中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第一部 わがデザイン史忘備録

第七話 雑誌における富本憲吉特集の変遷

多くの研究者がそうかもしれないが、私も調査や執筆の途中で、気になることや頭に浮かんだアイデアを、いつか役に立つであろうと思い、忘れないようにと別の用紙に書き留めることがある。富本憲吉について書いていたときだったと思うが、次のようなメモを書いていたらしく、最近、資料の隅から出てきた。


一. 特集「富本憲吉君の藝術」『美術』第1巻第6号、1917年4月。
二.特集「富本憲吉論」『中央美術』第8巻第2号、1922年2月。
三.特集「富本憲吉論」『中央美術』第31号、1936年2月。
四.特輯「富本憲吉作陶四十五年記念展」『陶説』第36号、1956年3月。
五.死亡記事および追悼文(富本憲吉の死去は1963年6月8日)。
六.特集Ⅰ「富本憲吉の芸術」『三彩』第257号、1970年4月。
七.特集1「富本憲吉と現代」『炎芸術』第3号、1983年7月。
八.特集「陶芸家富本憲吉の世界」『季刊 装飾デザイン』第30号、1989年7月。

見るとそれは、雑誌に掲載された富本憲吉特集の一覧である。そのとき私は何を感じて、こうした一覧表をメモとして残そうとしたのであろうか。少し記憶をたどり、思い起こしてみる。

私は富本憲吉を書く場合も、富本一枝を書く場合も、常に彼らが書籍や雑誌に書き残した文を原資料(一次資料)として、その資料に語らせる、つまりは文を引用して本人に語らせるという方法を重んじて執筆してきた。それは、確たる証拠(エヴィデンス)もなく、著者の思い込みや一方的な価値観でもって、歴史上の人物をあれやこれやと押し付けがましく語らないということを意味する。よくこんな幻を見たことがあった。それは、憲吉さんや一枝さんが私の傍らに立って、思いを語り、いま話したことは、何という雑誌の何頁に書いているので、よく読むように、と私に耳打ちするである。私は必死に耳を澄ませて話の内容を書き取り、そのあとで指示された文献を見ると、確かにそこにそのことが書いてある。そういうわけで、私が書く富本憲吉の人生は、憲吉さん本人が私に話してくれた人生であり、私は単なる聞き手であり、それをまとめた書き手にすぎず、あくまでも「本人が語る富本憲吉の生涯」なのである。

しかしよく考えてみると、「本人が語る富本憲吉の生涯」とは別に、「他者が語る富本憲吉の生涯」もあっていいように思う。というのも、人というのは、単にその人本人の思いだけで自立的に成り立っているわけではなく、明らかに他人の視線や心象のなかにあって生きているからである。おそらくこのメモをつくったのは、雑誌における富本憲吉特集の変遷を見てゆくことによって、言い換えれば、他者の目の存在とその内容が時代のなかでどう変移するのかを見定めることによって、「本人が語る富本憲吉の生涯」ではなく、もうひとつ別の「他者が語る富本憲吉の生涯」が書けるのではないかと、そのとき直感的に感じたためだったからではないかと、いま思う。

改めてこのメモを見ると、一九四〇年代の大戦期には存在しなかったようであるが、富本憲吉特集は、近年においても特集が組まれている可能性がないわけではないが、このメモに従えば、一九一〇年代から一九八〇年代に至るまで、書き手にとってはありがたいことに、うまいこと一〇年ごとに推移している。そして、生前の特集と没後の特集が分量的に半分半分でバランスがよく、しかも、他者に語らされるために、「本人が語る富本憲吉の生涯」には存在しえない「富本憲吉以降の富本憲吉の歴史」を書くことも可能となる。

果たして残された時間のなかにあって、メモ書きの資料を使いながら「他者が語る富本憲吉の生涯」を書けるかどうか――それは、わからない。資料はほぼすべてそろっている。あとは、踏み出すかどうかの決断だけなのである。しかし、富本以外にも、書きたいものがある。つまり、研究上の私のふるさとである本道の英国デザイン史研究にいま一度回帰すべきか――、それとも、もう少し寄り道を重ねてこの冒険的挑戦に迷い込むのか。いずれの道を歩むにしても、胸躍る選択である。とりあえず忘備録として、いまはこのメモをここに残す。

(二〇二〇年)