二〇一六(平成二八)年の夏のこと、川井徳子さんとおっしゃる方からメールをいただいた。内容は、ウェブサイト「中山修一著作集」の複写許可の申し出であった。それからメールのやり取りがはじまり、この方が、閉館になっていた富本憲吉記念館(富本憲吉の生家)【図一】を買い取り、「うぶすなの郷TOMIMOTO」という高級宿泊施設へと衣替えされようとしていた実業家であることを知った。そうしたなか、ご自身の著書である『不動産は「物語力」で再生する』(東洋経済新報社、二〇一一年)が送られてきた。そこには、荒れ果てた南禅寺界隈の名庭「 何有莊 ( かいうそう ) 」を再生し、クリスティーズを通じて世界的企業の創業者に売却した物語が描かれていた。それを知って驚いた私は、その後のメールのなかで、次のようなことを書いた。
『不動産は「物語力」で再生する』を送っていただいたのは、いつだったでしょうか。それを読ませていただいて、川井さんの手によって何有荘が再生され、このお庭の庭師が植治であったことも、あわせて知りました。そのとき、いま手掛けられようとしている富本憲吉生家とこれまでに手掛けられた何有荘というふたつの点は、あいだに何かを挟めば一本の線で結ばれるのではいかと直感的に思いました。あいだに挟むのは、七代目小川治兵衛、無鄰菴、新家孝正、富本憲吉です。
もしご存じであれば、軽く読み流してください。そうでなくても、単なる歴史の言葉遊び、つまり駄洒落のようなものですので、大した意味はありません。知らないよりは、知っていても、まあ、いいかといった程度の事柄です。
何有荘を作庭した七代目小川治兵衛(植治)は、南禅寺参道前に造営された山縣有朋の別邸である無鄰菴(第三)の庭園も手掛けています。この無鄰菴は、母屋、茶室、日本庭園に加えて、煉瓦つくりの二階建ての洋館から構成されています。この洋館を有名にするのが、日露戦争開戦のほぼ一年前の一九〇三(明治三六)年四月にここで開かれた「無鄰菴会議」です。出席者は、元老の山縣有朋、政友会総裁の伊藤博文、総理大臣の桂太郎、外務大臣の小林寿太郎でした。そしてこの洋館の設計者が 新家 ( にいのみ ) 孝正 ( たかまさ ) だったのです。新家は一九〇九(明治四二)年の末か翌年のはじめに、ロンドンの地で富本憲吉に会い、インドへの調査旅行へ随行するよう、申し出ます。この富本が一九〇四(明治三七)年四月に東京美術学校入学までの幼少期を過ごした屋敷が、いま川井さんが購入された富本憲吉生家ということになります。このようにして、何有荘はめでたくも富本生家へとたどり着くことになるのです。
私がこの洋館に興味をもったのは、富本のロンドン滞在について書いていたころだったと思います。実際に無鄰菴に行った正確な年月は思い出せませんが、現存する新家の作品を見てみたかったからです。それがいま、何有荘と富本生家を橋渡しする結節点になろうとは、何か不思議な気がします。
その後の川井さんからのメールに、「うぶすなの郷TOMIMOTO」のオープニングのあいさつで、この話題を披露したいとのことが書かれてあった。「うぶすなの郷TOMIMOTO」は翌年の早春に開館した。
そこで、この機会を利用して、現存する資料のなかに眠る、安堵村のこの富本憲吉生家についての数少ない描写を拾い上げ、以下に、極めて断片的ではあるが、それらを再生してここに残しておきたいと思う。
実質的に富本憲吉がこの屋敷で生活したのは、生を受けた一八八六(明治一九)年六月から郡山中学校を卒業する一九〇四(明治三七)年三月までのあいだと、英国留学から帰った一九一〇(明治四三)年六月から「富本憲吉氏圖案事務所」の開設のために上京する一九一四(大正三)年七月までのあいだの、主としてこの二期であった。
自らの生い立ちについて、後年富本は、ふたつの回顧録のなかにあって短く語っている。ひとつは、一九五六(昭和三一)年に口述され、没後の一九六九(昭和四四)年に刊行された文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(第一法規)に所収されている「富本憲吉自伝」で、もうひとつは、亡くなる前年の一九六二(昭和三七)年に『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」である。
それらによると富本は、一八八六(明治一九)年六月五日、奈良県生駒郡安堵村東安堵九五番地に生まれた。この地は、徳川時代は天領で、風光に恵まれた地形をもち、村の西北、直線にして二キロばかりのところに法隆寺があり、その北に山が連なり、南に平野が開けていた。また、西に龍田川、南に大和川、東に富雄川が流れ、いずれもこの村の南に位置する一種の沼へと流れ込み、大和盆地から大阪へ流れ出るようになっていた。富本家は代々続くこの土地の庄屋であった。
一九一二(明治四五)年の秋、『美術新報』の坂井犀水が富本邸を訪問した。犀水は、法隆寺駅を降りると、約半里の一筋の道を人力車で運ばれ、古風な富本家の門前に降り立った。駅から門前に至る車からの眺めは、いかようなものであっただろうか。そのときの様子を犀水はこう描写する。
暗紫色に次第に暮れんとする山々、吹く風も靑く薫る稻田、菱や萍の浮く池、森に包まれたる村、そを隠見する白壁の瓦屋……村に入る毎に、此村か此村かと思ふ内に、そを過ぎて又他の村に入る、かく幾つかの村々を過ぎて、車はとある村の細い路を入つて奥の行詰りに、大きな溝を前にした、大きな門の前に止まつた。門側に古雅な庭樹の梢が、一種の風致を添へて居る1。
門を入ると、富本が愛用していた、奥まった離れ座敷に案内された。次は、この座敷からの庭の眺めについての犀水の描写である。
室の二方は植込の庭に向つて居る。樹石の配置などに、何となく東山時代の趣がある。一方の中庭には芭蕉の兩三株と一叢の寒竹(?)をあしらつて、古銅の大水盤が置かれて居る、純然たる文人好みである。憲吉君の先考は趣味の人であつたそうで、此庭はその好みに拠つて出來たのだそうである2。
この風情に満ちた庭については、その翌年に訪れた『現代の洋画』の北山淸太郎の目にも強い印象を与えた。このように記述されている。
富本君の家は氣持のいゝ古風な造りだ、その故か風はなかつたが、随分冷やりとする。吾等は離れ座敷に通された、ある落ち着きを持つた静かな座敷の三方は、二方が外庭に、一方は中庭に面してゐた、外庭もいゝと思つたが、それよりも中庭の方が一層いゝ氣持がする、大きな芭蕉の木が三株、互に明るい廣い緑の葉を打交はして、それが暗い軒先に迫つて來てゐる、斯ふ云つた作りの庭は非常に好きだ3。
室内の装飾については、どうであったであろうか。犀水はこう書く。
室内の装飾は、富本君が此純日本式の室と、氏の新趣味とを如何に調和せしむべきかを苦心しつゝ試みて居る處なので、自作の木版畫、水彩畫、油繪、木彫香盒、楽焼、繪團扇等が、此舊家の一室に別種の趣味を生ぜしめつゝあるのである4。
ほぼ同じ時期、富本本人も、この奥座敷の飾りについて描写している。
室は苔深き處に、飛石石燈籠をおきたる關西風の庭に、北向の八疊にて、西側に一間の本床、連りて一段高き半間板張りの別床を取り、床に沿ふて五六百年前の製作と思はるゝ春日卓の中央に、テラカタ人形(パリ製模古)を置き、正面本床に二尺角位のマルセーユ博物館内ビユビイス・ド・シヤバンヌ作の堅畫の寫眞を、直線よりなる金の額に入れてかけ、別床には小生自彫の木版「雲」を同形の額にてかけ申し候5。
これが、一九一二(明治四五)年前後の富本の生家の様子であった。東京美術学校で知り合い、深い友情を築いていた南薫造や、ロンドンからの帰国後知り合って意気投合したバーナード・リーチ、そして、のちの妻となる尾竹一枝も、この時期、この屋敷を訪問している。
東京での結婚後、一九一五(大正四)年の三月、富本は、一枝を伴い安堵村に帰郷すると、その年の秋、青鞜社時代以来の親友であった神近市子が安堵村に一枝を訪ねてきた。その日のことを神近は、のちに執筆する『自伝』でこう回想する。
……そのころの富本家は、周囲に深い堀をめぐらした旧大地主か小領主のような古めかしいお住居だった。……大玄関を上がり、右手の広い座敷にはいると、片隅にまだ生後半年ぐらいの長女の陽子さんが寝かされていた。私たちは時の経つのも忘れて、その後のお互いの生活を語り合った。富本憲吉氏はいま窯焚き中で、二十分ほど離れた窯場に行っていられるという。……茶を飲みながら雑談をし、そのあと私は窯場に案内された。窯焚きの小屋は、富本氏がそこで寝起きされるという話で、私にいろいろの作品や未完成の壺などを見せてくださった。上背のある痩方の立派な紳士だった6。
このとき憲吉は、本格的な初窯に向けて、新造の窯の調子を見るために、試燃を繰り返していたものと思われる。このように富本一家は、本宅から離れたところに家と仕事場を設けた。そのため、それ以降のこの生家についての記述は、ほとんど資料に残されていない。その後一家は、理由があって安堵村を去り、東京暮らしをはじめる。しかし、その暮らしも最終的に破綻し、アジア・太平洋戦争が終わると、富本は妻子を東京に残して、独りこの屋敷にもどる。そのとき、お供をしたのが、戦時中に東京美術学校で富本の助手を務めていた藤本能道であった。藤本は、こう書き残す。「そのころ先生の生家は荒れてはいたが塀を巡らした大きな長屋門と倉をもつ数寄屋風の立派な建物」7であった。母ふさが一九二九(昭和四)年の二月に死去して以来、実質的にこの屋敷は無住の状態になっていたものと思われる。
帰郷したとき、富本は、満年齢でちょうど六〇歳になっていた。のちにこの生家を改築し、富本憲吉記念館として開館することになる辻本勇が、富本と親交を結ぶようになるのが、ちょうどこのときのことであった。「安堵在住時代私は富本先生を憲ちゃんと呼んでいた」8と、幼少のころを回顧しているのは、勇の兄の忠夫である。その忠夫に連れられて、若き勇は、ある日この生家を訪ねた。「私も話には聞いていて、瀬戸物を作られる偉い人だぐらいの事は知ってはいましたが、他の事はすこしも知りませんでした。おみやげに柿を持って石橋を渡り、門をくぐって兄の後から恐る恐る玄関に入り、招じられるままに八畳の離れ座敷へ通されました」9。これが、勇にとっての富本とのはじめての出会いであった。その後富本は、作陶の環境が整っている京都へ出る。しばしば勇は、安堵村で獲れた野菜などをもって京都の富本宅を訪ね、交流と敬愛の念を深めてゆく。富本の死去から一一年が立った一九七四(昭和四九)年、いまや実業家として成功を収めた勇は、安堵村の生家を買い取り、郷土の偉大な芸術家の業績を顕彰すべく、私費を投じて富本憲吉記念館を設立する。
それからのおよそ四〇年のあいだ、この記念館は、陶芸家としての富本の魅力とその作品を愛する人たちのあいだで人気を博し、次の世代の来館者へと受け継がれていった。たとえば、奈良女子高等師範学校の学生だったころから長きにわたって富本夫妻の生き方に魅了されてきた、婦人運動家で社会批評家の丸岡秀子は、こう述べる。「いま、若い人たちにとって、二人[憲吉と一枝]は名前さえ知られてはいないであろう。だが、京都、奈良めぐりの旅行の中に、“世紀の陶工”富本憲吉 美術館 ( ママ ) を入れてもらいたいと、私は願う。法隆寺からすぐなのだから」10。
しかし辻本勇が亡くなると、富本憲吉記念館は売りに出され、それを購入したのが、奈良の地元で活躍する実業家の川井徳子さんであった。話は一巡して、本文冒頭にもどる。かくして改装ののち、二〇一七(平成二九)年の春、高級旅館「うぶすなの郷TOMIMOTO」として再生され、別のかたちをとって、富本の名声はこの地に刻まれてゆく。
(二〇二〇年)
図1 在りし日の富本憲吉記念館[図版出典:辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、200頁。]
(1)坂井犀水「京都、奈良の十日(二)」『美術新報』第11巻第12号、1912年10月、412頁。
(2)同「京都、奈良の十日(二)」、412-413頁。
(3)北山淸太郎「奈良より(一) 安堵村の二日」『現代の洋画』第2巻第5号、1913年9月、20頁。
(4)前掲「京都、奈良の十日(二)」、413頁。
(5)富本憲吉「室内装飾漫言」『美術新報』第10巻第10号、1911年、328頁。
(6)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、136-137頁。
(7)藤本能道「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、163頁。
(8)辻本忠夫「憲ちゃんの思い出」『陶説』第125号、1963年、65頁。
(9)辻本勇『富本憲吉と大和』専門図書株式会社、1972年、11-12頁。
(10)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、28頁。