桑野信子の短歌を求めて熊本県立図書館へ行きました。以下に、閲覧(および複写)した書籍と雑誌の一覧、そして、そのなかに所収されている「桑野信子」に関する作品の概要をまとめてみます。
(1)『冬柏』国立国会図書館デジタルコレクション(図書館送信限定)。 『冬柏』は、『明星』の後継誌として、与謝野晶子と寛を中心に一九三〇年に創刊された月刊の歌誌です。桑野信子は、一九三〇年三月二三日発行の第一巻第一号に「窓に倚る」と題して一九首を寄稿しています。最後の寄稿は、一九三八年一月二八日発行の第九巻第二号所収の「鳴澤抄」のなかの九首です。この間信子は、ほぼ継続してこの『冬柏』に投稿しており、自身の主要な発表の場としていたようです。
(2)『婦女界』第四五巻第三号、一九三二年。国立国会図書館へ複写依頼。 このなかに、「やよひの歌」と題して五首が掲載されています。
(3)山本三生編纂『新萬葉集』巻三(きの部~この部)改造社、一九三八年。 この書籍には、一九首の信子の短歌が記載されています。また、巻末には「作者略歴」が設けられており、そのなかで「桑野信子(くはののぶこ)」は、次のように紹介されています。上記の『婦女界』にも略歴が書かれてありますが、こちらの方が、より詳しいものとなっています。 「明治三十三年四月二十二日、京都府宇治群宇治に生れ、神奈川縣藤澤町鵠沼二二一六に現住。大正十二年三月奈良女高師文科を卒業。昭和四年秋より與謝野氏の門に入り新詩社同人となる。」 しかし、『婦女界』における略歴では、生年月日は、「明治卅五年四月廿二日生」になっていますので、生まれた年が合致しません。「明治三三年」と「明治三五年」のどちらが正しいのか、いまのところ、それを特定する資料は見出しておりません。
(4)『明星(復刊)』国立国会図書館デジタルコレクション(図書館送信限定)。 第一巻第二号(一九四七年六月刊)に「壺」と題して六首が、また、第二巻第一号(一九四八年一月刊)に「古寺巡禮」と題して一〇首が、掲載されています。
以上が、この日の調査内容でした。そのなかから、気になった三首を抜き出し、少し検討してみたいと思います。
最初に取り上げる短歌は、『新萬葉集』に所収されていた、次の作品です。
一筋に君を思ふと告げにこし風ならなくに身に沁む夕
意味は、おおよそ次のようになります。「一筋にあなたを思っております、と私に告げに来てくれた風ではないのですから、私にとってその風は冷たく、身に沁み入るような夕べです」。もしこの歌が、安堵村を去るときの心象を詠ったものであるとするならば、どうでしょうか、明らかにその風は、富本一枝ということになります。そして、裏を返せば、愛を告げに来てくれる風(=富本一枝)であってほしかったという意味にもとることができそうです。
深読みにすぎるかもしれませんが、もし「小さな学校」の教師を突然放棄し、村を離れた理由が、本当にこうであったのであれば、ふたりの愛にかかわって一枝が、いずれかの段階で、一方的に拒絶をしたことになります。しかし、おそらくは、ふたりは相思相愛の間柄だったと思われますので、その背後には、女同士の親密な愛を見過ごすことができなかった、夫である富本憲吉の思惑が見えてきます。果たして真実は、どうだったのでしょうか。この歌だけから判断することはできず、いまもって事実は闇のなかにあります。
安堵村を去った小林信は、結婚により改姓し、「桑野信子」となったようです。しかし、「信」が「信子」へと改名された理由は、いまなおわかりません。「信」は戸籍名で、「信子」は、結婚後の通り名だったのかもしれません。
創立五〇周年誌『法政大学女子高等学校のあゆみ』に所収の「潤光学園・法政女子校の教職員」によれば、桑野信子は、一九三三年四月から、創設された潤光女学校の国語の教師に就き、一九三六年三月までその職に留まっています。
この間、子どもにも恵まれたらしく、次の歌が、そのことを証明します。これも、『新萬葉集』のなかの一首です。
わが男の子母と竝びて物を讀み星座の名など言ふ年となる
安堵への思いを詠った作品はないのでしょうか――。とても興味がもたれるところです。『明星(復刊)』第一巻第二号(一九四七年六月刊)の「壺」のなかに、それに関連しそうな一首がありました。
大和なる赤埴(あかはに)をもつてつくねたる小さきこの壺親しかりけり
この「壺」とは、その昔富本憲吉が小林信に贈呈した自作の陶器だったのではないでしょうか。当時富本家に出入りをしていた、奈良女子高等師範学校の小林信の一年後輩にあたる丸岡秀子も、富本が焼いた作品を、とても大事に愛蔵していました。そのことから連想しますと、小林信(桑野信子)も、富本憲吉の生き方と芸術に強い共感を覚え、富本がプレゼントした「壺」を、思い出とともに秘蔵していたにちがいありません。
戦後信子は、断ちがたい大和への思いを胸に秘め、奈良への巡礼の旅に出ます。それが、『明星(復刊)』第二巻第一号(一九四八年一月刊)に掲載の「古寺巡禮」の一〇首です。このなかには、とくにかつての大和での生活を思わせる作品はありませんが、それでも、この旅の途中で、富本家のふたりの娘のためにつくられた「小さな学校」で、若かりしころ教師をしていたことが、鮮明に蘇ってきたにちがいありません。さらに加えれば、陶芸家としての富本憲吉のことが、そして、自分に示した富本一枝の親密な愛のことが――。
丸岡秀子が、安堵村における憲吉と一枝の生き方にはじめて触れたのは、奈良女子高等師範学校の学生のときでした。丸岡は、こう回想します。
青田の中に、ちょこんと建てられたあの家の二人は、当時いっぱしの大人だった。だが、十代を苦悶し、その苦悶に支えられて二十代を翔ぼうとしている小鳥のようなわたしに対して、いささかの差別もない。子ども扱いもしなかった。大人振りもしなかった。人間として、まったく平等な扱い方をしてくれる人という信頼を持たせた。
それはなぜだったのか。このことは、差別に敏感なわたしの環境から、自力で脱却をはかる芽を創り育ててくれた。これこそ、まさに「近代」とのめぐり合いといえよう。
小林信も、丸岡と同じ印象を、富本夫妻から受け取ったのではないでしょうか。丸岡は、女性解放運動家として、さらには社会評論家として、自らの人生を生きることになります。一方の小林信(桑野信子)が進んだ道は、歌人としてのそれでした。富本夫妻の影響のもとに、大和が生み出した、ふたりの女性の動と静の才能でした。
(二〇二二年)