中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

第三章 東京美術学校の図案教育への不満

一.独創性不在の図案教育

富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は、決して明確なものではなかった。

 当時、私は石彫りに心を動かし、自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあったので、なんとなく美校を志した

周りの反対はあったものの、富本は、一九〇四(明治三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置くことになる。しかし、専門的な分野については、富本にとって全くの未知の世界であった。

 中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた。同じ室の生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに話して居たのを聞いた事がある。……當時は非常に耳新らしく、そう云ふ新語や上級生のする事を一生懸命で眞似たものである

この時期、美術学校は、学生たちにとって必ずしも居心地のよいものではなかった。富本の二年先輩にあたる、西洋画科に在籍していた南薫造は、その当時の実技の授業について、日記のなかでこう不満を漏らしている。

学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんものであった。

学校で彫刻とか云ふのをやった。土で変なことをするのである。皆なも左官らしいとか云ふて居た。僕も大ひに不満であった

そうした学生からの不満はその後も続いた。富本より遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に入学した、光雲を父に、光太郎を兄にもつ高村豊周が後年回顧するところによると、その当時のその学校の様子は、以下のようなものであった。教師への疑問が沸き起こる。

学校では二十一、二の青年の生活に、およそ縁のないクラシックな物ばかり作っている。たとえば、一年の時に作った筆筒は、自分の欲望から生まれたデザインでは決してない。クラシックな物ばかり載っている本を見て、こんな物をこしらえればよいのだろうと、見よう見真似のデザインをして先生の所へ持っていくと、何がいいのかわからないがいいと言うからそれを作る。……しかし私たちは、ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい。するとこの筆立は、一体誰のために作るのだろうという疑問が起ってくる

富本自身も、美術学校の学生だったころの自分の製作に対する姿勢を振り返り、暗澹たる思いにかられている。

 学生時代の事を思いおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る。……全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある。……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい

富本は、こうした外国雑誌からの参照について、別の箇所でさらに詳しく、以下のように述懐する。

……此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云ふ題が出たとして、そう云ふ種類のものならば大抵ステユデオかアール、エ、デコラシヨンを借りてコーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來得る限り早く、……パラパラと只書物を操る。……コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾も見つかると、透き寫しするに最も良く出來た蠟引きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである。……寫した小さな紙片を敎室なり下宿なりに持ち歸つて茶碗の把手を入れかえ、模樣の一部を故意に或は無理に入れかえて、先ず下圖が出來上がつたものと心得て居た。……

 色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居る、彼れは大きい袋に幾つ持つて居る、それが我々仲間の模樣の出る根源、又その人の偉さにも非常に關係ある樣に考へて居た。……學校の文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず、光澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上から線を引いた樣な跡が一面にある。此れが作品の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの跡である。

 當時は此れを唯一の勉強方法と考へて、未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り切りで寫しに寫した。又何う云ふ書物に如何な模樣があるか、今度文庫で如何な模樣の書物を買つたとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした

晩年富本は、自分が学生だった当時の教師の教え方を振り返って、さらにこうも述べ、不満をあらわにする。

……私は半年ほどのうちに入学はしたがいやになった。その気持ちを今から推して考えてみると、教える人がその実技を一度も経験したことのない図案家という人であり、その教えることが実技から遊離浮動していたことが原因であったらしい……それで知らないことを堂々とよくも教えたと思う

おおよそ以上が、富本が在籍していた前後の時期の東京美術学校の実技教育の実態であった。過去の作例に縛られた製作。雑誌や本からの模倣。教師の前にあっての受身的な態度。使用者不在の製作物。実製作の経験のない教師による実技指導。こうしたことに対する疑問や不満は、言葉では表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらしたことであろう。

二.模倣による処女作の展覧会出品

一九〇七(明治四〇)年三月二〇日から、上野公園内に設けられた三つの会場で東京府の主催による勧業博覧会が開催された。富本にとって、この博覧会が、いわゆる処女作の公開の場となった。展示会場の「東京勧業博覧會美術館は、第一號館の東に位し、面積七百四坪あり、工學士新家孝正氏の設計にして、ローマン、レナイサンス式の建築」であった【図三】。「中央より南半分を日本畫陳列場とし、北半分の東を西洋畫及圖案部、西を彫刻物其他の陳列場」10にあてられた。したがって、このときの富本の出品作品である《ステーヘンドグラツス圖案》【図四】は、この美術館の北半分の東側に陳列されたことになる。

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ、第二部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および工芸図案)の監査は、このふたつの部門をとおして、便宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分けて行なわれた。全体としての監査数は一、九九〇点、そのうち合格数は八四三点であり、第一一科の建築図案に限れば、監査数、合格数ともに五点で、第一二科に限れば、監査数一九九点、合格数は一四一点であった。美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査部長を務め、第一一科の審査の主任を塚本靖が、第一二科の主任を福地復一が担当した11。塚本は、渡欧のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで、美術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾史」の嘱託教員を務めた人物で、一方福地は、「……明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授となったが、校長岡倉覚三と対立して辞職し、同三〇年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ、……[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともに、パリから持ち帰った美術品、工芸品、諸種の印刷物の展覧会を開き、アール・ヌーヴォーを紹介した」12であった。もっとも、富本の作品が何か賞を受けた形跡は、『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない。

さてそれでは、富本は、出品作である《ステーヘンドグラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか。すでに見てきたように、富本は学生時代の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていた。したがって、この博覧会へ出品を決意したときも、学外への出品であったにもかかわらず、製作へ向けての指導を教師たちに仰ぐようなことはなく、独力で完成させようとしたのではないかと推測される。そこで富本は、授業での課題製作のときと同じような要領で、何度も文庫に足を運び、自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい図版を探し出すために、必死に外国雑誌に目を通したものと思われる。そして最終的に選択されたものが、『ザ・ステューディオ』のなかのエドワード・F・ストレインジの「リヴァプール美術学校のニードルワーク」13において使用されていた図版【図五】と、同じく『ザ・ステューディオ』のなかのJ・テイラーの「グラスゴウの美術家・デザイナー――E・A・テイラーの仕事」14において使用されていた図版【図六】であったにちがいなかった。前者の作品は、フローレンス・レイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》である。「ハンド・スクリーン」とは、うちわのことであり、製作者はリヴァプール美術学校の女子学生であった。当時、ロンドンにあった王立美術ニードルワーク学校(現在の王立ニードルワーク学校)を別にすれば、地方にあっては、このニードルワークの分野では、校長のF・V・バレッジの指導のもとにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげていた。後者の作品は、E・A・テイラーの《ステインド・グラスの窓のためのデザイン》である。製作者のテイラーは、一八七四年の生まれで、おそらくグラスゴウ美術学校で学び、C・R・マッキントシュの友人でもあった。一九〇一年のグラスゴウ国際博覧会では、グラスゴウの家具製作会社が展示に使う居間のデザインを手掛け、翌年のトリノ国際博覧会では家具やステインド・グラスを出品している。今日、控え目で繊細な彼のデザインは、マッキントシュの手法の完成版としてみなされている。

富本はまず、《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》の図版の上に紙を置き、手前の女性を引き写し、写し取られた女性を、《ステインド・グラスの窓のためのデザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加えてゆき、さらに、右上の余白に ‘GATHER Ye ROSES WHILE Ye MAY’ の文字列を二行に分けて配置することによって、基本となる構図を完成させたのではないかと考えられる。次に富本は、このヴァースの意味にふさわしく、女性の左手にバラの花をもたせ、女性の身体の律動的な動きにあわせて、新たに孔雀らしき尾の長い二羽の鳥を一体化させながら、うら若き美しい乙女を象徴する作品へと、さらに全体と細部とを調整し、ステインド・グラスにふさわしい最終的な図案をつくり上げていったものと思われる。

明らかに、この作品に使用されているヴァースは、一七世紀に活躍したイギリスの詩人、ロバート・へリックの韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用であり、その第一連は下に示すとおりである15

Gather ye rosebuds while ye may,

Old Time is still a-flying:

And this same flower that smiles to-day,

To-morrow will be dying.

(Robert Herrick, “To the Virgins, to Make Much of Time”)
   

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい、    

時はたえず流れ行き、    

今日ほほえんでいる花も    

明日には枯れてしまうのだから。    

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生する。それでは富本は、どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうか。おそらく詩集なり書物なりを参照したと思われるが、それが何であったのかを特定することはできない。しかし、E・A・テイラーの別の作品に、ステインド・グラスの窓のための水彩画《時のある にバラのつぼみを摘むがよい》(寸法は一五・七×一五・八センチメートル。製作年については、この作品を所蔵しているグラスゴウ・シティー・カウンシル(博物館群)のファイルには記載されていないが、一九〇四年ころと推定されている。)【図七】があり、それには、バラの花に囲まれた乙女の左右に ‘GATHER YE ROSEBUDS WHILE YE MAY’ のヴァースがふたつに分割され、配置されている。この作品は、『ザ・ステューディオ』で紹介された形跡はなく、もし富本がこの作品を別の外国雑誌なり、資料なりで見ていたとすれば、そこから引用した可能性もある。

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについて、さらに次の二点を指摘しておかなければならない。ひとつは、原文の ‘ROSEBUDS’(バラのつぼみ)から ‘BUD’(つぼみ)が抜け落ち、単に ‘ROSES’ となっていることである。富本にとって何か特別の意味があったのかもしれないが、表記上の単純なミスの可能性もある。あるいは、予定していたスペースに、うまく配置することができなかったために、やむを得ず、部分的な削除が行なわれたのかもしれない。もうひとつは、‘WHILE’ の文字に関してである。そのなかの ‘LE’ の処理の仕方、つまり ‘L’ のもっているスペースに ‘E’ を入れ込むような手法は、マッキントシュの手法として一般的によく知られていたが、マッキントシュだけに限らず、文字に精通し、スペーシングを意識した人びとのあいだにあっても当時広く見受けられた用法であった。富本は、『ザ・ステューディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われていた、こうしたアルファベットの文字表現の細部に対して、あるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾向に対して、注意深い視線を向けていたことになる。そして、そうした観察と影響は、その後、たとえば、卒業製作の作品のなかで使用される文字や、英国留学を前にしてロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封筒の表書き【図八】などに、さらに引き継がれてゆくことになるのである16

いまひとつの疑問は、乙女の前後に配置されている二羽の鳥についてであるが、これを描くために富本が典拠した図案は何だったのであろうか。その鳥が孔雀であれば、その当時ヨーロッパで流行していた代表的な装飾モティーフのひとつであり、一九〇〇年のパリ万国博覧会以降、美術学校のなかでもアール・ヌーヴォーに対する熱気が漂っていた17こととあわせて勘案すると、意外にも身近なところにそのインスピレイションの源はあったのかもしれない。ただ、鳥の顔の表情に限っていえば、あたかも、七世紀末期の『リンデスファーンの福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿させるような図案となっている。

東京勧業博覧会への出品作の製作をとおして、結果的に富本は、その後の製作上の伏線となる、ステインド・グラスに対する関心や、作品の一部に文字を使用する手法への共感といったものを自らの力で引き出すことになったにちがいなく、あえていえばこれが、このときの富本にとっての確かな成果となるものであった。しかしながらその一方で、この《ステーヘンドグラツス圖案》が他人の作品の模倣から生み出された産物であることは明らかであり、富本にとって忸怩たる思いが残滓したものと思われる。そこで、こうした原初的体験が一因となって、富本をして、英国留学への夢を育ませ、帰朝後一層の恩師たちへの批判を強めさせ、さらにそののち、「模樣より模樣を造る可からず」という製作理念が生み出されていったと考えても、おそらく間違いないであろう。すべては、当時の美術学校の図案教育の否定から、富本の造形思想はかたちづくられてゆくのである。換言すれば、皮肉にも、適切なる教育の不在が、適切なる美術家を誕生させようとしていたのであった。

(1)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、191頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]

(2)東京美術学校は、1900(明治33)年に入学規定を改正し、新たに仮入学制度を設け、翌年から実施している。
 「仮入学制度は、明治二十五年以来本校入学志願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを課してきたところが実技力不足で不合格となる例が多かったので、その救済措置として設けられたもので、希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書を添えて願書を提出し、許可された者は四月中旬より約三ケ月間毛筆画と木炭画、彫塑の実技授業を受けたのちに実技試験を受け、合格者は九月の新学期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、76頁)。
 富本の仮入学に関していえば、1904(明治37)年4月の仮入学生は、公立中学校卒業生70名、府県知事の推薦による師範学校卒業生7名、香川県工芸学校卒業生2名の計79名であった。同年9月、富本は同学校の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている(同書、250および262頁を参照)。
 なお、同書(166-167頁)によると、「本校における授業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至明治三十六年』においてであり、それ以前にはこのような記録は無い。以下、その全文を掲載する」としたうえで、「各科授業要旨」には、「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との、修業年限についての記述があり、「豫備ノ課程」については、「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科、西洋畫科、圖按科、漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科、彫金科、鍛金科、鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志望科ノ實技ヲ、乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科ノ實技ヲ各其敎室ニ就キテ學修セシム」と規定されている。そして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リテ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言が添えられている。
 以上の記述内容を総合すると、富本が在籍していた当時の東京美術学校の教育課程にあっては、学生は、最初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし、「假入學及競爭試験に合格」した者が、9月に正規の新入学生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思われる)へ迎えられ、その後、志望する各科での専門科目の学習を3年経たうえで、本科4年目の最終学年で卒業製作に取り組んでいたものと思われる。修業年限は5年であった。富本が籍を置いた科は、「圖按科」であったが、「豫備ノ課程」の在籍中から、志望する「圖按科」の実技を一部受講していたものと思われる。

(3)富本憲吉「記憶より」『藝美』1年4号、1914年、8頁。

(4)大井健地「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講義(上)」『研究紀要』第1号、広島県立美術館、1994年、(1)頁。

(5)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、93頁。

(6)宮崎隆旨「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵・金銀彩の世界』(同名展覧会カタログ)奈良県立美術館、1992年、11頁。

(7)前掲「記憶より」、9-10頁。

(8)富本憲吉「わが陶器造り(未定稿)」、辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、30頁。

(9)『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられた説明文の一節。なお、本書には奥付が欠落しており、したがって、編者名、刊行年月日、出版社名を特定することができない。これについては、同書巻頭に所収の「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東京府知事男爵千家尊福」と記載されており、そこから推し量るしかない。なお、口絵は、「東京勸業博覧會美術館外景」。富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖案》は「圖案之部」の77頁に、南薫造の作品《花園》は「西洋畫之部」の71頁に掲載されている。

(10)東京市史編纂係編『東京勧業博覧会案内』裳華房、1907年、19頁。

(11)『東京勸業博覧會審査全書』興道舘本部、1908年、171-175頁。
 この本は、3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本したもので、そのうち、第二部(美術および美術工芸)および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果が所収された報告書は、以下のとおりである。
『東京勸業博覧會審査報告』巻壹、東京府廳、1908年。

(12)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、123頁。

(13)Edward F. Strange, ‘Needlework at the Liverpool School of Art’, The Studio, Vol. 33, No. 140, November, 1904, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1997, pp. 147-151.

(14)J. Taylor, ‘A Glasgow Artist and Designer: The Work of E. A. Taylor’, The Studio, Vol. 33, No. 141, December, 1904, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1997, pp. 217-226.

(15)外山滋比古ほか編『英語名句事典』大修館書店、1984年、327頁。

(16)東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表現への『ザ・ステューディオ』の影響のうち、卒業製作の作品に用いられている文字表現に限っていえば、土田真紀が、次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている。
 「アーツ・アンド・クラフツのコテージ建築を思わせる『音楽家住宅』設計案は、美術学校で学んだ成果というより、イギリス留学に向けての準備制作といった感じを与える。タイポグラフィーにはスコットランドの建築家マッキントッシュの影響も窺われる。恐らく雑誌『ステュディオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思われるが、世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り上げているのは、富本の留学の行方を暗示するものとして興味深い」(土田真紀「工芸の個人主義」『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代……光り耀く命の流れ』同名展覧会カタログ、三重県立美術館、1995年、217頁)。

(17)当時の東京美術学校におけるアール・ヌーヴォーに向けられた関心の背景は、おおよそ以下のとおりである。
 「……[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当時のパリはアール・ヌーヴォーの全盛時代であり、博覧会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから、低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比においてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに十分の迫力をもっていた。それ以前は純粋美術と応用美術を故意に区分し、応用美術を見下していた美術家も図案への関心を強め、彼らが帰国するや明治三十四年頃から各種の図案団体が生まれ、各地で図案の懸賞募集が盛んに行われるようになった。それまでの日本の工芸は、応用美術という語が示すように概ね絵画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げることに終始し、また本校の図案科においては、本来は創造のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古典からの借用となり、それが新鮮味のある図案の制作を妨げていたが、ここに漸くにして図案革新への気運が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、121-122頁)。