工芸における「近代」という扉を日本が開こうとするこの時期にあたって、「民間藝術」研究の重要性を主張する富本にみられる視座と、その先例として英国にあって、中世の社会と芸術に向けられたウィリアム・モリスのまなざしとは、疑いもなく、何かしら通底するところがある。
半世紀以上もの時間的な差と、幾多の実態の相違があったにせよ、英国と日本が、それぞれに近代的な産業社会へ向けて進展する時代のプロセスのなかにあって、たとえば富本とモリスのような日英の工芸家のあいだに、そうした類似した時代に対する近似した反応が存在するとするならば、日本にとってそのインスピレイションの源泉が英国にあったことは紛れもない事実として認めなければならないものの、それでもなお、ある意味で人類の発展史における共通する通過点として理解することもまた、可能なのではないだろうか。そうした観点に立って、モリスと富本の幾つかの指標となる言説を拾い出してみると、おおかた以下のようにまとめることができる。
まず、民間芸術について。富本は、「民間藝術」と呼ばれるものを「歌謡、舞踏、織物、染物類から小道具、棚、箱類等を造る木工に至る迄、捨てる事の出來ぬ面白みを持つたもの」1という。それに対して、一八七七年にモリスは、「装飾芸術」(のちに「小芸術」に改題)と題した講演で、民間芸術に相当する芸術を「日常生活において慣れ親しんでいる事柄をいつでも、いくらかでも美しくしようと努力してきた人びとによって展開される多くの芸術の一団」2とみなしたうえで、具体的な例として「住宅建設、塗装、建具と大工、鍛冶、製陶と硝子製造、織物などなどの職業で構成される事実上の一大産業」3を挙げていた。一九世紀のはじめに、『職業の本――実用芸術ライブラリー』4という本がロンドンで出版されている。以下はそのなかに掲載されている銅版画による挿し絵の一部であるが、【図三七】は製本職人、【図三八】は織物職人、【図三九】は更紗職人、【図四〇】は真鍮細工職人、そして【図四一】が家具職人を示している。モリスはこうした人たちによって製作されるものを民間芸術(あるいは民衆芸術)と呼んだのであろうし、その後富本がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で感動した工芸品の多くも、こうした人たちによって生み出されたものであったと思われる。
それでは次に、家を建てる人については、どう考えていたのだろうか。富本は、「それ等[民間藝術]のうち彼れ等の住宅は最も力を籠められた主要な藝術品であると考へます。勿論家を建てるのは村の大工ですが、此れも半農者で誰れか家を建てると言はねば矢張り鎌を持つて居る連中で、大工の技術としては實にヒドイものです。その大工と手巧者な中年者と家を建てる百姓、それ等の友達、親類のものが手傳つて屋根も葺けば壁も塗る譯で、大工と云つても大工以外の仕事も致します」5と述べている。同じくモリスも、一八七九年の「民衆の芸術」と題された講演において、「[人びとが毎日住んでいた家や、人びとが礼拝をしていた、もはや顧みられることもない教会を]デザインし装飾したのは誰だったのでしょうか……ときにはおそらく、それは修道士、すなわち農夫の兄弟であったであろうし、たいていの場合は農夫の他の兄弟、すなわち、村大工、鍛冶屋、石屋、その他いろいろ――つまり『普通の人』だったのです」6との認識をすでに示していた。
さらに進んで、サウス・ケンジントン博物館については、どう受け止めていたのであろうか。モリスは同じく「民衆の芸術」の講演のなかで、このように話している。「私同様に、みなさまの多くも……たとえば、あのすばらしいサウス・ケンジントン博物館の陳列室をお歩きになり、人間の頭脳から生み出された美をご覧になると、驚きと感謝の気持ちで一杯になられたことでしょう。そこでどうか、これらのすばらしい作品が何であり、どのようにしてつくられたのかを考えていただきたいと思います」7。そして、それに応えるかのように富本は、「繪と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンジントン博物館[富本が訪問したときの正式名称はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]で、その考へで並べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります」8と、隠すことなく、この博物館への「驚きと感謝の気持ち」を告白するのである。同様に、モリスその人についても、尊敬の念をもって、以下のような讃辞を呈する。
「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します9、
最後に、絵画や彫刻のような大芸術と、いわゆる装飾芸術と呼ばれる小芸術について、両者はそれぞれにどのような理解を示していたのか、それを見ておきたいと思う。
モリスは、少数者によって享受される芸術を「民衆の芸術」の講演で、こう断罪した。「少数者[a few]によって少数者[a few]のために公然と培われた芸術……このような芸術の一派の将来的見通しに多言を費やすのは悔いの種となるでしょう。この一派は……旗印として『芸術のための芸術』というスローガンを掲げています。それは、一見無害なようですが、実はそのようなことはないのです」10。モリスによれば、芸術は特定の一部の階層の人にしか理解できない特殊な表現ではなく、普通の人びとが、生きるために製作し、同時に普通の人びとによって生活のなかで使用されるような、まさしく万人のために存在するものでなければならなかった。一方「装飾芸術」の講演では、大芸術と小芸術が分離することの危険性を次のように分析していた。
小芸術は取るに足りない、機械的な、知力に欠けたものになり……一方大芸術も……小芸術の助けを受けず、両者は互いに助け合わなかったために、必然的に民間芸術としての権威を失うことになり、一部の有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物、すなわち巧妙な玩具[toys]にすぎないものになっている11。
一方の富本は、「[美術]新報にテコラティブ、アーティスト[装飾芸術家]にもインディビジアリテー[作家の個性]云々と書いておいた」12とも、また「繪よりも彫刻よりも、日常自分等の實際生活に近くある工藝品を、ナイガシロにされて居る事に腹が立つ」13とも、述べている。そして、さらに鋭く、モリスと全く同じく「少數人(=少数者)」や「オモチヤ(=玩具)」といった言葉を使って、こうも断言するのである。
今迄の工藝品と名のつくものは只に少數人のために造られたオモチヤの樣なものでないでしようか14。
以上のように見てゆくと、モリスと富本の言説のなかに、幾つもの類似した認識や表現を見出すことができるであろう。疑いもなく、ふたりの芸術観や製作態度は、それほどまでに時空を超えて重なり合っていたのである。これは、産業革命を経て近代社会へと向かう両国の文明史的発展段階における共通の通過点がもたらしたひとつの必然的な結果であるとみなすことができる一方で、明らかに富本のモリス受容の一端を示すものでもあった15。
それでは富本は、実際にモリスが書いていたものについては、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』以外に、実証できる範囲にあって、一体何を読んでいたのであろうか。富本は、一九一二(明治四五)年の二月号と三月号の二回に分けて「ウイリアム・モリスの話」と題するその人の評伝を『美術新報』に寄稿しているが、そのなかで次のように述べている。
一千八百八十二年に出版された諸大家の美術上の意見を集めた「ゼ レッサー アーツ オブ ライフ」の内に彼の織物に對する意見が有ります、此れは重に歴史的の見地から論究したものですが、別に機械、アニリン染料、製作者の考へ、模樣等に付いて面白く、私にとつて大變利益な事を申して居りますが、こゝでは長くなるから申し上げられません、時機を見て、出來ればモリスの講話集を全體として御話し申したいと考へて居ります16。
富本の読んだ「ゼ レッサー アーツ オブ ライフ」は、『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』のなかに所収されている六つの講演録のひとつであったにちがいない。この書物には、モリスが書いたものとしては「パタン・デザイニングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)17のふたつの原稿が含まれているが、「ゼ レッサー アーツ オブ ライフ」、つまり後者の「生活の小芸術」は一八八二年の一月にバーミンガムにおいて講演されたもので、図版はない。この本の東京美術学校の購入記録を調べてみると、一九〇二(明治三五)年二月となっている。これは富本が入学する二年前に相当し、したがって、富本がこのモリスの「生活の小芸術」を読んだのは、留学中や帰国後ではなく、早くも在学中の文庫(図書館)においてだった可能性も十分に残されている。しかしながら、富本自身については、ほとんど「小芸術」という用語を使用した形跡は残されていない。そうであれば、英国に遅れてこの時期の日本にあって、この「小芸術」に関連するような表現形式や芸術領域にかかわる実践や記述の痕跡は残されていないのであろうか。もしその痕跡が認められるとするならば、それは、上で見てきたような、モリスのいう「 小芸術 ( レッサー・アート ) 」や「 装飾芸術 ( デコラティヴ・アート ) 」、あるいは「 民間芸術 ( ポピュラー・アート ) 」と、どのような違いなり類似性があったのであろうか。さらにはまた、富本がその重要性を指摘する「民間藝術」と呼ばれる芸術や「半農半美術家」によって生み出される芸術との異同は、どうだったのであろうか。
当時の主要美術雑誌のひとつであった『美術新報』におけるモリスに関する最初の言及については、一九〇三(明治三六)年一二月二〇日付の『美術新報』(第二巻第二〇号)に掲載の「歐洲輓近の装飾に就て《中》」のなかに見出すことができる。これは、日本美術協会における工科大学教授の塚本靖の講演記録であるが、そのなかにあって、アール・ヌーヴォー紹介の枕詞として、次のようにささやかにモリスとアーツ・アンド・クラフツが取り上げられていた。
装飾藝術の方は英吉利と佛蘭西と殆んど同じだが英吉利が少し前になる「モリス」(Morris)と云ふ先生此人及其の門人がどうも此の やかましい ( ・・・・・ ) [古代の復古に基づく釣り合いや割り合いなどに関する] 法則を脱して ( ・・・・・・ ) 装飾の美の ( ・・・・・ ) 原則に ( ・・・ ) 立戻つて ( ・・・・ ) それを ( ・・・ ) 土臺として ( ・・・・・ ) 装飾にも ( ・・・・ ) 家具にも ( ・・・・ ) 意匠を ( ・・・ ) して見たら ( ・・・・・ ) 宜いだらう ( ・・・・・ ) といふ ( ・・・ ) 考を抱いて ( ・・・・・ ) これを ( ・・・ ) 盛んに ( ・・・ ) やりました ( ・・・・・ ) 。「エリサベス」(Elizabethan)式とか「アン」女王(Queen Anne)式とか「チツペンデール」(Chippendale)とか云ふ流儀の家具を據り所としない。此等をすつかり離れて一つ何かやるといふことに着手して其の藝術を名附けて「アーツ、アンド、クラフツ」(Arts and Crafts)といふ即ち佛蘭西の「アールヌーボー」(Art Nouveau)のことでございます18。
記述内容の妥当性は横に置くとして、しかし、ここではまだ、モリスの「小芸術」についての言及はみられない。「小芸術」および「小芸術品」という言葉の『美術新報』における最初期の使用例は、「 小藝術品 ( マイノルアート ) 作家としての岡田三郎助氏」と題した、坂井犀水が一九一一(明治四四)年に執筆した作家紹介の一文だったものと思われる。これは、同年四月に吾楽殿で開催された『美術新報』の主催による「新進作家小品展覧会」のすぐのちに発表されたもので、岡田をここで紹介する理由について、坂井はこう述べる。「吾樂に陳列せられたる幾多愉快なる作品の内に、洋畫家岡田三郎助君の皮細工、及び薄板金屬細工の作品は、頗る雅至に富んで居るのみならず、藝術家が工藝的作品を試みたる點に於て、大に吾人の意を得たるが故に、茲に 小藝術品 ( マイノルアート ) 作家として、同氏を紹介することゝしたのである」19。掲載された図版は七点あり、皮細工および金属薄板細工のための用具や、岡田の作品のひとつである「皮細工並に銀細工篏込木製煙草入箱」がそのなかに含まれる。坂井は、詳しく岡田の作品を紹介したあと、最後に、「此小藝術は趣味の養成上、又淸雅な慰みとして、婦人には適當な手藝である。本誌の此紹介が、若し其端を我國に開くことになれば幸である」と結ぶ20。明らかにわかるように、坂井のいわんとする「小藝術」は、モリスの「小芸術」とも、富本の「民間藝術」とも異なる。それでは、何かほかに「小芸術」の用例はこの時期残されていないのであろうか。
確かに、富本がイギリスへ向けて出発する一九〇八(明治四一)年に、岩村透は、モリスの「 民間芸術 ( ポピュラー・アート ) 」を連想させるような、「平凡美術」なる用語を使って、その重要性を次のように『方寸』において説いている。
私が今「平凡美術」と題して述べやうとするのは繪畫彫刻建築以外日常の生活に於て我々の美欲を満足させる處のものを指したのである。……平凡な美術が興らなければ繪畫彫刻等建築の美術も發達するものではない。……國民の間に平凡美術の注意を促して日常生活に於ける美欲の満足を圖りたいと思ふのである21
しかし岩村は、「平凡美術」という用語の典拠については明らかにしておらず、そのうえ、日常生活のなかの美に着眼しているとはいえ、少なくとも内容的には、日本人の日常の行動や振る舞いに求められる美質を指し示す、国家主義的な道徳的観点に立った用語としてここで使用していることを勘案すれば、この時期岩村に、モリスの「小芸術」が念頭にあったとは、とても考えにくい。
富本が「小芸術」という言葉を積極的に使用しないのは、これまでに知りえたモリスの「小芸術」とこの時期日本で使用されはじめたこの用語との内容的乖離に気づいたことに遠因があったのかもしれない。
「工藝品と名の付く、繪彫刻以外の美術品にも、繪や彫刻に拂ふ敬意と異はない程度の貴重さを持つて向はねばならぬ事は勿論と考へます」22と主張する富本は、明らかに、絵画も彫刻も工芸も同等の価値をもった芸術であることを確信していた。かといって工芸は、一部のお金持ちの所有欲や目利きの鑑賞眼を満たすためにあるのではない。ましてや、『美術新報』の坂井が指摘したような、大作家の余技なるものでも、女性の手芸のたぐいでもなかった。「自分には出來ないが、出來れば模樣を繪や彫刻と同じ樣に自分のライフと結び付けて書いて見たい」23という言説からして、富本が考える工芸や模様は、普通の人びとの日常の生活のなかから立ち現われ、同じく生活のなかに息づくものでなければならなかった。たとえば、農村部において伝承されてきている「民間藝術」や、いまだ文明化されていない土着の人びとがつくり出す芸術のように。
明らかに富本の芸術思想は、すべてを西洋の規範にゆだねているわけでもないし、すべてを日本の伝統につなぎとめようとしているわけでもない。富本は、一方で、はるかに先行するモリスという巨人の哲学と実践につきながら、その一方で、継承されえるべき「民間藝術」という土着性を援用しつつ、西洋の絵画や彫刻に認められるような表現上の諸価値を、日常生活という現実世界における製作と使用の形式である工芸美術や装飾芸術にも等しく見出そうとしているのである。そこには生成を待つ「近代工芸」という名の大きな宇宙があったといえる。しかし、こうした富本の芸術観を当時の日本の美術界は、ほとんど理解ができず、受け入れることができなかったのではないだろうか。そこで富本は、本来あるべき芸術の病弊に対する「治療法として全般的な反抗」24をモリスが提案していたことにあたかも追従するかのように、イギリスから帰国するとただちに、しばしば孤独と絶望の淵に立ちながらも、すでに前の幾つかの章において具体的に述べているように、体制や権威に対する不満や批判を露わにしてゆくのである。
すでに第六章「ロンドンでの学びの場」において引用しているように、富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でモリスの作品を目にしたときの感動を、帰国後に執筆した「ウイリアム・モリスの話」のなかで、次のように告白していた。
初めて見た時から勿論大變面白いものであると考へて居りましたが、追々と見なれるに連れて、たまらなく面白いと考へました、眞面目な、ゼントルマンらしい、英吉利風な作家の、けだかい趣味が強く私の胸を打ちました25。
しかしながら富本は、モリス作品に対して、終生一貫して賞賛したわけではなかった。ロンドン留学から約半世紀が経ったのち、富本は、晩年の一九五六年に口述された「自伝」のなかで、次のように「モリスの芸術」について述懐している。
モリスの芸術はどうもオリジナリティが乏しいので期待はずれでした26。
富本は、同じく晩年の一九六一年の「座談会」においても、ロンドン時代を回顧するなかで、モリス作品のオリジナリティーの欠如について再び触れて、こう発言している。
あれ[モリス]の作品を見たときは失望しました。ことに図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用しているんですからね。古い西洋のものですけれどもね。それでモリスという人は理屈だけをいう人で、オリジナリティのない人だと思いました。オリジナリテ[ィ]のない人は、こっちはもうひどくいやなんですからね27。
富本が、モリス作品におけるオリジナリティーの欠如について言及したのは、晩年のこの二回のみである28。一方、富本の渡英は、生涯にわたってこのときの一回きりであった。それでは具体的には、どのモリス作品のどのようなところに富本は失望したのであろうか。つまり、モリスをオリジナリティーのない人とみなした富本の根拠とは、一体何だったのであろうか。
モリスの伝記作家であるフィリップ・ヘンダースンは、モリスのサウス・ケンジントン博物館での研究の様子を以下のように叙述する。
彼[モリス]も[フィリップ・]ウェブも、ともに率直に認めていたように、ふたりは、サウス・ケンジントンにおいてサー・ヘンリー・コウル、のちにはJ・H・ミドルトンによって収集された展示物のなかから、自分たちが手本とすべき多くのものを見出した29。
モリスは、過去の作品を研究し、自己の製作の手本を探索する場としてこの博物館を活用した。そしてまたモリスは、その博物館内の図書館へもしばしば通ったことだろう。レイ・ワトキンスンは、自著の『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』のなかで、モリス自身の蔵書本でもあった、ジョン・ジェラードが収集した植物によって構成された『草本誌つまり植物の概略史』のなかの一頁を図版として挙げたうえで、「彼[モリス]は、染織術を学ぶ際のひとつの情報源としてこの本を利用したし、この本が、パタンのアイデアを得るためのひとつの源泉となっていたとも考えられる」30との指摘をする。この『草本誌つまり植物の概略史』【図四二】という本は、長いあいだ読み継がれてきた最も著名なイギリスの草本誌である。一五九七年にジョン・ジェラードによって出版され、一六三三年には、トーマス・ジョンスンによってオリジナル・テクストに手が加えられ、さらに内容が充実した改定版が出版された。この改定版には、おおよそ二、八五〇の植物が取り上げられ、約二、七〇〇のイラストレイションが掲載されている。まさにこの本は、ルネサンス植物学の恒久の記念碑となるものであった。最近にあっては、一九七五年に、その復刻版も出版されている。ワトキンスン以外にも、モリスがタペストリーや壁紙を製作するにあたってこの本を参照していたことを指摘している研究者は少なくない。今日までにあっては、こうした示唆はまさしく一種の伝説ともなっているのである。
富本が批判の対象としているのは、間違いなく、モリスの植物をモティーフにした作品であろう31。そして、富本がいっている「図書館で植物のものを見た」という指摘内容は、ほぼ間違いなく、その博物館の図書館が所蔵していた『草本誌つまり植物の概略史』のなかに掲載されていた植物の図版のことであったと考えられる。そうであるとすれば、それに該当する植物は、おそらく二階の「七二室」に展示されていたであろうと思われる、壁掛けのためのデザインのモティーフであるアーティチョーク以外にはない。なぜならば、壁紙のモティーフに使用されていたキクは、だいたい一八世紀末から一九世紀のはじめころに中国と日本からイギリスに伝わった新しい植物であり、当然ながら、この『草本誌つまり植物の概略史』には記載されていないからである。富本は、この下図を見ると、すぐにも「七七室」か「七八室」の図書館の閲覧室に入り、『草本誌つまり植物の概略史』の頁をめくり、アーティチョークの図版【図四三】(【図四四】)を発見したものと思われる。上に挙げたワトキンスンをはじめとする、モリスと『草本誌つまり植物の概略史』の関係性について示唆している多くの研究者の見解に従うならば、《アーティチョーク》のためのデザインを製作するに際しても、モリスが『草本誌つまり植物の概略史』のなかのアーティチョークの図版を参照していた可能性は十分にありえるものと思われる。しかし、【図四五】と【図四三】(【図四四】)とを引き比べた場合、モリスのデザインは、源泉や参照となるものが何であったのか、その痕跡をとどめないほどまでに明らかに進化し、富本が指摘する、「そっくりそのまま使用している」とは、一見して認めがたい、独自のものになっているのである。
ヘンダースンは、モリスの過去を参照する行為と実際のモリス作品との関係について、こう指摘している。
それ[サウス・ケンジントン博物館はモリスにとって大きな存在であった]にもかかわらず、モリスの個性は、多くのデザインのなかにとても力強くはっきりと現われている。そのために、こうした伝統への依存によって、デザインの新鮮さやのびやかさが損なわれるといったようなことはほとんどありえない。――その主たる理由は、彼の場合、パタン・デザイニングの才能が自然への強い関心と分かちがたく結び付いていたことにあった32。
富本はモリス作品への失望の根拠として、「図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用している」ことを挙げているが、ここに、ふたつの疑問が生じてくる。ひとつは、「図書館で植物のもの」といっているのは、おそらく『草本誌つまり植物の概略史』であろうが、どのようにしてこの書物の存在を富本は知るに至ったのであろうか。いまひとつは、モリスの《アーティチョーク》のためのデザインと『草本誌つまり植物の概略史』のなかのアーティチョークの項目に掲載されている図版とを見比べて、富本は本当に独力で両者の類縁性を見抜くことができたのであろうか。これらのことは、特別の知識や情報の介在なしには、とうてい不可能だったように推量される。おそらく、モリスの作品と『草本誌つまり植物の概略史』との関係を知りえる立場にあった、たとえば、この博物館の学芸員か富本が当時通っていた中央美術・工芸学校の教師のような人から助言なり、教示なりを得て、「図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用している」ことに結果として気づかされ、追認したということではないだろうか。それにしても、「そっくりそのまま使用している」形跡が存在しないのは、誰の目にも明らかであった。その意味で、モリスは、過去の文献は参照していたとしても、決して作品において「オリジナリティのない人」ではなかった。
それにもかかわらず富本は、「それでモリスという人は理屈だけをいう人で、オリジナリティのない人だと思いました。オリジナリテ[ィ]のない人は、こっちはもうひどくいやなんですからね」といっている。しかしながら、この批判は、モリス作品を見たとき、同時に富本の心に湧き出でた思いではないのではないかと考えられる。おそらく誰かに示唆されたことの記憶への晩年における追想の一部なのであろう。というのも、ロンドンに上陸する直前の美術学校時代に製作した、一九〇七(明治四〇)年の東京勧業博覧会への出品作《ステインド・グラス図案》も、一九〇八(明治四一)年の卒業製作《音楽家住宅設計図案》も、ともに外国雑誌に掲載された作品の参照や転写の痕跡が認められ、一九〇九(明治四二)年のロンドン滞在中には、いまだそうした行為に対する批判力は、富本のなかに養われていなかったと思われるからである。そうであるとするならば、この言説は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で他人からの示唆によってもたらされたモリスの製作手法に対しての、そののちに形成された批判力でもって言及された、過去の体験の追憶的蘇りとして理解されなければならないことになる。
それでは、富本の、個性や独創性の重要性を唱える闘いは、いつ、どのように萌芽していったのであろうか。
帰国後、しばらくすると富本は、自分の製作態度に大きな疑問を感じ取り、苦悶する。以下は、松屋製二百字詰め原稿用一四枚にペンとインクで縦書きされた「模様雑感」の一部である。
今迠やって来た自分の模様を考へて見ると何むにもない。実に情け無い程自分から出たものが無いのに驚いた。……学生時代の事を思ひおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る……。全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じ合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある。……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい。……
一切の製作を止めて暗い台處から後庭に光る夏の日を見ながら以上の考へにつかれた自分は旅に出た33。
南薫造に宛てて出されたこの「模様雑感」の末尾には、「十二月号の新報か現代洋画かへ出したいと思ふて書きて見たが書きたい事ばかり多くてマトマラないので、此の位でよした。……讀むだアト御返しに及ばない」34の一言が書き加えられている。差出日は、一九一三(大正二)年の一一月六日。過去の先行作品を安易に踏襲する模倣主義的な製作手法からの脱却へ向けての闘いが、このとき、もうすでにはじまっていたのであった。
(1)富本憲吉「百姓家の話」『芸美』第1巻第1号、1914年、7頁。
(2)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 4.[モリス『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、10頁を参照]
(3)Ibid.[同『民衆のための芸術教育』、同頁を参照]
(4)The Book of Trades, or Library of the Useful Arts, Part III, Tabart, London, 1807.
(5)前掲「百姓家の話」、同頁。
(6)May Morris (ed.), op. cit., p. 41.[前掲『民衆のための芸術教育』、53頁を参照]
(7)Ibid., p. 40.[同『民衆のための芸術教育』、52頁を参照]
(8)富本憲吉「工藝品に關する手記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、8頁。
(9)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、27頁。
(10)May Morris (ed.), op. cit., pp. 38-39.[前掲『民衆のための芸術教育』、50頁を参照]
(11)Ibid., pp. 3-4.[同『民衆のための芸術教育』、10頁を参照]
(12)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、28頁。
(13)富本憲吉「半農藝術家より(手紙)」『美術新報』第12巻第6号、1913年、29頁。
(14)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。
(15)郡山中学校および東京美術学校在学中のモリス受容の詳細については、以下の拙論を参照のこと。中山修一「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」『表現文化研究』第6巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2006年、35-68頁。また、英国留学中のモリス受容の詳細については、以下の拙論を参照のこと。中山修一「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅰ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるウィリアム・モリス研究」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、27-58頁。
(16)前掲「ウイリアム・モリスの話(下)」、22頁。
(17)William Morris, ‘The Lesser Arts of Life’, Reginald Stuart Poole, Lectures on Art, Delivered in Support of the Society for the Protection of Ancient Buildings, Macmillan, London, 1882, pp. 174-232.
(18)塚本靖氏演「歐洲輓近の装飾に就て《中》」『美術新報』第2巻第20号、1903年、2頁。
(19)坂井犀水「小藝術品作家としての岡田三郎助氏」『美術新報』第10巻第11号、1911年、16頁。
(20)同「小藝術品作家としての岡田三郎助氏」、18頁。
(21)岩村透「平凡美術」『方寸』第2巻第5号、1908年、2-3頁。
(22)前掲「工藝品に關する手記より(上)」、同頁。
(23)前掲「半農藝術家より(手紙)」、同頁。
(24)May Morris (ed.), op. cit., p. 166.[前掲『民衆のための芸術教育』、78頁を参照]
(25)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14頁。
(26)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年9月12日。
(27)富本憲吉、式場隆三郎、対島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号、1961年9月、44頁。
(28)その翌年の一九六二(昭和三七)年に、つまり死去する前年に発表された「履歴書」には、モリス批判に相当する記述はもはや認められず、「ここで[ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で]モリスの作った 壁紙 ( ママ ) の下図[刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン]を初めて見て英国風の高い趣味に胸を打たれた」と富本は改めて述懐しており、帰国後の一九一二(明治四五)年に執筆した評伝「ウイリアム・モリスの話」におけるモリス評価の論調へと再び回帰することになる。
(29)Philip Henderson, William Morris: His Life, Work and Friends, Thames and Hudson, London, 1967, p. 65.[ヘンダースン『ウィリアム・モリス伝』川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、1990年、109頁を参照]
(30)Ray Watkinson, William Morris as Designer, Studio Vista, London, 1967, caption of figure 78.[レイ・ワトキンソン『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』羽生正気・羽生清訳、岩崎美術社、1985年、図78のキャプションを参照]
(31)富本憲吉がロンドンに滞在していたとき、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館がどのようなウィリアム・モリスの作品を所蔵していたかについては、以下の拙論を参照のこと。 中山修一「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅰ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるウィリアム・モリス研究」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、27-58頁。
(32)Philip Henderson, op. cit., p. 65.[前掲『ウィリアム・モリス伝』、109-110頁を参照]
(33)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、74-76頁。
(34)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、77頁。