中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第一部 わがデザイン史忘備録

第三話 富本憲吉と梅原龍三郎――国画会と民芸を巡って

一九二六(大正一五)年の秋、富本憲吉の家族は、住み慣れた大和の安堵村から東京へと移転した。年が明け、『富本憲吉模樣集』が出版されると、一九二七(昭和二)年二月五日の『東京朝日新聞』にこの書籍の広告が掲載された。それには、「富本と模樣」と題された、次のような柳宗悦の推薦文がつけられていた。

 富本の模樣集が出版された。幾十枚の挿繪を見れば、鮮かな一個性の世界が目前に展開する。……陶磁器のために準備せられたものではあるが、全く模樣として獨自の價値をおびる。……如何に出發し、苦闘し、成就したか、一個性のよき歴史である。寫眞及び製版は田中松太郎氏の技による。共に完璧に近い

それから二箇月が立った四月、梅原龍三郎の推薦により国画創作協会第六回展において、富本は陶磁器と素描写真一〇〇点を出品した。これが、国画会工芸部の誕生へ向けての第一歩となるものであった。二〇〇六(平成一八)年発行の『国画会 八〇年の軌跡』には、このときの様子が、こう記されている。

 国画会工芸部は一九二七年(昭和二年)四月の国画創作協会第六回展に、第二部(洋画)の梅原龍三郎の勧めで、友人であった富本憲吉が陶磁器と素描写真一〇〇点を推薦出品し、五月に第二部の会員として迎えられ、工芸部を新設したことに始まる

富本にとって、この推薦出品は、十余年の歳月のなか安堵村において創案した模様を集大成した『富本憲吉模樣集』の内容にかかわって、実作をもって展覧する絶好の機会になったものと思われる。そして同時に、日本画、洋画、彫刻の各部門に加えて工芸の部門を新設できたことは、これもまた富本にとって、「繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模様も亦模様の世界」というこの間に到達していた美術領域を俯瞰する独自の視点が現実のものとなったことを意味していた。国画創作協会第六回展は、そうした点において、安堵での製陶活動を総括し、締めくくる場であったし、同時に、東京での新たな展開に向けての幸先のよいスタートの場となったにちがいなかった。この国画創作協会が、ひとたび解散し、第一部の日本画が解消するとともに、梅原龍三郎が主導する第二部の洋画部が「国画会」として独立し、展覧会名も通称の「国展」を継承し、絵画、彫刻、工芸の三部門をもって再出発したのは、その翌年(一九二八年)のことであった。このとき、あるいはその次の年に、濱田庄司とバーナード・リーチが新たに会員として工芸部に迎えられた。

富本が創設し、一九二八(昭和三)年から公募が開始された国画会工芸部では、その後、極めて変則的な運営が強いられるようになる。それは、立場や考え方が異なる民芸派の人たちの参入に起因するところが大きかった。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記述されている。「ここに、もう一人工芸部に大きな影響を及ぼしたのが柳宗悦であった。柳は民芸運動の指導者で宗教哲学者であったが、美術についても造形が深く……その後河井寛次郎、芹澤銈助、柳悦孝、外村吉之助、舩木道忠、棟方志功らの民芸運動の作家たちが工芸部に加わり活動を続けた」

一九三〇(昭和五)年五月一九日の『東京朝日新聞』に目を向けると、「富本陶展」との見出しで、銀座鳩居堂での展覧会の記事が掲載されている。内容は、柳宗悦の影響下にある濱田庄司や河井寛次郎の「下手物」趣味と比較した、富本憲吉の作品紹介である。

 木食五行にはみそをつけた柳宗悦君が工藝鑑賞に向つて投じた一石『下手物美』の論は以外の波紋を畫いて、陶に携はる新人達が競争の形でらちもなきゲモノの濫作に浮身をやつして居る圖は昭和の一奇観である、富本憲吉君は河井君とは違つて始めから貴族的なものは作らず……もつとも富本君は全くゲモノ屋になり終せた次第でなく、肥前波佐見で試みた磁器の中には銀らん手も赤繪もあるのだが、濱田君の……繪高麗陶に至つては……大悪陶の亂舞である

さらに、一九三三(昭和八)年四月二九日の『東京朝日新聞』に目を向けると、美術評論家の仲田勝之助の署名入り記事「春陽會と國畫會(四)」が掲載されている。これはおそらく、その年の国画会の展覧会評として読むことができるであろう。民芸派の人たちの作品と富本の作品を対比して、こう批評する。

 工藝部は帝展にもあるが、ここのはあゝした種々雜多な工藝家の集まりとは事變り、いづれも趣味を同じくする友人同士といったやうな人々で、柳宗悦氏等の稱へる民藝風な作品が多い。……富本憲吉氏の作はやゝこれらとは類を異にし、ずつと高級な精良品で……これならどこへだしても恥しくない。黒釉壺白磁大壺等をその代表的作品とする。かうした立派な藝術作品に至つては價の廉不廉など問うべき限りではない

一九三四(昭和九)年の四月にリーチが訪日し、約一年間、この地に滞在した。リーチが富本の仕事場を訪ねたとき、リーチの口をついて出た話題のひとつは、富本と柳とのあいだに存する工芸思想上の隔たりの穴埋めにかかわる提案だったものと思われる。以下はリーチの回想である。

はじめのうちは、柳と富本はかなりうまくやっていたが、しかし、のちになって、工芸のあり方に関する柳の考えが美術館や工芸品店で具体的なかたちをなすようになったころから、だんだんと相違点が目立ちはじめてきた。性格の違いも一因としてあった。遅きに失した感はあったが、柳は私に、二人の溝を埋めてもらえないかと頼んできた。私は実際努力してみたが、失敗に終わった。富本はせっかちだった。極めて鋭敏な知覚力をもつ彼の眼識は、柳の意見に常に共鳴するわけではなかったし、また同時に、これこそ民芸であると主張する工芸品店の多くを認めてもいなかった。柳が宗教的な間口の広い見解をもっていたのに対して、わが友人である富本は、ある種見事なまでの品格を備えていた

この時点で、富本と柳、あるいは富本と民芸派の作家たちのあいだに横たわる工芸の本質論にかかわる見解の相違は、修復がもはやできないほどまでに、大きくなっていたにちがいなかった。「私としても本當に相許し、仕事の上での友達は結局彼一人であつたと思ふ」そのリーチも、民芸派に近い作家のひとりであることがわかるにつれて、深い寂寥感が富本の胸を覆ったことであろう。

それでは、工芸思想上の富本を柳の違いは何だったのであろうか。まず、生産手段について。富本の視野には、手から機械へと進むことが展望されていた。柳がはじめて富本宅を訪問したころの様子を、晩年富本はこう回顧する。

その時分に私がおぼえておりますのは、柳君に向って、君が民芸は工芸の一部だというのなら承認しよう、しかし全部の工芸を民芸だけにしてしまうということには不賛成だ。私は手の工芸が、水が下に流れていくように、機械になっていくのをせき止めるようなことはだめだ。もし君がこれから民芸をどんどん盛んにしていくと、その流れに対してうしろで戸を押しているようなものだ、その押し手がなくなるとさっと流れてしまう。手の工芸といえども機械生産を認めながらやらなければいかぬ、これが私の考えだった

富本と柳のあいだの見解の相違は、単に機械の問題だけではなかった。個性や個人主義といった問題についても、見解が異なっていた。一九三一(昭和六)年に柳は、「個人工藝家」ないしは「工藝美術家」に向けて、その製作態度を強く批判し、こう述べている。

 想うに個性の表現が藝術の目的の如く解され、個性美が最高の美の樣に想はれるのは個人主義の惰性による。……「俺達は個性があるのだ」などゝ高飛車に出ても、頼りないいひ草である。つまらぬ個性、奇態な個性、そんなものが如何にこの世には多いことか

これに対して富本は、一貫して個性や独創力の重要性を説き、これまで繰り返し主張してきた。その最も早い段階のものが、英国留学から帰朝後の一九一二(明治四五)年に『美術新報』に寄稿した「ウイリアム・モリスの話」の結論部分に相当する次の一語である。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します10

富本はまた、民芸運動を推進する人たちが、地域や民族のかつての生活に眠る「下手物」や「民芸品」に強い関心を示し、収集や展示をすることについても、骨董の排斥や「写し」の否定という立場から、決して賛同することはできなかった。憲吉は、こうもいう。

 亡びかけた民族の數人を呼んで來て、都の楽堂に着飾つた男女が輝く電燈の下で彼等の歌をきく程馬鹿げた腹立たしいものはない。彼等の歌はかかる場所でかかるドギマギする心の有樣のものを聞く可きものでない。下手ものも人々に此の調子で玩ばれない樣私は心から祈る11

一九三六(昭和一一)年という年は、この文脈において極めて緊迫した年となった。この年の二月、梅原龍三郎は、『中央美術』に「富本憲吉君の人と藝術」を寄稿し、そのなかで、富本をこう評した。

 彼[富本憲吉]は平氣で矛盾を忍んだり複雜さにたえたりする事の出來ない事を苦んでゐるものと思ふ。のん氣にかまへたり、ちつとはずるく考へるなどゝ云ふ事も少しは藥にするとよいと思ふ程である。嘗て古い時代の藝術に捕はれる事を恐れて永く秘蔵してゐた宋・明の名器の多くを悉く大和の古井戸に、たゝき込んだ事などは實によく君の是邊を如実に語るものである12

梅原はこのような表現をもって、富本の妥協なき潔癖さを評した。そして、次の言葉で、この寄稿文を締めくくった。「兎に角自分は今日の世界で君に匹敵する唯一人の焼物師を他に見出さないものである」13

この間、工芸を巡る複雑な立場や見解の対立は、そのまま国画会工芸部の運営においても影を落としていた。そこで、ひとつの妥協案が生み出された。以下は、一九三六(昭和一一)年三月二五日の「洋画の春 上野と銀座から」と見出しがつけられた『東京朝日新聞』の記事の一部である。

[國畫會]工藝部は同會長年の懸案を解決して、帝院第四部會員富本憲吉氏と濱田庄司、芹澤光次郎(染色)两氏とが工藝部を两分して富本氏が第一部、濱田、芹澤两氏が第二部を行ふこととなつた14

そして、その年(一九三六年)の一〇月に、東京駒場に日本民藝館が開館し、初代館長に柳宗悦が就任した。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記されている。「一九三七年(昭和一二年)に富本と民芸派の工芸観の対立や、民芸派の拠点となる日本民芸館の設立をめぐり、柳宗悦に意を一つにする民芸派の会員が国画会を退会した。それから約一〇年、富本を中心とした工芸部が続くことになる」15

しかし、アジア・太平洋戦争が終わると、退会したはずの民芸派の作家たちが再び国画会への入会を求めてきた。富本の目には、理不尽な行為と映ったであろう。そこで、話し合いがもたれた。結果は、歩み寄りはみられず、決裂した。晩年の富本は、こう回想する。このとき柳はすでに故人となっていた。「民芸は他力本願の芸術を説くが、私は自力本願ですよ。梅原(龍三郎氏)を仲介に入れて柳(故宗悦氏)と一晩けんかをしたが、合うはずがない。それで国展を飛び出して戦後に新匠会を結成した」16

このとき梅原の脳裏に、かつて『中央美術』において富本の「人と藝術」について書いたように、「のん氣にかまへたり、ちつとはずるく考へるなどゝ云ふ事も少しは藥にするとよい」といった思いがよぎったかもしれなかった。しかし、証拠となるものは何もない。結果としていえることは、梅原は、民芸派の作家たちの再入会を容認する一方で、富本本人とその造形思想に連なる会員たちの退会を引き留めることに失敗した。こうして、戦後東京を離れ京都で製作活動を再開していた富本を中心として、新匠美術工芸会(のちに新匠会に改称)が誕生する。それ以降の富本と梅原の疎遠は明らかである。

一九六三(昭和三八)年六月八日、富本は他界した。梅原からの弔電は、このようなものであった。

 故人とは一九一三年以来の交友でもっとも古い友人の一人である。京都移住以来疎遠に過ぎたことを残念に思う。今後君の仕事に益々大いなる期待をもっていた。年来の病気をしらず急逝の感じで残念、良き仕事の一生を尊敬する17

最後まで梅原は、「平氣で矛盾を忍んだり複雜さにたえたりする事の出來ない」富本の、ガラス細工のような曇りのない純粋な性格を、ある種疎ましく感じながらも、心底敬愛の念でもって眺めていたものと思われる。それは、バーナード・リーチも、柳宗悦も同じだったのではないだろうか。

異質なものに対して表面的な安寧のなかにあって耐え忍んだり、あるいはそれを超えて高次の宗教的世界観に達したりすることと、あくまでも決然と異質なものと闘い、汚濁なき境地を孤高の形式において貫き通すこととのあいだには、ひとつの空間への融合を妨げる、あまりにも険しい谷間が存在していた。富本はそれを「他力本願」と「自力本願」という言葉に置き換えて悟った。ただただ、一方の空間から一方の空間を、理解と無理解の葛藤のうちに眺めるしか方法はなかったにちがいない。これ以上誰も口を挟むことができない無常がそこに残った。いま私はそう受け止めている。

(二〇二〇年)

(1)柳宗悦「富本と模樣」(「富本憲吉模樣集」広告)『東京朝日新聞』、1927年2月5日、1頁。

(2)『国画会 八〇年の軌跡』国画会、2006年、11頁。

(3)同『国画会 八〇年の軌跡』、11-12頁。

(4)『東京朝日新聞』、1930年5月19日、6頁。

(5)『東京朝日新聞』、1933年4月29日、9頁。

(6)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 76.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、71頁を参照]

(7)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、67頁。

(8)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、12頁。

(9)『柳宗悦全集』(第14巻)筑摩書房、1982年、6頁。[初出は、「工藝美術家に告ぐ」『大阪毎日新聞』(京都版附録)、1931(昭和6)年1月6日および7日の紙面に掲載]

(10)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、27頁。

(11)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、80-81頁。

(12)梅原龍三郎「富本憲吉君の人と藝術」『中央美術』第31号、1936年2月、27頁。

(13)同「富本憲吉君の人と藝術」、同頁。

(14)『東京朝日新聞』、1936年3月25日、11頁。

(15)前掲『国画会 八〇年の軌跡』、12頁。

(16)「文化勲章の人々(5) 富本憲吉氏 つらぬく反骨精神」『朝日新聞』、1961年10月25日、9頁。

(17)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、196頁。