ウィリアム・モリスが亡くなると、さっそく伝記のことが親しいあいだで話題になりました。そして、その執筆が、エドワード・バーン=ジョウンズ夫妻の娘婿であるジョン・マッケイルへ依頼されました。マッケイルを励まし、多くの資料を提供し、助言を与えたのは、モリスの妻のジェイニーではなく、バーン=ジョウンズの妻のジョージーでした。ジョージーは、愛情のうえでも、政治的立場においても、ジェイニー以上に、モリスの心をよく知る立場にありました。執筆が開始されると、ジョージーは〈レッド・ハウス〉を訪問したにちがいありません。そこは、彼女にとって、多くの思い出が宿る追憶の場所でした。彼女を迎えたのは、その家の所有者であり、『ザ・ステューディオ』のオーナーであったチャールズ・ホウムだったものと推量されます。一方、そのときホウムは、〈レッド・ハウス〉建設当時のこの家の様子だけでなく、この後のモリスやバーン=ジョウンズの生活の様子についても、訪問者であるジョージーにさらに詳しく聞きたかったにちがいありません。というのも、一八九三年の創刊以来そのときまでに、『ザ・ステューディオ』には、以下のようなモリスとバーン=ジョウンズに関連の記事が掲載され、図版を通して彼らの作品が紹介されていたからです。
‘Artistic Houses. By J. S. Gibson, F.R.I.B.A.’, The Studio, Vol. 1, No. 6, September, 1893, with five illustrations. Aymer Vallance, ‘The Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery, 1893.’, The Studio, Vol. 2, No. 7, October, 1893, with one illustration. Aymer Vallance, ‘The Revival of Tapestry-Weaving. An Interview with Mr. William Morris.’, The Studio, Vol. 3, No. 16, July, 1894, with two illustrations. G. W., ‘The Manchester Arts and Crafts. Second Exhibition.’, The Studio, Vol. 5, No. 28, July, 1895, with three illustrations. ‘The Arts and Crafts Exhibition, 1896. (Third Notice.)’, The Studio, Vol. 9, No. 45, December, 1896, with one illustration. ‘Reviews of Recent Publications.’, The Studio, Vol. 12, No. 57, December, 1897, with three illustrations. ‘The Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones, at No. 1 Palace Green.’, The Studio, Vol. 15, No. 67, October, 1898, with six illustrations. ‘The Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hall’, The Studio, Vol. 15, No. 68, November, 1898, with five illustrations.
ジョージーが〈レッド・ハウス〉を訪問したとき、彼女は、ガラス扉の芳名録に何人かの見慣れぬ名前を見出した可能性があります。おそらくこのときホウムは、ガラス扉に刻まれたそれらの名前が日本人であることを告げ、自分の日本との友好関係を披歴したものと推量されます。ホウムが、訪問客のジョージーに日本の美術やデザインについて実際に話題を提供したかどうかはわかりませんが、少なくともモリスは、生前、そのことについて、次のように述べていました。そのようなわけで、モリスと親しい立場にあったジョージーも、日本の美術やデザインについては、この言説と同じような認識をもっていただろうと思われます。
日本人は、賞賛すべき自然主義者です。実に腕の立つ画工たちです。手でつくられるちょっとしたものだけに限らず、そうしたものを越えたところでも、器用さを発揮します。そしてまた、一定の限られた狭い領域においては、様式の偉大な製作者たちなのです。しかし、そうであるにもかかわらず、日本のデザインは、日本人の技巧でもって製作がなされない限りは、全く価値がありません。本当のところ、私たちの目を奪うような手工芸者としての輝くような資質をもっていながら、日本人には、建築的な才能が備わっておらず、したがって、装飾的な才能も欠落しているのです1。
この言説から判断しますと、モリスの目には、日本のデザインは、立体的で遠近的な構成とは異なる、平面的で非構築的な独自の表現として映っていたようです。モリスの壁紙は、周知のように、一八七四年の《アカンサス》から重量感のあるデザインへと変化し、以降、三次元的特性は、《ルリハコベ》《リース》《ローズ》《キク》へと引き継がれます。
チャールズ・ホウムは、一八九〇年から一九〇三年までの〈レッド・ハウス〉の所有者でした。そして、同じくこの間、日本協会の設立と発展にとっての英国側の主要な人物として貢献するのです。ジョージーが〈レッド・ハウス〉を訪問した時期は正確に特定することはできませんが、それより幾年かさかのぼる一八九二年の一月二八日に、ロンドンの日本協会は誕生します。目的は、日本語をはじめとして、日本の文化や芸術、産業や経済などの日本を取り巻く諸状況についての研究を奨励することにありました。ホウム自身、設立準備委員会の委員を務め、その設立に深く関与していました。おそらくそうしたことがきっかけになったのではないかと思われますが、少なくとも四人の日本人が〈レッド・ハウス〉を訪問しています。この家のガラス扉に、D. Goh、Osaku Iwumoto[Kosaku Iwamoto]、M. Saito、H. Shugio の署名が書き記されているのです。この日本人四名の訪問の目的や時期、同伴者などについてはいまだ不明な点も多く残されていますが、いずれにしても、日本協会を通じての交友の一環として、ホウムはこの四人を(あるいはそのうちの幾人かを)自宅であるこの〈レッド・ハウス〉へ招待したにちがいありません。その四人の訪問者は、呉大五郎、岩本耕作、斎藤実(まこと)あるいは斎藤政吉、そして、執行(しゅぎょう)弘道ではなかったかと推定されます。
呉大五郎は、日本協会の創設会員で、日本領事。のちにインドでの仕事に従事します。日本を紹介した当時の彼の英語論文に、一八九一年二月の『一九世紀』(第一六八号)に掲載された「新しい日本の日本的考え」があります。岩本耕作と斎藤実については、テムズ鉄工所で建造中であった一等戦艦「富士」の回航委員として、岩本は一八九六年三月二五日から、斎藤は同年一一月六日から英国へ出張しています。斎藤は、当時は海軍少佐でしたが、のちに内閣総理大臣を経て、一九三六年の「二・二六事件」で暗殺される人物です。もっとも、M. Saitoが斎藤政吉であった可能性もいまだ残されています。彼は漆器や銀細工を得意とする工芸家で、彼の作品は一九〇〇年のパリ万国博覧会、一九〇四年のセント・ルイス万国博覧会などにおいて展示されていました。執行弘道は、日本協会設立当時は、アメリカ在住の通信会員をしていました。彼は、モリス商会も出展に参加した一九〇四年のセント・ルイス万国博覧会での日本館の組織者で、「博覧会男」とも呼ばれていました。斎藤と執行の両名については、一九〇五年四月の『ザ・ステューディオ』(第一四五号)に掲載された「日本美術とセント・ルイス博覧会」において紹介されています。
一九〇三年にその家はヘンリー・マフによって買い取られました。彼はブラッドファッド出身で、テクスタイルの商売から身を引き、病弱の身にありました。彼はまた、ジョン・ラスキンの信奉者でもあり、おそらくチャールズ・ホウムとも親しい関係にあったものと思われます。上で述べた日本人四人のうちの何人かは、ホウムの紹介によって、マフの住む時代の〈レッド・ハウス〉を訪問した可能性も否定できません。一九一〇年の二月にヘンリー・マフは亡くなりますが、未亡人のモードは一九一三年までそこに住み続けます。マフ一家は、訪問者を実際歓迎しました。一九〇七年にはイラストレイターのウォルター・クレインが、また一九〇九年か一九一〇年には、建築評論家のローレンス・ウィーヴァーが訪問しています。
〈レッド・ハウス〉のガラス扉にその名前が記されている以上、この四人の人物がこの家を訪問したことは間違いありません。しかしそのとき、モリスについて、とりわけ〈レッド・ハウス〉の来歴について、どのような説明を受け、その内容をどう日本に持ち帰ったのかは、いまのところ明確にすることはできません。しかし、日本協会が発足しておよそ五年後の、そしてモリスが亡くなっておよそ一年後の一八九七年の八月には、この協会の会員数は八〇三人に達していました。彼らが、日本と英国の文化交流の懸け橋的役割を担っていたことは明らかであり、そうしたなかにあって、英国のラファエル前派やアーツ・アンド・クラフツが話題に上がっていたことは、十分に推し量ることができるのではないかと考えられます。
(二〇二一年)
(1)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897, p. 105.