少し前の話になるが、名都美術館で「特別展 小倉遊亀――明るく、温かく、楽しいもの――」が開催されたおり、その展覧会カタログが私の手もとに送られてきた。見ると、「小倉遊亀の静物画――富本憲吉との交流にたどる一考察――」と題された、当館学芸員の鬼頭美奈子さんの論文が巻頭を飾っていた。私は、興奮のなかにあって、この研究成果を抱きしめるように読んだ。というのも、そのときまでの私の富本研究に小倉遊亀の名前は出てきていなかったからである。鬼頭さんは、富本の陶磁器が小倉作品に反映されている様子をこう書いていた。
遊亀が描いた憲吉作品は3種類、 定家葛 ( ていかかずら ) の花からアレンジされた四花弁の更紗模様と菱模様が絵付けされた色絵六角捻徳利。菱模様が全体に散りばめられた色絵菱模様六角捻徳利。憲吉の故郷を描いた「曲がる道」模様が絵付けされた角皿である。特に四花弁と菱模様の色絵六角捻徳利は20年以上にわたって繰り返し画面に登場し、気に入った作品だったことがわかる1。
すべてを読み終えたとき、小倉がいかに富本作品を愛していたのかはわかったが、ただひとつ、かすかな疑問が私の頭に浮かんだ。それは、富本憲吉(一八八六―一九六三年)と小倉遊亀(一八九五―二〇〇〇年)の出会いは、いつ、どこで、どのようにしてつくられたのであろうか、という疑問であった。そこで、小倉が書き残した次の書物をさっそく図書館で入手し、その箇所があるかどうかを探してみた。
小倉遊亀『画室の中から』中央公論美術出版、一九七九年一月(初版)。 小倉遊亀『続 画室の中から』中央公論美術出版、一九七九年二月(初版)。 『小倉遊亀 画室のうちそと』(きゝて 小川津根子)読売新聞社、一九八四年。 小倉遊亀『卓上の風景』講談社、一九九五年。
しかし、私の疑問に直接答える記述を見出すことはできなかった。それでも、幾つかのヒントになる箇所は残されていた。それは、小倉が奈良女子高等師範学校に在籍していたとき、水木要太郎(一八六五―一九三八年)に教えを受けていたという事実であった。小倉は、卒業製作としてゴーギャンの作品をまねて描いた裸婦について、こう書いていた。
図画の横山[常五郎]先生は、構図がおもしろいと言って、とてもほめてくださいました。……それから日本史の水木要太郎先生、国語の春日先生は、私の作品にいつも拍手を送ってくださった2。
奈良女高師を卒業して数年後、小倉は安田 靫彦 ( ゆきひこ ) に弟子入りすることになるが、そのきっかけをつくったのも、横山常五郎であり、水木要太郎であった。小倉は、安田を師事するに至る経緯を、次のように振り返る。
それは女高師の絵の時間に、横山先生が法隆寺の壁画の説明をなさったんですけどね、その時、いまこの線を引けるのは安田靫彦しかいない、とおっしゃった。それで私たち、安田先生の絵が好きになった。当時先生は歴史画を描いておいでになりましたけど、私たちも真似して描いたものです。
それからまた、日本史の水木要太郎先生が、授業のときによく古いお寺の壁画や建築を見に連れていってくださったのです。その水木先生が、ある時、私に家に来いとおっしゃって、安田先生の本物をみせてくださった。『御十六歳の聖徳太子』という等身大の絵で、それを先生、いつも芳名帳代わりに持ち歩いてらした大福帳に描け、とおっしゃった。
そんなことでね、お目にかかるなら安田先生に、と思ったんです3。
確かに鬼頭さんも、要太郎と遊亀との関係、そして要太郎と憲吉との関係に着目して、遊亀が憲吉と出会うきっかけを、こう推論していた。
遊亀が憲吉と知り合いきっかけは様々考えられるが、その一つに挙げられるのが水木要太郎を起点とする交友関係であろう。遊亀にとって要太郎が奈良女子高等師範学校時代の恩師であったことは先に述べたが、憲吉にとっても要太郎は薫陶受けた偉大な師であった。明治42年(1909)4月、奈良女子高等師範学校の教授に就任した要太郎は、それ以前奈良県立尋常中学校(郡山中学校)で教壇に立っており、その教え子の一人に憲吉があった。卒業後も憲吉との交流は続き、東京美術学校在学中はもちろん、同43年(1910)には留学先の様子を綴った絵手紙も要太郎に送っている。また、大正4年(1915)3月に妻一枝と安堵へ戻り、自宅近くに本焼の窯と新居を設けた憲吉は、本格的に故郷に拠点を構えてことで要太郎との関係をいっそう近しいものとしていた。そんな二人の会話に、いつしか遊亀の名が挙がることもあったのではないだろうか4。
要太郎が奈良県立尋常中学校(郡山中学校)の教諭になるのが、一八九五(明治二八)年四月で、奈良女高師の教授になるのが、一九〇九(明治四二)年四月。遊亀が奈良女高師に入学するのが、一九一三(大正二)年の四月。東京での結婚後、陶工として立つために憲吉が妻の一枝と奈良県の安堵村へ帰郷するのが、一九一五(大正四)年三月。そして遊亀が奈良女高師を卒業するのが、一九一七(大正六)年の三月なのである。重なるのは、一九一五(大正四)年三月から一九一七(大正六)年三月までの二年間。果たしてこの期間に、要太郎を紹介者として憲吉と遊亀は初対面したのであろうか。
証拠となる決定的な資料がないまま、いま一度、手もとにある水木要太郎に関する展覧会カタログを開いてみた。すると、「安田靫彦と水木要太郎」(二八―二九頁)【図一と図二】の項目に、次のような記述がなされていた。
歴史画に新生面を開いた日本画家安田靫彦(一八八四―一九七八)は、明治四〇年(一九〇七)一二月、岡倉天心の勧めで、奈良に古美術研究のために留学した。当時二六才の安田靫彦は、要太郎宅をしばしば訪れ、古美術をはじめ多くのことを学んだという。……奈良留学中にも事あるたびに絵はがきを書き、その後も多くの絵はがきを送っている。大福帳にも何枚かデッサンを残しており、今回はそのいくつかを揚げた5。
そして、次の項目の「小倉(旧姓溝上)遊亀と水木要太郎」(三〇―三一頁)【図三と図四】のなかには、こう記されていた。
大正七年(一九一八)一月二八日、京都の第三高等小学校に勤めていた遊亀は、要太郎に手紙を書き、横山大観から靫彦の「聖徳太子画像」を要太郎が持っていることを聞いたとして、見せてほしいと熱心に頼んでいる。二月三日、友人の西宮文と二人で水木家を訪れた遊亀は、「立春帳」(大福帳)に「靫彦の聖徳太子をおがむ」と記し、同時にそれを模写したものなど二つのデッサンを描き留めている6。
さらにこの項目には、一九一八(大正七)年二月に遊亀が要太郎の大福帳に描いた安田靫彦の《聖徳太子画像》の模写の図版が掲載されていた。そしてそれと同時に、実作の《聖徳太子画像》もあわせて掲載され、その作品の所蔵者として要太郎のお孫さんの水木 筈夫 ( はずお ) 氏の名前が記されていた。私は幾重にも驚いた。というのも、かつて私は、富本憲吉が水木要太郎に宛てて、英国留学からの帰途の様子を描いた絵手紙を、自分の論文7に使用したく、その許可願いのために一筆差し上げたことがあったからである。その絵手紙とは、次の項目の「富本憲吉と水木要太郎」(三二―三三頁)【図五と図六】に掲載されている図版であった。改めてその頁を開いて、さらに驚いたことには、そこに、一九一五(大正四)年に要太郎が描いた憲吉の初窯のスケッチと、同じく大福帳に憲吉によって描かれた陶器類のデッサン数点が、図版として掲載されており、そのなかの一点には、「富 一九一七年」の文字がはっきりと読み取れたのであった。
私は当時、富本の英国留学にばかり気を取られていて、小倉遊亀については、関心が向いていなかったことを恥じた。しかし、要太郎がコレクションしていた安田靫彦の真作《聖徳太子画像》と、それを見て遊亀が要太郎の大福帳に描いた模写とを図版として見る一方で、次の項目に、同じ大福帳のなかに描き出された要太郎のスケッチと富本のデッサンの図版を見たとき、憲吉夫婦が安堵村に帰還する一九一五(大正四)年三月から、要太郎が所蔵する靫彦の《聖徳太子画像》を遊亀が模写する一九一八(大正七)年二月までの三年間のあいだのどこかで、要太郎、なかんずく彼の大福帳が仲介となって憲吉と遊亀は出会っていたことを私は密かに確信した。要太郎の大福帳にふたりが描いた絵を双方で見て、互いに感想を書いている可能性もないわけではない。しかし、残念ながら、いまだそれを決定づける資料は見出せない。今後の発掘と実証に期待したいと思う。
(二〇二〇年)
図1 『収集家の100年――水木コレクションのすべて――』(28頁)。
図2 『収集家の100年――水木コレクションのすべて――』(29頁)。
図3 『収集家の100年――水木コレクションのすべて――』(30頁)。
図4 『収集家の100年――水木コレクションのすべて――』(31頁)。
図5 『収集家の100年――水木コレクションのすべて――』(32頁)。
図6 『収集家の100年――水木コレクションのすべて――』(33頁)。
(1)鬼頭美奈子「小倉遊亀の静物画――富本憲吉との交流にたどる一考察――」『小倉遊亀』名都美術館、2016年、13頁。
(2)『小倉遊亀 画室のうちそと』(きゝて 小川津根子)読売新聞社、1984年、77頁。
(3)同『小倉遊亀 画室のうちそと』、99頁。
(4)前掲「小倉遊亀の静物画――富本憲吉との交流にたどる一考察――」、19頁。
(5)『企画展示 収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべて――』(同名展覧会カタログ)国立歴史民俗博物館、1998年、28頁。
(6)同『企画展示 収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべて――』、30頁。
(7)中山修一「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅱ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と中央美術・工芸学校での学習、下宿生活、そしてエジプトとインドへの調査旅行」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、59-88頁。