柳宗悦の私版本の文に「工藝の協團に關する一提案」(一九二七年)というものあります。そのなかで、柳は、真の工芸に達するためには、「修行(自力道)」「歸依(他力道)」「協團(相愛道)」の三つの段階を経由する必要があることを説きます。そして、「修行」は、「我れ」の訓練であり、自覚や内省であり、「歸依」は、自我を捨てた、他力へと至る道であり、「協團」は、協力の団結であり、相互補助の生活であり、団体や組合(ギルド)であると述べます。そのうえで、工芸の将来の姿を、次のように展望するのでした。
[昔、]隠者は遂に集つて協力的修行に移つた。かゝる團體的修道者の集りを修道院 Monastery と名づけた。又凡ての信者が寺院を要求し敎會を要求し、そこに信仰の結合を見るも同じである。人々は之によつて個人的生活が陥る獨斷から逃れ、意識の超越に禍はされず、宗敎の雰圍氣に入つた。さうして力を協せる事によつて信念を強め、生活を浄めた。私は之に類する生活様式が、将來の工藝を救う道であると云ふ事を疑ふ事が出來ない1。
かつては、こうした協団的製作なり、ギルド的生活様式があったことを指摘しながら、柳は、自我や個性に基づく芸術を、このように否定します。
實際よき工藝が生れし時代は、皆ギルドの組織に現はれてゐる。外國で云へば中世、日本で云へば明治初年の頃迄、何れもさうである。美しさが衰へたのは、ギルドの組織が破れて、資本製作に移つてからである。最も健康な工藝は民衆のかゝる團體的製作であつた。私は工藝そのものゝ性格が此協團を本質的に要求してゐると信じる。美も民衆的であり、作の分業的過程も協力を要し、作らるゝ物も民衆の用品であり、數も亦多量である。工藝は之を民主的藝術 Democratic Art とも協團的藝術 Communal Art とも呼び得よう。過去の歴史にかんがみても、個人的生活から出た個人的作は疾病が甚だ多い。主我に溺れ作爲に傾く。眞の工藝は個人的藝術 Individual Art ではない2。
他方、このような言葉を使って柳は、協団的な組織が、素朴な生活と経済的発展を導き、人類に幸福をもたらすことを主張します。
私は此組合組織と工藝との不可分離な關係を美の問題から近づいて行つたのであるが、此道が經濟的生活の最も健全な様式となると云ふ事は、ギルド社會主義者の強く主張する所である。彼等が云ふ樣に之は現代の資本主義と機械主義との大いなる魔手から安全に脱れしめ、人類に幸福を将來する所以となるであろう3。
加えて柳は、こうした協団的な生活は、奉仕によって支えられおり、そこに、健康な生活の実質を見るのです。
まして協團は全き奉仕の生活である。自己を投げ出し、大なる世界に一致せんとする生活である。そこには謙譲の徳が呼ばれ質素の生活が要求される。それは正しさへの奉仕であり、同時に美への奉仕であり、仕事への奉仕であり、隣人への奉仕であり、社會への奉仕である。之を健康なる生活と呼び得ないであらうか4。
こうして、「工藝の協團に關する一提案」が執筆された同年(一九二七年)に上加茂民藝協團が発足します。京都市内の上加茂町にある古い一軒家を借りて、青田五良(織物)、鈴木實(染織)、黒田辰秋(木工)たちが同居して、製作にあたりました。しかし、内部の混乱により長くは続かず、二年後には解散へと至ります。
「工藝の協團に關する一提案」の発表に続いて、柳は、「工藝の道」を『大和調』に連載します。そのなかで、柳は、工芸の宗教性に関して、以下のように書いています。
将來個人作家と民衆との關係は、ちょうど僧侶と平信徒との關係でなければならぬ。それによって美の敎會が成立されねばならぬ。僧は衆生の運命を背負ふて立つ僧である。何が信であり何が善であるかを彼らに説かねばならぬ。……宗教史は聖者達のみの歴史ではない。同時にそれは平信徒の歴史である。同じ樣に個人作家は指導の任に當り、工藝の美の王國を民衆の中に建てねばならぬ5。
これを読むと、ひとつの宗教世界における、教祖、僧侶、平信徒のヒエラルキーな階層序列が、唱道者、個人作家、民衆の関係に置き換わり、工芸の美の王国の建設が求められようとしていることがわかります。とりわけ、唱道者が柳宗悦であり、個人作家が、河井寛次郎、濱田庄司、水谷良一、芹澤銈介、外村吉之介といった人たちなのでしょうか。個人作家として認められた人は、その名を使って作品を発表することが許されていたようですが、そうではない平信徒に相当する民衆は、作品に個人名を冠することは禁止されていたようです。
志村ふくみが書き残しているもののなかに、これに関する戦後の一例を認めることができます。戦争が終わると、志村は、一九四九(昭和二四)年に結婚し、ふたりの子どもをもうけるも、結婚生活に悩み、夫と別れ、東京の養父母に二児を預けたまま、近江八幡の実家へ帰ります。そこから、志村の織物への道がはじまるのです。そのときの気持ちを、後年志村は、『伝書 しむらのいろ』(求龍堂、二〇一二年)のなかで、このように書いています。
二歳の時、志村家の養女となった私は、三十代の頃、二人の子をかかえて生きて行かねばならぬ帰路に立った時、何を 糧 ( かて ) にして生きてゆけばよいのかもわからず 藁 ( わら ) をもすがる思いで織物をはじめた。無一文、機も糸も買うすべさえなく心ははやるもののすべてが一からの出発だった6。
そうしたふくみの心を支えたのが、実母の豊でした。しかし、「母は織物に対する智識はまことに幼稚で専門の技術などまったく知らなかったから暗中模索の日々であり、失敗の連続だった」7。それでも「母以外に師はなく、平織を植物染料からなる色彩だけを唯一たよりにして、前人のいない道を歩いていった。しかし私の中には柳宗悦著の、『工藝の道』が深く根づき一すじの道を指し示していた」8。実際に、志村の母の豊は、上加茂民藝協團の青田五良に織物の手ほどきを受けていたのでした。
この道に入って三年が過ぎた一九五八(昭和三三)年に、志村は、日本伝統工芸展に紬織着物《秋霞譜》を出品して、奨励賞を受賞します。しかし、これが柳宗悦の逆鱗に触れることになるのです。以下は、『いのちを纏う 色・織・きものの思想』(藤原書店、二〇〇六年)のなかの志村の言葉です。
それが賞をとったでしょう。そしたら柳先生に呼ばれて、名前を出したって。そして伝統工芸展なんかで賞を受けるなんてとんでもない、これは「名なき仕事」を、なぜあなたは自分だけの名誉にしたのか、もう民芸から破門だと、私を9。
こうして志村は、私淑する柳から「破門」を宣告され、途方に暮れるも、「個人作家」という、すでに胎内に宿した「近代的な自我」を捨て去ることもできず、自然と民芸から離れてゆくことになるのです。
この事例から、厳しい戒律の存在が浮かび上がってきます。平信徒は容易に僧侶になることは難しいのでしょう。見る限りにあっては、柳が唱道した民芸は、民衆による民主的な共同体としての「協団」というよりも、民衆の上に立って教祖が絶対支配する一種の「教団」のようなものだったのかもしれません。
工芸評論家の出川直樹は、自著の『民芸――理論の崩壊と様式の誕生』(新潮社、一九八八年)の「序」のなかで、このように述べています。
民芸理論を見直す作業の過程で筆者はその中に多くの矛盾を見出した。……なかでも血の通った生身の人間という物差しを当ててみることによって見出す歪みはきわめて大きい。人間的な温かさに満ちているかに見えた理論の全体に人間不在の冷え冷えとした底流がはっきり見えてきたのである。工芸が人間のものである以上、これこそこの理論の根幹を揺がす矛盾といえよう。 民芸理論に対する十余年のうちに筆者は各々の分野で触発を受け、人間性と個人の復権、美意識と創造性の重視などを軸とする自らの工芸観がより明らかになるのを感じてきた。この意味で得たものは大きいが、一方、この作業が導いたのは民芸理論のほぼ全面的な否定という結果であった10。
確かに出川のように、人間性や個性や創造性の観点から工芸を見ようとすれば、それを否定する工芸理論は、単なる水泡に過ぎないものとなります。事実、柳は、個性や個人主義について、こうした見解をもっていました。以下は、一九三一(昭和六)年に、柳が、『大阪毎日新聞』(京都版附録)に発表した「工藝美術家に告ぐ」のなかの一節です。
想うに個性の表現が藝術の目的の如く解され、個性美が最高の美の樣に想はれるのは個人主義の惰性による。……「俺達は個性があるのだ」などゝ高飛車に出ても、頼りないいひ草である。つまらぬ個性、奇態な個性、そんなものが如何にこの世には多いことか11。
このように柳は、「個人工藝家」ないしは「工藝美術家」に向けて、その製作態度を強く批判するのです。果たして工芸は、近代的な価値観が用意した、個人の唯一無二の個性の表現として存在するのでしょうか。あるいは、柳のいうように、かつての中世社会にみられたような、集団の没個性のなかにあって息づくのでしょうか。見解は大きく異なり、決して相いれることはありません。これが、志村ふくみが、民芸から「破門」を宣告されたときに感じ取った主題だったにちがいありません。
いまいちど、「工藝の協團に關する一提案」(一九二七年)の記述内容にもどりますと、そのなかで柳は、モリスをこう批判しています。
嘗てモリスは同じ樣な運動を起した。……だがどうして彼は失敗したか。……本質的な致命的な原因は、彼が正しき工藝の美を知らなかつたのだと云ふことに歸着する。彼自らが試み、彼が他人にも勸めたのは工藝ではなく美術であった。……私達が脱却せねばならぬと思ふそのものを、彼は試みようとしたのである。「ラファエル前派」とは稱してゐるが、まだ充分にゴシックに歸つてはいない。之はその派に屬する人々が、主に美術家であつて、工藝家ではなかったからであろう。残された彼の作を見れば、彼が工藝の本質的な美を見失つてゐたという云ふ事を看過する事が出來ない。之が彼のギルドの失敗の主因である12。
柳は、「正しき工藝の美を知らなかつた」、そして「工藝の本質的な美を見失つてゐた」、いまだ「ゴシックに歸つてはいない」、真の工芸家の域に達していない単なる美術家に過ぎなかったとして、モリスを批判します。柳にとっては、これこそが「彼[モリス]のギルドの失敗の主因」であり、柳自らがこれから起こそうとする「工藝の協團」が「脱却せねばならぬと思ふそのもの」だったようです。
書かれているものから想像すると、柳が描いていた「工藝の協團」とは、絶対的な「工藝の美の王国」であり、玉座に座るひとりの教祖のもと、限られた数名の僧侶たる個人作家がいて、厳しい戒律下にあって、事実上彼らが大多数の無名の平信徒に相当する民衆を統治する、階層序列化された集団だったのではないでしょうか。その「王国」にあっては、人間性や個性や創造性といったものは意識の外に置かれ、いっさいの名誉や名声を求める個人的欲望からも解き放された、無想する人びとによって日常品たる工芸品が製作されることが想定されていたものと思われます。志村の民芸からの「破門」の事例は、そうした教義に従わなかったがゆえの、「工藝の美の王国」からの「追放」だったにちがいありません。
「工藝の協團に關する一提案」が執筆された一九二七年、モリスは、「まだ充分にゴシックに歸つてはいない」という理由から、柳の手によって「断罪」の憂き目に遭遇しました。一方、英国においても、すでにこの時期に至るまでには、モリス批判が胎動していました。しかし、その批判の根拠は、柳のそれとはまったく逆で、ゴシックという過去へ向けられた歴史主義的なモリスの姿勢にあったのでした。英国では、支配的であったモリス的伝統からの脱却という文脈のなかからデザインのモダニズムは萌芽してゆきます。たとえば、「工藝の協團に關する一提案」の前年に出版されている一九二六年版の英国の美術雑誌『装飾美術――ザ・ステューディオ年報』を開いてみますと、掲載されている「今日の家具と銀製品」と題された評論文のなかにあって、次のような一節に出会います。これは、直接的なモリス批判ではありませんが、モリスから巣立とうとするデザインの近代運動の黎明を告げるものとして読むことができます。
確かにうまくつくられてはいるが、古い家具の模倣では、ほとんど本質的な価値を備えているとはいえない。…… すでに変化の兆しがある。国中が、偽造された家具や骨抜きにされた過去の作品の模倣であふれかえっている。しかし、そうしたやり方に対して、知的な人びとのあいだでは、嫌悪感のようなものが確かに生まれつつあり、何か動きが始動するのに、そう時間はかからないかもしれない。もし変化が起きるとするならば、そのときの新しい流儀は、ヴィクトリア時代の家具を模すようなかたちをとることはないであろう、といったことが期待されているのである13。
この評論文が発表されたのは一九二六年です。モリスが亡くなって、ちょうど三〇年が経過していました。英国にとってのこの時代は、一九世紀からのアーツ・アンド・クラフツの伝統が徐々に衰退しつつも、しかしいまだにモダニズムが明確に出現していない、そのような過渡期の重苦しい時期にあたり、オランダのデ・ステイルやドイツのバウハウス、フランスの純粋主義といったような、大陸における近代運動の高まりからすれば、明らかに英国は大きな遅れを余儀なくさせられていたのです。
そうした遅延を解消し、英国の近代運動に明快な指針を提供するうえで、極めて重要な役割を演じたのが、一九三四年に刊行されたハーバート・リードの『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理』でした。そのなかでリードは、モリスとその追従者たちについて、こうも決然と断罪したのです。
今日われわれがモリスの名前と業績を思い浮べるとき、そこに非現実感がまつわりつく。こうした非現実感は、彼が設定したそのような目標が間違っていたことに起因しているのである。…… 私は、……今日にあってはモリスも、機械の不可避性を甘受するであろうと信じているのであるが、ところが、失われた主義主張を取りもどすための戦いを起こそうとしている昔からの彼の弟子たちが、いまだに見受けられるのである14。
同じこの時期の極東の日本の状況はどうだったのでしょうか。見てきましたように、民芸運動の場合、ヨーロッパの近代運動とは明らかに逆行する道を選択し、モリスの不徹底さを批判したうえで、さらに中世ゴシックの奥深くにまでさかのぼろうとしていたのでした。柳とリードのモリス批判は、同じ批判でも、方向性が全く異なっています。柳が、モリスの中世主義の軟弱さを批判して、真の中世世界の工芸生産に復帰しようとするのに対して、リードは、モリスの手工芸と装飾芸術への執着心を批判したうえで、機能主義に立った機械的生産への扉を開こうとするのです。
同時代の現象とは思えない真逆の方向が、そこにはありました。どうやら柳の関心は、一九二六年にヴァルター・グロピウスのデザインによってデッサウの地に建築されたバウハウスの新校舎ではなく、中世の時代に神の栄光を讃えるために数世紀にわたって名もなき工人によって建造された旧き大聖堂に向かっていたようです。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。あえていえば、大聖堂へ向けられた視線は、産業革命後の、いかんとも避けがたいひとつの反作用的通過儀礼だったとも考えられますし、その一方で、西洋モダニズムが含みもつ神学的熱狂の一種の転倒された東洋的変種であったと考えることもできるかもしれません。
いずれにせよ、疑問は残ります。柳の工芸運動が、日本における産業革命後に現われたひとつの反動的動きであったとしても、なにゆえに、参考にすべき工芸家としてモリスの思想と実践を引き合いに出し、それを批判するかたちをとりながら、日本の「工芸の道」を唱道しようとしたのでしょうか。そして、なぜ、参考にすべき時代として英国の(あるいは、広く西洋の)中世に着眼し、自国の中世社会に範を求めようとはしなかったのでしょうか。
さらに疑問は続きます。柳は、戦後に公にされた「民藝の立場」(一九五六年)と題された文において、「私共の民藝運動は、決してモリスに由来するものではない。東洋人としての直觀に立つて仕事を始め出したのである」15と、回顧しています。しかしながら、戦前の民芸運動の創設期に書かれたモリス批判、あるいはモリス参照の言説は、それによって消え去るものではありません。なぜ、三〇年近くの歳月が流れたあとに、こうした「東洋人としての直觀」という文言が柳の口から飛び出したのか、一考に値するテーマのように思われます。さらに、それに関連していえば、日本の産業革命後の土壌を、西洋中世の土壌と変わらぬものと見立てたうえで、そこに日本の工芸を開花させようとする方途は、本当に妥当だったのでしょうか。他方、柳の工芸運動は、リードが強調するような近代主義(モダニズム)と、実際にはどう対峙しようとしたのでしょうか。
以上のようなことが、デザイン史家としての私が抱える問題意識です。こうした疑問に答えを出すには、個人としては、モダニストの陶工の富本憲吉の思想と実践を対置し、比較考量する必要がありそうですし、他方で、団体としては、一九二八(昭和三)年に仙台に開設される工芸指導所(のちの産業工芸試験場)が展開した官制の工芸振興運動と引き比べることもまた重要かと思います。
疑問が溶解するには、もう少し時間がかかりそうです。いまは「忘備録」として、ここに書き残しておきたいと思います。
(二〇二一年)
(1)「工藝の協團に關する一提案」『柳宗悦全集』第八巻、筑摩書房、1980年、51頁。
(2)同「工藝の協團に關する一提案」、52頁。
(3)同「工藝の協團に關する一提案」、53頁。
(4)同「工藝の協團に關する一提案」、同頁。
(5)「工藝の道」『柳宗悦全集』第八巻、筑摩書房、1980年、176頁。
(6)志村ふくみ『伝書 しむらのいろ』求龍堂、2012年、189-190頁。
(7)同『伝書 しむらのいろ』、190頁。
(8)同『伝書 しむらのいろ』、191頁。
(9)志村ふくみ・鶴見和子『いのちを纏う 色・織・きものの思想』藤原書店、2006年、72頁。
(10)出川直樹『民芸――理論の崩壊と様式の誕生』新潮社、1988年、2-3頁。
(11)「工藝美術家に告ぐ」『柳宗悦全集』第十四巻、筑摩書房、1982年、6頁。
(12)前掲「工藝の協團に關する一提案」、55-56頁。
(13)DECORATIVE ART, 1926 “THE STUDIO” YEAR-BOOK, The Studio, London, p. 87.
(14)Herbert Read, Art & Industry: The Principles of Industrial Design (1934), Faber & Faber, London, edition of 1956, pp. 47-50 and 51.[リード『インダストリアル・デザイン』勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、1957年、50および54頁を参照]
(15)「工藝の立場」『柳宗悦全集』第十巻、筑摩書房、1982年、247頁。