自らの生い立ちについて、後年富本は、ふたつの回顧録のなかにあって短く語っている。ひとつは、一九五六(昭和三一)年に口述され、没後の一九六九(昭和四四)年に刊行された文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(第一法規)に所収されている「富本憲吉自伝」で、もうひとつは、亡くなる前年の一九六二(昭和三七)年に『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」である。主としてこのふたつの資料に基づき、以下に富本の幼少年期を再構成してみたいと思う。
のちのちの記憶が語るところによると、富本は、一八八六(明治一九)年六月五日、奈良県生駒郡安堵村東安堵九五番地に生まれた。この地は、徳川時代は天領で、風光に恵まれた地形をもち、村の西北、直線にして二キロばかりのところに法隆寺があり、その北に山が連なり、南に平野が開けていた。また、西に龍田川、南に大和川、東に富雄川が流れ、いずれもこの村の南に位置する一種の沼へと流れ込み、大和盆地から大阪へ流れ出るようになっていた。富本家は代々続くこの土地の庄屋であった。この地域は法隆寺との結び付きが強く、お堂ひとつに、ひとつの部落が対応し、何かあるたびに村人が集まり奉仕活動を行なっていた。富本の部落は伝法堂に属しており、こうした土地柄もあって、幼少のころから憲吉は法隆寺に深い親近感をもって育っていった。
憲吉の父は豊吉といった。大阪の漢学塾で修業した人で、豊かな支那趣味をもち、漢詩をつくり、南画を描いた。豊吉は敬愛する竹田孝憲の名に因み、また憲法発布が近いということもあって、その子に「憲吉」という名を授けた。母ふさは、隣り部落の西安堵に住む大西源太郎の長女であった。源太郎も南画を描き、富岡鉄斎をはじめ多くの南画家との交流をもっていた。そのなかの 嘯園 ( しょうえん ) という河内の国の人から、数え年で八歳くらいのときに憲吉は、蘭や竹などを素材に南画の手ほどきを受けている――すでに入学していた村の小学校(尋常科)の生徒のときのことであろうか。同じくそのころ憲吉は、習字に加えて漢文を教えようとする父豊吉によって、孝経という本の素読を強いられている。また、維新の以前にあっては 苗字帯刀御免 ( みようじたいとうごめん ) の家柄であったことから、左利きでは刀が抜けないという旧弊な考えから、無理に右利きに変えられてもいる。晩年憲吉は、利き腕を変更されたことが自分のその後の心理に大きな影響を及ぼしたと回顧している。しかし豊吉は、父としての優しい側面も一方で持ち合わせていた。しばしば憲吉を連れ立って、鉄砲打ちや魚釣りに出かけた。ある日ふたりは大和川へ行った。しかし一匹も釣れず、帰ろうとしたとき、河原に土器が顔をのぞかせていた。心をひかれながら、掘り進めてゆくと、完全な姿で現われてきた。 祝部 ( はふりべ ) 土器で 堤子 ( ひさげ ) という種類のものであった。また、あるときなどは、苔むした庭に面した座敷で晩酌をしながら、同じ机で食事をする憲吉に向って、有田と支那の染め付けの色合いや味の違いなどについて講じた。それでも、芸術家のだらしなさをよく目にしていた豊吉は、憲吉を芸術家にさせる気など全くなかった。
もっともその父は、日頃は安堵村の家を空けていた。というのも、豊吉は奈良と京都間の鉄道の仕事に関係しており、妹と弟を連れて奈良に住んでいたからである。そうしたこともあって、憲吉は、祖母とふたりきりで、昔ながらの古い村の家で暮らしていた。祖母は、村の娘たちを集め、一種の寺小屋式によって裁縫を教えていた。糸の紡ぎ方、織り方、染め方にはじまり、礼儀作法から日常の教養までを指南していた祖母の傍らで、憲吉は 紅花 ( べにばな ) を使って染め物などをしながら遊んだ。さらには、ちりめんに綿などを詰めた細工物をつくる際には、牛若丸や弁慶、桃太郎などの目鼻を描くのが憲吉の役目であった。こうして憲吉は、手工芸の熟練の楽しみを徐々に感じ取っていった。一方、あまりにも早い段階から習字や漢籍を教えようとする父親の厳しさを見兼ねた祖母は、富本家に付属する尼寺に下宿していた川口 伊慎 ( これちか ) という学校の先生に、家賃の代わりに孫に算術を教えるように頼んだ。憲吉は、すぐにも算術のおもしろさに気づくと、毎晩楽しんでそこへ通い、尋常科を卒業するころには、面積や体積を求める問題が解けるようになっていた。数え年の一〇歳になるとき、 斑鳩 ( いかるが ) 高等小学校に入学した。このときはまだ校舎の建設が間に合わず、法隆寺の南大門の西側の荒れ果てた大きなお堂で、半年か一年を過ごした。そして入学して二年後の一八九七(明治三〇)年三月に、憲吉は父豊吉を亡くし、富本家の家督を相続することになった。このことについては、憲吉は多くを語っていない。しかし、その後入学する郡山中学校時代を振り返って、学校に興味がなく、あまり登校せず、一週間に二日休むのが普通になっており、この間、時計を分解しては組み立てることに熱中した、と回想している。自らが語るように、怠け生徒の見本のようなもので、成績は中くらいであった。それでも数学は得意だった。卒業するまでには、微分に積分、それに解析も、自分独りでできるようになっていた。中学校の四年のときのことであったであろうか、日本美術院の展覧会が奈良に来たことがあった。奈良東大寺の大仏殿前の回廊に展覧するもので、そのとき憲吉も勧められて一般募集に応募した。作品は、法隆寺の金堂の壁画を模写したものであった。模写といっても、実物を描いたものではなく、誰かが模写したものを手本に、さらに描き出したものである。ところが、思いもかけず、これが見事に入選した。のちに憲吉は、自分が将来工芸の道を歩むようになったのは、振り返って考えてみると、ひとつには、祖母になだめすかされ絵筆をもったこと、そしていまひとつには、この日本美術院の展覧会に入選したことがきっかけになっていたのではなかったか、と述べている。
しかし、ここで、さらにもうひとつのきっかけを付け加えることが可能ではないだろうか。というのも憲吉は、この郡山中学校に通っていたときに、英国の詩人にして工芸家、そして社会主義思想家でもあるウィリアム・モリスの存在に気づいているからである。それは、その後の憲吉の生涯に大きな影響を及ぼすことになる、大事件であったにちがいなかった。
最晩年の一九六一(昭和三六)年に、富本憲吉の「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談会が開かれた。そのなかで、「……[英国へ]行く前からモリスを研究するつもりで」という、英国留学とモリス研究についての質問に答えて、富本はこう述べている。
そうです。私は友達に、中央公論の嶋中 雄三 ( ママ ) がおり、嶋中がし よ ( ママ ) つ ( ママ ) ち ゆ ( ママ ) うそういうことを研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていたし、そこへも つ ( ママ ) てきていちばん親しか つ ( ママ ) た南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行くとごまかしてイギリスに行った1。
富本と同郷の嶋中雄三(弟の「嶋中」と区別するためであろうか、本人による表記は「島中」)は、大正、昭和期の社会運動家で、のちに東京市会議員などを務める人物であり、富本とは六歳年上にあたる。しかし、中央公論社に一九一二(大正元)年に入社し、その後社長を務めることになるのは弟の嶋中雄作であり、上で引用した「中央公論の嶋中雄三」という富本の記憶には混乱がみられる。一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作は、したがって一八八六(明治一九)年六月生まれの富本と同学年だった可能性があるものの、富本は郡山中学校、雄作は畝傍中学校に当時在籍しており、中学校時代にふたりのあいだでどのような交流があり、とりわけモリスがどのようなかたちで話題になっていたのかはわからない。しかし、雄作は兄雄三の影響のもとに、中央公論社入社以前から社会運動、とりわけ女性の権利拡張に関心をもっていた可能性もあり2、嶋中兄弟のそうした政治的社会的関心を通じて、富本も、社会主義やモリスについての知見を得ていたのであろう。双方が中学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購読数は、おおよそ二四部であった3。当時富本家で購読されていたことを示す資料は残されていない。したがって、富本が「中学時代に読んでいた」という『平民新聞』も、嶋中兄弟によって貸し与えられたものだったのかもしれない。
富本がモリスを知ったのは、こうした『平民新聞』に掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおしてであった。とくに「理想郷」は社会革命後の新世界を扱っていた。この物語の語り手(語り手はモリスその人と考えてよいだろう)は、革命後に生まれるであろう新しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦わされた夜、疲れ果てて眠りにつき、翌朝目が覚めてみると、すでに遠い昔に革命は成功裏に終わり、理想的な共産主義の社会にいる自分を見出した。語り手が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働、汚染される自然、苦痛にあえぐ生活からは想像もつかない、全く新しい世界がそこには広がり、労働と生の喜びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んでいた。これを読んだとき、富本には、モリスが描き出していた革命後の理想社会はどのようなものとして映じたのであろうか。それはわからない。しかし、社会が変化することの可能性、そして、それを成し遂げるにあたっての時代に抗う力の生成、さらにはその一方で、そうした行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在、これらについては、少なくとも理解できていたであろう。こうして富本は、この時期、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのである。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が郡山中学校の卒業を控え、美術学校への入学を模索しようとしていた、まさにそのときのことであった。
(1)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。
(2)嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下のとおりである。 「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた。畝傍中學を經て早稻田大學哲學科に學び、この年[大正元年]の九月卒業したばかりである。學生時代には、島村抱月にもつとも傾倒し、したがって自然主義文學運動には深い興味を有つていたごとくであつた。當時聲名高かつた中央公論社であつたから、大きな期待をもつて入社したのであるが、入つてみるとその組織は家内企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた。……明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は、いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが、大正期に入ると、澎湃として個人主義思想が擡頭してきた。特に婦人問題が重視せられて、婦人の自覺と解放が叫ばれた。これに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥などの『靑鞜社』の運動であった。嶋中はこの動きに注視し、[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめて、これを『婦人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」(『中央公論社七〇年史』中央公論社、1955年、13-14頁)。
(3)『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新聞直接讀者統計表」には、読者数が府県別に掲載されており、それによると、富本憲吉が暮らしていた奈良県は「八」と記されている。そしてこの統計表には、「右は直接の讀者のみです、この直接讀者に約二倍せる、各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられている。これから判断すると、奈良県は、直接の読者が8名、売捌所を通じての読者が約16名、合計約24名ということになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、283頁)。