第四章 モリス研究の深化と政治的信条の形成
一.モリスの思想と実践を独習する
すでに引用により紹介したように、晩年富本は、「私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていた」と回顧している。どのようにして富本は美術学校時代にモリスを知ったのであろうか。まず考えられるのは、教師の誰かが授業を通じてモリスを紹介した可能性である。しかしながら、後年学生時代を振り返り、高村豊周は、「大正四年頃に、こういっては悪いが、工芸科の先生でウィリアム・モ
見てきたように、授業でコーヒー・セットのデザインが課題として出されたとすれば、文庫(今日にいうところの図書館)に入って、「そう云ふ種類のものならば大抵ステユデオかアール、エ、デコラシヨンを借りてコーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來得る限り早く、……パラパラと只書物を操る」ことが、富本の学生時代の慣例となっていた。また実際に、東京勧業博覧会へ出品作の製作にあたっては、富本は『ザ・ステューディオ』のなかの図版を転写している。そうしたことを考え合わせれば、富本が「モリスのもの」を知りえたのは、学校の文庫が所蔵する『ザ・ステューディオ』のような外国雑誌をとおしてだったのではないだろうか。
明治三〇年代半ばの学生用の参考書、とりわけ外国雑誌は、ある教師の紹介するところによると、以下のようなものであった。
雜誌類にて最も有名なるは、佛の Gazette des Beaux-Arts. Revue de L’art Ancien et Moderne 及び Art et Decoration(前二雜誌各々一年分代價凡そ卅圓毎月一回發行)英の Art journal. Magazine of Art. International Studio(各金八圓より十二圓位迄孰れも月一回發行)獨の Kunst und Decoration. Moderne Kunst 及び伊の L’Arte Italiana. Enporium. 等に御座候。此外圖畫敎育家、又畫學生向け雜誌としては、米の Art Amateur.(月一回一年凡そ十圓)Art Interchange.(凡そ前同樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の Artist なぞ御座候2。
おそらくこうした外国雑誌が、富本が学生であったころにも、文庫において購入されていたものと思われる。
富本が「モリスのもの」といっているのは、おそらく「モリスの作品」を意味しているのであろう。それでは富本が、創刊された一八九三年から英国へ向けて日本を離れる一九〇八年までにあって『ザ・ステューディオ』に掲載されていたウィリアム・モリスに関する作品の図版とは、一体どのようなものであったのであろうか。図版が掲載された記事数は、総計一〇点で、図版は延べにして二八点となる3。このなかには、単にモリスのデザインだけではなく、モリス商会によって製造されたものや、室内の一部にモリス作品ないしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の図版も含まれている。富本のいう「モリスのもの」という言葉を、『ザ・ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定して考えた場合、これがそのすべてであった。極めて少数としかいいようがない。
『ザ・ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会った工芸家モリスと、『平民新聞』などを通じて中学校時代からすでに知っていた社会主義者モリスとは、そのとき、どのようなかたちでつながったのだろうか。極めて興味のあるところであるが、それはわからない。その当時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量から判断すると、おそらく富本にとって、モリスというひとりの人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となっていることの意味は、謎に包まれたままで、この時期、正確に理解することはできなかったのではないだろうか。あるいはそのこと自体が、実は、富本に想像力をかきたたせることになり、モリスへの強い関心のもとに、英国への留学を決意させる誘因となったともいえなくはない。しかしそれにしても、当時の富本のモリスに関する知識の範囲は狭すぎるだけではなく、量的にもあまりにも少なすぎ、一般的にいって、留学を決意するに至るにふさわしいものではなかったようにも思われる。それでは、何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた可能性は残されていないのであろうか。
まず、ひとつ考えられるのは、この時期、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンにおいて刊行)4を入手し、それを読んだ可能性の有無である。英国から帰国すると富本は、一九一二(明治四五)年に、二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリアム・モリスの話」を発表することになるが、そのときの底本に使われたのが、このヴァランスの書物であった5。しかし、富本がこの本を入手したのが、美術学校に在籍していたときなのか、ロンドンに滞在していたときなのか、それとも帰国後なのか、それを確定する資料がなかった。もし、美術学校に在籍していたときにこの本を入手し読んでいたとすれば、どうだろう。美術家であるモリス、社会主義者であるモリス、そして詩人であるモリスの全体像は、この時期、しっかりと富本に把握されていたことになる。そしてもし、そうした仮説が設定されうるとするならば、その書物に触れた結果、のちに引用に示す「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したい」という強い思いのもとに、富本は英国留学を決意することになったとする説明の合理性は、明らかに一段と高まってゆくことになる。もちろんその場合は、「
留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、……在学中に、読んだ本から英国の画家
富本のいう「在学中に、読んだ本」、これがまさしく、ヴァランスの『ウィリアム・モリス』だった可能性はないだろうか。もしそうであったとするならば、当時の富本の社会問題への関心と照らし合わせると、「図案家で社会主義者であるウイリアム・モリスの思想」は極めて鮮烈な印象を美術学生である富本に刻印したことになる。ヴァランスはその本の「第一二章 社会主義」のなかで、いみじくも、次のようなことを述べていたのである。
モリスの考えによれば、自分の芸術と自分の社会主義は、一方が一方にとって不可欠なものとして結び付くものであった。いやむしろ、単にひとつの事柄のふたつの側面にしかすぎなかった8。
モリスの考えるところによれば、社会主義を欠いた芸術もなければ、芸術を欠いた社会主義もなく、両者はまさしく、コインの裏表のような一体化された関係のうちに認められうる存在であった。もし富本がこの時期にヴァランスのこの書物を手にしていたとするならば、そのなかにみられる、こうした芸術と社会主義にかかわる記述が、間違いなく富本の目に留まったであろう。しかし、富本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に購入された記録は残されておらず、一方、残されている記録によれば、二冊のモリス関連の書籍がそのときまでに購入されていたのであった9。
ここで注目されてよいのは、そのうち一冊の『装飾芸術の巨匠たち』のなかで、ルイス・F・デイが「ウィリアム・モリスと彼の芸術」と題した論文をとおして、モリスの主要作品について図版とともに詳しく紹介していたことである。明らかにここでの紹介は、図版の豊富さと適切さという点において、『ザ・ステューディオ』の記事やヴァランスの書物における紹介を凌ぐものであった。しかもこの論文においても、モリスの社会主義の輪郭について言及されている。果たして富本は、この論文を文庫で読んでいたであろうか。これを特定する資料も、残念ながら現時点で見出すことはできない。それにもかかわらず、英国留学の動機にかかわって、「在学中に、読んだ本から英国の……図案家で社会主義者のウイリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある」という最晩年の富本の述懐に記憶違いがないとする前提に立つならば、このデイの「ウィリアム・モリスと彼の芸術」という論文も、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』という書物と同様に、「在学中に、読んだ本」のなかに加えることができるであろうし、それが誘因となって、図版だけでは満足できず「モリスの実際の仕事」を見るために、富本は英国留学へ向けての関心を形成していったとする推断の可能性も生じてくるのではないだろうか。
さらに加えてもうひとつ注目されてよいのは、もう一方の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』である。これには、六つの講演録が所収されているが、そのうちのふたつが、モリスの「パタン・デザイニングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なのである。前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて、後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演されたものである。講演録であるために、図版は存在しないが、この「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」は、現在においてもモリスのデザイン思想を理解するうえでの極めて重要なテクストとなっている。当時文庫に収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどうかを根拠だてることは、『装飾芸術の巨匠たち』の場合と同様にできない。しかし、読んでいたとするならば、週刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳によって成り立っていたことを考え合わせると、モリスの実際の文章に直接触れる機会を、富本ははじめてここでもったことになる。
富本のいう「在学中に、読んだ本」とは、したがって、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』、「ウィリアム・モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠たち』、および、「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであったか、そのうちの、一冊か二冊だったかの可能性が、現時点で残されることになるであろう。このような経緯にあって、日本ではじめて、デザイナーとしてのモリスが、美術学校時代の若き富本によって「発見」されたのであった。
二.政治的信条と徴兵忌避
それでは、その当時の富本の社会主義に対する理解、すなわち政治的信条は、どのようなものであったのであろうか。
郡山中学校に在籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は、富本が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年一月二九日付の第六四号をもって、官憲の弾圧により廃刊へと追い込まれた。この号は、全頁
一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れていた富本は、その廃刊に接し、どのような思いを抱いたのであろうか。「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなったとき、中学校時代にこの新聞を一緒に読んだ嶋中雄作と、そのとき連絡を取り、そのことについて何か論じ合ったかもしれないが、その証拠となるものは見当たらない。しかしながら、その当時の富本の政治的信条は、明らかに、一枚の自製絵はがき【図九】に表われており、そこから推し量ることができる。この絵はがきは、一九〇五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩師の水木要太郎に宛てて出されたものである。中央に「亡国の会」という文字が並び、その下の三つの帽子に矢が貫通している。この自製絵はがきがはじめて一般に公開されたときのキャプションには、「亡国の会 陸軍・海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と官僚への露骨な反感」11と書き記されている。この年、八月に日露講和会議が開始されると、合意内容に国民の不満は高まるも、陸海軍の凱旋がはじまると、一転して市中は異様な昂揚感に沸き返った。富本のこの自製絵はがきは、ちょうどこの時期に出されている。この間、美術学校では、六月はじめには一日臨時休業して日本海海戦の祝捷会を開き、東郷平八郎大将に感謝状を贈呈することを満場一致で可決しているし、一〇月末に大沢三之助大尉が解隊され、教授職に復帰すると、その暮れには、凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅川楼で開かれている12。富本の目に、この年の一連の出来事がどのように映っていたのかは、水木に宛てた一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている。
東京勧業博覧会には、マンドリンのサークルを通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた。《花園》と題された小品で、生い茂る草木に囲まれた、ふたつの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図一〇】。この作品の出品に先立って、南は、自分のヨーロッパ留学について思いを巡らせはじめていた。岡本隆寛によると、「……[南は]美校時代の日記に卒業を間近にひかえた明治三九年一二月に、学友と一緒に正木校長、黒田清輝、岩村透を訪ね留学先について相談したことを記している」13。したがって、この作品は、留学を控えた南の準備作品ともいえるもので、ここに描かれている情景のなかに、すでにヨーロッパの片田舎に対する南の憧れが反映されていたのかもしれなかった。博覧会の会期は七月三一日までであったが、もう夏休みに入っていたのであろう、南は安堵村の富本を訪ねている。「古びた北の
それに加えて、卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景に、「徴兵の関係」が介在していた。このことについて、短くこう、富本は述べている。
徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描き、卒業を目の前に控えて一九〇
徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち、一八八三(明治一六)年の改正を経て、一八八九(明治二二)年には本格的な大改正が行なわれ、一段と厳しい国民皆兵制となっていた。しかし、この改正徴兵令にも、若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)は残されていた。「第三章 免役延期及猶予」の第十七条から第二十二条までがそれに相当する16。特定の階層に属する若者たちのあいだでみられた、そうした免役条項をうまく利用して兵役を避けようとする試みは、当時決してめずらしいことではなかったようである。たとえば、夏目漱石は、一八九二(明治二五)年に、徴兵を逃れるために「分家届」を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町一七 浅岡方」に籍を移し、北海道平民になっている17。漱石は、一九〇七(明治四〇)年の四月二〇日に、美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題して講演を行なっており、おそらく富本もそれを聴講したであろう。また、富本より二歳年上で、一九二一(大正一〇)年に文化学院を設立することになる西村伊作は、日露戦争時、召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出すと、神戸からシンガポールへ渡航している18。その後にあっては、一九一〇(明治四三)年に、「大逆事件」に関連して西村家は家宅捜索を受け、叔父の大石誠之助が、翌年処刑される。結婚後の富本一家が新宮の西村家に約一箇月間滞在し、交流を深めるのは、一九一七(大正六)年のことであった。
本人が述懐しているとおり、富本の心のなかにも、徴兵を免れたいと思う気持ちがあった。そしてこの理由が、外国留学を家族に説得するうえでの最も有効な材料になったのではないだろうか。さらにいえば、「美術家としてのモリス」は別にしても、「社会主義者としてのモリス」を研究するという渡航目的は、どう見ても、家族に理解してもらえるものではなかったであろう。そのために、「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」も、あえて伏せたうえで、美術家の留学先として当時一般的であった「フランス」を持ち出し、家族の了解を得ようとしたのではないだろうか。富本が、「フランスに行くとごまかしてイギリスに行った」19と述べていることには、おそらく、そのような富本固有の事情が関係していたものと思われる。いずれにしても、どの国に行こうとも、富本にとって海外へ留学をするということと、徴兵を逃れるということとは、表裏をなすものであった。おそらく南薫造にも、そのことはあてはまったのではないだろうか20。
こうして、南や富本の事例からも推量できるように、戦争のための徴兵制が有能で裕福な若者の目を海外へと向けさせ、その結果、兵役を免除され国外で学んだ若者が、帰朝後日本の美術界の近代化の扉を開くことになるのである。
一九〇八(明治四一)年の夏の帰省も終わり、本格的な卒業製作の時期を迎えた。富本の回想するところによると、「私たちの美術学校時代には卒業制作期というものがあった。つまり卒業前年の九月から翌年三月までは学科をやらず、制作にかかりきるわけである。……そこで、[図案科に属する]建築部の私は、夏休み、家に帰ると、さっそくアトリエ付き小住宅の設計にかかり、九月、学校へ行って下図を先生に見せた。担任は岡田信一郎先生で、……この先生に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞くと、『よろしい。ちゃんと仕上げたら卒業させよう』といってくれた。これをもとに私はだれよりも早くどんどん制作を進めて行った。そして十月にはワットマン全紙(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の図面を描きあげた。……卒業制作を急いだのは、実は、かねて私費で海外留学のもくろみがあったからである」21。こうして富本の卒業製作は、人より早く卒業を前にして完成した。
この作品は、東京藝術大学大学美術館で公表されている限りでは、富本のいう「十何枚」から構成されていたのではなく、家屋全体の外観が描かれた透視図【図一一】、一階平面図(SHEET 2)【図一二】、二階平面図(SHEET 3)【図一三】、四方向からのそれぞれの立面図(SHEET 4-7)、断面図(SHEET 8)【図一四】、そして詳細図としての、一階ホール(HALL)の窓に使用するステインド・グラス案(SHEET 9)【図一五】の合計九点から構成されており、そのすべてに、英文で《DESIGN FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記載されている。縮尺は、一階平面図(SHEET 2)から断面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一で、ステインド・グラス案(SHEET 9)が二分の一となっている。間取りの特徴として、実際には富本のいう「アトリエ付き小住宅」とは異なり、一階の居間(DRAWING RM)に連続させて、舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC RM)が設けられていることを挙げることができる。そして、それに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出すことができる。一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の下部に暖炉(INGLE)が備えられているが、断面図(SHEET 8)をよく見ると、音楽家の家にふさわしく、この暖炉の上部パネルに、ひとりの男性がマンドリンのような楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれており、この壁面パネルに描かれた、横に長い一枚の装飾用の絵が、富本の作品をさらに特徴づけているのである【図一六】。製作年の「1909」は、翌年三月の卒業を念頭に書かれたのであろう。こうした若い時期から生涯を通じて、富本は、天皇在位の象徴としての元号を用いることはなく、西暦による年号をおおかた常用した。これもまた、富本の政治的信条とかかわるものと考えられる。
こうして、準備がすべて整った。「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したい」という強い思いを胸に秘めて、一九〇八(明治四一)年一二月一九日、富本は、神戸港から処女航海の平野丸に乗船し、イギリスへと旅立って行った22。
注
(1)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、151頁。
(2)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、236頁。
(3)中山修一「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」『表現文化研究』第6巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2006年、58頁に掲載の「表一 『ザ・ステューディオ』(一八九三―一九〇八年)におけるウィリアム・モリス関連の作品図版」を参考のこと。
(4)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
なお、以下の『ザ・ステューディオ』において、この本についての書評が掲載されている。
The Studio, Vol. 12, No. 57, December, 1897, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1995, pp. 204-206.
(5)富本憲吉が、1912(明治45)年の『美術新報』第11巻第4号および第5号に2回に分けて発表した「ウイリアム・モリスの話」の底本が、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことについては、以下の拙論のなかで詳しく論じている。
中山修一「富本憲吉の『ウイリアム・モリスの話』を再読する」『表現文化研究』第5巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2005年、31-55頁。
(6)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、41頁。
(7)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、198頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(8)Vallance, op. cit., p. 305.
(9)東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果、富本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life)が文庫において購入されていた記録は残されていないことが明らかになっている。このことは、もし富本が在学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば、自ら購入したか、嶋中雄作のような友人に貸し与えられていたことを意味するであろう。
なお、富本が在学中までに文庫において購入されていた、ウィリアム・モリスに関連する書物は、以下の2冊(所収論文数は3編)であり、購入年月の記録は、ともに1902(明治35)年2月となっている。これは、富本が美術学校に入学する2年前の時期にあたる。
William Morris, ‘The History of Pattern Designing’, Lectures on Art, Delivered in Support of the Society for the Protection of Ancient Buildings, Macmillan, London, 1882, pp. 127-173.
William Morris, ‘The Lesser Arts of Life’, Ibid., pp. 174-232.
Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900, pp. 1-31.
ちなみに、ジョン・ウィリアム・マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』が所蔵されるのは、1920(大正9)年のことであった。
(10)『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、517頁。
(11)『毎日グラフ』4月25日号、毎日新聞社、1982年、7頁。
(12)前掲『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』、309、315および333頁。
(13)岡本隆寛「南薫造日記について」、岡本隆寛・高木茂登編『南薫造日記・関連書簡の研究』(調査報告書)、1988年、3頁。
この論文のなかで、続けて岡本は次のように述べている。「[教師たちとの相談の結果]ここでは、ベルギーかフランスがよかろうと薦められ、南自身はベルギーに行くことにしようと書き残している。しかし、その後の日記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記していない」。(同論文、3頁。)
このことから推量すると、南薫造は、富本憲吉が近い将来イギリスに来ることを見越して、留学先をベルギーからイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけではない。この場合、すでにこの時点で富本の英国留学の思いは、ある程度固まっていたことになる。
(14)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、1頁。
(15)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。
(16)松下芳男『徴兵令制定史』内外書房、1943年、543-544頁。
(17)小田切進「略年譜」『新潮日本文学アルバム2 夏目漱石』新潮社、1993年、105頁。
(18)西村伊作『我に益あり』紀元社、1960年、147-148頁。
(19)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。
(20)有島任生馬は南薫造に宛てた明治43年5月21日付のはがきのなかで、「昨日田舎の徴兵検査から帰った 国家に不要人物とせられた これで尚ほ家庭からも不要の人物となさるれば申分なし」(高木茂登「南薫造宛書簡について」、岡本隆寛・高木茂登編、同書、37頁)と述べ、続いて6月11日付の書簡では、「僕は徴兵第二乙種だった モー大丈夫国家に有用な材でハなくなった君の方はドーなった 田舎なら君も大丈夫と考へて居る徴兵なんて聞いたより恐るに足らぬものだ」(同書、同頁)とも述べている。これは、有島が洋行後の兵役免除の適用を受けたことを意味し、南の場合はどうであったのかを問い尋ねているのではないかと考えられる。
(21)前掲『私の履歴書』、197-198頁。
(22)富本憲吉の日本出立とロンドン上陸の日について、南八枝子『洋画家 南薫造 交友関係の研究』(杉並けやき出版発行・星雲社発売、2011年、11頁)に、次のような記述がみられる。「富本の乗った平野丸のロンドン入港は、薫造の手帖に残されたメモによると、明治四二年二月一〇日(水)。『午後三時頃 平野丸 入港 冨本君來』とある。出航は神戸港から四一年一二月一九日三時、平野丸の処女航海だった。たまたま英国大使として赴任する加藤高明(後の首相)が乗っていたことで大阪朝日新聞の記事があり、日付を特定する事ができた。(富本憲吉記念館館長の山本茂雄氏より資料提供を受ける)。」
なお、この本の著者の南八枝子は民俗学者の柳田国男の孫で、彼女の夫の南建が、南薫造の養子で実の孫にあたる。本書は、そうした夫婦の関係から、柳田国男と南薫造との接点についても照明があてられている。