中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第一部 わがデザイン史忘備録

第二話 富本憲吉の後援者の小川正矩

私がはじめて富本憲吉記念館を訪問したのは、二〇〇五(平成一七)年の六月のことだったと記憶しているが、必ずしも正確ではない。対応していただいたのは、副館長をされていた山本茂雄さんだった。そのときの私は、富本についての関心が芽生えたばかりのところで、一片の知識のさえも持ち合わせていなかった。山本さんが富本について話される内容は実に多岐にわたり、しかも情熱的であり、私は、ただただ知識の洪水に身を任すほかなかった。はじめてお会いしたにもかかわらず、お昼になると、離れの奥座敷に招き入れてもらい、お寿司のご馳走にあずかった。さらに別れ際には、実際には自分が執筆したものといいながら、館長の辻本勇さんを著者名とする『近代の陶工・富本憲吉』を渡された。こうして富本憲吉記念館とのおつきあいがはじまり、しばしば訪問しては、山本さんのお話に耳を傾けたり、貴重な数々の資料を提供してもらったり、富本作品のコレクションについて説明を受けたりするようになった。

その経緯は、いまとなっては十分に思い出せないが、二〇〇六(平成一八)年の秋のことだったと思うが、辻本さんと山本さんご夫婦、そして私の四人で、尾道の向島にある富本憲吉の後援者であった小川正矩さんの旧宅を訪問することになった。この訪問には、尾道のご出身で、銀座の吉井画廊の社長を務められ、尾道白樺美術館の館長もされていた吉井長三さんも加わられた。あとで詳述することになるが、一九二三(大正一二)年の夏、富本憲吉一家は、向島の医師であった小川正矩さんの世話により、干汐で海水浴を楽しんでいたのである。

私はこの訪問に先立ち、二〇〇〇(平成一二)年に向島町が発行していた『向島町史 通史編』に目を通した。そこには、次のようなことが語られていた。「町域の医療を支えたのは、この向島に住む開業医たちであった。……向島西村兼吉の小川家や宇立の林家(のちの安保家)も江戸後期以来代々医業を開業し、最近まで地域医療を施してきたが、現在は廃業し診療所も取り壊した」。またこのような記述も目に留まった。「……漢方医全盛の当時にあって、西洋医学への転換は多くの困難と月日を要した。向島の小川家では漢方だけでなく、西洋医学も修養して地域医療に貢献した。当主小川正策は種痘を文久期以来実施し続けるだけでなく、飢饉のさいの『難渋者』の救済を行い、一八六九(明治二)年、一八七七(明治一〇)年にはコレラ流行にさいして『予防薬』を差し出している」。このような記載内容からもわかるように、小川正矩さんは、当主の小川正策から数えて何代にもわたって連なる向島の医者の家系に位置づく人物であった。

いま小川家の旧宅は、結婚されて向島町外にお住いの孫娘の方が、家の管理を兼ねて、週末などに別邸としてお使いになっていた。その日は、その方とその方のご主人が、夫婦そろって私たち一行を温かく迎えてくださった。玄関を入ると、右手の壁に、額に入った一枚の小品が掛けられていた。記憶に間違いがなければ、確か、墨絵のような作品で、手前の砂浜から狭い海を隔てて浮かぶ小さな島が描かれていた。説明によると、これが富本家の家族が楽しんだ干汐の海水浴場で、富本が一気に書き上げ、お礼の品として小川正矩さんに差し上げたものらしい。室内に入ると、ウィリアム・モリスのデザインを思わせるようなインテリアで、静かな落ち着きが漂っていた。奥の部屋にはピアノが置かれ、その上に、さりげなく富本の白磁の壺が飾ってあった。そのほかにも富本の作品を見せていただき、加えて、残されていた富本から小川正矩さんに宛てた書簡類(主としてお礼状)も手に取らせていただいた。【図一】は、このときの集合写真で、前列左から山本茂雄さん、辻本勇さん、吉井長三さん、それに私である。後列左が小川正矩さんのお孫さん、右が山本茂雄さんの令夫人である。半日の刺激的な訪問ののち、帰りには、少し遠回りをして、車のなかからではあったが、富本一家が海水浴を楽しんだ現場である干汐の海岸も見ることができた。

その日に至るまで私は、この一九二三(大正一二)年の海水浴を、単なる富本家のひと夏の休暇とばかり思い込んでおり、憲吉さんと一枝さんにとってどのような深刻な意味がそこに隠されていたのかなどについては、思いも及ばないことであった。おそらくこの日集まった誰もがそうだったのではないかと思う。というのも、『近代の陶工・富本憲吉』には、このような記述しか書き残されていなかったからである。「夏休みになると、家族で海水浴のための旅行に出かけるのが恒例となった。同十二年[大正一二年]の夏瀬戸内海尾道の向島に滞在しているが、このときの宿の世話をした向島の医師小川正矩は、憲吉の湯呑み頒布会を通しての知り合いだったらしい」。私が、この夫婦にとっての向島滞在の重大な意味に気づかされたのは、その日から多くの歳月が流れた、のちのちのことであった。

小川正矩が富本憲吉の後援者としてさまざまに援助をしていたこの時期、安堵村の富本の自宅には、一枝の魅力に惹かれて、奈良女子高等師範学校の学生が何人も訪れてくるようになっていた。そのなかのひとりに、のちに女性解放運動家として活躍することになる丸岡秀子がいた。学生最後の夏を迎えた丸岡は、願い出て、このときの富本家の向島での休暇に加わった。一行は、小川の紹介によるものと思われる一軒家を借りて、約一箇月のあいだ夏の日を過ごした。丸岡の小説的自叙伝である『ひとすじの道 第三部』に、そこでの出来事の様子が、次のように描かれている。間違いなく「恵子」が丸岡本人である。

 その間にも、訪問客があった。ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた。恵子の上級生でもあり、特別な美貌でもあり、当時この家への出入りも繁くなっていた。恵子の友人の一人でもあった。

 一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った。

 恵子は、岸辺でそれを見送りながら、幸福を満喫して大きく泳いでいる一枝と、いつもそれを許してきた憲吉の孤独を、同時に、ひそかに思っていた

それからしばらくして、またひとつの出来事が起こった。丸岡にとって、これもまた、いままでに経験したことのないような衝撃だったにちがいない。その場面を丸岡は、こう描写する。

 ある日のこと、恵子は独りポンポン蒸気に乗り、尾道まで食糧を仕入れに行って帰ったが、まだみんなが海だったので、昨日の日記をつけようと机の上のノートを開いた。ところが、そこに一枝の伸びやかな文字が長々と書きこまれてあった。それが目に入ったとき、恵子は飛び上がって驚いた。

「許してください。黙って、あなたの日記を見たことを許してください。それは、あなたがどんなに苦しい思いをしているのか、いつも心配していたからです。ことにMさんが島を訪れたときのあなたの表情を見ていたからです。たしかに、わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます。だが、そのかげで、あなたの心を傷つけてしまったのではなかったかと、恐れていたのです。

 ところが、あなたの日記には、どこにもその影さえ見当たらなかったのです。感謝しています」と、恵子の日記の終わったページに、一枝は書いていた

果たしてこの「Mさん」とは誰なのであろうか。丸岡にとって「奈良の学校[奈良女子高等師範学校]の先輩」で、「友人の一人」であり、「特別な美貌でもあり、[学生のころ]当時この家[富本家]への出入りも繁くなっていた」女性である。私は、丸岡のこの文章を読んだとき、最初はとくにこの女性に関心を寄せることはなかった。しかし、それから幾年月をへて、「富本憲吉と一枝の近代の家族」の執筆に入ってしばらくしたころから、実はこの「Mさん」の存在と、その後の富本家の私設学校「小さな学校」の突然の閉鎖、そしてそれに続く、富本家の奈良の安堵村から東京の千歳村へのあわただしい移転とは、何か関連しているのではないかとの疑いをもつようになった。そして私は、その後の調べで、次のような確証を得た。

一九二三(大正一二)年の夏、向島に姿を現わした「Mさん」という女性は、この三月に奈良女子高等師範学校を卒業し、四月から山口県にある徳基高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)に奉職していた小林信にちがいなく、学生であったころはしばしば富本家を訪ね、一枝とは意気投合する仲であり、「信」の読みは、「まこと」「まさ」「みち」のどれかであったであろう。この小林信が、次の年の一九二四(大正一三)年四月に「小さな学校」の三代目の個人教師として赴任し、富本家に雇用される。しかしこの学校は、そう長く続くことはなく、いつしか小林の姿も消え、ついには一九二六(大正一五)年一〇月に至って、富本家は住み慣れた安堵村を突然にも離れ、上京してゆくのである。小林信の赴任から富本一家の転居までの二年半のあいだに、何が起こったのであろうか。ここに謎に包まれた闇の時間が存在する。こうした闇の部分を解明するために、私の調査はその後もさらに続いていった。

思い返せば、残された記録(証拠となる資料)からすれば、すべての出来事は、一九二三(大正一二)年の夏の向島における「Mさん」の出現に端を発し、一枝が丸岡の日記に、「わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます」と書いたことにはじまる。私は、二〇〇六(平成一八)年の秋に小川正矩さんの旧宅を訪問したときには、向島滞在中の出来事にかかわるこの夫婦にとっての重大な意味について、全く気づいていなかった。しかし、そのとき見た干汐の浜辺の様子が脳裏に焼き付いていた。この浜辺で、「一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った」のである。かつて実際に見た景色のなかに、丸岡の描写が重なり、そこから、「Mさん」を巡っての憲吉と一枝のある種の闘争が展開してゆく。「富本憲吉と一枝の近代の家族」を書き終えたいまにあってさえも、その映像と物語が、ときおり目を閉じると、私の深い谷間で動き出す。

(二〇二〇年)


fig1

図1 向島の小川家旧宅にて(2006年)。

(1)『向島町史 通史編』向島町発行、2000年、712頁。

(2)同『向島町史 通史編』、714-715頁。

(3)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、128頁。

(4)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、132頁。

(5)同『ひとすじの道 第三部』、133頁。