中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第一部 わがデザイン史忘備録

第一七話 小林信のその後

ある日のことです、「桑野信子について」という表題で、一通のメールが届きました。読むと、実に丁寧な文章で、メール送信の理由が書かれてありました。送り手の方は、ウェブサイトの私の著作集をお読みになり、「小林信」と「桑野信子」との関係に関心をもたれたらしく、「桑野信子」についての知見が披歴されていました。

私が知る「小林信」と「桑野信子」の関係は、かつて、奈良女子高等師範学校を前身校にもつ現在の奈良女子大学の学術情報センターに問い合わせたときに得られた情報のみでした。そのとき返ってきた情報によると、小林信は、一九二三(大正一二)年三月に奈良女高師(文科)を卒業後、山口県にある徳基高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)に赴任、また、同大学同窓会の佐保会会員名簿の記載内容に従えば、一九二四(大正一三)年一二月現在「生駒郡安堵村富本方」に在住、そして一九二五(大正一四)年一一月現在「桑野信子」として在「東京」、ただし「信」の読み方については不明、というものでした。

著作集の第四巻『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』においても、第一一巻『研究余録――富本一枝の人間像』に所収の第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」においても、私は、「小林信」について言及していました。「小林信」という人物は、一九二四(大正一三)年四月に、富本家のふたりの娘を生徒とする私設学校に赴任してきた女性の教師です。その年の八月の『婦人之友』を見ますと、「私たちの小さな學校に就て」という表題のもと、富本一枝が「1. 母親の欲ふ敎育」、小林信が「2. 稚い人達のお友達となつて」、そして、富本憲吉が「3. 生徒ふたりの敎室」を寄稿しています。しかし、奈良女子大学の学術情報センターから得られた情報からわかりますように、少なくとも翌年(一九二五年)の一一月には、「桑野信子」として東京に住んでいるのです。いつ、どのような理由があって安堵村を離れたのか、また「小林」から「桑野」への改姓、「信」から「信子」への改名の背景は何であったのか、いずれもはっきりとはわかりません。さらには、そのとき後任の教師が決まった形跡も、あるいは、ふたりの生徒の転校先が決まった形跡もありません。なぜ「小林信」は、あわただしく教師の任務を放棄して東京へと去っていったのか、それが、私にとっての大きな謎として残っていましたし、同時に、その後の「小林」あるいは「桑野」の足取りが、とても気になっていました。そこへ、「桑野信子について」という表題のメールが届いたのですから、私にとっては、言葉を超えた大きな衝撃でありました。メールの内容によると、「桑野信子」は、与謝野鉄幹・晶子門下の歌人で、一九三三年創設の潤光女学校の初代国語教員(一九三六年まで勤務)をしていました。そして、メールの末尾に、もし興味があれば、「桑野信子」の写真を送ることができる旨、書かれてありました。私は、さっそく、概略次のような返事を送信しました。

 メール、拝受いたしました。感謝の気持ちでいっぱいです。驚きました。というよりも、全身の震えが止まりませんでした。

 執筆中から、小林信さん(おそらく桑野信子さんに間違いないと思われます。)に、とても強い関心をもっていました。お書きになった文章からして、とても聡明で、心のやさしい方だったにちがいないと思われたからです。安堵村を去られるときのお気持ちを想像するにつけ、小林信さんの教師としての、そして女性としての、何かとてもつらい思いが伝わってきていました。その方の消息の一端がいまわかり、興奮のなかにいます。私にとりまして、とても知りたかった情報です。本当に、ありがとうございます。

 もし桑野信子さんのお写真をいただけるようでしたら、ぜひとも、ちょうだいしたく存じます。お手数をおかけしますが、どうかよろしくお願いいたします。

すぐに返事が帰ってきました。そこには、次のような六個の画像が添付されていました。

(1)『婦女界』第45巻第3号、1932年、50頁。
(2)一九三四年秋の潤光女学校職員の集合写真。
(3)一九三四年秋の潤光女学校グラウンドにおけるバレエ実習の一場面。
(4)一九三五年二月一三日開催の潤光女学校の大磯へのハイキング(その一)。
(5)一九三五年二月一三日開催の潤光女学校の大磯へのハイキング(その二)。
(6)一九四三年の湯河原での与謝野夫妻記念碑除幕式における参列者の写真。

 添付されていた『婦女界』(第45巻第3号、1932年、50頁)には、桑野信子の和歌五首が記載されており、それに続く略歴によって、一九〇二(明治三五)年四月二二日に生まれ、奈良女子高等師範学校文科を出ていたこと、そして、一九二九(昭和四)年の秋に与謝野門下生になったことがわかりました。かくしてこれにより、「小林信」と「桑野信子」がつながり、ほぼ間違いなく同一人物であることがはっきりしたのでした。

 ただちに返事のメールを書きました。「さっそく、信子さんのお写真等、お送りいただきまして、ありがとうございました。長年探し求めた方にやっと巡り会えた気持ちです。何か不思議な感じがしています」。そして、その方が、今後さらに「桑野信子」に関心をもち、調査をされる意向がおありであれば、次のような方法があるのではないかと、僭越ながら助言しました。

(1)奈良女子高等師範学校を卒業して小林信が最初に赴任した基徳高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)。もし、採用に際して提出された履歴書が残されていれば、出生から奈良女子高等師範学校までの履歴を跡づけることができます。その他、この女学校が当時刊行した印刷物に小林が登場している可能性があります。たとえば、新任紹介など。

(2)奈良女子高等師範学校を前身校とする現在の奈良女子大学の学術情報センター。ここに、この大学の同窓会である「佐保会」の会員名簿があるはずです。私は、関係する年代だけしか調査の依頼をしませんでしたが、それ以降の「佐保会」の名簿に、「桑野信子」の住所と職業がどう記載されているか、それをたどることで、東京時代がある程度明らかになる可能性があります。

(3)与謝野鉄幹・晶子につらなる書物(書簡集等を含む)と人脈にあたることです。思わぬ発見があるかもしれません。

 いずれにしましても、こうした調査は、時間のかかる、そして根気を必要とする大変な仕事になることが容易に想像されます。しかし、もし、小林信/桑野信子の生涯にわたる足跡の一端が明らかになれば、大正と戦前の昭和期における、女子の高等教育の問題、富本家の「小さな学校」にみられる私教育の問題、女子間のジェンダー/セクシュアリティの問題、女性が職をもつ問題、そしてさらには、女子の創作表現にかかわる問題(この場合は歌人としての)などの、日本の女性問題にかかわる重要な諸点に、ひとつの効果的なメスを入れることになり、女性史や女性解放運動史の学問分野へ大きく貢献するものと考えられます。果たして調査は順調に進むでしょうか。期待したいと思います。

(二〇二二年)