第六話の「富本憲吉と小倉遊亀の最初の出会い」を書き終えたあとで、少し雑多ではあるが幾つか気になることが頭に浮かんできた。そのなかには、ほぼ間違いなくふたりは大和時代に会っていると思われるものの、最初の出会いがその後の東京時代だった可能性はないのかという問題設定も含まれていた。結果はその証拠にたどり着くことはできなかったが、その考察の過程を、以下に忘備録として書き留めておきたいと思う。
まず、小倉遊亀が富本憲吉についてはじめて書いたのは、いつで、どのような内容だったのであろうか。『続 画室の中から』に、このような文があった。はじめてであったかどうかは、必ずしも断定はできないが、それは、一九七〇(昭和四五)年四月に東京国立近代美術館で開催された「富本憲吉遺作展」に関するものであった。
「富本憲吉 氏名作 ( ママ ) 展」を拝見するため上京。皇居北の丸公園の近代美術館、ここはお恥ずかしいが初めてである。……
富本先生のお作品は、先生が英国から帰朝後、リーチによって楽焼を始められたころの作品から並べられていた。昭和七、八年から、十三、十四年ころの油の乗り切られた時代の作品が、一番強く観る者の心をつかむ。私が成城学園村のアトリエに、先生と一枝夫人よく訪ねたころである。あのころ、窯のあくたびに招いていただいて、帰りがけにはいつもお土産にお作品を頂戴したものだ。(もったいないことだったと思う)。そのお作品の中に、今日から見て、この展覧会に陳列されているもの以上の傑作が多いのを心ひそかにうれしく思った1。
一九二六(大正一五)年の秋に、憲吉の家族は奈良の安堵村から東京祖師谷の千歳村に移転し、翌年(昭和二年)、その地に自宅と 工場 ( こうば ) を設ける。遊亀が、名古屋の椙山高等女学校を辞して横浜の捜真女学校の講師となるのが一九二〇(大正九)年の春で、それに続いて、富本家が上京する年と同じ一九二六(大正一五)年に、教えを乞う安田靫彦のアトリエのある大磯に転居。その後一九三八(昭和一三)年に、小倉鉄樹と結婚して、北鎌倉に移る。
窯が開く日には、招待客でにぎわった。作家の佐藤(田村)俊子は、憲吉の妻の一枝とは青鞜社時代からの友人で、彼女も窯開けの日に招待され、その日のことを「千歳村の一日」(『改造』第一八巻第六号、一九三六年)という文のなかで描き出している。その日の招待客には、丸岡秀子も含まれていた。丸岡秀子の『田村俊子とわたし』(中央公論社、一九七三年)によると、そのとき一枝が近づき、俊子に秀子を紹介する。
のちに婦人運動家として、また社会評論家として活躍する秀子は、遊亀に七年遅れて奈良女子高等師範学校に入学し、在校当時から土日の休日となると足しげく安堵村の富本家を訪ね、その近代的な生活から多くのことを学んでいた。ひょっとしたら、こうした千歳村の工場の窯出しの日に、同窓であることを知っていた一枝は、遊亀と秀子を引き合わせていたかもしれない。そうであれば、ふたりが過ごした奈良での青春時代の話題に勢い花が咲いた可能性もある。しかしながらふたりは、秋櫻子と遊亀の例のように、すれ違いに終わっていた可能性も残る。
俳人の水原秋櫻子も、憲吉の陶磁器を愛したひとりだった。秋櫻子は、「祖師谷の客間」(『陶説』第三六号、一九五六年)のなかで、当時の憲吉の家の様子を描写している。秋櫻子も遊亀も、幾度となく開窯日の客人となっていた。しかしその機会をとおして、ふたりが面識を得ることはなかった。遊亀の文にこう記されている。一九七二(昭和四七)年四月九日に秋櫻子夫妻が北鎌倉の遊亀宅を訪問するくだりである。この日が二度目の顔合わせであった。
先生も奥様も大変お気楽にお話し下さったので、こちらも遠慮なくお話が拝聴出来た。八十をお越えになっているとは思えないお顔の色艶である。昔成城学園の近所に富本先生のお窯があって、窯出しの時はいつもご案内いただいたものだ。そういう時には秋櫻子先生も必ずお招きをいただかれていらしたという。おそらく何度も何度もそこでご一緒させていただいていたに違いないのに、知らないでいた。私はちょうど捜真女学校の教員をしていて、普段の日にも時には生徒を連れていって、先生の轆轤から絵付けまで拝見したものだ。……窯出しの中から、いつも二、三点、多い時には四、五点もお作品を頂戴して帰る――。思い出話はつきなかった。
二階に十点ばかり手近なものを出して置いたのを見ていただいた。
富本先生もお亡くなりになり、一枝夫人も他界された今日、はからずもお作品を中に、その当時は知らずにいた私達が、ご一緒のお茶を飲みながら、その人を語るなんて、まことに不思議なものである2。
それでは、憲吉の作品が遊亀の作品に表われるのはいつころからであろうか。鬼頭美奈子さんの「小倉遊亀の静物画――富本憲吉との交流にたどる一考察――」のなかに、「最も早い例は、昭和34年(1959)の《偶作》である。[憲吉の]色絵六角捻徳利を右に、左に八重椿を生けた古九谷の面取徳利を並べ、傍らに柚子をあしらう」3とある。そして、結語として、こう述べる。「静物画を通して陶磁器を愛した遊亀は、また憲吉をも一人の師として仰ぎ、その作品と人柄に多くを学んだであろう」4。
他方、遊亀が憲吉に示した敬愛の情は、こんなところにも刻印されている。遊亀は晩年、小川津根子を聞き手として、自分の生涯を語っている。それをまとめて書籍化したものが、『小倉遊亀 画室のうちそと』(読売新聞社、一九八四年)であり、事実上の遊亀の自叙伝に相当する。開いてみる。すると、「目次」のあとに、「装丁 本文カット 小倉遊亀」「表紙印刻 富本憲吉」の文字が目に飛び込む。相並んでふたりの名前を書籍に刻んだことから推し量ると、ここに遊亀は、憲吉へ向ける感謝と惜別の思いを人知れず永久のものにしたかったのかもしれない。
そうした憲吉に寄せる敬愛の念は、丸岡秀子の場合も同じであった。『小倉遊亀 画室のうちそと』が読売新聞社から刊行される一二年前に、丸岡は、『読売新聞』に一文を寄稿していた。以下は、その寄稿文の書き出しである。
わたしの青春の一時期は、富本憲吉・一枝夫妻の存在を除いては成り立たない。ふたりの間の愛と緊張によって、また芸術と生活のかかわり合いを通じて、決定的な影響を受けたように思う。おつき合いは四十年近くつづいたけれど、当時わたしははたちにもならず、憲吉氏も一枝さんも三十歳代の“人生の精気もっとも昂揚”のころであった。
奈良で女の教師を作る[奈良女子高等師範]学校に在ったわたしの専攻は国文だった。……
わたしの場合、夫妻との邂逅で、はじめて生きた文学精神という、自らの精神を自らの手で耕す知的動揺をあたえられたわけだが、そうでなければ満足に卒業できたか、どうか疑わしい5。
このように憲吉の人生と芸術を鑚仰する人は多い。しかし、管見の限りでは、遊亀についても、秀子についても、憲吉は何も書いていない。影響を受けた人にとっては、憲吉は永遠の師であったかもしれないが、憲吉にしてみれば、後ろに続く人への影響力など顧みる暇もなく、ひたすら前を向き、己の考えと生き方を信じ、身を粉にして製陶に励んでいたということなのだろう。
最後に、水原秋櫻子の「富本憲吉氏の陶窯」(全六句)から二句を選んで、以下に紹介する。
夏雲雀高鳴き 窯 ( かま ) の立つ日なり
窯出づる白磁を汗の人が 抱 ( いだ ) く6
本稿の主題である「富本憲吉と小倉遊亀の最初の出会い」は、ついにわからずじまいとなった。残念ながら結論を得ることなく、未完をもって、ひとまず幕を引くことにする。
(二〇二〇年)
(1)小倉遊亀『続 画室の中から』中央公論美術出版、1993年、111-112頁。
(2)同『続 画室の中から』、227-228頁。
(3)鬼頭美奈子「小倉遊亀の静物画――富本憲吉との交流にたどる一考察――」『小倉遊亀』名都美術館、2016年、13頁。
(4)同「小倉遊亀の静物画――富本憲吉との交流にたどる一考察――」、23頁。
(5)丸岡秀子「わが愛するうた(12) 器の型をもつ詩 富本憲吉の『窯辺雑記』」『読売新聞』1972年8月5日(夕刊)、5頁。
(6)水原秋櫻子「富本憲吉氏の陶窯」『三田文学』第13巻第8号[第2期]、1938年、79頁。