中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第三部 憲三と逸枝の婚約と城内校での新婚生活

第七章 憲三と逸枝の約婚へ至る道

前章の「憲三の『山を越えて』と逸枝の『愛の黎明』の競演」を書くに当たって、私は、本文が高群逸枝の書簡類で構成されている『恋するものゝ道』の「第五 長恨記」(全八信)を参照し、引用してきました。『恋するものゝ道』は、ここから次の「六.エンゲージ」(全一三信)へと移ります。そこで私は、本章「憲三と逸枝の約婚へ至る道」の多くを適宜この「六.エンゲージ」に依拠して書くことになります。

以下は、その第一信からの引用です。

 妾には人の妻としての資格はまるで缺けてゐるやうです。唯、妾は決して不愉快な顔とか腹を立てるとかはありません。……妾はまるで、ほんのむすめです。妾はそれを妾の父母から氣に食わないと云つていつも叱られます。……ですからどう考へても妾には結婚の資格はないのです。妾はもつと妾の理想的な空想的な生活をいたしてゐたいのです。いまの普通のそれには耐へられないのです。それを自由、と妾は申します

この一節から読み取れることは、ひとつには、「野生の子」としての逸枝の存在が両親から理解をしてもらえず、家庭内での居場所を失くしていること、いまひとつには、男が外で働き、女が家で家事と育児を担う、当時一般的にみられた家庭のあり方に苦痛を覚えていること、そしてそのすべてに取って代わる「理想的な空想的な生活」を希求していること、この三点です。これが、「人の妻としての資格はまるで缺けてゐる」という自覚を生んでいるのでしょう。しかし、妻が備えるべき強制された「資格」は欠如していたかもしれませんが、制度や義務や常識といった人間を縛る余分な力から遠く離れた所にある「自由」の存在には気づいていました。束縛から解放された「自由」な生き方という点においては、この時期、強く憲三も共有していたものと考えられます。以下は、のちに書いている、逸枝の認識です。

 あらゆる負担をきらうKの性格は、私には婚約前からよくわかっていた。だから、彼の負担にならない自分であることをじゅうぶん自分にいいきかせていたし、Kにも最初このことを飲み込ませていたと思う。つまり共かせぎの夫婦生活か、また別居婚でもよかったのだった

第一信は、次のような文言で閉じられています。

妾はどうしても妾の空想的な生活をしたい。妾はそのとき、あなたとならば小鳥のようにあどけなく、夢見るようにうつとりとして、美そのものであり、詩そのものであることを信じます。子供を考へることは恐ろしい。妾は母としての資質はない。第一子供といふものを初めにどうすればいいのか心配です

このとき逸枝には、子どもを生み育てることへの思いが不在だったようです。加えて、裁縫や調理も逸枝の手に負えるところではなく、すでに引用で示していますように、「教員検定試験などもうけてみるが技術の教科に阻まれて失敗する」原因とも、なっていたのです。

妻としてだけではなく、「母としての資質はない」ことを打ち明けられた憲三は、これに対してどのような内容の返事を書いたのでしょうか。それはわかりません。おそらく、それに強く反発するような文面ではなかったものと想像されます。といいますのも、このとき憲三にあっても、「子ども」についての現実感はほとんどなく、負担になる厄介者としての漠然たる認識が宿っていたのではないかと憶測するからです。

そうしたなか、いよいよ第二信において逸枝は、大胆にも核心部分に突入するのでした。

 ね、結婚いたしませう。初めに約婚だけでもいい。……お遊びにいらつしやい、妾のところへ。ね、母は優しう御座いますのよ。……
 あなたから父に手紙を下すつたらいかがです。すぐに、率直に結婚を申し込んで。面倒を排して。それからお遊びにいらしたらどう? 父がかたくなでいけませんけど一時も早くとそのことを思ひます。妾は待つてゐます。あなたがいらつしやいますとき、妾はお迎へに參りたいと、それをもう考へてゐます。妾は父や母の前であなたにお會ひいたしたら、それこそくちもきけない程だと存じます

突然の結婚の申し出に、憲三は面食らったにちがいありません。しかし、この単刀直入な意思表示が、憲三のこころを動かしたことも、また事実でした。逸枝はどうしても憲三に会いたい。しかし、まだ婚約をしていない憲三を自宅に招き入れることはできないし、村人たちの目が気にかかり、戸外での逢瀬もままならないのです。そこで逸枝は、このとき道すがら母に引き合わせることを企てます。第五信に、そのことはこう描かれています。

父が變だから妾母を連れて參りますわ。そして母と歩きながらお話しなさいまし。ね。ね。それから歸つてから父に手紙をお書きになつたらどう、父と妾にも。兎に角、妾お待ちいたして居りますのよ。二十九日と三十日との兩日のうち、なるだけ二十九日に。お天氣が悪かつたら三十日に。松橋で汽車を降りて堅志田行の馬車で三里。それから瀬戸山越え、とお尋ねなさいまし。屹度門に出ていますから、妾を思つてみんなお許しくださいまし

しかし、この企ては頓挫しました。母親は逸枝に同情するものの、父親の許しが出そうにないのです。かといって、父親の目を盗んで決行することもできません。そのことは、第六信に書かれています。「二十九日のことね、どうしても駄目なようです。妾は泪を呑んで断念いたしませう」。それでも逸枝は憲三に会いたくて、次の案を示します。村の宿に泊まることにして、「二十九日には唯妾を見ていらつしやいまし。そして三十日の朝非常に早くですよ。妾そつと起きて屹度待つて居ますからね。さうね、暗い中にいらつしやらないと駄目なの。ね。ね。かなしくなりました。ああ會ひたい、許して、ね」

このときの逢瀬の場面が、憲三の書く「山の郁子と公作」では、このように描写されています。

 彼は早朝又乗車して直ぐ或る小驛に下車すると、三里許り馬車に揺られ、それから絶えず嶮しい坂や絶壁や寂しい部落や谷川を通つて來た。
 彼女の家には二月十一日の日の丸の旗がへんへんと風に飜つてゐた。彼はささやかな土橋を渡つて村のお嫁さんらしい人に、彼女に名刺を渡して呉れるやうに頼んで、其處門前を通り過ぎたが、何故ともなく一種憂鬱な感じを覺えた。
 彼はがらんとしたお宮に這入つて暫く彼女を待つてゐる中に退屈して來た。……
 彼は歸途についた

「山の郁子と公作」は、あくまでも小説ですから、幾分脚色されている可能性もあるのではないかと思われます。とくに「二月十一日」というのは、「三月三十日」ではなかったかと思われますし、また、逸枝の家の前を通り過ぎたのが、逸枝が求めた「朝非常に早く」「暗い中に」でなかったことも気になります。しかし、後年憲三は、「事実です。お嫁さんらしい人も、払川神社で待っていたことも」と、答えています。この小説にあっては、場面はさらに、次へと移ります。「……三人づれの、一番前の赤い花をもつた女がちらと此方を見た、と思つたら何故か吃驚した樣子で、軽く腰を浮かせてぢつと彼を打ちまもつた。それは――郁子であつた。彼は歩き出した。ただ山角で一度彼等を振り返つた」10。こうしてふたりは、遠くから一目顔をあわせただけで、声をかけることはありませんでした。そして憲三は、そのまま球磨の家に帰って行きました。ふたりにとって、狭い村の人目のあるなかでの日中の逢瀬は、はばかられたのかもしれません。

すでに示していますように、ふたりがその前に熊本で会ったのは、一年と二箇月くらい前の一九一八(大正七)年一月の下旬のことでした。そのときは、一時間程度の逢瀬で、帰ると憲三は、「ばかにするな」という返事を書きました。しかし、今回は事情が違っていました。帰ると憲三は、逸枝の父親に宛てて手紙を書きました。「便箋一〇枚程度のものだったと思います。……私としてはせいいっぱい、私の境遇、意思、嘆願を書きました」11と、憲三は語っています。第七信によると、憲三からの手紙を受け取った父親の勝太郎は、逸枝を呼び、確かめました。

「お前はこの人とあつたことがあるか。」
 この人、と父が云つたので、それに非常におだやかであつたので、妾はどんなにうれしかつたでせう。妾は一二度お目にかかりました、と申しました。
「さうか、よし兎に角御返事をしなければならん」12

父が返事を書いてくれることに安堵したのでしょうか、続く第八信で、逸枝は憲三に、こうした胸の内を隠すことなく告白します。

 實際のことを申しませうか。妾は尼僧になりたいと思ひました。熊本の観音坂に尼寺があるのです。初め四國へ行く前に一度訪ねたことが御座いますので、よく存じて居ります。そこで其處の尼僧の方に手紙を書きました。しかし投函しませんで、まだここにもつて居ります。あなたは決して御立腹なさいませんと信じます。ああ、どんなにおなつかしくお思ひいたしてゐますでせう。なぜお手紙を下さらない? 二十八日にお書きなすつたきりでは御座いません!13

かつて逸枝は一二歳のころ尼僧になることを決意したことがあります。出家して尼僧になることは、逸枝の変わらぬこころに宿す願望だったようです。しかし、この時期に出家すれば、憲三との結婚はどうなるのでしょうか。逸枝は熊本で尼僧になり、憲三はこれまでどおり球磨で教師を続けるとすれば、別居婚ということになります。本当に逸枝は、そうした結婚形態を夢見ていたのでしょうか。それとも、「なぜお手紙を下さらない? 二十八日にお書きなすつたきりでは御座いません」という文言が、そのあとに続きますので、この手紙を受け取った憲三は、このときの、尼僧になるという逸枝の告白は、自分の気を引くための一種の「うわごと」として受け取ったかもしれません。しかしその一方で、尼僧になって駆け込んだ寺が「隠れ家」となって、愛を求める男たちに「常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で」あろうとすることを意味するのであれば、憲三の気持ちは、決して穏やかではなかったにちがいありません。

勝太郎は憲三に返事を書きました。しかし、その返信は、憲三を傷つけるような内容だったようです。第九信は、こうした逸枝の動転した記述ではじまります。「非常にあわてて書きます。父があなたに非常に失禮なことを書きはしませんでしたか。今お酒に酔つてさう申してゐます。ああ・・・・。妾は父を非常に、非常に。憤らないで下さいよ。憤らないで下さいよ。決して憤らないで下さいよ。母は非常に心配しています。母は非常に父をうらんでゐます。妾は決心しました。妾は決心しました。妾は極度の憎しみを以て父に對します。ああ・・・・」14。そして、この第九信には、こうも書かれています。

 妾は絶對にあなたのものですよ。あなたのものですよ。あなたのものですよ。ね、ね、あなたのものですよ。一切を投げすててあなたのものですよ。……
 妾をどうぞ叱つて下さい。叱つて下さい。ああ、あなたに叱られたい。叱られたい。
 いよいよあなたにはお手紙通り「さよなら」と仰有るでせう。
 承知しました。さよならと云つてください。しかし、さよならとほんとうに仰有るのですか15

しかし、勝太郎の返信内容は、決して憲三を傷つけるようなものではなかったようです。次の第十信に、それを読むことができます。「母が非常に心配して、父に昨夜のことをたしかめました。實際あんな手紙を、失禮なものを――。すると父は意外な顔をして、そんなこと云ふものか、と申しました。ああ、妾はほんとうに何と云ふ愚かな女でせう。非常にはづかしく思ひます」16

勝太郎からの返信が届くと、憲三は自身の父親に、逸枝と結婚したいとする意向を語り、高群家を訪ねてほしい旨を懇請し、道順を示したものと思われます。こうして、憲三の父親の高群家訪問の段取りが決まりました。その喜びを表わす手紙が、第十一信ではないかと思われます。「妾はいまほつそりしたからだをして、羽織を脱いで、帯をしめてゐます。戸外にはちらとだけ出るばかりです」17で書き出し、このあとに四首を並べて、この手紙は終わります。以下は、そのうちの最初の一首です。最後の「月漸く昇れり」の一語に、逸枝の歓喜の感情が現われています。

吹く風と野べとのみなる一角に飴色の月漸く昇れり

すでに紹介していますように、はじめて八代で憲三に会い、翌日、再び憲三を訪ねて一勝地駅で再会した逸枝は、そのあと払川に帰ると「永遠の愛の誓い」を書き憲三に送るものの、その返事は、「まあ行けるところまで行きましょう」という冷淡なものでした。そのときの気持ちを、逸枝はこう書いています。

 ここにみられるのはロマンチックなしらたま乙女と、サーニンかぶれの若者との、ユーモラスな正面衝突だった。むろん後者は自分の返事に得意らしかったが、みじめなのは前者だった。私は打ちのめされて雨のような涙をおとして、自分の小部屋の壁にはっていた「泰西名画・月漸く昇れり」と題された写真版の画に救いをもとめてみつめていたことが思い出される。その後、この名画は、幼児の観音さまとならんで、絶対者のように、私の頭の中にやどることになった18

八代の宿でのはじめての逢瀬からおよそ一年八箇月、苦難を越えて「月漸く昇れり」、逸枝の望みが成就したのでした。一九一九(大正八)年四月一二日の『九州新聞』六面に、先の一首を含む一〇首が「月漸く昇れり」の主題のもとに掲載されます。この「月漸く昇れり」の名辞は、逸枝の詩題の中心となって、その後の詩作へと引き継がれてゆくのでした。

それから二日後、いよいよその日が来ました。逸枝は、こう記します。

 大正八年四月十四日の父の日記には「球磨の橋本なるもの逸枝を貰いとして来家したるをもって、盃を与え帰したり」とある。これは憲三と私との婚約がととのったことを意味するもので、この日私ははじめて球磨の義父辰次にあった。義父は長髯をたれた偉丈夫であったが、優しい人だった19

詳細はよくわかりません。簡略なものであったかもしれませんが、辰次の高群家への訪問は、世俗にいうところの「結納の儀」を意味していたにちがいありません。「結納」から一二日が過ぎた四月二六日に、憲三が高群家を訪ねてきました。逸枝は、こう書きます。

 彼はこのとき世間的には、私とおなじ不運な境遇の子で、その悪魔主義思想のために不良青年とさえまちがわれていた人物だった。彼はその二十六日に婿入した。私の両親は彼を迎えてよろこび、ことに母は彼を自分の胸に抱いて、「この妙な娘の一生をたのむ」といった20

家庭内の宴会がすむと、「いうまでもなく夜は私ひとり別室に寝かされました」21。そして、一夜が明けた翌朝の、ふたりの晴れがましい情景を、小説「山の郁子と公作」は、次のように描き出します。

 公作と郁子は、翌日朝餐を終ると、散歩に出掛けた。……
 「あなた一寸ペンを貸して頂戴。」
 男は沈思してゐた。
 「貸して頂戴。」
 彼らの前にはなだらかな裾野があつた。陽炎がゆらゆらと謄つてゐた。ふりそそぐ日光を一杯うけて、谷の川面が夏の夢のやうに光つてゐた。林にそよ風がたつて不意に掃きたてられた小鳥が、ちちちちと鳴いて、ゆるやかな曲線を描きながら谿を越えて行つた。二人は森蔭の小石に腰をかけてゐた。
「此の心何にたとへむ一青のみ空曇らず君と約婚す」
「約婚す一千九百十九、春、みどり輝く大天地に。」
二人はかう書いて清く握手した。
午後三時、彼は戀人の家を辭した22

前者が二五歳の逸枝の、後者が二二歳の憲三の歌です。こうして、婚約を意味するふたりだけの「約婚」がここに成立しました。しかしその後、三々九度(婚姻の儀式)や祝言(結婚の披露宴)が続くことはありませんでした。このような異例で簡素な旅立ちは、必ずしも裕福ではない両家の経済状況によるものであったかもしれませんし、あるいは、ふたりの強い意向によるものであった可能性もあります。

約婚のあと、逸枝は憲三に手紙を書きました。以下は、第十二信に書かれている内容の抜粋です。

 かんにんして下さい。もう尼さんにはなりません。ああはづかしいことばかり、妾どうしてこんなでせう。自分で愛憎がつきて了ふ。ほんとうにどうしてこんなでせう。どうぞお許し下さいまし。……
 妾をどうぞだいて下さいまし。そしていぢめないで下さいまし。妾はすつかり弱くなりました。呆然としています。妾達はたぶん二三年後、御いつしよになれるでせう。それまで妾も勉強します。どうぞ妾も達者でゐますから、あなたもお達者でお暮らし下さいまし。忘れないやうに、忘れないやうに、あなたの妻を。あなたの妻を23

約婚をしたばかりというのに、この手紙は、ふたりが別れゆくかのような内容です。ふたりのあいだに何があったのでしょうか。それとも、逸枝と両親のあいだに、何か大きな問題が生じたのでしょうか、あるいは、家を出ることは、逸枝にとって既定の路線だったのでしょうか。次は、第十三信からの引用です。

 妾があなたをお思ひいたしてゐますやうに、あなたも妾を思つてゐて下さいますか。……
 若い、氣高い、血氣が、妾をおそひます。ああ、妾どもの高潮した青春よ。妾はそれを決して萎らせないでありませう。……妾を愛して下さい。愛して下さい。愛して下さい。強く強く愛して下さい。
 妾はあなたに抱かれて死にませう。……
 妾はしばらく讀書しよう。燃ゆる思ひを唄にしよう。……すべてをすててあなたと二人で暮らしませう。妾は女神のやうに崇高です。また、小羊のやうに従順です24

これは、逸枝から憲三へ宛てた惜別の最後の一文のようにも読めます。その一方で、この時期逸枝は、「燃ゆる思ひを唄にしよう」と書いているように、詩作に精を出していました。たとえば、一九一九(大正八)年四月一二日の『九州日日新聞』(七面)には、「春宵譜」と題した逸枝の作品が掲載されています。以下はその九首のうちのふたつです。

月の色 うらうら深く 野べ山べ
昏むばかりの 夕べなるかも

春の夜の 哀しみあまる 胸のうち
かよはきものを 泣きて唄はむ

逸枝は、「妾はしばらく讀書しよう」と憲三に伝えています。この時期逸枝は、『大阪朝日新聞』にも目を向けていました。すると、六月九日夕刊四面の『大阪朝日新聞』に掲載された柳澤健の「婦人を待てる文壇」が、逸枝を釘付けにしました。そこに、逸枝を鼓舞するに十分な、このような文が踊っていたのです。

婦人と文藝の關係に就いては、幾度となく説かれもし論ぜられもした。……
輓近に於ける吾文壇は、その作家の數の夥しき點に於て決して他國の文壇に負けてゐないと言ふことが可きる。従つて私が閨秀作家の出現を特に強く望んでゐるのは、現在の作家を以て數量尚不足なりとする理由からで無いことは勿論のことである。私が望んでゐるのは……質の上の増加に他ならぬのである。換言するならば、男性の作家が質的に有してゐない所の色彩と調子とを女性の作家によつて此を見んとするの願望に他ならぬのである。

逸枝は、「婦人を待てる文壇」に吸い寄せられるように、自作の詩歌を柳澤に送りました。その後柳澤は、『現代の詩及詩人』を公刊し、そのなかで、そのときの様子を、次のように書きます。

新聞に書いた『婦人を待てる文壇』といふ自分の一文に對して見ず知らずの一婦人が態々書を九州から寄こして、紙上に書いたやうな自分の期待熱望に添ひ得る優れた作家に是非なりたいといふやうな意味のほどを熱い強い言葉をもつて書き現はして來た25

以下は、逸枝が柳澤に送った詩の一部です。

青き丘の
何なればかくは咡く
悲しめと

耳をすませば草にみだるる風
ああ
甘き衰弱身にきたる

くろ髪を
首にまき首にまき
こころあふられ落日す

わが高き才に心あらしめよ
微風や
地平線はいと低く26

逸枝は、こういいます。「短歌のような三行詩――じつはこれが私には初めての作品だった――」27。そして「ここから私は詩をつくることをおぼえた」28

ここに至って、ついに逸枝は、家出を決行します。

 大正八年七月二十六日、私は妹栞をつれて家を出た。母の了解のもとに。このとき私の立場は、緬羊の計画もおじゃんとなり、いわば家では𧏚つぶしの状態なので、われとわが心に追われて、よそ目には無茶とも思われるような行動に出るはめになったのだった。しかし、こんなのが無産者の家族(当時の)の常態なのだ。さしあたりの目標は大阪へんの紡績会社で労働しようというのだった。妹を道づれにすることはためらわれたが、彼女が希望するのを捨ててはいけなかった。母も頼んだ29

出家して尼になることは諦めたものの、それでも家を出る決意には変わりはなく、約婚からちょうど三箇月後のこのとき、こうして実行に移されたのでした。

(1)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、162頁。

(2)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、164頁。

(3)前掲『恋するものゝ道』、163頁。

(4)同『恋するものゝ道』、165-167頁。

(5)同『恋するものゝ道』、173頁。

(6)同『恋するものゝ道』、174頁。

(7)同『恋するものゝ道』、175頁。

(8)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、77-78頁。

(9)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、210頁。

(10)前掲『山の郁子と公作』、79-80頁。

(11)前掲『わが高群逸枝 上』、215頁。

(12)前掲『恋するものゝ道』、176頁。

(13)同『恋するものゝ道』、181頁。

(14)同『恋するものゝ道』、184頁。

(15)同『恋するものゝ道』、185-186頁。

(16)同『恋するものゝ道』、186頁。

(17)同『恋するものゝ道』、189頁。

(18)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、130頁。

(19)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、201頁。

(20)同『今昔の歌』、201頁。

(21)前掲『わが高群逸枝 上』、222頁。

(22)前掲『山の郁子と公作』、105-107頁。

(23)前掲『恋するものゝ道』、190-191頁。

(24)同『恋するものゝ道』、192-194頁。

(25)柳澤健『現代の詩及詩人』尚文堂、1920年、157頁。

(26)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、44-45頁。

(27)同『愛と孤独と』、44頁。

(28)同『愛と孤独と』、47頁。

(29)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、161頁。