橋本憲三の死後から今日に至るまで、彼は研究者のあいだでどのように描かれてきたのでしょうか。本稿の執筆に際して、それをまず概観しておきたいと思います。
一九七六(昭和五一)年五月二四日、『熊本日日新聞』の一五面は、以下のとおり、憲三の死を報じました。
橋本憲三氏(高群逸枝雑誌編集責任者)二十三日午後零時五十分高血圧性心不全のため水俣市幸町六-一の自宅で死去。七十九歳。球磨郡球磨村一勝地出身。 大正八年、「女性史学」の高群逸枝と結婚。彼女の死後(昭和三十九年)に高群逸枝全集(全十巻)を編さんし、昭和四十三年から「高群逸枝雑誌」(季刊)を発行し続けてきた。同雑誌は31号(四月一日発行)で廃刊される。 葬儀、告別式は本人の遺言で行われない。
憲三が死亡する二年前、早稲田大学教授の鹿野政直と妻で女性史家の堀場清子とのふたりは、高群逸枝の伝記執筆に当たっての資料収集のために憲三が住む水俣を訪問していました。それがひとつの縁となって、憲三が亡くなると、鹿野は追悼文「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」を『朝日新聞』に寄稿します。そのなかで鹿野は、憲三のことを、妻の逸枝が発表する著作の「プロデューサー」であり、既成の男性像を否定した「新しい男」として位置づけたのでした。以下に、それに関連する箇所を引用します。
わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である1。
そして末尾を、次の文で締めくくります。
こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史(・・・)というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する2。
これから一年が過ぎ、鹿野政直と堀場清子の共著で『高群逸枝』(朝日新聞社、一九七七年)が世に出ます。そのなかにあって堀場は、三年前に水俣を訪れた際に受けた憲三の印象を、こう書いていますので、その箇所を紹介します。
逸枝没後、すでに十年がたっている。その日の暮らしにも困るほど、貧しいのでもない。それでいて、亡妻をたたえ、その業績を顕彰するほかに、なに一つ眼中にない男というものを、私は珍しく眺めた。四十余年の日本の暮らしと、短い外国生活のどちらでも、一度も見たことのない種類の男だった。新しい女はいても、新しい男はいないと、それまで私は思っていた。その考えが、この時変った。やっぱり、それもありうるのだな、と3。
堀場にとっては、憲三との初対面は、「珍獣」を眺めるような思いだったようです。しかしながら、堀場もまた、このとき、憲三に「新しい男」を発見したのでした。
『女性の歴史』(全四巻)を著わし、日本ではじめて女性史学を樹立した高群逸枝、そして、鹿野政直と堀場清子をして「新しい男」と呼ばしめた橋本憲三でしたが、しかし、その後にあっては、憲三に対して、ありとあらゆる罵詈雑言が浴びせられることになるのです。そのなかから、主だった三例を取り上げて、以下に紹介します。
ひとつ目の例――もろさわようこの「高群逸枝」のなかの言説
憲三は、逸枝の著作の出版に当たって、後援者のひとりである市川房枝を婦選会館に訪ねることがありました。その姿を遠くから眺めていたのが、日本婦人有権者同盟の機関紙の編集者としてこの会館に勤務する、本人の書く肩書によれば女性史・婦人問題研究家のもろさわようこでした。はじめて見たときの憲三の風采を、「高群逸枝」のなかでもろさわは、このように描写します。
やや小柄で口数のすくない憲三は、[自分が仕事をする]同じ部屋うちのはすむかいの机に、ときおり姿をみせたが、外交的で気配たくましい陽気な女たちの出入り多い場所柄のせいもあってか、来たのも帰ったのもまわりがあまり気づかぬ目立たぬ人だった。憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、婦選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった4。
これは、外見差別(ルッキズム)、あるいは障害者差別とも受け止められかねない、極めて問題的な表現です。なぜこうした差別表現を使ってまで憲三を貶めなければならなかったのか、私は疑問に思いました。そこで、その問題性について、第四節「市川房枝とその仲間の言動への反論とその後について」において詳述し、著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第四部「『三つの巴』私論集」のなかに所収しました。
ふたつ目の例――栗原葉子の『伴侶――高群逸枝を愛した男』のなかの言説
栗原葉子の『伴侶――高群逸枝を愛した男』が出版されるに先立って、夫である栗原弘が、自著の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』において、高群逸枝の研究は「意図的な操作改竄」によって成り立っていることを指摘していました。そのことについて妻の葉子は、『伴侶――高群逸枝を愛した男』のなかで、こう解説します。この本の巻末の「著者略歴」には、「現在、同志社女子大学講師のかたわら、女性学の講演や執筆活動を行う」と記載されています。
厖大な文献から練り出された高群史学の心臓部は、日本では平安中期になって夫婦の同居が開始され、その婚姻形態は夫が妻の家に住む妻方居住婚が一般的で、婿取式後の夫婦は絶対に夫の家に帰らないという点にあった。それを根拠にして、日本の婚姻制度は古代より一貫して家父長制であったのではなく、古代母系家族から家父長的家族へ移行したとするのが高群学説の骨格であった。だが、彼女とほぼ同じ一〇年をかけて原資料に当たって逐一検証した栗原弘によれば、高群が自説の根拠とした平安中期の妻方住居婚の事例は、高群が調査した五百家族中、藤原道長家族のたった一例のみ。道長家族は主流どころか例外的一例に過ぎなかった。が、問題点はこの次である。《女性の地位が高かった母系古代から、父系に移行して女性の地位は低下したのだ》という予めの構想のために、逸枝は調査結果そのままを提示するのではなく、史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまったのである5。
さらに加えて栗原葉子は、そうした逸枝の行為を、憲三はどう見ていたのかについて、このように推断するのでした。
ところで、こうした逸枝の「意思的誤謬」を、夫の憲三が知らなかったということがありうるだろうか。逸枝の書く一行一句一字を余さず読み、書き過ぎた指の痛みや背の凝りまで体験を共有していた憲三が、これを知らなかったという方が不自然である。否、それどころか、憲三は隅から隅まで知り尽くしていたのであった。……あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理であるとするならば、憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである6。
「憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである」と、栗原葉子は断じます。改竄の「正犯」が逸枝であり、その「共犯」が夫の憲三であったことを、この書を通じて世に知らしめたのでした。この指摘に組することができない私は、それに対する反論として第五節「栗原弘の『高群逸枝論』と栗原葉子の『橋本憲三伝』について」を書き、同じく、著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第四部「『三つの巴』私論集」に所収しました。
三つ目の例――山下悦子の「小伝 高群逸枝」のなかの言説
本人が書くところによると、著者の山下悦子は、女性史研究家、評論家のようです。以下の「小伝 高群逸枝」からの引用は、逸枝の「曲従」にかかわる、その著者が示す独自の見解です。
高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり、彼の暴言暴力を高群自身の欠点ゆえだと思い、悩み、苦悩するが、橋本への思慕はうすれることはなかった。単なるマゾヒストというわけでもなく、高群の深層に潜む「火の国の女」の部分が爆発すると別居、家出という形で大胆な行動に出るのが常だった。だが橋本の高群を取り戻そうとする情念に押し戻され、再出発の誓いを互いにするといった場面が幾度もあった。まさに「思慕」と「曲従」の関係である。…… 女性の人権が語られ、ドメスティックバイオレンスやモラルハラスメント、セクシャルハラスメントが問題視される今の時代であれば、高群の『日記』に描かれた記述や、橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動はかなり問題であるように思う。少なくとも女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう7。
このように山下は、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり……」と書きますが、これは、資料に基づかない、真実を逸脱した恣意的な断定にすぎません。私は、そのことを論証したく、第五話「伝記書法についてのメモ書き(一)――山下悦子の『曲従』を巡る言説への批判」を草しました。著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』の第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」において閲覧可能です。
以上の三つの事例からもわかりますように、かつて鹿野政直と堀場清子が憲三に見出した「新しい男」像は、いまや雲散霧消し、それに代わって、「野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人」「歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者」そして「女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらない」醜悪な夫といった人間像が誰にはばかることもなく闊歩しているのです。
これが、本稿に関する主要な先行研究を自分なりに概観した、その概略的な結論となります。それと同時に私は、事実を歪曲した、いわれなき暴言が、黄泉の客となったいまにあってもなお憲三に浴びせられていることを知り、改めてその理不尽さに強い憤りを感じるようになりました。本稿は、こうした先行研究の分析結果をひとつの動機として執筆されようとしているのです。
先行研究の分析結果に義憤を感じた私は、橋本憲三と高群逸枝の関係性あるいは役割分担がどうであったかを示す動かしがたい資料を前もって明示したうえで、その実証を目的として、憲三の生涯を書こうと決意しました。そこで、両人それぞれが語っている文献からこの文脈に重要な幾つかを引用することによって、憲三と逸枝の関係性あるいは役割分担の概略を、まずもってここに、事前に明らかにしておきたいと思います。それは三つの視点から構成されます。
それでは第一点として、私は、憲三と逸枝が、「教育者」としての夫、「開拓者」としての妻、あるいは、「自主性がない」妻、妻の「社会」としての役割をもつ夫、という関係にあったことを、以下に引用する文例から明らかにしたいと思います。
おそらく約婚前に出された手紙と思われますが、そのなかで逸枝は、憲三に対して、こう打ち明けています。
妾には主義も方針もありません。安心することも出來ません。生きてゐるあいだ幸福であればよろしう御座いますが、その幸福だとて樣々なので何やらわかりません8。
この文は、「主義も方針も」ない自分を、決して独りにはせず、こころ安らかなる境地へと、そして、ひとつの確たる世界へと導いてほしい、それをもって自身の幸福と受け止めたい、という強い願望を憲三に告白しているように読めます。結論から先に書けば、この手紙にある内容は、亡くなる一年前から書き始めた自伝「火の国の女の日記」についての「自叙伝メモ」の内容と、おおかた合致します。そのことが明らかにするのは、約婚前から死に至るまでの生涯にわたって、逸枝は「主義も方針も」なく、「自主性がない」性格に覆われていたということです。
では以下に、その「自叙伝メモ」から一部を抜き出して引用します。
私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう9。
逸枝は、「私の人生はすべて受け身に終始したように思われる」と書きます。これを逸枝は、自分の欠点として「優柔不断」とも「曲従」とも、そしてのちには「奴隷根性」とも呼びました。そのことは、逸枝には、自ら主体的に自身の人生の枠組みをつくったり、物事への対応方法を構築したりする能力に欠け、その部分に関しては夫の憲三にすべてを依存せざるを得なかったことを意味します。逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。
逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう10。
ここで重要なのは、自分には「自主性がない」だけでなく、自分に開かれた「社会」がまさしく夫であったことを、妻の逸枝本人が自ら認めていることです。
しかしながら、ひとたび憲三によって枠組みが与えられるや逸枝は、自由律詩あるいは長詩の獲得において、そして、アナーキズムの論戦において、さらには、女性史学の開拓においてそうであったように、実行や実践という地平にあって、周りの予想と期待をはるかに超えるその能力を発揮するのでした。これこそが、「物質的精神的な投資家」としての「夫の希望でもあった」のです。
それでは、この役割分担に関して憲三は、どう認識していたのでしょうか。これは、晩年に憲三が石牟礼道子に語った言葉です。憲三と道子の関係は、のちほど本文のなかにあって詳述します。
彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです11。
この言説は、逸枝のいう、「教育者」であり「投資家」である夫と、「労働者」であり「開拓者」である妻との、両者の関係性を如実に例証したものとして、その認識を可能にします。
それでは第二点として、逸枝の「教育者」であり「投資家」となる以前にあって、憲三が、どのような社会的活動をしていたのか、そしてそれをどのように放棄したのかを見ておきたいと思います。
実のところ憲三は、生まれ故郷の熊本の地において、青年作家として熱い視線に包まれた注目の存在となっていました。それを例証する文を以下に引用します。それは、一九二二(大正一一)年九月二三日の『九州新聞』の五面に掲載された、「本紙が生んだ女流詩人と青年作家/『山の郁子と公作』/橋本憲三君と高群逸枝女史が山に在つた日の記念出版/引續いて長篇執筆」という長い表題をもつ、事実上の橋本憲三論になっています。憲三と逸枝の共著になる『山の郁子と公作』が出版された際の、それを祝う観点からの記述内容です。少し長くなりますが、一部を抜粋して引用します。
もう四[、]五年も前のこと……本紙に『太陽へ』の一篇を寄せ、文藝に興味を有する多數の讀者の注意を惹いた、それが橋本憲三君であつた……逸枝さんと一緒になつてから、憲三君はあまり原稿を送らぬやうになつたが……逸枝さんは『日月の上に』の詩集を出し、天晴な女流詩人となり濟ました時、私は憲三君の存在を疑つた、君も亦與謝野寛氏や、田村松魚氏のやうに細君にその光を覆はれたのではないかと……逸枝さんが『日月の上に』から『放浪者の詩』それから『妾薄命』と矢繼早に詩集歌集を出して益々才名を謳はれるのに、憲三君は何の作物をも發表しないのは甚だ物足らぬ淋しさを感じて居た……けれどもそれは幸に杞憂うであつた……矢張創作は吃々と續けて居た[。]そしてその試金石が金(ママ)度文(ママ)尾文淵堂から出版された『山の郁子と公作』である……君は初め一人で書く筈であつたが、山にあつた日の懐しい記念だからと云ふので、前半を自分で書き、後半を逸枝さんに書かして、夫婦水入らずの合作とした、そして巻頭の十七頁は、本紙に初めて發表した君の出世作とも云うふべき『太陽へ』の一部でその他は新作である……いま斯の人が勇ましく文壇に打つて出る――君が最近の消息に只今『戀するものゝ道』といふ長いものを書きかゝつてゐます……とある……将来ある作家として文壇に認められる日も遠くあるまい(K生)
ところが、「與謝野寛氏や、田村松魚氏のやうに細君にその光を覆はれた」のかどうかはわかりませんが、ここへ来て憲三は筆を折ります。以下は、憲三が道子に語った発話内容の一部です。
ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ。かといって僕たちはとくにボクは、家庭の遺制、つまり男権社会の遺制の中に育ったから、とくにボクはそれをひきずっていたから、一度これを爆破しなければ、女性は、全面的に生れ替ることはできない。それが自分の体験でよくわかるのです12。
憲三がいう「家庭爆破」とは、家父長的で男尊女卑的な、いまだ伝統として根を張る家族制度を破壊することを意味します。他方で、憲三の妹の橋本静子は、こう書きます。仕事にかかわって、男女の旧弊な役割分担が、ここでは消滅してしまったようです。
憲三は他の多くの男性と同じく……男性上位の体質でした。……或る日、女性の位置まで降りて来たのです。そして、男女が平等のところで住んで見れば、居心地よくてたのしく、有頂天になって暮したのです。二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした13。
静子が「二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした」と書くのに先立って、逸枝は、自身の詩歌の世界にあって、新しい夫婦像を、このようにイメージしていました。
ある戀の日に、 青年が米を洗ひ、 少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、 不自然なことだらうか。 我々は、原始人類が、 かうした生活をしてゐたことを確信する14。
逸枝のイメージによれば、家にいて米を洗う青年と、外に出て薪を取りにゆく少女が、原始の世界にいました。ふたりは、深い愛に包まれて暮らしていました。いまやその恋人たちが、時空を超えて、書斎にあって学問に励む妻と、家事をしながら妻の原稿を整理する夫へと姿を代えて、この現代に出現したのでした。
それでは最後の第三点として、上の第一点と第二点の論述を踏まえて、フェミニストとしての憲三の誕生を、いよいよここに特定してもよいのではないかと思料しますが、それに連なる例文を以下に引用し、あわせてそこに、研究上の空白地帯が存在することを指摘しておきたいと思います。
逸枝は、夫の憲三について、こうも書いていますので、紹介します。
私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった15。
では、青年作家として嘱望されていた憲三は、どういう理由で、またどういう過程をたどって、筆を折り、フェミニストの立場から逸枝の「パトロン」として行動を開始したのでしょうか。加えて、本の出版、機関誌の発行、女性史の創業に至る逸枝の道程のなかにあって、憲三は、どうその人に「発意または勧告」を与えたのでしょうか。つまりここが、手がつけられていない未開拓の大地として、研究者に残されているところなのです。
そこで、この闇の空白地に照明をあて、全容の一端を明らかにしたいと考えます。これが、本稿「橋本憲三の生涯――ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」の主たる執筆目的となります。すべての記述が終了すれば、その結果として、先行研究の分析の過程で散見された、憲三にかかわる記述が、いかに悪意あるものであるのか、いかに憲三の人格を傷つけるものであるのか、いかに憲三の名誉を毀損するものであるのかが、必然的に浮き彫りになるものと思料します。
これまで私は、伝記書法に関連して、おおかた以下のような論考を書いてきました。
(1)著作集9『デザイン史学再構築の現場』、第六部「伝記書法を問う――ウィリアム・モリス、富本一枝、高群逸枝を事例として」 (2)著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』、第三編「伝記書法私論――批判と偏見を越えて」 (3)著作集22『残思余考――デザイン史論(上)』、第四部「『三つの巴』私論集」 (4)著作集23『残思余考――デザイン史論(下)』、第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」における「第五話 伝記書法についてのメモ書き(一)――山下悦子の『曲従』を巡る言説への批判」「第六話 伝記書法についてのメモ書き(二)――鹿野政直の『新しい男』論に対する無視の構造」および「第七話 伝記書法についてのメモ書き(三)――堀場清子擁護論」
そのなかで、共通して主張したのは、実証主義の重要性についてでした。その考えの要旨を一言でまとめるならば、次のようになります。
私があるべき姿として思い描く伝記作家たる者は、思い込みや決めつけといった、恣意や予断をいっさい排し、すべからく一次資料にある根拠(エヴィデンス)に基づき、記述の対象が女性であれ男性であれ、決してそれにとらわれず、同じ人権を有するものとしてゆめゆめ不当にも差別することなく、等しく両者に敬意のまなざしを向け、謙虚かつ真摯なる態度のなかにあって、慎重のうえにも慎重にその複雑で微細な人生模様を、あくまでも真実に肉薄すべく、丁寧かつ静謐を旨として描き出さなければならない。
これが、伝記執筆にかかわる、私が求める原理原則です。本稿「橋本憲三の生涯――ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」における、私の伝記執筆の立ち位置もまた、まさしくこれに尽きます。この方法論と執筆姿勢に基づいて私は、「ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」をひとつの中心をなす文脈としながら、全体としての主題である「橋本憲三の生涯」についてその一端を描き出してみたいと思います。
以上、「一.本稿に関連する先行研究の概要――『新しい男』像から醜悪者像の連鎖へ」「二.本稿執筆の目的――橋本憲三と高群逸枝の関係性あるいは役割分担の事前明示」「三.本稿執筆の方法――伝記書法の原点に立つ」を述べ終わったところで、ここに「まえがき」を閉じ、いよいよこれより、第一部「橋本憲三の青年期と高群逸枝との邂逅」の第一章「憲三の生い立ちと人間形成」から本論を書き進めてゆくことにします。
最後に、一言お断わりいたします。本稿において図版は割愛いたします。巻をまたぎ、ご不便をおかけしますが、著作集27『余滴を集めて――高群逸枝研究』の巻末に、著作集28『余滴を集めて――橋本憲三研究』と著作集29『余滴を集めて――石牟礼道子研究』をあわせた、三巻に共通する「写真集」を置きましたのでご活用ください。あるいは、著作集23『残思余考――デザイン史論(下)』、第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」の「第一話 『三つの巴』画像集」をご参照いただければ幸いです。なお、ここに使われています「三つの巴」とは、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』において詳述しているとおり、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三者の関係を同定した、私の独自の用語法です。
(1)鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。
(2)同「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。
(3)鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』朝日新聞社、1977年、63-64頁。
(4)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204-205頁。
(5)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、189頁。
(6)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、190-191頁。
(7)山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、17頁。
(8)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、331頁。
(9)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、354頁(隠しノンブル)。
(10)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、419-420頁。
(11)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。
(12)石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、22頁。
(13)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、13頁。
(14)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、399-400頁。
(15)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。