英国の近代のデザインを見てみますと、一八世紀の中葉から一九世紀の三〇年代にかけて産業革命が進行し、それが達成されるに伴い、英国政府は美術教育に介入し、一八三七年に国立デザイン師範学校を設置します。一八五一年に政府は、ハイド・パークで万国産業製品大博覧会(第一回の万国博覧会)を開催すると、その収益金を原資としてサウス・ケンジントンに広大な土地を購入し、ここに至って、国立デザイン師範学校を祖形とする、博物館、学校、行政機関から成り立つ美術教育の複合施設を構築するのです。周知のとおり、そのとき設立されたサウス・ケンジントン博物館と全国美術訓練学校が、その後姿を変えて、現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と王立美術大学へと発展してゆくのでした。
一方、一八世紀後期から一九世紀初期の英国にあっては、装飾的なゴシック様式が、人気のデザイン言語となっていました。しかし、ヴィクトリア時代になると、中世主義の熱狂は、単なる様式というよりも、むしろ政治的な批判の原理となってゆき、こうして、建築家のA・W・N・ピュージンをその中心人物とする「ゴシック・リヴァイヴァル」という動きが展開されます。美術批評の面では、この時期ジョン・ラスキンが、『近代の画家たち』(第一巻は一八四三年に刊行)や『ヴェニスの石』(全三巻、一八五一―五三年)を刊行し、とくに後者の本において、ゴシックの特性と倫理性について言及されます。
他方、絵画においては、ラファエッロをアカデミズムの源流に立つ画家とみなし、それ以前の素朴な絵画形式にもどることを主張して、一八四八年に英国の若い美術家たちによって「ラファエル前派(兄弟団)」というひとつの絵画集団が結成されます。そのなかには、ジョン・エヴァリット・ミレイ、ウィリアム・ホウルマン・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティといった画家たちが含まれていました。
このような建築や美術を取り巻く状況のなかにあって、ウィリアム・モリスとエドワード・バーン=ジョウズのふたりの若者が、一八五三年にオクスフォード大学に入学するのです。英国の詩人のキーツは一八二一年に、シェリーは翌年の一八二二年に、すでに黄泉の客となっていました。モリスの成長期は、こうした先人たちへの評価の時期と重なり、とりわけ青年モリスは、彼らが歌い上げていた「ロマン主義」、あるいは、その先にある「反抗的精神」を身につけてゆきます。そうした、時代へ抗う精神は、モリスをして政治活動へと参画させ、社会主義の道へと誘い、最終的にモリスの変革のヴィジョンは、革命後の人びとの生活を描写した散文ロマンスである『ユートピア便り』に結実するのでした。
モリスが死亡する少し前から、モリスの芸術思想と、その実践に影響を受けた芸術家=工芸家たちが、英国の各地に製作工房である「ギルド」をつくりはじめます。そした芸術家=工芸家たちによる一連の製作形態や運動は、一八八八年にモリスが創設したアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の名称に因んで、アーツ・アンド・クラフツ、また、文脈によってはアーツ・アンド・クラフツ運動と一般に呼ばれるようになります。それを構成する代表的な集団として、芸術労働者ギルド、センチュリー・ギルド、そして手工芸ギルド・学校などを挙げることができます。彼らは、モリスの思想と実践に倣い、ルネサンス期以降に顕著になる大芸術(絵画などの純粋美術)と小芸術(日常品としての装飾美術)の分離に危機感を抱くとともに、経済的価値がそれ以外のすべての価値に優先する時代精神に反抗し、中世期の芸術の形式のなかに存在していた労働の喜びを回復しようとして、工芸製作の新たな実践形態へと向かうのでした。
着目していいのは、こうしたアーツ・アンド・クラフツの動きがヨーロッパ大陸へ影響を及ぼして、アール・ヌーヴォーが開花することです。一九〇〇年のパリ博覧会は、まさしくこのアール・ヌーヴォー様式を世界に喧伝する場となりました。またドイツにあっても、イギリスのアーツ・アンド・クラフツを学んで母国へ帰ったヘルマン・ムテジウスによって、一九〇七年にドイツ工作連盟が組織されます。しかし、すでにこの組織には、手の労働から機械による生産が含意されていました。この考えを受けて第一次世界大戦終結後に発足するデザインの学校が、国立のバウハウスです。ナチの弾圧により一九三三年に閉鎖に追い込まれるまでの一四年間、この教育機関がヨーロッパにおけるモダニズムのデザインの聖地として多くの関係者の熱烈な支持を集めることになります。
他方英国は、アーツ・アンド・クラフツの支配から抜け出すことに遅れを取り、モダニズムという国際的な近代様式を取り入れるのに時間を要しました。ひとつの要因として考えられることは、モリスが見通していたアーツ・アンド・クラフツは、革命後の期待される芸術の姿であり、革命を経ることのない、単なる自然回帰的なアーツ・アンド・クラフツは、モリスの思想の矮小化であり、現実逃避という陥穽に落ちていたことです。アーツ・アンド・クラフツから巣立つべく新しい団体であるデザイン・産業協会ができたのは一九一四年のことでした。しかし、その後、バウハウスの初代校長を務めたヴァルター・グロビウスがナチの脅威から逃れるために英国に亡命した際には、英国は全面的に受け入れることができず、最終的に彼は、アメリカ合衆国を亡命先に選び、その地でモダニズム建築の実践へと向かいます。大変皮肉なことに、社会主義的な考えに立脚したモダニズム思想の様式上の実践は、敵対する資本主義によって繁栄する新興の商業一等国において開花してゆくのでした。
こうした、一九世紀後半から二〇世紀の前半までの英国とヨーロッパ大陸のデザイン運動の軌跡を念頭に置きながら、極東の日本へと視線を移してみますと、そこでは果たしてどのような西洋受容の形態が展開されようとしていたのでしょうか。
一八九六(明治二九)年にモリスが死去すると、『帝國文學』や『太陽』といった文壇において、すぐさま、主として詩人としてのモリスが紹介されます。もっとも、社会主義者であるモリスに言及することには危険が伴いました。たとえば、モリスの散文ロマンスのひとつである『理想郷』(今日的な訳書題は『ユートピア便り』)の抄訳が『平民新聞』に掲載されると、訳者の堺利彦は、約二箇月のあいだ投獄されるのでした。
一九〇〇(明治三三)年、バリで万国博覧会が開かれました。会場までは動く歩道によって導かれ、大規模な電飾で照らし出された会場には、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォー様式の家具や室内も展示されていました。ここを訪れた日本の美術関係者に、岩村透、久米桂一郎、黒田清輝、和田栄作、岡田三郎助らがいます。こうした人たちの手を介して、いまや独自のアール・ヌーヴォー様式となって西洋化した日本美術が里帰りし、とりわけ雑誌の表紙絵などの視覚デザインの分野で浸透してゆきます。
このパリ博覧会の開催は、夏目漱石の英国留学と重なり、漱石も、ジェノヴァで下船すると、ロンドンへ向かう陸路の途中で立ち寄り、見学する機会をもちます。そして、ロンドンに到着した漱石は、モリスゆかりのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館やラファエル前派の作品を多く所蔵するナショナル・ギャラリーへ足しげく通います。こうして漱石は、美術と詩歌が一体となったヴィクトリア時代固有の創作世界に触れるのでした。
一九〇九(明治四二)年二月、東京美術学校の学生で、モリスの思想と実践に関心をもつ富本憲吉を乗せた平野丸がロンドン港に着岸します。富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参してはスケッチを描き、中央美術・工芸学校ではステインド・グラスの実技を学びます。そして帰朝から二年後の一九一二(明治四五)年に、自身の英国におけるモリス研究を、エイマ・ヴァランスのモリス伝を底本に使い、「ウイリアム・モリスの話」という評伝にまとめ、『美術新報』(二月号と三月号)に寄稿します。この富本の「ウイリアム・モリスの話」が、装飾芸術家のモリスを本格的に紹介した日本における最初の評伝となりました。注目されていいのは、ヴィクトリア時代のデザイナーとしてのモリスから世紀末の芸術様式であるアール・ヌーヴォーへと至る時間の流れにかかわって、日本への移入に際してはその順番が前後していることです。
富本の論考からおよそ一〇年が立っていましたが、それ以降も日本へのモリス紹介は継続されます。一九二三(大正一二)年には、モリスの『芸術への希望と不安』の大槻憲二による翻訳本『藝術の恐怖』が出版され、翌一九二四(大正一三)年四月に加田哲二の『ウヰアム・モリス』が、同年五月に北野大吉の『藝術と社會』が、さらに、一九二七(昭和二)年に大熊信行の『社會思想家としてのラスキンとモリス』が公にされてゆくのです。
一方、この時期ころから、工芸にかかわる新たな思想と実践が日本において胎動します。本人が述べているように、柳宗悦がモリスを知るのは、この大熊信行の著書『社會思想家としてのラスキンとモリス』によってであり、これを起点として柳の民芸運動ははじまるのでした。しかし、その唱道者である柳は、モリスへの痛烈な批判者でありました。モリスが作者として個人名を表に出す工芸家であり、その作品が貴族的な美術品となっており、つまるところ、中世期の工芸への回帰に徹し切れていないという点が、主たるモリス批判の根拠となっていました。柳によれば、工芸とは、無名の民衆的工人の作でなければならず、自己を主張する甘美な美術に堕落してはならず、その意味においてモリスの中世への思いは、あくまでも中途半端で未成熟なものであり、これより唱道されるところの民芸運動の工芸家たちは、それらの否定のうえに立ち、個性や個人主義を捨て去り、原理的教義に帰依して、さらに中世世界の奥深くへと分け入らなければならないというものでした。
しかし、ヨーロッパ大陸では、中世の呪縛から解放され、新しい形式の造形を生み出すうえでの、反歴史主義的立場を標榜する新世紀にふさわしい近代精神が動き出していました。一九一九年にヴァイマールにあってバウハウスが設置されるに伴い、ドイツの建築家やデザイナーたちは、旧い拘束服を脱ぎ捨てようとしていましたし、一九二三年のフランスでは、『建築を目指して』のなかで、著者のル・コルビュジエが、「住宅は住むための機械である」と主張していたのです。一九二八(昭和三)年に北野大吉が、少し遅れて翌一九二九(昭和四)年には柳宗悦と濱田庄司のふたり連れが、日本からの巡礼者となって、生前のモリスがカントリー・ハウスとして愛好していた〈ケルムスコット・マナー〉を訪れます。しかし、すでにこの時期、ヨーロッパ大陸に後れを取っていた英国にあってさえも、中世を理想とするモリスの思想と実践は批判に晒され、時代はアーツ・アンド・クラフツを乗り越え、歴史的装飾を排除した効率性と合理性の様式と呼ばれるモダニズムのデザインを受け入れようとしていたのでした。
日本においては、一九二八(昭和三)年に当時の商工省によって産業美術の研究と振興を目的として仙台に工芸指導所(一九四〇年に東京に移転し、一九五二年に産業工芸試験場に改称)が開設されます。一九六七年にSD選書として刊行された『建築をめざして』の訳者の吉阪隆正の記述するところによりますと、このル・コルビュジエの著作は、早くも一九二九(昭和四)年に宮崎謙三の訳で『建築芸術へ』の書題によって構成社書房から出版されます。さらに、バウハウスに学んだ山脇巌と山脇道子の夫妻が帰国するのが、一九三二(昭和七)年のことでした。その一方で、一九三四(昭和九)年には、モリス生誕一〇〇年を祝う講演会が催され、文献による展覧会も開かれ、あわせて『モリス記念論集』が刊行されるのです。
このように、世紀転換期から一九三〇年代までの日本のデザインの歴史を見てゆきますと、いかに西洋の造形上の思考と様式が、前時代のものと同時代のものとの起生順に左右されることなく、さらには、積極的な受容のみならず、辛辣な批判をも内包しつつ、まさしく混成のうちに進行していたかがわかります。概略これをもって、日本の視覚・物質文化の「西洋化」にかかわるこの時期のひとつの側面とみなすことができ、この時代のナショナル・アイデンティティーの一部はこのようなかたちをとって表象されていたと、ひとまず論じ終えることができるのではないかと思われます。
「ウィリアム・モリスの家族史」を書きながら、頭のなかに浮かんできた細かい霧雲のような断片を、流れては消え去る前に、ここに「忘備録」として書き記しました。もし機会が巡ってくれば、いつかまた、より発展的に詳しく描写してみたいと考えています。
(二〇二一年)