著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』の第一六章「モリスの日本への影響」を書き終えました。第一節が「夏目漱石の英国留学とモリス」で、第二節が「富本憲吉の英国留学とモリス」です。書き終えて感じたことは、漱石の英国留学の目的と成果は、何だったのだろうか、ということでした。
それについては、富本憲吉の場合は明確です。本人がはっきりと、デザイナーで社会主義者のモリスの思想と実践を見るために英国に行った、と述べているからです。事実、現地では、モリス作品を多数所蔵しているヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参しては、所蔵作品に感動し、帰朝後は、その経験を織り交ぜながら、評伝「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に寄稿するのです。
一方の夏目漱石には、そうした明快さを示す資料は残されていないようです。文部省が発行した漱石の英国留学の辞令は、よく図版で目にするところですが、しかし、おそらく、それに先立って漱石が文部省に提出したであろうと思われる「海外渡航計画書」のようなものは、見る機会がありません。それがあれば、渡航の目的がはっきりするのですが。
留学中に文部省に提出した「滞在報告書」に関するものは、ほとんど白紙だったようです。これからも、漱石がロンドンでどのような研究生活していたのかが、はっきりと浮かんできません。むしろ、思考や行動の停止なり混乱なりを想像させます。事実、漱石が「発狂した」といった風聞さえ、本国に伝わる始末です。おそらくきっと漱石は、「発狂した」のでしょう。しかし、それは、病的な症状を指し示すものではなく、「精神の震え」のようなものだったのではないでしょうか。つまり、英国と日本の文明の落差に直面したときに発症する一種のカルチャー・ショックです。
そこから考えられるのは、漱石の無防備性です。つまり、自分が何者で、何のためにここにいるのかにかかわる、自覚の希薄性です。第五高等学校では、漱石は英語の語学教師を務めていました。留学中漱石は、熊本へは帰りたくないと漏らしています。それはどのような意味をもつのでしょうか。おそらくそれは、英語教師にもどるのではなく、英文学者へ転身したい、さらには、英文学者ではなく小説家として身を起こしたい、という願望発露の一端だったのではないでしょうか。
漱石は、目的が曖昧なまま英国の地を踏んだようです。その無防備さが、自分探しへと通じ、その一環として、懸命に英国の文学と絵画と向き合っていたものと推量されます。そして、漱石が気づいたのは、この国では、しばしば多くの場合、詩の主題と絵の画題が一致していることでした。漱石が、ラファエル前派の作品を多数所蔵しているミルバンクに新設されたナショナル・ギャラリーの分館(一九三二年以降、テイト・ギャラリーと呼ばれるようになり、現在は、テイト・ブリテンへと改称)へ好んで通っているのも、そのことへの関心の強さを表わしています。
かくして自分探しの英国での二年間が終わり、漱石は帰国の途に就きます。そして、五高を依頼免官となると、東京帝国大学の英文学科の講師職に就任します。そしてそののち、小説家として身を起こすことになるのです。
それでは、英国での留学中、漱石の心を射抜いた中心人物は、一体誰だったのでしょうか。それは、詩人でデザイナーで、同時に政治活動家でもあったモリスその人だったのではないかというのが私の推察するところです。漱石は、しばしばヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を訪問しています。この博物館は、生前のモリスと深いかかわりをもち、モリスの作品や書籍の多くを集めていました。また、帰国後の漱石の手紙の何箇所かにおいて、自分が社会主義者、ないしは、適切な社会主義の理解者であることを表明しているのです。このふたつのことを考え合わせますと、ロセッティやスウィンバーンやテニスンではなく、漱石の意中の人は、やはりモリス以外にありません。
モリスの人生は、『アーサー王の死』に見られる「三角関係」を地で行くものでした。そして、彼の第一詩集が『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』で、彼の唯一のイーゼル画がアーサー王の妻を画題にした《王妃グウェナヴィア》でした。一方、漱石は、最初期のひとつの作品に、『アーサー王の死』のなかに見られる不義のテーマを借用します。そして、それに続く漱石作品の主要なテーマのひとつが、この男女の愛の「三角関係」になるのです。とても不思議です。偶然の一致とはとても思えません。しかし、漱石は、自分が影響を受け、生涯の道しるべとなったのはモリスだったなどとは、どこにも書いていませんし、むしろ、モリスへの言及は少なく、限られています。逆説的に深読みすれば、この口数の少なさこそが、モリスが漱石にとって秘する人であったことを表わしているのではないでしょうか。
しかし、実際には、漱石はあまり多くをモリスに負うていないのかもしれません。ただ、英国と日本の近代の最初を生きた両人が、たまたま、共通する関心をもった、あるいは、時代によって担わされただけなのかもしれません。その時差は、五〇年以上もの隔たりがあるのですが、これが、避けがたい宿命というものなのでしょうか。偶然は一致するのです。それが、必然というものなのかもしれません。いま、そんな夏の夜の夢を見ています。
(二〇二一年)