中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第一部 わがデザイン史忘備録

第一話 富本憲吉夫妻の経済的困苦

二〇一二(平成二四)年の一一月のことであったと記憶するが、ある日のこと、研究室のパソコンを開くと、ある女性から一通のメールが届いていた。私のホームページを見て、私が富本憲吉の研究者であることを知り、このメールを書いているとの前文に続いて、本文には、祖母から母を経て、そしていま私が預かっている着物の帯を、何としてでも自分の代で富本一枝さんのご親族にお返ししたいので、紹介してほしい旨の依頼が書かれてあった。そしてそのメールには、数枚の写真も添付されていた。それらの画像に少し手を加えたものが、【図一】【図二】【図三】である。それ以降、この女性の方とメールのやり取りをし、また電話でもお話をさせていただき、富本憲吉さん夫婦の孫にあたる海藤隆吉さんを紹介することになった。その後、海藤さんのご自宅に持参され、帯は無事に返却された。いただいた報告のメールや電話から、このおふたりの当事者同士のお孫さんがともに喜ばれている様子が伝わってきた。こうしてこの話は、一件落着した。

それにしても、なぜこの帯は、三代にわたってこの女性に引き継がれてきたのであろうか。私にとって、いまだ疑問が疑問のままとなって残っていた。ひょっとしたら、この帯は、借金の「かた」だったのではなかろうか。

帯が海藤さんの手もとに返されるときの前後のどちらかであったか、幾分記憶が曖昧になっているが、ほぼ同世代ではないかと思われるこの女性の方と私は、少し打ち解けて電話で話す機会があった。そのとき私は、この方のおばあさまと一枝さんとの関係をどうしても知りたくて、尋ねてみた。しかし、詳しくはご存知ではなかった。ただ言い伝えとして、この帯は富本一枝さんから預かった品で、お返ししなければならないものである、と聞いているくらいで、それ以外のことは、ほとんどわからないとのことであった。そこで、どのような方だったのかをお聞きしてみた。すると、帰ってきたお返事は、何と驚くことに、私と同郷の方で、熊本県立高等女学校(現在の熊本県立第一高等学校)を卒業されていた。この女学校の卒業生に、俳人の中村汀女がいる。そこで私は、おばあさまのご趣味は俳句であったかどうかをお訪ねした。すると、そうでしたとの言葉が返ってきた。一瞬にして私の疑問は氷解した。私の頭のなかで、汀女、一枝、おばあさまの三者がつながったのである。そして同時に、この帯が借金の「かた」であったことを密かに確証した。

戦争が終わると、一枝の夫の富本憲吉は、東京に家族を残して、単身、生まれ故郷の奈良に帰っていった。ここから一枝の戦後生活がはじまる。これについて、青鞜社以来の友人であった神近市子が、次のように語っている。「紅吉」は青鞜時代の一枝のペンネームである。

晩年は夫君と別居され、青春時代の華やかな紅吉を思うと涙をそそられるような淋しい日々だったが、花森安治氏が彼女をかばって、いつまでも『暮しの手帖』に執筆を依頼した。中村汀女氏も彼女を選者に迎えて、最後まで彼女の才能を評価された。その意味では、一枝さんは幸せな人であった。私たちの友情も終生変わらなかった

一枝と汀女が知り合うのは、戦争末期のころで、大谷藤子の紹介であった。戦時下の買い出しや疎開を通して女性たちは協力し合い、それに伴い交流の輪も広がっていった。汀女は、こう書く。「この縁故で、私たちは神近家に疎開荷をあずけ、また農家にも荷をあずける日が来た。また、二十二年に創刊した、主宰誌『風花』の編集も富本一枝氏がやって下さることになったのである」

『風花』創刊号が発行されたのは、奥付によると、一九四七(昭和二二)年の五月一日であった。さらにこの創刊号の奥付には、編輯者に富本一枝、發行者に中村汀女の名前が記載され、發行所は風花書房で、所在地の住所は、汀女の自宅の「東京都世田谷區代田二ノ九六三」となっている。

『風花』は、順調に号を重ね、一九四八(昭和二三)年の一二月一日に、第一〇号が発行された。そのなかに、少し目を引く広告が掲載されている。それは、「少年少女圖書出版 山の木書店」の広告で、この時期あたりから一枝は、『風花』の編集業務から少しずつ離れ、「山の木書店」という出版社を娘の陽と立ち上げると、児童図書の刊行事業に力を注ぐようになっていった。しかし、経営は苦しかった。陽の息子の岱助は、こう振り返る。「紆余曲折のすえ昭和二十三年十一月に第一冊の『人間の尊さを守ろう』(吉野源三郎著)が発行された。……第一冊目が発行されたのだが、幼い私が、広間に積まれた返本の山の中で遊んだ記憶がある程なのだから、あまり売れ行きは良くなかった様であった」。そして、どうやらこの「山の木書店」は破綻したらしく、その後は、上で引用した神近の言説からもわかるように、「花森安治氏が彼女[一枝]をかばって、いつまでも『暮しの手帖』に執筆を依頼した」。

再び話を帯の話にもどさなければならない。私が、この帯が借金の「かた」だったのではないかと推断したのには、以上のような当時の一枝を取り巻く背景があった。思うに、当時横浜にお住いの、この女性のおばあさまは、中村汀女と熊本県立高等女学校の同窓生ということもあって俳句をたしなみ、おそらくは汀女主宰誌の『風花』にも投句され、その縁で、『風花』の編集業務に携わっていた一枝ともいつしか顔見知りとなった。その後、「山の木書店」の経営が行き詰ると、一枝はこの方に資金の提供を申し出、それとの引き換えに、「かた」としてこの帯を差し出していたのではないだろうか。

この解釈には、確たる証拠があるわけではないので、憶測といえば、憶測にすぎず、したがって、単なる思い込みの範囲を出るものではない。他方、憲吉と一枝の経済的困苦については幾つかの実話としてのエピソードも残されており、ここでは、その事例を紹介するに留めておきたい。

まず、引っ越しの際の事例。一九二六(大正一五)の秋、富本憲吉一家は、慣れ親しんだ大和の安堵村(現在の奈良県生駒郡安堵町)を離れ、武蔵野のおもかげが残る東京郊外の千歳村(現在の東京都世田谷区祖師谷)へと転居し、新たに家を仕事場とつくる。しかし――。憲吉はこう振りかける。

仕事場は十坪ばかり、窯は大和時代より少し大きくしたが、金が足りず、大和の仕事場に建てた家を売り払った。そのうえで資生堂の主人の福原信三氏や写真家の野島康三氏というような友人たちから三千円ずつ出資してもらった。自分でも二口の六千円ほど生家からもらってきた

憲吉自身にも、手もとが不如意のときがあった。以下の引用は、陶磁研究家の小山富士夫の回顧談である。

先生にいつはじめてあったのか記憶しない。東京・祖師谷の工房はまれに訪れたので恐らく昭和五、六年ごろだろう。二度目か三度目におたずねした時貧[乏]書生の私に「君五十銭かしてくれたまえ」といわれ、それをにぎって私と一緒に電車に乗られた。電車賃もない時が富本先生にもあったようである

一方、一枝の経済的困苦を示す一例は、こうである。後年、染織家の志村ふくみが、私信に書かれた内容を次のように披露している。若い志村宛に出されたものではなく、おそらくは、実母の小野とよの財力を頼って出されたものであろう。

 やがて東京の祖師ケ谷に移られてからの夫人[富本一枝]の手紙に、「壺を買っていただけないでしょうか、富本が最近たった一つ焼いた銀襴手の大壺です。胸まわり一尺以上あります(私は国宝になるほどのものだと思われるほど立派です)」。巻紙に墨をたっぷりふくませて書かれたその文字は、銀襴手の大壺がそこにあるように、堂々と立派で貧しさなど微塵も感じさせないものであるが、「私達は生活のため、今手許にたった一つだけのこして来た大切な壺を売るより道がないのです」とある

この手紙がいつ一枝から出されたのかを正確に特定することはできないが、女性解放運動家の丸岡秀子の挿話のなかにも、こうした生活の困窮を知らせる一枝からの電話の話が出てくる。

「いま、赤貧を洗うが如しなの」と電話があつた翌日には、大きなバラの花束をかかえて訪ねてくる。「きのうの赤貧が、きょうの花束とは」と驚くわたしに、またそんな皮肉を、と睨んだ表情は、貧しさを知らない人だと思わせた

生活の苦しさを日々経験しながらも、この夫婦の困苦は、生きることがもはやできないほどの深刻で絶望的なものではなかった。丸岡がいうように、一枝自身は、「貧しさを知らない人」であり、うまくそれをやり過ごす術を先天的に宿していたにちがいなかった。そう考えれば、帯の顛末も、必ずしも借金の「かた」などではなく、一枝からの「少し押しつけがましい贈り物」だった可能性もないわけではない。何せ一枝には、人にものをあげたがる性格があり、その事例も幾つか残されているからである。

志村が言及している「銀襴手の大壺」の顛末は、よくわからない。しかし、海藤さんの手もとに帰ったその「帯」は、記憶が薄れてはっきり思い出せないが、それからしばらくして、東京か京都のどちらかの国立近代美術館に寄贈されたと聞く。

(二〇二〇年)


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図1 富本憲吉デザインの帯(全体)。

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図2 富本憲吉デザインの帯(細部)。

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図3 富本憲吉デザインの帯(署名)。

(1)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、242頁。

(2)中村汀女『汀女自画像』日本図書センター、1997年、93頁。

(3)富本岱助「祖母 富本一枝の追憶」『いしゅたる』第12号、1991年1月、16頁。

(4)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、210-211頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]

(5)小山富士夫「富本憲吉氏のこと」『朝日新聞』1963年6月11日、11頁。

(6)志村ふくみ『一色一生』求龍堂、1982年、223頁。

(7)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、32頁。