確かに富本一枝自身は、自分の生涯を文にまとめることはなかった。しかし、その生涯にあって交流した友人たちが一枝について書いた。一枝に対する「他者の評価」である。ある者は、命の恩人として一枝に感謝の思いを捧げ、またある者は、一枝が自分の人生の先導者であったことに敬意を表わし、そしてある者は、開花しなかった一枝の陰の芸術的才能をほめたたえた。それでは、平塚らいてう、神近市子、丸岡秀子、帯刀貞代、そして志村ふくみの文章のなかから該当する箇所を短く拾い集め、以下に紹介しておきたいと思う。
平塚らいてうがエピソードとして伝記に書き残しているのは、娘の曙生が急性盲腸炎を発症したときの様子である。留守中の出来事であった。らいてうは、このように書く。
「昭和五年十月に大阪でひらかれた、関西婦人連合大会に、わたくしは関東消費組合の無産者組合代表として出席しました。……その留守中に……当時曙生は、成城小学校を卒業したあと、自分の選択によって自由学園女子部に進み、二年に在学中でした。とつぜん腹痛がはじまったことについて、日ごろから我慢づよい性質の曙生は、父親にもそのことを告げず、一晩中痛みをこらえていたのでした。そして、ようやく翌日になって招いた村の医者の、決定的な誤診によって、まさに曙生は、死の淵をのぞくことになったのです。……報せで駆けつけてくれた富本一枝さんの機敏な働きで、曙生は赤十字病院に運ばれて手術を受け、すでに手遅れを案じられていた症状にもかかわらず、奇跡的に回復することができました」1。
しかし、その予後は思わしくなく、三回の手術を繰り返し、二年にわたる療養生活を強いられることになった。らいてうの文は続く。「曙生の発病以来、富本一枝さんの示してくれた温かい心遣いは、それによって曙生の生命が救われたばかりか、病児を守って看病に専念するわたくしを、大きく励ましてくれるものでした」2。
神近市子は、一枝の才能を評価した。一九六五(昭和四〇)年一一月号の『文學』に、「雑誌『青鞜』のころ」と題した神近への単独インタビュー記事が掲載されている。一枝が亡くなる前年である。そのなかで、神近は一枝に言及して、このようなことを述べている。
「あのめぐり合いも、不幸でしたね。このあいだ有名な占いの人が、あの人をみて、ひょっと言ったことがあるんです。この人は大天才の星がある、ところが家事星というのが、非常に大きく働きかけて、それに天才のほうがくわれてしまったって。あの人の生涯を見れば、絵描きとしては、もしもお父さんの後を継ぐということで一本でいけば、そうとう伸びています。今でも、とってもいい字を書きますしね。」「ですから、その占いの人が言ったという星の話はなるほどというところがあります。いまでも風采からしても、言うことからしても、相当変わっていますからね。その点富本[憲吉]先生のほうがかえって、才能的にはもって生まれたものは少なかったかもしれません。先生の絵とか作品とかに対する彼女のアドバイスというものが、批評の役割を相当果たしていたでしょう。だから、富本先生の作品は、[戦後一枝と別れて]あちらにいかれてからの作品よりも、三十四、五から五十代までの作品がいちばんいいいといいますね」3。
一枝と丸岡秀子のあいだには、かつてこのようなことがあった。一九二三(大正一二)年、奈良女高師の四年生であった秀子は、学生最後の夏を、富本家の海浜の休暇に加えてもらって尾道の向島で過ごした。そのときそこへ、秀子の先輩で友人でもあった美貌の「Mさん」が一枝を訪ねて来て、ふたりは、親密に泳ぎを楽しんだ。その親密さに秀子が傷ついたのではないかと疑った一枝は、そのようなことが書いてあるかどうかを確かめるために秀子の日記を盗み見た。それから十数年の月日が流れた。その間、富本一家は安堵村から東京の千歳村へ移住し、一方の秀子は、就職、結婚、出産、夫の死、再就職と、若くして人生の過酷さを十分に味わっていた。正確に時期を特定することはできないが、秀子が一枝と一緒に成城の町中を歩いていたおりのことである。秀子がひとつの話題を切り出した。その場面が、一九八三(昭和四八)年に偕成社から出版された秀子の自伝的小説『ひとすじの道』に表われているので、そこから適宜引用するかたちで、以下に、その場面を再現したいと思う。本文中では「恵子」という名で登場するが、これが秀子であることはいうまでもなく、したがってここでは、「秀子」に置き換えて表記することにする。
秀子には、「Mさん」のことも、どこか頭の片隅にあったものと思われる。秀子は一枝に向かって、ずばりと切り出す。「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」。このぶつけられた言葉にいらだつ一枝は、「それが私へのお返しですか」と反駁するも、秀子は、「あなたは美人がお好きでした。それはみとめていらっしゃるでしょう」と、追い打ちをかける。一枝は「この奴」といった表情を見せた。この日別れたすぐあとに、一枝からの手紙を秀子は受け取る。それには、こう書かれてあった。「美人に生まれることは、よきかなです。しかし、心のむなしい美は、すぐに厭かれてしまいます。形ばかり美しくなっても、中身のない美人はごめんです。目をたのしませるのも、時間の問題です。ばかなことをいうものではありません。あなたの肉体が弱っているので、そんなことがいえるのです。なぐさめではありません」。この手紙が届いた翌日、秀子は一枝を訪ねた。「昨日のお手紙で、わたしを慰めたり、納得させたとは、まさか思ってはいらっしゃらないでしょうね。わたしがいいたいのは、これまでのあいだ、さんざんご自身を浪費なさったことが残念でならないのです。誰にしても、あなたから愛されることは、喜びだったと思います。おなかの底からきれいな、あなただからです。だが、あなたご自身の仕事が、いくらでも、おできになれる環境にいらっしゃりながら、その才能をお持ちになりながら、あなたは大切なエネルギーを浪費なさった、分散なさってしまったと思うことが残念なんです」。絵や書の製作あるいは小説の執筆こそが一枝が開花させるべき天与の仕事であると感じていた秀子の目には、同性へ向ける一枝の性的指向がエネルギーを浪費、分散させてしまい、その結果、本来の自分の仕事がおろそかになっているように映るのである。一枝はこの痛烈な指摘に抗議した。「あなたは、ひどい。あなたのことだけを思っていたこともあったのに……」。それに対して秀子は、一枝の美質を認めたうえで、次のような言葉を使って、これまでに受け取った恩恵の数々に感謝の気持ちを示したのであった。「わかっています。わたしはあなたから、他の人のように溺愛はされませんでした。だが、どれだけ励まされたか、わからないんです。それだけでよかったのです。もし、あなたがいてくださらなかったら、わたしは生きていられなかった時もありました。わたしは、あなたから、どっさりのことを学びました」4。
当時、無産婦人の労働者としての意識を覚醒させる教育と組織つくりとに携わっていた帯刀貞代は、一枝との出会いを次のように振り返る。
「私が富本さんにはじめておめにかかったのは、昭和のはじめだった。そのころ私は江東の亀戸で、女子労働者のためのささやかな塾をひらいていて、富本さんは神近市子さんを誘って、そこをみにこられたのだった。そのつぎのあざやかな記憶は、昭和大恐慌のさなかで、塾にきていた女子労働者たちの六十日にわたる合理化・工場閉鎖とのたたかいが惨敗したあと、こんどは、こちらから富本さんをお訪ねしたときのことである。……まだそのころ丘の上にただ一軒しかなかった富本さんの家は、空気も樹木も、花の色もキラキラ輝いてみえた。それいご四十年ちかく、病弱な私は言葉につくせないお世話になった」5。
一九五七(昭和三二)年に帯刀は、岩波書店から『日本の婦人――婦人運動の発展をめぐって』を出版することになる。そのとき、その本の扉の裏に帯刀は、「この貧しき書を富本一枝様に捧ぐ」という献辞を添えた。
一枝は、夕陽丘高等女学校の出身で、妹の福美もこの女学校に通っていた。そのときの福美の同級生に小野 豊 ( とよ ) がいた。三人は、よく一緒になって遊んだ。その小野豊の娘が、染織家として大成する志村ふくみ(一九二四年生まれで、「ふくみ」の名は、一枝の妹の福美の名からとられているという)なのであるが、彼女のエッセイに、「母との出会い・織機との出会い」と題された一文があり、そのなかで、母である小野豊が、若き日に一枝と偶然にも再開し、その後安堵村に一枝を訪ねていたことを紹介している。
「やがて三児の母となった或る日、阪急電車の中で、音信の絶えて久しい尾竹一枝さんにばったり出会った。その時は既に結婚され、富本憲吉夫人になっていたのであるが、偶然の再会を喜び合い、その時より終生の深い友情で結ばれることになった。母はいまも小筥に一枝夫人の手紙を大切にしまっているが、巻紙にあふれるような豊かな筆致で、率直すぎるほどに母を戒め、いたわり、なかには三メートルに及ぶほどの手紙もある。先日、それをみせてもらっていると、はからずも再会の日の手紙が出てきた」6。
こうして、一枝と豊との交流がはじまった。ある日のこと、招かれて豊は、窯出しの日に安堵村を訪れた。「『女かて、自分の思いを貫いて生きている人がいる』母は心を揺さぶられて帰ってきた。その日から夫人の死に至るまで、五十余年、『富本さんから受けた恩は語りつくせるものではない』と常々語っている」7。
上で紹介した、一枝を鑚仰する文は、わずかにその一部でしかない。中江百合子や石垣綾子、そして藏原惟人や中村汀女も、そうした気持ちを書き表わしているし、それ以外にも、よく見れば、多くの人たちが、その列に加わっているにちがいない。
それでは、この「他者の評価」の核心部分を形成しているものは何か。よく読めばわかるように、上で紹介した誰の文においても共通して表われているのは、一言でいえば、「侠気的熱情」といったものではないであろうか。もしそうであるとするならば、そのような「侠気的熱情」、つまりは「人助けの精神」は、どこから生まれてきたのであろうか。それを考えるためには、一枝の幼少期まで遡らなければならない。
このころの一枝は、義賊に憧れていた。いとこの 親 ( したし ) に、こう語っている。
高等小学校のころには、さかんに義賊に憧れましてね、父に見つかると叱られるもんだから、押入れに隠れて、コッソリと鼠小僧の本などを夢中で読みました8。
これは、母親から譲り受けた正義感なり、他人思いの情感なりに由来していたのかもしれない。
母は、うそをつくことと怠けることが大嫌いだった。へつらったり、自分さえよければ人はどうなろうと平気な人間を、とりわけ好きでなかった。……
母がつねづね子どもにきかせていたことは、情のある人、思いやりのある人になることだった。一番はずかしいことは、困った人をたすけたことをいつまでも覚えていること。それと、「人のふり見て我がふり直せ」ということだった9。
一枝はまた、少女時代の父親を思い出し、次のようなエピソードを同じく 親 ( したし ) に語っている。
生来の発明狂といわれた父の越堂は、大阪在住のころにも、一時自ら粉歯磨を作っては売っていたという。「金盥に歯磨粉をいっぱい入れて、かきまわしている父の姿を、よく覚えています。たしか〈大和桜〉とかいうような名でしたが、袋に桜の花模様がついていたことを記憶しています。」一枝は、当時のことをそう語ってくれた。
「そのころ、売り出しのために、私は、チンドン屋の旗を持って、街中をねり歩き、ビラを配って歩いたものです」はじめて聞く彼女の少女時代の思い出である10。
「義賊的な精神」、あるいは「隠れた義の優越性」が母親譲りであると考えられる一方で、「チンドン屋の旗持ちとビラ配り的な精神」、つまり「即興的演劇性」が、生涯の一枝の行動に多少なりとも反映しているとするならば、それは明らかに、この父親から受け継いだものといえるであろう。
このように見てくると、どうやら一枝の人助けの精神は、母親の子育ての方針に由来し、人にものをあげたり、喜ばせたりする精神は、父親の性格が反映されているのかもしれない。さらにこれに、トランスジェンダーとしての一枝のセクシュアリティーがおそらく複雑に絡むであろう。これらの性格分析と実証は、今後のさらなる研究を待たなければならない。
(二〇二〇年)
(1)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、298-299頁。
(2)同『元始、女性は太陽であった③』、300頁。
(3)神近市子「雑誌『青鞜』のころ」『文學』第33巻第11号、1965年11月、68-69頁。前掲「雑誌『青鞜』のころ」『文學』、68-69頁。 さらに神近市子は、『神近市子自伝――わが愛わが闘い』のなかで、次のようなことを回想している。神近の東京日日新聞への入社のきっかけをつくったのは紅吉(富本一枝)の紹介によるものであった。結婚生活の場を安堵村に移すため紅吉が東京を立つ少し前のことだったのではないかと思われるが、神近が回想するところによると、「私をたずねて尾竹紅吉の使いという人があらわれた。手紙をあけてみると、東京日日新聞(いまの毎日新聞)で婦人記者をさがしているから、立候補してみないかと書いてあった。入社の希望があるなら、履歴書を持って新聞社に小野賢一郎氏をたずねてみろということであった」(神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、122頁)。紅吉は青鞜社の社員のころから小野とは面識があった。そうしたこともうまく作用して、以前からジャーナリズムに強い関心をもっていた神近は、希望どおりに入社が決まった。
(4)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、134-136頁。 また丸岡秀子は、富本一枝について、次のようなことも回顧している。「ことに、子どもを愛することにおいては誰も及ばなかった。『お母さんが読んで聞かせるお話』(A・Bの両巻ともに一九七二年、暮しの手帖社刊)という単行本を残しているが、彼女のお通夜の晩、近所の子どもたちが、次々に棺の前で泣いていた姿もまだわたしの記憶にある。それもいいかげんなものではない。わたしの娘も息子も、幼いときに体が弱く、何度か重症に陥ったことがあった。そんなとき、一枝さんは、青山の日本赤十字まで自分で出かけて、医者を連れてこなければ納得できない、という真剣さも見せた。その態度に打たれた赤十字の青柳先生のお手紙が、まだ大切に残っている。だから、彼女はわたしの十代の飢えについても、深い配慮で見守ってくれた。“耐えること、耐えた瞬間はすでに過去です”と書き送ってくれた言葉に、わたしの人生はどれだけ支えられてきたことかわからない」 (丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、31頁)。
(5)帯刀貞代「富本一枝さんのこと」『新婦人しんぶん』、1966年10月6日、3頁。
(6)志村ふくみ「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』駸々堂、1980年、25-26頁。
(7)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、同頁。
(8)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、234頁。
(9)富本一枝「母の像――今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編『子どものしあわせ』6月号(第121号)、草土文化、1966年、3頁。
(10)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、同頁。