宗教的な間口の広い見解をもっていたのに対して、わが友人である富本は、ある種見事なまでの品格を備えていた23。
この時点で、富本と柳、あるいは富本と民芸派の作家たちのあいだに横たわる工芸の本質論にかかわる見解の相違は、修復がもはやできないほどまでに、大きくなっていたにちがいなかった。「私としても本當に相許し、仕事の上での友達は結局彼一人であつたと思ふ」24そのリーチも、民芸派に近い作家のひとりであることがわかるにつれて、深い寂寥感が富本の胸を覆ったことであろう。
それでは、工芸思想上の富本と柳の違いは何だったのであろうか。まず、生産手段について。富本の視野には、手から機械へと進むことが展望されていた。柳がはじめて富本宅を訪問したころの様子を、晩年富本はこう回顧する。
その時分に私がおぼえておりますのは、柳君に向って、君が民芸は工芸の一部だというのなら承認しよう、しかし全部の工芸を民芸だけにしてしまうということには不賛成だ。私は手の工芸が、水が下に流れていくように、機械になっていくのをせき止めるようなことはだめだ。もし君がこれから民芸をどんどん盛んにしていくと、その流れに対してうしろで戸を押しているようなものだ、その押し手がなくなるとさっと流れてしまう。手の工芸といえども機械生産を認めながらやらなければいかぬ、これが私の考えだった25。
富本と柳のあいだの見解の相違は、単に機械の問題だけではなかった。個性や個人主義といった問題についても、見解が異なっていた。一九三一(昭和六)年に柳は、「個人工藝家」ないしは「工藝美術家」に向けて、その製作態度を強く批判し、こう述べている。
想うに個性の表現が藝術の目的の如く解され、個性美が最高の美の樣に想はれるのは個人主義の惰性による。……「俺達は個性があるのだ」などゝ高飛車に出ても、頼りないいひ草である。つまらぬ個性、奇態な個性、そんなものが如何にこの世には多いことか26。
これに対して富本は、一貫して個性や独創力の重要性を説き、これまで繰り返し主張してきた。その最も早い段階のものが、英国留学から帰朝後の一九一二(明治四五)年に『美術新報』に寄稿した「ウイリアム・モリスの話」の結論部分に相当する次の一語である。
「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します27、
富本はまた、民芸運動を推進する人たちが、地域や民族のかつての生活に眠る「下手物」や「民芸品」に強い関心を示し、収集や展示をすることについても、骨董の排斥や「写し」の否定という立場から、決して賛同することはできなかった。憲吉は、こうもいう。
亡びかけた民族の數人を呼んで來て、都の楽堂に着飾つた男女が輝く電燈の下で彼等の歌をきく程馬鹿げた腹立たしいものはない。彼等の歌はかかる場所でかかるドギマギする心の有樣のものを聞く可きものでない。下手ものも人々に此の調子で玩ばれない樣私は心から祈る28。
そうしたなか、ウィリアム・モリス生誕一〇〇年を記念して一九三四(昭和九)年に出版された『モリス記念論集』のなかで「書物工藝家としてのモリス」と題する一文を寄稿していた壽岳文章が、次の年、続けてモリスに関連して「ウィリアム・モリスと柳宗悦」を『工藝』に発表するのである。
モリスが、工芸の領域で、わが国に与えた影響はどうであろうか? ジャーナリズムのうえでは、明治の末ごろからしばしば「美術家」モリスの名が、書物や雑誌へかつぎだされているが、明治四十五年二月発行の、「美術新報」第十一巻第四号に載った富本憲吉氏の一文、その他二、三をのぞき、工芸家モリスの仕事に、深い理解を示したものは、まず少ないといってよい。まして、作品のうえに、モリスの意図がとりいれられた(とりいれられることの可否は別問題として)顕著な例を私は知らない。しかし、私たちはいま日本に、欧米のどの国においてよりもモリスにちかい、ひとりの熱心な工芸指導者と、その指導者に統率される工芸運動とをもっている。それは、柳宗悦そのひとと、その提唱による民芸運動とである29。
柳の思想と実践に強い共感を覚えていた壽岳は、この論文で、富本の「ウイリアム・モリスの話」について、まず枕詞的に短く触れ、それに対比するかのように、柳をモリスに擬したうえで、その偉大さを賞讃するのである。富本が日本に最初に紹介した工芸家モリスの偉大さが、ここに至って、柳の偉大さへと置き換えられた観があった。壽岳のこの論文は、発表された時期と内容からして、富本と民芸派とのあいだに薄っすらと存在していたこれまでの溝がまさしく決定的なものになる、その瞬間と化す役割を担ったようにも推量される。
この間、工芸を巡る複雑な立場や見解の対立は、そのまま国画会工芸部の運営においても影を落としていた。そこで、ひとつの妥協案が生み出された。以下は、一九三六(昭和一一)年三月二五日の「洋画の春 上野と銀座から」と見出しがつけられた『東京朝日新聞』の記事の一部である。
[國畫會]工藝部は同會長年の懸案を解決して、帝院第四部會員富本憲吉氏と濱田庄司、芹澤光次郎(染色)两氏とが工藝部を两分して富本氏が第一部、濱田、芹澤两氏が第二部を行ふこととなつた30。
そして、その年(一九三六年)の一〇月に、東京駒場に日本民藝館が開館し、初代館長に柳宗悦が就任した。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記されている。「一九三七年(昭和一二年)に富本と民芸派の工芸観の対立や、民芸派の拠点となる日本民芸館の設立をめぐり、柳宗悦に意を一つにする民芸派の会員が国画会を退会した。それから約一〇年、富本を中心とした工芸部が続くことになる」31。
しかし、アジア・太平洋戦争が終わると、退会したはずの民芸派の作家たちが再び国画会への入会を求めてきた。富本の目には、理不尽な行為と映ったであろう。そこで、話し合いがもたれた。結果は、歩み寄りはみられず、決裂した。富本は、こう回想する。「民芸は他力本願の芸術を説くが、私は自力本願ですよ。梅原(龍三郎氏)を仲介に入れて柳(故宗悦氏)と一晩けんかをしたが、合うはずがない。それで国展を飛び出して戦後に新匠会を結成した」32。
このとき富本が使った「私は自力本願ですよ」という語句は、のちに『デザインのモダニズム』の編者のポール・グリーンハルジュが表現しえた、次の一文と明らかに重なる。
事実私たちは、最良のモダニズムの作品(オブジェクト)と建物には、自決の感覚、つまりは因習のタブーを破って探し求めようとする自発の姿勢が表現されていることを断言できる。そうした作品(オブジェクト)は、真なる英知とは創案と構想力のなかに横たわるものであり、単にそれ以前の権威から迎え入れるものではないという確信に従って、静かに自己を凝視しているのである33。
その一方でグリーンハルジュは、両大戦間期のモダニズムを形づくる理論面での特徴のひとつに「神学」を挙げ、こうも述べる。
実際に先駆者のある者たちは、その知的で感情的な忠誠心のゆえに、一種の宗教に近い王国のなかへと自らを投獄していった。デ・ステイルとバウハウスの共同体を構成していた多数の人びとが現に神知学を実践していたし、純粋主義者たちも、神秘なるものと隣り合わせにあった一種のプラトン主義に感染していた34。
「民芸は他力本願の芸術を説く」とする富本のこの語句は、果たして、上に引用したグリーンハルジュの一文と重なるであろうか。もし仮に、柳やリーチに固有の宗教的な精神世界が、ヨーロッパにおけるデザインの近代運動に認められる「神学」を体現するものであったとするならば、「民芸の他力本願」と「富本の自力本願」は、背中合わせの一体のモダニズム像だったのかもしれなかった。
富本が、大和の安堵村から東京の千歳村に転居したのが、一九二六(大正一五)年の秋、そしてアジア・太平洋戦争に敗戦するのが、一九四五(昭和二〇)年の夏。この間のことを憲吉はこう振り返る。「昭和元年から終戦まで東京で過ごした二十年は、社会の荒波にはもまれ、そのうえ美術界の喧騒の中に身を置いて多事多難であった」35。
一九三五(昭和一〇)年の五月に、リーチは帰国の途についた。ちょうどその時期、帝国美術院の改組劇が幕を開け、富本は、不本意ながらも、その劇のなかへと巻き込まれてゆく。一九三五(昭和一〇)年五月二九日の『東京朝日新聞』(夕刊)は、「帝國美術院改組 けふ閣議決定 院長には清水博士」の見出しのもと、次のような内容を伝えている。
定例閣議は二十八日午前十時十五分から首相官邸で開かれたが既報の帝國美術院の改組斷行に關する「帝國美術院官制制定の件」「美術研究所官制制定の件」は閣議劈頭松田文相より提議された、先づ松田文相は帝國美術院の由來を説き時代に副はぬ同美術院の宿弊について事例を挙げて説明、文部當局は……従来美術院會員は卅名であつたのを五十に擴大し美術界の實力のある新人、巨星を集め刷新の實を挙げたいと説明、文部省案の改革案を付議決定した36。
この松田源治文部大臣による帝国美術院の改組は、表向きは、会員の定数を三〇から五〇に拡大し、在野から人材を求めることにあったが、意味するところは、美術領域の国家による統制の強化であった。これにより旧帝国美術院は自然消滅し、このとき、四九名(一名欠員)の新会員が発表された。すべての旧会員はそのまま新会員に任命されたうえで、新たに帝展以外の在野の団体から新会員が選ばれた。四九名の内訳は、日本画二〇名、洋画一四名、彫刻九名、工芸六名で、他方、所属団体の構成は、多くは帝展会員だったが、院展同人や二科会員、それ以外の会派も若干含まれ、国画会からは、梅原龍三郎と富本憲吉のふたりが新会員となった。
「帝國美術院官制」は全八条で構成され、第一条のなかに「帝國美術院は美術の發達に資するため展覧會を開催することを得」37とある。展覧会の起源は、一九〇七(明治四〇)年に文部省美術展覧会(文展)にはじまり、一九一九(大正八)年に文部省直轄による帝国美術院展覧会(帝展)に改められていた。日本画、洋画、彫刻に加えて、工芸の部門が新設されるのは、一九二七(昭和二)年のことであった。同日の『東京朝日新聞』が報じるところによると、「今秋の第一回新帝展は積弊を破つて審査員を全廢して會員の共同審査を行ひ名實共に優秀なる代表作品を選抜すると共に従來玉石混淆の無鑑査組は全部取消して更めて人選する事に決定した」38。
しかしながら、積弊の壁は厚く、実際には、必ずしもそのようには進まなかった。富本は、当時を振り返って、晩年にこのように書いている。
このときいっしょに、私も民間の工芸を代表して 芸術 ( ママ ) [美術]院会員となった。ところが工芸は定員が五、六人で、あとからはいったのは私一人、それも、四〇代という最若年で、在野にあって一人わが道を歩いてきた私が、急に会員として乗り込んできたので、前からの連中にとっては歯車にはさまった石のような違和感があったにちがいない39。
そしてさらに、帝展や帝国美術院にあって、当時いかに乱脈や情実が横行していたのかについても、憤慨を交えて、こう述べる。
私にしても、当時の帝展や 芸術 ( ママ ) 院の聞きしにまさる乱脈ぶりには、あきれざるをえなかった。たとえば、文部省で無鑑査を選ぶということがあった。その人選を文部省から 芸術 ( ママ ) 院に諮問してきたが、そのとき、帝展入選何回以上という線で決めようというのが大方の旧会員の意見であった。……私はまた別に意見があった。……
だが、このような意見はまったくかえりみられなかった。……ところが、いざフタをあけてみると、どうだろう。そこには、さらに驚くべき現象が起こっていた。無鑑査に選ばれたのは、みな 芸術 ( ママ ) 院会員の息子とか養子とか、血筋につながるものばかりだったのである。……私はただただ、ぼう然とするばかりだったのであった。……
いったい、官展グループには美術の本質的価値とは、なんの関係もないはずの序列がいくつも設けられ、まるで目に見えぬ肩章が、いつも両肩に置かれてあるようなぐあいだった。……私は、こんなところにいたのでは、とても責任をもって後進を指導することのできないという感じを年とともに深く胸に刻みつけられていったのだった40。
「美術の本質的価値とは、なんの関係もない」そうした血縁と階級が主として支配する美術の旧世界は、富本にとって許しがたい、最も嫌悪すべきものであった。富本だけではなく、それぞれの立場と考えから、この改組に疑問や不満をもつ会員が多く存在し、紛糾は続いた。結局、第一回の新帝展はその年の秋には開催できずに、年が改まった一九三六(昭和一一)年の春まで持ち越された。展覧会が終わると、紛糾は会員の辞意表明へと発展した。六月一三日の『東京朝日新聞』は、「帝院崩壊に直面」「六重鎮も文相に反旗」という見出しをつけて、日本画の小室翠雲と菊池契月の二氏が辞表を提出し、洋画の石井柏亭、安井曾太郎、山下新太郎、有島生馬の四名がそれに続く見通しであることを伝えている。そして、さらに続けて、「當局不信頼の爆弾的聲明」という見出し記事のなかで、和田英作、川合玉堂、鈴木清方、横山大観、梅原龍三郎、前田青頓、平櫛田中、富本憲吉を含む一四名の連名をもって帝国美術院会員辞任に関する声明書が発表されたことを報じた41。
しかし、意のある方向へと進むどころか、「挙国一致体制」の美名のもとに、さらに大同団結は強化されていった。翌年の一九三七(昭和一二)年六月二四日の『東京朝日新聞』には、「帝國藝術院誕生す 七十二會員づらり 偉觀・新象牙の塔 美術騒動も一段落」の見出しが踊る。記事によれば、この帝国芸術院は、梅原龍三郎や富本憲吉を含む、既存の帝国美術院の会員四六名は辞令を用いずに自動的に会員となり、新たに「文芸」一六名、「音楽」四名、「能楽」二名、「建築」二名、「書道」二名を加えた計七二名の新会員によって発足し、官制および新会員の氏名が二四日の官報で公布される運びとなった42。
このとき、これまでの帝国美術院展覧会(帝展)は再び文部省の主催下に置かれ、新たな「文展」として改編されてゆく。同年(一九三七年)の七月二七日の『東京朝日新聞』には、「美術の秋・生みの悩み 文展審査員決る 藝術院會員も参加させて 堂々の五十六名の陣容」という見出し記事とともに、日本画、洋画、彫刻、工芸の四部門の審査員の名前が、富本憲吉の名前を含めて、一覧表として挙がっている。富本にとっては、おそらく迷惑千万といったところだったにちがいない。
この時期、このように官の力には服従させられ、老獪な策士芸術家には思いのままに操られる――まさしく砂を噛むような日々だったのではないだろうか。そうしたなか、東京美術学校の改革が進んでいた。『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』によると、「昭和十九年五月、文部省は突如本校改革を断行し、校長および教官の更迭を行なった。これは、明治三十一年の所謂美校騒動以来の大きな改革であった」43。この改革の流れのなかにあって、一九四四(昭和一九)年五月二九日、東京美術学校は、結城素明、六角紫水、朝倉文夫を含む九名の教授の依頼免本官と富本憲吉、安井曾太郎、梅原龍三郎を含む七名の教授任命を文部大臣に上申した。教授就任にあたって、富本は、「私は教育に携るなどその任でないかも知れぬ。一陶工としての生活が全生命であり、それすら満足に果たせない始末なので、一應御斷りしたのであるが、情勢は一私事に拘泥する秋でもなし、私として兼々圖案といふものに對して考へてゐたこともあるので御引受した次第である」44と前置きしたうえで、次のように抱負を語っている。
工藝の根本内容は圖案にあるのであつて、個々専門の技術はそこから生れる表現手段であると考へる。立派な圖案が出來れば立派な工藝は生れる、と私は信じてゐる。その根本となる圖案力の養成を目的として、工藝部全般の圖案教育を私は受持ちたいと思つてゐる45。
このように富本は、工芸を構成する木工、金工、染織、塗装(漆など)、窯業などの「個々の専門技術」の根本に「圖案」という概念を据え、その養成を目的とした「圖案教育」に強い意欲を示す。ここに、今日につながる「デザイン」と「デザイン教育」の黎明を認めることもできるであろうし、そしてまた、そうした富本の考えは、いわゆる「民芸」との違いを必然的に浮き彫りにしたであろう。
続く七月一四日、富本は、工芸技術講習所の兼任を命じられた。この工芸技術講習所は、同じく『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』によると、さかのぼる「工芸研究所」、続く「工芸指導員養成所」の設置計画を踏まえて、一九四〇(昭和一五)年一一月一四日に勅令として官制公布され、翌年一月に開所した。開所して一年後の一九四二(昭和一七)年四月には、岐阜県高山市において第一回出張講習教室が開かれ、当地で、主として木材工芸、飛騨春慶塗、陶磁器製作等の実技体験の機会が生徒たちに与えられた。一九四四(昭和一九)年の高山出張講習教室は、五月一日から九月末日にかけて実施され、兼任の発令を受けて富本も参加し、指導にあたった。これ以降も、富本の東京と高山の往復が続く。
B29型長距離爆撃機による本土空襲は、一九四四(昭和一九)年六月の北九州爆撃からはじまり、一一月には、東京がはじめての爆撃に見舞われた。一九四五(昭和二〇)年に入ると、戦局はさらに悪化の一途をたどった。三月一〇日、焼夷弾一九万個の投下により約十万人が焼死した。東京大空襲である。そうしたなか、三月二三日の『東京朝日新聞』は、「神鷲へ陶畫集献納」の見出しをつけて、このような記事を掲載した。
帝国藝術院會員富本憲吉氏はわが陸海特別攻撃隊神鷲の盡忠精神に感激、丹精こめて描いた日本の花々の陶畫を特攻隊宿舎に贈るため、各十枚一組の陶畫集をこのほど陸海軍大臣に献納した46。
自分が教える生徒と同じ年ごろの特別攻撃隊員が国のため若くして南の海に散ってゆく姿が、いたたまれない思いに富本を駆り立てていったのであろう。
同年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦した。八月一五日、終戦のこの日を富本は岐阜県の飛騨高山で迎えた。
終戦後にただちに富本がとった行動は、帝国芸術院会員の辞任と東京美術学校教授の退任であった。「敗戦でどんでん返しになった世の中に、従来、帝国芸術院と称していたものがそのまま存続するのはおかしい」47という考えから、「終戦の翌月、つまり九月に芸術院会員辞任の届けを提出した」48。しかし、この辞意の申し出は、清水澄芸術院長に撤回させられてしまい、翌年(一九四六年)春に開催された戦後最初の日展の工芸部門の審査長を務めたのち、改めて「五月に再び私は芸術院へ辞表を出した。このときは、同時に美術学校(いまの芸大)の教授の辞表も出した」49。こうして富本は、すべての公職から身を引いた。「かくて国画会も、芸術院も関係がなくなりました。また美術学校の方も辞表を出しておきましたのが大分たって聞き届けられました。そこで 六十一 ( ママ ) 歳の 五 ( ママ ) 月に私はただ一人大和に向かい、子供の時から育った家に帰りました」50。「私の履歴書」のなかで富本は、この安堵村帰還について次のように書き記している。
私にしてみれば、二十年間の東京生活の間に、船腹の貝殻のようにまといついたすべての社会的覊絆や生活のしみを、敗戦を契機に一挙に洗い落としてしまいたかったのである。すでに郷里の大和へ一人で引き揚げる覚悟もついていた。私は陶淵明の帰去来の辞の詩文を胸中ひそかに口ずさみながら大和へ発った。……あれもこれも投げ捨てて、とにかく裸一貫で私は大和へ帰った。東京でなにものかに敗れたというような、みじめな思いはちりほどもない。耳順六十歳にして、私はむしろ軒昂たる意気込みだった。ロクロ一台、彩管一本をかたわらに私は新しい制作への意欲に燃えていたともいえよう51。
民芸運動に対峙し、国画会工芸部の運営に苦しめられ、さらにはまた、国家管理の芸術と教育に嫌悪の思いを募らせてきた、この約二〇年間の富本の多事多難な東京生活は、こうして敗戦に伴って、終了した。英国から帰国後の放浪的な生活がそうであったように、そして大和での家庭生活がそうであったように、東京での生活もまた、一貫して変わることなく、そのすべてが、過去の因習的な価値、人間の魂を蹂躙する権力、そして、見せかけの旧弊な権威等へ向けられた富本の近代的な反抗精神に由来する闘いであった。それでも、その一方でこの間、次章「量産の実践とデザイン思考の深化」において述べるように、富本独自のモダニズムへ向けてのさらなる実践が着実に進行していたのであった。
(1)柳宗悦「『窯邊雜記』を讀む」『東京朝日新聞』、1925年11月26日、1頁。
(2)岡田信一郎「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、1926年2月7日、6頁。
(3)同「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、同頁。
(4)同「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、同頁。
(5)「座談会 富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号(8月号)、1961年、12頁。
(6)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、210頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(7)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、132頁。
(8)同『製陶餘録』、132-133頁。
(9)同『製陶餘録』、133頁。
(10)同『製陶餘録』、同頁。
(11)同『製陶餘録』、同頁。
(12)同『製陶餘録』、135頁。
(13)柳宗悦「富本と模樣」(「富本憲吉模樣集」広告)『東京朝日新聞』、1927年2月5日、1頁。
(14)『国画会 八〇年の軌跡』国画会、2006年、11頁。
(15)前掲『製陶餘録』、69頁。
(16)同『製陶餘録』、69-70頁。
(17)同『製陶餘録』、70頁。
(18)前掲『国画会 八〇年の軌跡』、11-12頁。
(19)『東京朝日新聞』、1930年5月19日、6頁。
(20)『東京朝日新聞』、1933年4月29日、9頁。
(21)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 314.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、405頁を参照]
(22)前掲『製陶餘録』、176頁。
(23)Bernard Leach, op. cit., p. 76.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、71頁を参照]
(24)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、67頁。
(25)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、12頁。
(26)『柳宗悦全集』(第14巻)筑摩書房、1982年、6頁。[初出は、「工藝美術家に告ぐ」『大阪毎日新聞』(京都版附録)、1931(昭和6)年1月6日および7日の紙面に掲載]
(27)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、27頁。
(28)前掲『製陶餘録』、80-81頁。
(29)壽岳文章『壽岳文章書物論集成』沖積社、1989年、475-476頁。[初出は、「ヰリアム・モリスと柳宗悦」『工藝』50号、1935年]
(30)『東京朝日新聞』、1936年3月25日、11頁。
(31)前掲『国画会 八〇年の軌跡』、12頁。
(32)「文化勲章の人々(5) 富本憲吉氏 つらぬく反骨精神」『朝日新聞』、1961年10月25日、9頁。
(33)Paul Greenhalgh ed., Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 24.[ポール・グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、27頁を参照]
(34)Ibid., p. 14.[同『デザインのモダニズム』、15頁を参照]
(35)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。
(36)『東京朝日新聞』、1935年5月29日、1頁。
(37)同『東京朝日新聞』、同頁。
(38)同『東京朝日新聞』、2頁。
(39)前掲『私の履歴書』(文化人6)、212頁。
(40)同『私の履歴書』(文化人6)、212-213頁。
(41)『東京朝日新聞』、1936年6月13日、11頁。
(42)『東京朝日新聞』、1937年6月24日、2頁。
(43)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』ぎょうせい、1997年、959頁。
(44)富本憲吉「圖案力の養成」『美術』第1巻第7号、1944年8月、8頁。
(45)同「圖案力の養成」『美術』、同頁。
(46)『東京朝日新聞』、1945年3月23日、2頁。
(47)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、222頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(48)同『私の履歴書』、223頁。
(49)同『私の履歴書』、同頁。
(50)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、78頁。口述されたのは、1956年9月12日。
(51)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、223-224頁。