富本一枝には、人にものをあげたがる性格があった。たとえば、はじめて平塚らいてうに会った翌日のことである。一枝はすぐには大阪にもどらず、再びらいてう宅を訪れ、帰阪後あるものを送り届ける旨の申し出をする。それに対してらいてうは驚きの様子を示す。
一枝は、らいてうにはじめてあった経緯について、こう述べている。当時大阪に滞在していた一枝は、「武者小路實篤氏からロダンのブロンズを展覧するといふ通知をもらつた。私はそのハガキを見てからすぐに荷物をつくつて父の前に出た。さうして父の怒つた顔をそのまゝにして夜汽車で東京に立つた。新橋につくなりそのまゝ赤坂の三會堂に行つた。作品はすくなかつたが、私は天の星を眼近で見る思ひがした。……ロダンの作品はそれまでの私の退廃的な陶酔に不思議にも苦悩めいたものを感じさせた。私は身動きがならなかつた」1。確かに一枝はロダンに感激した。しかし、どうやら今回の上京は、単にロダンの作品を見るだけのものではなかったようである。ひょっとしたら、ロダンは二の次で、本当は憧れてやまない平塚らいてうに会うことが秘めたる主要な目的だったのかもしれない。それは「からッ風が烈しく吹いた[一九一二(明治四五)年]二月十九日の午後だつた」2。ロダンを見た「その翌日、私は思いきつて平塚さんを訪ねた。[すでに青鞜社の社員になっていた小林]歌津さんに連れられて本郷曙町にあつた平塚さんの家に行つた」3。これが、一枝にとってらいてうとの初対面となるものであった。後々まで一枝は、このときの出会いの様子を実に克明に脳裏に焼き付けていた。
床の間に小さな香爐が置かれ、眞直ぐにさゝれた一本の線香からたちのぼる煙のかたちがくづれることなく天井にむかつて、部屋はよき香に満ちてゐた。ぴつたりしまつた襖を前に、私と歌津さんは人が違つた程静粛に並んで坐つた。
憧憬のまとであつたその人がやがて襖をあけて這入つてくるのだ、私は出來るかぎり心を落着かせようとあせつたが、力がまるでお腹にはいつてこない。私は線香の煙を追うて、そこに心を集中しかけたその時だつた。襖が静かにひかれた。平塚さんだ――私は瞬間頭を眞直ぐにあげてその人と眼を合せたが――それなり意氣地なく眼を伏せなければならなかつた4。
一枝はしだいに身体が硬直するのを覚えた。そしてこのとき、この女性に運命的なつながりとこれから訪れる愛とを敏感にも感じ取ったのである。
その翌日の出来事については、らいてうがこう書いている。
翌日の夜、またK[尾竹一枝]はひとりしてやつて來た。前の日の歸りがけに今夜にも大阪へ歸るやうなことを云つてゐたから、折角來たのに今少し遊んで行つてはとか、今一度ゆつくり話しにいらつしやいとかいふやうなことを云つたには云つたが……其夜は前の日よりも多く話した。……それからS社[青鞜社]の事務所に電話を設けるやうにしやう。伯父に話して寄附させやうとか、時計の面白いのが二つあるから大阪へ歸つたらすぐ一つあなたに御送りするとかいふやうなことも云つた。まだ今日で二度しか逢はないこの女から何でそんな物を貰ふ理由があるのか、物をやつたり、とつたりするやうな面倒なことの嫌いな私には何のことだかさつぱり分らなかつた。けれど折角やるといふものをぐずぐずいふにも及ぶまいと思つて、だまつてゐた5。
なぜ一枝は、らいてうに時計を送ることを申し出たのであろうか。昨日の面会に対するお礼の気持ちの発露だったのであろうか。そうではなさそうである。それでは、これから訪れるにちがいない相愛への期待が一足先に表出されたものだったのであろうか。そうだったかもしれないし、そうでないかもしれない
しばらくして、らいてうのもとに、例の時計が送られてきた。「私はうれしくないではなかつたけれど、そのうれしさには何處か快くない不安が添つてゐた。第一私にこんなものを送つてくる先方の氣が知れない。……物品で御機嫌を取らうとするのならば私はちつとばかり侮辱されたといふものだ。けれどそんなことは考へたくない。只私にくれたくてくれたんだと思つてよろこべるものならよろこんでゐたいとも思つた」6。また少し時間が流れた。「或日私はKのことをぼんやりと心に浮べながら、我れ知らず、その[時計の]音に耳傾けてゐる自分を見出した。ぢつと見詰めて居ると、心の影と音とが妙に絡みあつて、溶け合つて、一つのものゝやうになつて行く。……久振りで詩でも出來さうな氣分になつて來た。……氣分ばかりで思うように出來なかつた。で、私は其筆でKに時計の御禮を出した。そして近い中に時計に關聯した詩を御目にかけるかもしれないと書き添へた」7。もらった時計の音に誘発されて詩情が湧き出でたということは、らいてうの心が一枝に傾いたことを意味するのであろうか。
一枝のものをあげたがる性格の事例をもうひとつここで紹介しておきたい。戦前に富本宅を訪れたことのある作家の中野重治は、次のような出来事を記憶していた。
富本一枝さんはむかし青鞜社の一員だった。それは知っていたが、眼の前に見る一枝さんには一向「青鞜」らしいところがなかった。……「新しい女」どころではない。「古い日本の女」がそこにいた。「古い日本の女」は物のくれ方によく出ていた。……二度目か三度目かに訪ねた時そこに皿が一枚出ていた。……とにかく私がほめた。……それが好もしいという意味のことを普通にひと口いったのに過ぎなかった。しかし帰りに、靴をはいている私に彼女が紙にくるんでその皿を押しつけた。押しつけたというのは、拒否できない何気なさでそれを私に受取らせてしまったとういうことだった8。
このとき中野は、一枝のものをあげる仕草に「古い日本の女」を感じた。一枝の、ものをあげたがる性格は、相手を喜ばせては、自分の感情との水位を同じく保とうとする、ひょっとしたらそんな昔ながらの女の心根に根差していたのかもしれなかった。
(二〇二〇年)
(1)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、87頁。
(2)らいてう「一年間(つづき)」『青鞜』第3巻第12号、1913年12月、9頁。
(3)前掲「痛恨の民」、88頁。
(4)同「痛恨の民」、同頁。
(5)前掲「一年間(つづき)」、13-15頁。
(6)同「一年間(つづき)」、18-19頁。
(7)同「一年間(つづき)」、20-21頁。
(8)中野重治「富本一枝さんの死」『展望』第96号、1966年、101-102頁。