中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第一部 わがデザイン史忘備録

第一〇話 中国におけるウィリアム・モリス思想の導入

『ウィリアム・モリス協会雑誌』(二〇二〇年春号)が送られてきた。頁をめくると、とても興味深い記事が載っていた。その記事のタイトルは、「中国におけるウィリアム・モリス」というもので、二〇世紀に入って以来現在までの中国におけるモリス思想の受容の様子が述べられていた(【図一】から【図四】)。著者のジェフリー・ペッツさんは、末尾記載の著者紹介によると、ロンドンを拠点に活躍する独立研究者(independent scholar)とのこと。記事は、著者が最近訪問し瀋陽(Shenyang)にある東北大学(Northeastern University)での見聞をもとに書かれている。すぐにも私の目を引いたのは、次の一文であった。

モリスの仕事は、日本人学者の T Mukai の『社会主義』を翻訳出版した中国人学者の Luo Dawei によって一九〇二年にはじめて中国に導入された。Mukai は、モリスの資本主義批判を紹介し、モリスを高く評価していた

果たして日本人学者の T Mukai とは、誰なのであろうか。この時期、『社会主義』を著した人物に、村井知至がいる。そうであれば、Mukai は Murai の誤記だった可能性がある。中国で翻訳された時点ですでにこの誤記が発生していたのか、あるいは、著者がこの記事を書く段階で誤記が生じたのかは、いまは確かめようがないが、ほぼ間違いなく、一九〇二年に中国で翻訳出版された原書は、それに先立ち一八九九(明治三二)年に日本で出版されていた村井知至の『社会主義』だったものと思われる。

著者の村井は、その本の「第六章 社會主義と美術」のなかで、社会主義者へと向かったウィリアム・モリスの経緯を、ジョン・ラスキンと関連づけながら次のように描写していた。

ジヨン、ラスキンとウ井リアム、モリスとは當代美術家の秦斗にして、殊にモリスは美術家にして詩人なり、……モリスも亦ラスキンの感化を受けたる一人にして、彼と同じき高貴なる精神を持し、己れの位置名譽をも顧みず、常に職工の服を着し、白晝ロンドンの街頭に立ち、勞働者を集めて其社會論を演説せり、……ラスキンは寧ろ復古主義にしてモリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至つては二者全く其揆を一にせり、彼等は等しく現今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に於ては到底美術の隆興を見る可はず、……今日の社会制度を改革せざる可らずと主張せり、如此にして彼等は遂に社会主義の制度を以て、其理想となすに至れり、……モリスは社会主義者の同盟の首領として、死に抵る迄運動を怠らざりき

日本においては、この時期までに『帝國文學』や『太陽』をはじめとして、『早稻田文學』『國民之友』『明星』などの雑誌をとおして断片的にモリスが紹介された形跡はある。しかしそれは、主に詩人としてのモリスに言及するものであり、社会主義者としてのまとまったモリス紹介は、村井の『社會主義』においてがおそらくはじめてであった。こうした社会主義者としてのモリス紹介は、その後、週刊『平民新聞』の紙面を通じて、さらに展開されてゆく。

周知のように、週刊『平民新聞』とは、幸徳秋水や堺利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日に創刊号が刊行され、創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれた、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞である。発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面にはエミール・ゾラ、右壁にはカール・マルクス、本棚の上にはウィリアム・モーリスの肖像が飾られていた」。この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事においてであった。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものであった。おそらくその間、この本は発行禁止になっていたものと思われる。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載をとおして、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に連載されたモリスの「ユートピア便り」が、はじめて日本に紹介されることになる。それは、「理想郷」と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳であった。そして連載後、ただちにその抄訳は単行本としてまとめられ、「平民文庫菊版五銭本」の一冊に加えられるのである

こうした日本の事情を念頭におけば、どのような経緯で村井の『社会主義』が中国で翻訳されたのか。その影響はどのようなものであったのであろうか。一方、中国でモリスの「ユートピア便り」が翻訳出版されるのは、この記事に掲載されている年表【図五】によると一九八一年で、日本より七七年遅れて比較的新しい。果たして今後、日中モリス受容比較史のようなものが、学問的に生み出されるのであろうか。そうなれば、一九世紀イギリスのモリスの思想と実践がひとつのリトマス試験紙の役割を担って、日本と中国の二〇世紀の社会と文化の一端を比較分析することが可能となるであろう。楽しみである。

(二〇二〇年)


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図1 ‘William Morris in China’, The William Morris Society Magazine, Spring 2020, p. 14.

fig2

図2 ‘William Morris in China’, The William Morris Society Magazine, Spring 2020, p. 15.

fig3

図3 ‘William Morris in China’, The William Morris Society Magazine, Spring 2020, p. 16.

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図4 ‘William Morris in China’, The William Morris Society Magazine, Spring 2020, p. 17.

fig5

図5 ‘Dissemination of Ideas: A Timeline’, shown in p. 16.

(1)Jeffrey Petts, William Morris in China, The William Morris Society Magazine, Spring 2020, London, 2020, p. 14.

(2)村井知至『社會主義』(第3版)労働新聞社、1903年、43-44頁。
 なお、本稿において使用したのは、1903年刊行の第3版であるが、『社會主義』は、この第3版をもって発行禁止になったようである。1899年に刊行された初版は、以下の書物において復刻、所収されている。
 『社会主義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集 第Ⅳ期 キリスト教と社会・国家篇)日本図書センター、2004年。

(3)日本近代史研究会編『画報 日本の近代の歴史 6』三省堂、1979年、136-137頁。

(4)この記事は、二重かぎ括弧で括られており、記事のあとに、次のような注釈が加えられている。
 「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主義』中に記せし所を摘載せしもの也、以てウヰリアム、モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、33頁)。

(5)ヰリアム、モリス原著『理想郷』堺枯川抄譯、平民社、1904年。
 そのなかの広告文で、『理想郷』については、べラミーの『百年後の新社會』と比較して、次のように書かれている。
 「此書は英國井リアム、モリス氏の名著『ニュース、フロム、ノーホエア』を抄譯したるものであります。[同じく平民文庫菊版五銭本の]べラミーの『新社會』は經濟的で、組織的で、社會主義的でありますが、モリスの『理想郷』は詩的で、美的で、無政府主義的であります。此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣として我等の眼前に浮かぶであらう。卅七年一二月初版二千部發行」