少し古い『太陽』の「漱石特集」を手に取って、ぱらぱらと頁をめくっていました。すると、見慣れた《プロセルピナ》の画像が目に留まりました。作者は、ラファエル前派の画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティで、モデルは、ウィリアム・モリスの妻のジェイン・モリスです。
ところが、この画像の前後の文章に目を向けると、英国留学中の漱石は、お気に入りのテイト・ギャラリーにしばしば足を向けており、この《プロセルピナ》の画像内容が、帰国後の漱石が描いたあるひとつの小説の主題と重なっているのではないかという指摘がなされていました。一瞬、逆の意味で衝撃が走りました。果たして、夏目漱石が英国に留学していた期間、すでにテイト・ギャラリーは存在していたのでしょうか。そしてまた、そのときそのギャラリーは、《プロセルピナ》を所蔵していたのでしょうか。
日記によれば、英国到着の八日後の一九〇〇年一一月五日に、漱石は、さっそくナショナル・ギャラリーを訪問しています。しかしながら、ここに書かれているナショナル・ギャラリーが、トラファルガー・スクウェアのナショナル・ギャラリーなのか、当時ナショナル・ギャラリーがミルバンクに新造営したギャラリーなのか、この表記だけでは判然としません。もちろん、「テイト・ギャラリー」という呼称表記はいっさい見当たりませんし、このときどのような作品を見たのかについても、何も書かれてありません。
しかし、この新設ギャラリーには、ヘンリー・テイトが寄贈した六五点のラファエル前派の作品が公開されていました。おそらく、漱石の関心からすると、ナショナル・ギャラリーが管理するこの新しい美術館のほうに足を運んだものと推測されます。
このように、漱石が英国に留学していたときは、まだ、テイト・ギャラリーは存在していなかったのです。ちなみに、このミルバンクのギャラリーが、正式にテイト・ギャラリーを名乗るようになるのは一九三二年のことで、その後、テイト・モダンが開館すると、テイト・ギャラリーはテイト・ブリテンへと改称され、現在へと至ります。
それでは、ミルバンクのこのギャラリーに《プロセルピナ》は、所蔵されていたのでしょうか。漱石がロンドンにいたころは、まだこの作品は所蔵されていませんでした。この作品を所有する個人が、テイト・ギャラリーに寄贈するのは、一九四〇年のことです。したがって、漱石が留学中にこの実作を見ることはありませんでした。
そのようなわけで、『太陽』の「漱石特集」のなかに見受けられた一文は、美術館の名称、作品所蔵の有無に関しまして、事実を逸脱した記述内容だったのです。
それでは、なぜ、『太陽』の「漱石特集」の一文のなかで、漱石とテイト・ギャラリーと《プロセルピナ》が結び付けられて語られてしまったのでしょうか。それは、想像するほかありませんが、漱石作品とラファエル前派の絵画は、しばしばこれまで、その関連性が指摘されてきていました。そこで、その執筆者は、おそらく執筆当時の所蔵館と作品をもって、一〇〇年以上前の漱石に安易に重ね合わせてしまったのではないかと推量されます。漱石が訪問した美術館は当時どのように呼ばれており、漱石作品と照合したい絵画作品は、実際に展示されていたのかを十分に事前に調査する必要があったものと思われます。もっとも、実作は見ていなくても、英国滞在中、ないしは帰国後に、本や雑誌の図版、あるいは作品集なり展覧会カタログなりを通して、漱石がこの《プロセルピナ》を見た可能性は排除できません。その場合は、これらの資料を特定しなければならないことになります。
いずれにいたしましても、とても骨の折れる仕事です。しかし、この困難性は、この分野の研究に課せられたひとつの宿命のようにも感じられますし、逆に、それが突き止められ、事実関係が解明されたときの喜びは、何物にも代えがたいものがあります。研究を続ける原動力は、そこにあるのかもしれません。
(二〇二一年)