一九六四(昭和三九)年六月七日の午後一〇時四五分、ガン性腹膜炎により、高群逸枝は、国立東京第二病院において息を引き取りました。病院からの急変の知らせを受けた夫の橋本憲三は、自宅を出て病院へと向かう途中にあり、残念ながら、臨終に際して妻の手を握ることも、言葉をかけることもできませんでした。しかしながら、最期の病床にあって逸枝は、次のようなことを、憲三に託していました。
私とあなたの愛が火の国(自叙伝)でこそよくわかるだろう。火の国はもうあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いて置いてください。ほんとうに私たちは一体になりました1。
すでにそのときまでにあって、「火の国の女の日記」は、第一部「しらたま乙女」、第二部「恋愛と結婚の苦悩」、そして第三部「与えられた道」が完結していました。憲三に託されたのは、第四部「光にむかって」、第五部「実り」、そして最後の第六部「翼うばわれし天使」の三部でした。第四部と第五部は、戦争が終わり、女性史学者として逸枝が世に認められてゆく時期の描写となり、第六部は、最期の病床の様子を扱う内容になることが想定されていました。執筆中、憲三は、自身の胸の内を明かすかのように、「『火の国の女の日記』 高群逸枝の自叙伝について」の表題のもと『熊本日日新聞』に寄稿します。掲載されたのは、一九六五(昭和四〇)年二月五日の朝刊八面でした。その一部を、以下に引用します。
私は告別が終わった翌日から今日につづく医者がよいをしながら、彼女のいなくなった廃屋同様の一室にひとりむなしく残って「日記」の整理をした。同じ年に奥村画伯を失われたらいてう夫人は、「涙の中で、墓を建てるよりさきに、故人が望んでいたデッサン集を作らねばならないと決心した」という意味を書いておられるが、私も形の上でそっくりそのようになった。「奥村博史素描集」は一周忌を前にしてすでに刊行されたが、「火の国の女の日記」もそうなるであろう。
実際、『火の国の女の日記』は、逸枝の一周忌に当たり霊前に捧げようとする憲三の思いどおりに、世に出すことができました。『火の国の女の日記』の奥付には、こう記されています。「高群逸枝 火の国の女の日記 1965年6月・第1刷発行 著者/高群逸枝 橋本憲三補 発行者/小宮山量平 発行所 株式会社理論社」2。「著者/高群逸枝 橋本憲三補」という表記に、ふたりの生涯のすべてが凝縮されているのではないでしょうか。逸枝が生前憲三に語っていた、「ほんとうに私たちは一体になりました」という思いが、こうして完全にここに形になったのでした。
これよりのち、愛する妻を突然にも喪失するという悲しみのなか、廃墟同然の「森の家」に独り残り、弱る体に鞭打って、憲三はただちに『高群逸枝全集』の編集に邁進します。
発行所の理論社ではこの全集のために選任の校正者を当ててくれたが、他まかせにするにしのびず、初校から校了まで眼を通した。編集段階での校閲とあわせ全部をすくなくとも七回は通覧したことになる。刊行末期には視力がにぶって困難したがかろうじて完結まで持ちこたえた3。
刊行された全一〇巻を配本順に並べてみますと、以下のようになります。
『火の国の女の日記』は、内容や体裁に手を加えられることなく、書題と表紙だけが差し替えられ、『高群逸枝全集』第一〇巻「火の国の女の日記」として転用されます。奥付の出版年月も、『火の国の女の日記』のままで、変わりはありません。
(1)『高群逸枝全集』第4巻「女性の歴史一」(1966年2月) (2)『高群逸枝全集』第5巻「女性の歴史二」(1966年3月) (3)『高群逸枝全集』第10巻「火の国の女の日記」(おそらく1966年3月ころ) (4)『高群逸枝全集』第2巻「招婿婚の研究一」(1966年5月) (5)『高群逸枝全集』第3巻「招婿婚の研究二」(1966年6月) (6)『高群逸枝全集』第8巻「全詩集・日月の上に」(1966年7月) (7)『高群逸枝全集』第1巻「母系制の研究」(1966年9月) (8)『高群逸枝全集』第9巻「小説/随筆/日記」(1966年10月) (9)『高群逸枝全集』第6巻「日本婚姻史/恋愛論」(1967年1月) (10)『高群逸枝全集』第7巻「評論集・恋愛創生」(1967年2月)
逸枝が書いたすべての文が収録されているわけではありませんが、タイトルにありますように、この著述集はあくまでも「全集」であって、「選集」ではありません。つまりここから、これこそが、世に残すべき逸枝のすべての業績であるという、編集者たる憲三の強い思いが伝わってきます。そこで、この第四話「橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法についての一考察」におきまして、憲三の編集方針を巡って、その周辺を少し探索してみたいと思います。
憲三が、最終配本予定の第七巻「評論集・恋愛創生」の原稿の整理を終え、それを理論社の編集者の藤井良に渡すと、いよいよ、「森の家」解体へ向けての本格的な作業がはじまりました。まずは、本の整理です。一九六六(昭和四一)年一〇月一七日、三社のなかで事前に二〇〇万円の最高値をつけていた古賀書店が来訪し、打ち合わせ。さっそくその日から本の整理に取りかかります。整理に一週間を要しました。一〇月二四日、庭に出て憲三は、不要となった雑誌や新聞などを焼きました。一方書籍類は、引き取りにきた古賀書店のトラックに運び込まれます。本の送り出しは、俗世を断って森に生きる孤高の学者だった妻逸枝と、その著述を長年編集者として献身的に支えてきた夫である自分とに、別れを告げる瞬間でした。
分身としての蔵書と別れたあと、次に憲三は、「森の家」そのものと別れなければなりませんでした。以前から世田谷区役所とのあいだで、「森の家」は解体し、公園へと造成することで話が進められていました。一一月一四日、譲渡仮契約書に調印する日が来ました。午後二時ころ、「世田谷区役所公園課長、用地課長、公園課員、桜町会長、杉本哲次(軽部家分家、杉本造園株式会社の社長)」4が訪ねてきました。この日、予定どおり、契約書を取り交わすことができました。
本を売却し、土地と屋敷の譲渡が終わり、いよいよ原郷火の国へ帰還する日が近づいてきました。堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』に断片的に記載されている憲三の「共用日記」に目を向けると、その後の足取りは、おおよそ次のようになります。一二月二日、引っ越し作業の手伝いのため、憲三の妹の橋本静子、水俣を出発。翌日の「11時-12時のあいだに静子来」。次の日の「早朝から荷まとめの作業に従事」、七日に「通運から荷物の下見に加藤雄宏さん」が来て、打ち合わせ。翌八日、「荷積みを加藤さんにたのみおき、2時50分この家を捨てる。はやぶさ(特急)に乗る」。一夜が明け、「瀬戸内海が見えてきたころ」に食堂車へ行き、そこで朝食、そして「14時53分水俣着」5。かくして一九六六(昭和四一)年一二月九日、六九歳の憲三は、すべての作業を終え、肥後火の国の南西部に位置する、姉の橋本藤野と妹の静子が住む水俣に帰ったのでした。
この地にあって憲三は、逸枝のために墓廟を建造しては妻を偲び、そしてまた、季刊誌『高群逸枝雑誌』を刊行しては、逸枝の業績の顕彰に努めます。ここでの憲三の暮らしぶりについて、静子はこう回想します。
憲三は東京の仕事の後片付けをすませ、水俣の姉妹のところへ引き越して来ましたが、窮鳥を待ち構えた姉フジノの懐へは入らず、自分の家を売却した金の一部で姉の屋敷内に二階建を造り、一階と二階半分を姉の店の倉庫に貸し、家賃と自分の食事代を相殺させてけじめをつけました6。
おそらく「森の家」の本や屋敷を処分した代金は、水俣で憲三が住む二階建ての家の建設、逸枝の墓廟の造営、そして『高群逸枝雑誌』の刊行の各費用に加えて、自身の生活費や医療費に使われたものと思われます。外国旅行はおろか国内旅行さえも楽しむわけでなく、かといって美酒や美食に打ち興じるわけでもなく、極めてつつましい生活ぶりだったようです。この二階半分の居室で憲三は、ときには石牟礼道子を交えて『高群逸枝雑誌』の編集作業を行ない、窓から見える、秋葉山の中腹に建立した妻の墓碑に手をあわせては、日々、ありし日の逸枝の面影にこころを寄せていたにちがいありません。憲三はこう書きます。
彼女を全として生きた私には、彼女がいなくなったのだから、もう生きるよすがもすべもない。私にはたとえば余生とか養老とかの語はあたらない。この持衰というのがいちばんぴったりしていると思われる。 水俣でも、彼女なきあとの世田谷の森の家と同じように、ひとりやのひとりぼっちである7。
他方、『高群逸枝雑誌』は、号を重ねるごとに逸枝信奉者のあいだで人気を博し、そのなかには、わざわざ水俣の地まで憲三を訪ねてくる熱心な研究者や学生たちもいました。そのひとりが、詩人でアナーキストの秋山清でした。
一九七二(昭和四七)年一一月一三日、秋山清が、自宅を訪ねてきました。このことにつきましては、次の年(一九七三年)の六月に思想の科学社から上梓されます、秋山の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』に詳しく、そこからの引用をもって、構成したいと思います。
「橋本さんはいますか」 「どなたですか、身体がわるくてあまり人と会わんようにしているのだが――」 と機嫌のよくなさそうな返事の後で、彼は部屋の中の寝台から起き上がる気配だった。私が名をいって紹介状を差し出すと、彼の気むずかしい顔もいくらか和らぐかに見えた8。
憲三は、以前秋山が『日本読書新聞』に書いていた自叙伝「小組のへそ」を読んでおり、そのことや渋谷定輔の『農民哀史』のことなどが話題になり、いよいよ本題に入ります。秋山は「『高群逸枝全集』から何故に、アナキズムの立場から書いた多くの論説が脱落させられたか、それを敢えてしたのは、本人の意思か、本屋の要求か、橋本憲三自身の意向によるものか」9を、遠慮することなく憲三に問いました。それに対して憲三は、概略このように答えました。「あれらを書いた時期、まだ彼女は未熟だった。本人も自分のその頃書いたものをそのように見ていたらしく思う。それらしいことが『火の国の女の日記』にも書かれてあったと思う。要するにそれから以降の研究が主ですから」10。この返事は、「現在高群逸枝に集まっている強い注目の中には、あの頃の論説を重く見ているところからのもの」11に起因しているものもあるのではないかと確信する秋山を必ずしも満足させるものではなく、さらに秋山の質問が続きます。「『婦人戦線』の諸論文、『女人芸術』誌上のマルキシズムとの文学論争、さらにはそれ以前の、たとえば『婦人公論』誌上で山川菊栄ととり交わした恋愛論争などを、単行本として刊行するか、全集の別冊としてでも出すことはどうか。私はそれをすすめますよ」12。この提案に対して憲三の反応はこうでした。「いや、私は肥後モッコスですから、一度きめたことは――」13。「何が肥後モッコスだ!」――出そうになった言葉を自身で引き取りました。秋山の真意は、「昭和三、四、五、六年ごろ、アナキズムを拠りどころとして展開した高群逸枝の論争、主張、啓蒙などの活動が、未熟な時期であった、という主観的な判断から、その人の生涯の業績の中でオミットされていいものか、ということ」14でした。帰り際、憲三は秋山に、『高群逸枝雑誌』に何か寄稿するように示唆したようです。それを受けて、翌年(一九七三年)の二月一七日、秋山は、憲三に宛てた手紙という形式をとり、採否は一任するとしたうえで、「全集の編集にたいする私の不審や疑問について、率直に問いただす文章を送った」15のでした。長文です。一言に要約するとその内容は、「全集」と称しながら、なにゆえに、とりわけ逸枝自身が編集者として責任をもつ『婦人戦線』に書いたアナーキズムを拠り所とした彼女の論文が、未熟な時期に書かれたものであったという理由から削除されたのか、その正当性を全集の編集者である憲三に直接問い、それら一連の論考のもつ歴史的重要性を指摘するものでした。さっそく憲三は、二月二一日にその返信をしたためます。
お原稿一読しました。結論から申しまして、これは取捨をおまかせくださった寛大なお心にあまえてご指示どおり急ぎ返送させていただきたいと思います。 原稿には私と見解を異にするところがあまりに多く、私が責任者となっている雑誌に掲載することでお説を私が認めたと誤解されることをさけたいのです。ご了承をお願いします16。
それでは、この返信のなかで憲三が書いている「私と見解」とは、どのようなものだったのでしょうか。さかのぼること七年前の一九六六(昭和四一)年、「森の家」で全集の編集と校正に精を出していたとき、同居していた石牟礼道子に、憲三はこう自身の考えを開陳しています。
全集とは何でしょうね。全集をどう規定するか。選集という形もあるでしょう。ある基準でいえば、彼女の全集はこの二倍でも足りないくらいです。全集を出す意味について僕は彼女と対話するのです。 つまり彼女のみていた真理、この真理でもって、彼女は孤絶したこの家の外の世界に貢献したといえばいえる。それに到達するまでの、彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける。これは僕の法治主義です17。
憲三の立場に立てば、女性史学という学問の存在にかかわる啓示に先導されて、つまりは、すべからく人類が到達しなければならないひとつの大きな真理に導かれて、自身の大衆運動の戦線に幕を閉じ、いっさいの来客を断って「森の家」の書斎に独り恒久に蟄居した、まさしくそのときこそが、高群逸枝が学者として蘇生復活する瞬間であり、それ以前に彼女の身辺にみられたものは、そのために必要とされた、いわば産湯の残り湯であり、使用済みの布切れであり、これを全集に所収することは、清が濁によって、つまりは、清書された玉稿が書き散らされただけの紙クズによって混濁させられることを意味し、それを認めれば、「彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」ということになるのでしょう。これが、編集者としての高群逸枝の業績についての評価であり、全集編集の方針となるものでした。
しかし、そうした憲三の思いは、アナーキズムに関する論考が全集から欠落していることに不満を示す秋山には理解してもらえず、その手紙から四箇月後の六月、秋山の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』が世に出るのでした。それをおそらく見たであろう憲三が、そのとき、いかなる心的状況に立ち入ったのかは、裏づける資料もなく、想像するしかありません。
しかし私は、直接憲三は秋山に伝えることはなかったようですが、結論から先に書けば、戦後に至って逸枝は、アナーキズムへの関心を失い、他方で、それまで敵視していたマルクス主義に共感を抱く思想上の転移があったことが、その主な理由となって、アナーキズム関連の論考を全集に採択しなかったのではないかと思っています。つまり、もしこれらを採録すれば、「彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」と、憲三は確信していたのではないでしょうか。
それでは逸枝自身は、アナーキズムからマルクス主義への関心の転移について、どう書いているのでしょうか。戦前と戦後のアナーキズムとマルクス主義についての言説を比較する形式をとりながら、一次資料に語らせてみたいと思います。
一九二六(大正一五)年の四月、『戀愛創生』が公刊されます。この本には、いっさい章も節もなく、全文が書き流しとなっています。本文に先立つ「巻頭に」において、本書執筆にかかわる要点が箇条書きにされています。それは、「婦人問題の経路」にかかわって八点、「戀愛の経路」にかかわって一〇点、そして「エレン・ケイの戀愛論」にかかわって一点、合計一九箇条で構成されていました。以下に、「婦人問題の経路」から三点、そして「戀愛の経路」のなかから同じく三点を選んで、紹介します。
一、婦人問題の経路は、女権主義、女性主義、新女権主義、新女性主義。 一、新女権主義は、科學社會主義を信奉してゐる。新女性主義は、科學社會主義の彼方に、新たに個性を語る。 一、新女性主義こそ、世界に對して日本婦人のする、最初の提唱であらう。私は豫想する。日本婦人の活動を。知的聡明を。新女性主義を、いま本書で説く。 * 一、戀愛の経路は、精神主義、肉慾主義、霊肉一致主義、一體主義。 一、一體主義は、戀愛の究極を、一體と見る。一體と感じた戀愛において、生殖し、人類における男女兩性の一體化、男女兩性の消滅期へまで、子孫を一體的過程の上において維持する本能。 一、一體主義は、科學上の、地球の冷却説に順應して、人類の自然消滅を豫想するものである。一體主義を、いま本書で説く18。
新女性主義と一体主義、これが逸枝にとっての婦人論および恋愛論を支える基礎となる原理部分です。その上に立って逸枝は、マルクス主義を次のように見ます。
マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる。 彼等は、婦人が彼等の社會に所有されてゐるゆゑ、婦人に對して無關心である。 社會上のすべての問題は、婦人を踏臺にした上でのものであるといふ眞理に對して無關心である。 彼等は、婦人が踏臺にされてゐるといふことを忘れて、単なる経済的争奪戦の現象を、全體としての現象であると見てゐる。 彼等は、甚だしい近視眼者、社會の表面だけを見る皮相論者にすぎない19。
このように、逸枝にとっての恋愛論あるいは婦人論からすれば、「マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる」のです。
アナーキズム系の月刊婦人雑誌として逸枝が主宰する『婦人戦線』が発刊されるのが一九三〇(昭和五)年の三月です。第一巻第六号(一九三〇年六月号)の巻末や第一巻第八号(一九三〇年八月号)の巻頭を見ますと、解放社から出版予定の高群逸枝著『強権に抗す』の広告が掲載されています。そのなかに「内容目次」が紹介されており、第一篇「無政府主義の思想と實行」、第二篇「無政府主義者宣言」、第三篇「無政府原理考」となっています。その説明によると、既発表の雑誌論文等を集めて一著に編集されたもののようで、この本は『黒い女』の姉妹編として位置づけられていました。広告の文面には、次のような文字が踊ります。
全人類を、民衆を、労働者農民を、婦人を、眞に開放し眞に導く思想は何か、無政府主義である!……醜怪なる強権マルキシズムの没落は既に時間の問題となり終わり、今や全民衆の認識と創造力はアナーキズムにおいて偉大なる飛躍を準備しつゝある時、我等いかに生くべきか? 何を為すべきか? 本書は強くそれに應ゆるであらう。
この本については、調べた限りでは国立国会図書館にも所蔵がありませんので、出版されることなくお蔵入りしたのではないかと思われますが、しかし、この広告の文面こそ、当時の逸枝のアナーキズムに寄せる思いを見事に体現しているものと思われます。
一九四五(昭和二〇)年八月、戦争が終わります。前の第三話「戦後を生きるなかでの高群逸枝の戦前思想からの脱却」におきまして詳述していますように、初版(一九三八年、厚生閣刊)と再版(一九四一年、厚生閣刊)の『大日本女性史 母系制の研究』、続く戦後の改訂三版(一九四八年、恒星社厚生閣刊)の『母系制の研究 大日本女性史第一巻』――こうした先行するどの版のなかにも認められた「大日本女性史」という文字は、新版(一九五四年、大日本雄辯會講談社刊)に至って完全に消し去られ、新たに単独の『母系制の研究』という書名に生まれ変わります。かくして書名の改変と一部結論の削除という道程をたどりながら、やっとこの新版において逸枝の戦前思想の払拭は完結し、『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社)の発刊前年の一九五三(昭和二八)年に出版された『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社)とあわせて、このふたつの大作を土台としながら、いよいよ通史研究となる『女性の歴史』(全四巻)が、世に問われてゆくことになるのです。以下に、その書目をまとめます。
(1)『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。 (2)『母系制の研究』(新版/改訂四版)大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年2月。 (3)『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (4)『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (5)『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (6)『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
ところで、目につくのが、『女性の歴史』の下巻において、アナーキズムの限界について逸枝が語る箇所です。このように逸枝は語ります。
アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる20。
こうした認識にいつ到達したのかはわかりませんが、明らかにアナーキズムからの撤退を意味しますし、戦前の積極果敢な言動との落差を感じないわけにはゆきません。
他方でその当時、逸枝は、マルクス主義にかかわっては、どのように理解していたのでしょうか。以下は、一九六〇(昭和三五)年の日記に記されている一節からの引用です。亡くなる四年前の言説です。
寸感メモ。女性史については、あらゆる学問-社会・民族・歴史等が冷淡であるなかに、ただ一つ、マルクス主義史学のみが、これに関心を示していることを知ったとき、はじめてマルクス主義に無知であり反感さえもっていた私は、あらためてこれに敬意を感じはじめた21。
「マルクス主義史学のみが、これ[女性史]に関心を示している」という言説に、戦前の「マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる」という言説を対置するならば、逸枝のマルクス主義理解の深化は歴然とします。さらにこの文言に続けて、逸枝はこうも語ります。
私の目的は「真理」であるので、マルクス主義がいわゆる「赤」であろうと、私にはそのような世俗的なとりさたは問題でない。私はいろいろなマルクス文献をむさぼりよんだが、こんどソビエトで出された『世界史』は、もっとも女性史とその基礎である世界の各段階の社会関係を示すものとしてうれしいものであった22。
以上に見てきましたように、明らかに逸枝は、戦前にあっては、「アナーキズム礼賛/マルクス主義断罪」、戦後にあってはそれが逆転し、「アナーキズム否定/マルクス主義賞賛」という思想的層にありました。私は、これが主な理由となって、憲三が全集からアナーキズム関連の論考を排除したのではないかと推測するのです。
ちなみに、秋山清は、自著の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』の「あとがき」の最後の箇所において、「今日まで調べ得た高群逸枝の、全集未採録かと思えるものを以下に略記してみよう」23と書き、『婦人公論』『文芸戦線』『文芸批評』『原始』『婦人運動』『女人芸術』『黒色戦線』『婦人戦線』に掲載された、逸枝のアナーキズムの立場に立って書いたと思われる論考のリストを挙げています。大部なため、ここでは再録を控えますが、逸枝のアナーキズムを知るうえでの貴重な書誌であることには間違いありません。
理解を助けるために、それではここで、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の各巻のタイトルとそれを構成する既発表著作について、その対応関係を、以下に表としてまとめてみます。
『高群逸枝全集』(全一〇巻)の各巻を構成する既発表著作
この表からもわかりますように、確かに憲三は、『高群逸枝全集』刊行に際して、逸枝が、『婦人公論』や『女人藝術』、それに自身が主宰していた『婦人戦線』などを舞台に書き表わしていたアナーキズムに関する論考のそのほとんどを採録しませんでした。しかし、採録しなかったのは、それだけではありません。雑誌や新聞に寄稿したほとんどの記事はいうまでもなく、たとえば、単行本として出版されていたもののなかにあっても、以下のような書物も、所収対象から外されました。
(1)『戀唄 胸を痛めて』(1922年) (2)『婦人生活戦線』(1931年) (3)『大日本女性人名辭書』(1936年) (4)『女性二千六百年史』(1940年) (5)『日本女性傳』(1944年) (6)『日本女性社會史』(1947年) (7)『女性史学に立つ』(1947年)
それでは、これらの書物が、なぜ全集に所収されなかったのか、ここで少しそのことに関連して描写してみたいと思います。
まずは、『戀唄 胸を痛めて』についてです。この書物は、『日月の上に』『放浪者の詩』『美想曲』『妾薄命』に続く逸枝にとって五番目の詩集として、一九二二(大正一一)年一一月に京文社から世に出ました。憲三は、第八巻「全詩集・日月の上に」の「解題/編者」において、この本について、このように書きます。「こんど本全集のために古書市場をはじめいろいろ心あたりを捜しても発見できなかった」24。しかしいま私は、国立国会図書館のデジタルコレクションを利用して、あなた方の住まいである「森の家」ならぬ、火の国阿蘇の森のなかの寓居にいながら、胸を痛めつつ、この『戀唄 胸を痛めて』を閲覧しているのです。この本の「序」の最後に、「頁はめくられた。私はこころもち顔を赤めていま行かうとする」25いう言葉が認められます。
それから時が流れ、一九五四(昭和二九)年三月、アメリカの水爆実験により、南太平洋のビキニ環礁で操業していた日本のまぐろ漁船の第五福竜丸が被災し、その事件をきっかけに、原水爆禁止運動のうねりが高まっていきました。ユージェニー・コットン夫人が会長を務める国際民主婦人連盟は、副会長であった平塚らいてうから送られてきた原子兵器に反対する訴えを受けて、世界母親大会を一九五五(昭和三〇)年七月にスイスのローザンヌで開催することを決定します。日本側はそれに呼応し、積極的な連帯の意思を示しました。世界母親大会に一箇月先立つ、日本母親大会(第一回東京大会)は、豊島公会堂を全体会場として、二、〇〇〇人の参加者を得て開催されました。富本一枝も、そこにいました。ある参加者は、感動のあまり、そのときの一枝の姿がのちのちまで忘れられませんでした。
第一回母親大会が豊島公会堂でひらかれたとき、あの大きな黒い瞳で、満員の会場を見つめながら「日本の女の歴史が一ページめくれたのよ、たいへんなことよ」とくり返していた[富本一枝の]姿が忘れられない26。
このときの一枝の「日本の女の歴史が一ページめくれたのよ、たいへんなことよ」という発話と、それに先立つ逸枝の「頁はめくられた。私はこころもち顔を赤めていま行かうとする」という言葉とを並置するとき、「女性の歴史」の、戦争を挟む三三年間の連帯と持続が、そこにあるように私には感じられます。といいますのも――。
一九三七(昭和一二)年一月、『大日本女性史 母系制の研究』の刊行を控えて「高群逸枝著作後援会」が発足しました。呼びかけたのは、平塚らいてうと『東京朝日新聞』の竹中繁子でした。呼びかけに応じ、発起人となったのは、『大日本女性史 母系制の研究』の「跋」において紹介されている六五名でした。そのなかに、「平塚らいてう」はいうまでもなく、「富本一枝」の名前もまた明記されているからです。
ちなみに、『招婿婚の研究』(大日本雄辯會講談社、一九五三年刊)の「奥付」の前頁にある「著作目錄」には「胸をいためて」が記載されています。これから判断しますと、この『戀唄 胸を痛めて』は、詩人逸枝にとって主要詩集の一冊だったものと思われます。
次に、『婦人生活戦線』について触れてみます。
一九三〇(昭和五)年一二月二日の日記に憲三は、「軽部仙太郎さんみえる。家屋新築の件」27と書いています。富農で援助者の軽部仙太郎・なみ夫妻が貸し与えた、間口一〇間、奥行き二四間の二百坪の土地に建てる家屋についての相談のために来訪したものと思われます。すでにこのころから、『婦人戦線』からの撤退は考えられており、逸枝にとっての新たな転戦の場が設けられようとしていたのです。住所表示は「世田谷町満中在家五六二番地」で、小田急線の経堂駅から徒歩二〇分のところにあり、周りは森と雑木林が点在し、富士山を望むこともできました。そこに、六室からなる二階建てを、仙太郎が所有していた古材を使って新築し、その一室が逸枝の仕事部屋にあてられました。逸枝と憲三はこの家を「森の家」、のちには「女性史学研究所」と呼びました。「上荻窪二六九」の借家からこの新居にこの夫婦が引っ越したのは、『婦人戦線』の事実上の最終号が発刊された六月一日からちょうど一箇月後の一九三一(昭和六)年七月一日のことでした。
逸枝は、仕事初日のことにつきまして、晩年に至るまで忘れることなく、記憶していました。
仕事場はできたけれども、五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)を一冊のせて座ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた……28。
他方で、この日逸枝は、刊行をまぢかに控えた『婦人生活戦線』につける「序文――若き友に與ふ」を書きました。この「序文――若き友に與ふ」は、「これを書いてゐる今、窓の外はいちめん七月である」ではじまり、「昭和六年七月一日 世田ケ谷の寓居にて 著者」で終わります。そして、四日後の七月五日に寶文館から世に出ました。この『婦人生活戦線』は、「第一 現代と婦人生活」「第二 婦人問題の發展」「第三 婦人運動の諸相」「第四 戀愛と結婚」の全四章から構成される、若い女性に向けて書かれた婦人論でした。印税収入は、当面の生活費と研究費にあてることが企図されていたものと思われます。こうして、逸枝の女性史研究がスタートしたのです。そのとき逸枝は、三七歳になっていました。
この時代の自身の仕事について、逸枝は後年、こう振り返ります。
上落合から上荻窪にかけてのいわば路地裏時代は私にとっては不毛の時代だった。わずか下落合の閑居での『恋愛創生』と、主として上沼袋で書いた散文詩めいた小説集『黒い女』が心にのこっている。…… その他には、六年四月に『女教師解放論』(自由社)、同七月に『婦人生活戦線』(宝文館)が出されているが、これらは路地裏時代の雑文集に過ぎないだろう29。
逸枝は、この時代を「不毛の時代だった」と回顧します。『婦人公論』や『女人藝術』における論戦も、『婦人戦線』における主義主張も、逸枝にとっては、実りのない単なるあだ花だったのでしょうか。いずれにしましても、こうした逸枝の思いを汲んで、憲三は、全集から『婦人生活戦線』を外したものと考えられます。
次に、『大日本女性人名辭書』が全集から外された事情について考えてみます。
「森の家」への引っ越しから五箇月が過ぎたこの年(一九三一年)の一二月、『大百科事典』の編集のために、招かれて憲三が平凡社に復帰します。しかし、四年後の一九三五(昭和一〇)年の一〇月、『大百科事典』は完成したものの、経営不振に陥った平凡社は、突如として社員全員に解雇を通告します。これにより夫は失職するのでした。それは収入が途絶えることを意味し、ふたりにとって大きな打撃となりました。そのとき夫婦のあいだで、このような取り決めがなされました。
1 あと三年で『母系制の研究』を脱稿すること。 2 現在の所持金千円で二ヵ年の家計を賄うこと。 3 研究費用には当分私の雑文稿料をもって当てる。 4 とりあえず女性人名辞書をまとめる30。
家計逼迫のおり、おそらく憲三の発案であったものと思われますが、この夫婦は、『大日本女性史 母系制の研究』の刊行に先立って、取り急ぎ、『大日本女性人名辭書』を世に出すことを考えました。次の引用は、それについての、逸枝による後年の説明です。「Kの協力」がいかなるものであったのかは、具体的に述べられていませんが、「印税収入が期待される」ことは、間違いなかったようです。
年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。私のこれまでの主たる作業は、江戸時代以前の一切の歴史文献を片はしから読破して、系譜および婚姻記事を抽出することが中心であったが、副次的に史上の女性人名をカードにとっていた。いまそれを拡張活用して人名辞書としてまとめたら、今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった31。
こうして一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。
巻末の「跋」は、「黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません」32という言葉ではじまります。「家主の庇護、指導」とは、何を意味するのでしょうか。石牟礼道子は、「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」33と、指摘しています。もしこれが事実であるならば、この書籍はもはや逸枝の作ではなく、全集に採録することは論外ということになります。
全集の編集に当たって、さらに憲三を悩ませたのは、採取した人名の生没年が皇紀によって表記されていたことだったのではないでしょうか。この『大日本女性人名辭書』は、女性を五二の項目に分類しています。「皇祖」「御宇」「神話」にはじまり、「大奥女中」「遊女」「美人」などを挟み、最後は、「婚姻」「母系」の項目で終わります。なかに「社會運動」の項目があり、ここには、官憲の手で最近虐殺されたアナーキストの「伊藤野枝」も入っています。また、「記者」の項目には、有島武郎と無理心中を図った出版社の編集者の「波多野あき子」も収録されていました。生没年は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法(つまり皇紀)によって表記されています。たとえば、「伊藤野枝」の場合は「二五五五-二五八三」、「波多野あき子」の生没年は「二五五四-二五八三」です。憲三は、戦後のこの時期、生没年が皇紀で表記された「人名辞書」を全集に加えることに、大いなる躊躇を覚えたものと思われます。
憲三が全集に収録しなかった、次に言及する『女性二千六百年史』も、見てのとおり、書題は皇紀表記となっており、そこに注目する必要があります。また、四年遅れて戦時中に刊行された『日本女性傳』は、『女性二千六百年史』の姉妹編に相当する書物で、これも全集に含まれていません。
戦前にあって逸枝は、『婦女新聞』『都新聞』『家庭新聞』『輝ク』『女性展望』『ホーム・ライン』『日本談義』等に文を寄せています。そのなかには、次の一文も含まれます。一九四〇(昭和一五)年は、神武天皇が即位してから二六〇〇年に相当する年でした。この皇紀二千六百年の記念すべき年頭に際し、逸枝は、『婦人朝日』(新年号)に「女性二千六百年史」を寄稿します。それがきっかけとなって出版の依頼を受けた逸枝は、それに手を加え、わずかおよそ二週間で『女性二千六百年史』という題の一巻本に仕上げ、厚生閣より公刊します。この本は、「女性二千六百年史」「女訓」「日本女性の本質」「女性史のために」「女性史話」「道遠し」から構成されています。「女性二千六百年史」は、「第一 古代」「第二 中代」「第三 近代」「第四 現代」で成り立ち、「女性二千六百年史」以外は、それまでにさまざまな紙誌に書いていた小文を集成したものです。この書に、戦時体制下における逸枝の歴史観と女性観の一端を見ることができます。「女性二千六百年史」は、天照大神の御代から書き起こされていますし、日本女性の美質を、逸枝は、健全な保守性と中庸な性格に求めているのです。おそらくこれが、『女性二千六百年史』の刊行から二年後の、大日本婦人会が主宰する『日本婦人』における連載執筆へとつながっていったものと思われます。
一九四一(昭和一六)年一二月、日本は開戦を迎えます。翌年(一九四二年)の二月には、既存の愛国婦人会と大日本連合婦人会と大日本国防婦人会の三団体が統合され、大日本婦人会が発足します。これにより、国家総力戦へ向けてすべての女性を動員する体制がつくられ、機関誌『日本婦人』も発刊されるに至ります。逸枝も、これに寄稿し、この団体の活動に協力します。『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」(逸枝自叙伝)の執筆は、逸枝の死亡により、戦中戦後の記述から夫の憲三に引き継がれますが、それには、逸枝が行なったこの機関誌への寄稿について、こう記されています。
この『日本婦人』の寄稿(一五枚)は二十年終戦直前の廃刊までつづき、私たちの家計はその間この毎月の稿料百五〇円でほぼまかなわれ、他の雑文も書かないですみ、研究に停滞をもたらさなかったことは思いがけない幸運だったとしなければならないだろう34。
しかし憲三は、逸枝が『日本婦人』に寄稿した記事の内容については、何も具体的に言及していません。加えて、『日本女性傳』についても、等しく言及を避けました。この本は、一九四四(昭和一九)年七月に、文松堂書店から上梓されたものです。少し長くなりますが、「はしがき」の全文を以下に引用します。
本稿はもと大日本婦人會の機關誌「日本婦人」のために一年間執筆(同誌一ノ一-一ノ十二)したものであります。今回、いささか補訂のうへ、上梓することにいたしました。 これは、國史から特定の女性-主として國家の生成發展に寄輿し若くは國家生活の動脈に觸れたもの-を選び、その業績を時代的に意義づけて、ここに一貫した日本女性の傳統的奉公の精神と實踐のすがたをみようとこころみたものであります。 私たちは、國史への尊敬とともに女性史への親しみをもち、かくて先人の道統をつぐものとして、つねに日本女性たるの自覚と矜持に生き、特に現下の女性に課された國の要請にたいし、充分確信のうへに立つて、これを果して行きたいと思ひます。 右の意味でこの書が多少なりお役にたちますならば、私のよろこびこれに過ぎるはありません。 題簽は徳富老先生のおめぐみによるものでございます。
著者35
目次は、「第一 御女帝の聖徳」「第二 倭姫命」「第三 神功皇后」「第四 橘三千代」「第五 清少納言」「第六 北條政子」「第七 大楠公夫人」「第八 戦國の烈女たち」「第九 荒木田麗」「第十 和宮」「第十一 神風連の女性」と続き、そして最後が「第十二 奥村五百子」です。
憲三の立場に立つならば、戦前の国家主義が否定され、戦後の個人主義や民主主義が定着するなかにあって、『女性二千六百年史』も『日本女性傳』も、もはや「ゴミ類」に等しいものであったにちがいありません。これが、この二著を、憲三が全集に所収しなかった理由ではないかと、私は思料します。
最後に、『日本女性社會史』と『女性史学に立つ』に触れておきます。ともに、一九四七(昭和二二)年に発行された書物です。
終戦から二年が過ぎた一九四七(昭和二二)年一〇月、眞日本社から『日本女性社會史』が世に出ました。この「序」のなかに、逸枝のこれまでの研究の総括と、戦後の再出発に当たっての決意のようなものを読み取ることができます。これも少し長くなりますが、以下に引用します。
著者は、昭和五年一月一日に志をたて、女性史研究に半生をささげる決心をした。爾來十七年、下界と斷つてくる日もくる日もただ机を友としているが、十三年に女性史第一巻として「母系制の研究」を世に送つたのみで、業は遅々として進まない。第二巻「招婿婚の研究」は、昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない。このときこの小著が求められた。この種の執筆を求められたことは、これまでいくたびかあつたが、著者は自己の研究が中途にあるため、辭するを常とした。しかるに終戦後、女性の上にも畫期的變革がもたらされることとなり、新しき日のために、ふるき生活の反省が絶對の要請となつた。われわれは、現在の自己の歴史的位置をたしかめることによつて、賢明な明日をもたなければならない。ここに同時代人としての義務心から、あえて求めに應じてこれを書いたのであるが、當然不完全はまぬがれないであろう。ねがわくば、読者の高敎と助言によつて、今後補正するところありたい36。
終戦後、「女性の上にも畫期的變革がもたらされること」になった大きな要因のひとつは、新憲法の第二十四条が謳う婚姻に関する規定だったにちがいありません。といいますのも、その一項には、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と述べられており、旧来の封建的で家父長的な制度のもとでの婚姻とは、大きく異なる「畫期的變革」の思想が示されていたのでした。しかしながら、いまだアカデミズムの歴史学は、「女性史」自体を問題意識の外に置いていました。逸枝がどうしても終戦直後のこの時期に、目下着手中の「招婿婚の研究」を横に置いてまで、『日本女性社會史』を上梓しなければならなかったのは、まさしく本人が書くように、「同時代人としての義務心」によるものだったに相違ありません。
逸枝は、『日本女性社會史』と題されたこの本において、女性の婚姻や家族生活のあり様を主題に、「群時代(女性の自由時代)」「氏族時代(自由時代)」「氏族崩壊時代(半自由時代)」「家族時代(被厭迫時代)」「家族崩壊時代(半解放時代)」の五つの時代に区分して、通史的に記述しました。そして、「ねがわくば、読者の高敎と助言」とを要請しました。これに応じたのが、当時の東京高等師範学校(二年後の一九四九年に東京教育大学として改組され、現在はすでに筑波大学へと再編)の日本史の教授の家永三郎でした。逸枝は、続けて同年翌月(一九四七年一一月)に鹿水館より『女性史学に立つ』を上梓しており、したがいまして、「わざわいするモルガン的色眼鏡」と題された家永の書評は、この二著を念頭に書かれたものでした。「モルガン」とは、一九世紀アメリカの古代史研究者であるルイス・ヘンリー・モーガンのことです。家永は、こう前置きします。「高群女史が『大日本女性史第一巻』『大日本女性人名辞書』等の著者として有名な女性史の専門研究家であることは私が紹介するまでもない」。そして、自分が女性史を専門とする研究者でないことを断わったうえで、一歴史家としての見解を開陳します。その最も重要な指摘は、次にみられる箇所でした。
……大化改新以前を「氏族制」の時代と考えることは到底不可能であり、況んやその時代を母系制とするに至つては、モルガンの古代社会論の色眼鏡を通して見た附会の説としか受け取れないのである37。
さらに続けて家永は、「モルガン的色眼鏡から出た誤解の最も典型的一例」として、逸枝がその本のなかで示していた「大化元年の男女の法」についての所見を取り上げて、批判したのでした。
これに対して、さっそく逸枝は、「家永三郎氏の書評に答う」と題して反論します。逸枝は、「小著について家永教授の書評を頂いたことは感謝に絶えない。……十分反省の資としたいが、読者の誤解をまねく点が考えられるので、その点を明らかにさせて頂きたい」38と、前置きしたうえで、次のように、本論に入ってゆくのでした。
氏は「日本女性社会史」の時代区分に関し、大化以前を氏族時代としたことの無理、またそれを母系とすることの一層無理なことを指摘、大化元年の男女の法に著者が重大な意味をもたせているのを例にとられて、総じてこれらをモルガン的色眼鏡とされている。私はモルガン的方法を女性史の立場から肯定するものであるが、史実をわい曲するものではない。
男女の法は、私はこれを当時の氏姓の大紛乱に帰結を與えたものと考えており、このことは別著「母系制の研究」に詳述している39。
そして、この反論は、さらにこう続きます。
わが國には招婿婚という婿入形式の婚姻が太古から室町初期ごろまでも存続しているが、この事実は國文学や公卿日記等で人の知つていることであるにかかわらず、これに深い驚きを示した人がなく、史家のメスからほとんど除外されている。この存続の根底に何があるかに私は長く関心し、そこに家族制と相容れない族制やその遺存があることの確信に到達した。
前記「母系制の研究」は系譜面からのその考察であり、目下着手中の「招婿婚の研究」は婚姻面からのものである。氏の指摘は私のこれらの研究の根本に関係あるものであるから、私としては私の研究を全的に理解して頂きたいことが希われてならない40。
憲三が、『日本女性社會史』と『女性史学に立つ』を全集に採録しなかったのはなぜなのでしょうか。上で述べたことから明らかなように、このとき逸枝の「女性史」は、戦前戦中に世に出した『女性二千六百年史』や『日本女性傳』にみられるような国家を中心とした、あるいは天皇を中心とした「女性史」の記述から離別しようとしているところであり、いまだ完成の域には達していませんでした。家永三郎の指摘がその証左となります。憲三にしてみれば、未熟で未完成の、このふたつの書を、全集に入れることは、とても考えられないことだったのではないでしょうか。私は、そのように考えます。
「家永三郎氏の書評に答う」のなかで「私の研究を全的に理解して頂きたい」と書いた以上は、「昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない」状況にあった「招婿婚の研究」でしたが、その脱稿が、一刻も早く急がれる事態となったのでした。大日本雄辯會講談社から「招婿婚の研究」が世に出たのは、それから六年後の一九五三(昭和二八)年のことでした。万感の思いでもって上梓した作品だったものと思われます。翌一九五四(昭和二九)年、いよいよ『大日本女性史 母系制の研究』の改訂四版となる新版『母系制の研究』が、これも大日本雄辯會講談社から出版されます。書題から「大日本女性史」の文字が削除され、「母系制の研究」という明確な書題に生まれ変わりました。そしてまた、改訂三版を引き継ぎ、結論部分の一部削除も、これをもって確定したのでした。それ以降は、一気に高群史学が進行してゆきます。刊行書目は以下のとおりです。
(1)『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (2)『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (3)『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (4)『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。 (5)『日本婚姻史』至文堂、1963(昭和38)年5月。
では、逸枝の最後の書である『日本婚姻史』に目を向けます。その「奥付」上の「著者略歴」には、次のように書かれてありました。
明治27年 熊本県に生まる。 昭和6年~現在 女性史・婚姻史専攻。 著書 母系制の研究、招婿婚の研究、女性の歴史(4巻)。
憲三にとって、「母系制の研究、招婿婚の研究、女性の歴史(4巻)」、それに加えて『日本婚姻史』――これこそが、逸枝の、まさしく天下に誇る業績であり、したがって憲三は、これらの書物をもって、そして、かかる選択基準をもって、つまりは、自身の「法治主義」をもって、『高群逸枝全集』を編集したのでした。裏を返せば、執筆活動の初期にあって発表した何冊かの詩集を除けば、アナーキズム関連の論考も、皇国史観に基づく「女性史」も、それらはすべて、焼却すべき「ゴミ類」にすぎなかったのです。いまいちど、憲三が石牟礼道子に語った言葉を、ここに引用します。
全集とは何でしょうね。全集をどう規定するか。選集という形もあるでしょう。ある基準でいえば、彼女の全集はこの二倍でも足りないくらいです。全集を出す意味について僕は彼女と対話するのです。 つまり彼女のみていた真理、この真理でもって、彼女は孤絶したこの家の外の世界に貢献したといえばいえる。それに到達するまでの、彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける。これは僕の法治主義です。
しかし、本来焼却すべきであった「ゴミ類」の一部が、不思議にも命脈を保ち、逸枝にとっても憲三にとっても、思わぬ別の歴史を生み出してゆくことになるのでした。
存命中、逸枝は折に触れて憲三に、こんな話をしていました。
「日記」一巻(『火の国の女の日記』)と追加研究一巻とができ上がったら、『過去の紙くず』は一切焼いてしまって、また新しい出発をしましょう。あたたかいところへ行って、そこで私は『女性の歴史』で書けなかった未来像を叙事詩のかたちで描くでしょう。たぶん私の最後の詩篇となるでしょう41。
石牟礼道子は、『高群逸枝全集』の編者である憲三から聞き取った上の引用文に言葉を足して、さらに、こう述べています。
過去の紙くずというのは、著書以外の、いくらか机辺にのこっている既発表ものの切り抜きをはじめ、未発表もののすべてを指していることはいうまでもありません。むろん私(編者)も同調しよろこんで、「そうしましょう」とこたえたものだった42。
「未発表もののすべて」のなかには、当然ながら、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が含まれます。
憲三は、生前の逸枝の意向に従って、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のこのふたつの稿本については全集に収録しませんでした。採録しなかった理由について、憲三は、最終回の配本となった第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」のなかで、次のように語っています。
全集には、はじめ、もう一巻、「平安鎌倉室町家族の研究」を予定していたが、編纂の最終段階で検討の結果、この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でないため、やむをえず、これは除外されるにいたった。別に、「日本古代婚姻例集」の採録も一応考えられたのであったが、その成果の精髄は「平安鎌倉室町家族の研究」とともに「招婿婚の研究」に吸収されていることではあり、強いて採録するにもおよぶまいとして、同じく除外されることになった43。
それでは、この「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が、『招婿婚の研究』の基礎調査として、当時どう出現していたのか、その経緯について触れてみます。
まず、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」に、この稿本につきまして、こう記されていますので、以下に紹介します。
昭和二十四年の年始状において、逸枝はつぎの近況報告をする-
女性史第二巻『招婿婚の研究』は明年成稿の予定になっていまして、今年こそは私の生涯における最大の苦闘の年であろうと、自ら覚悟を新たにしています。 と。
こうして、二月十九日には冬嗣流篇家族表……約五〇〇枚を……五月二十三日には五摂家篇家族表約六〇〇枚を仕上げた。…… 五摂家篇のつぎには一般公家篇に入り、その約九〇〇枚を十月十三日に終わった。計約二千枚、これは後に『平安鎌倉室町家族の研究』と題された。カードのままの未整理分を加えて約五〇〇家族の調査だった。 それからただちに婚姻表の執筆に入った。これは古代から織豊期におよぶ文献-諸家日記はもちろん-から婚姻の事実例を年代順にあつめたものだった。……この筆写や清書にはKも協力した(この転写は翌年五月までかかってようやく綴り込みになった)。約八〇〇枚。後に『日本古代婚姻例集』と命名された。未整理分を加えて約一〇〇〇例の調査だった44。
続く三年後の一九五二(昭和二七)年の逸枝の年賀状は長文で、このような内容で綴られていました。
私は『招婿婚の研究』を旧臘二十五日脱稿しました。平均十時間の日課で十三年九ヵ月かかりました。…… 主題の招婿婚(婿取式)は、周知のように記紀以下の史籍、諸家の日記、宇津保・源氏・栄花・今昔・盛衰記・増鏡等一連の国文学の上に顕著に現われている、室町期娶嫁婚(嫁取婚)にかわるまでの支配的婚姻形態でまた現に全国各地に遺存してもいます。…… 研究は……方法としては、先ず十一年余を費やして数万枚のカード、約一千の採集婚礼例(八百枚)、五百の家族調査(成文二千枚)を用意し、これらにより、実証的帰納的に考察したものであり、読者は容易に原拠について論断の是非を批判し得るでしょう。 研究にのみ没頭して出版の便宜をも一切失ってしまい、本になりうるか否かわかりませんが(切にその便宜を与えられたいと思います)、ここに成稿の報告ができますことを心からうれしく思います。 当分の間推敲に従いながら、新年から通史研究に入り、第三巻『古代女性史』(4封建5現代)にかかり、かたわら前記家族調査を再整して『平安鎌倉室町家族の研究』をまとめます。 つつしんで長い間のご援助を感謝申しあげなお最後まで御みまもりくださいますようお願い申し上げます45。
この年賀状から一年が立った一九五三(昭和二八)年の一月、逸枝の大著『招婿婚の研究』は大日本雄辯會講談社を版元として上梓されるのでした。「奥付」の右隣りの頁に「著作目錄(女性史研究)」があります。以下のとおりです。
著作目錄(女性史研究) 招婿婚の研究 A5判 一、二五〇ページ 新刊 母系制の研究 A5判 六五〇ページ 三版 古代女性史 着手中 封建女性史 豫定 現代女性史 豫定 平安鎌倉室町家族の研究 四〇〇字詰 二、〇〇〇枚稿本 日本古代婚姻例集 四〇〇字詰 八〇〇枚稿本 日本女性社會史 B6判 三一〇ページ 二版 戀愛論(歴史的考察) B6判 三一〇ページ 二版 大日本女性人名辭書 A5判 七五〇ページ 三版 (詩) 日月の上に(叙事詩) 東京は熱病にかゝつてゐる(叙事詩) 放浪者の詩 美想曲 胸をいためて
見てもわかりますように、「平安鎌倉室町家族の研究」および「日本古代婚姻例集」と同時に、いままさに執筆に入ったところの「女性の歴史」の通史もまた、書目として挙げられていました。この時点では「女性の歴史」は、「古代女性史」「封建女性史」「現代女性史」の三巻で構想されていたようです。すでに述べていますように、実際には、次のような書題をもって順次刊行が進められてゆきます。
逸枝が亡くなるのは、『日本婚姻史』が世に出た翌年の一九六四(昭和三九)年六月です。結果として、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」は出版に至らず、逸枝の死後、憲三の手に遺されたのでした。
それでは、このふたつの稿本は、その後、どのような運命をたどることになるのでしょうか。現在、この稿本は、熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)に所蔵されています。
道子は、逸枝の死後、東京から水俣へ居を移した憲三の晩年の様子を、こう描写しています。
水俣に移られてから、全集の売行と比例して訪問者たちがこの部屋に「防ぎようもなく侵入し」はじめていた。森の家の原則はくずれかけていた。卒論を控えた学生たちとか、新聞の人たちとか、いわゆる逸枝ファンの人たちだったが、なぜ氏が逸枝の蔭の人として終始されたか、その秘密を知りたい、隠されている(・・・・・・)それを直接氏の口からききたい、というのはその人たちのやみがたい希求のようであった。氏はたいてい寡黙に微笑して、例のように額の汗を拭きながら悪戦苦闘して答えられる46。
「防ぎようもなく侵入し」てきた訪問者たちはみな、憲三の「秘密を知りたい、隠されている(・・・・・・)それを直接氏の口からききたい」と思って、憲三の住む水俣の「森の家」に侵入してくるのです。そのなかには、詩人の秋山清や小説家の瀬戸内も含まれていました。憲三にとっては、ありがたくもあり、反面、迷惑なことでもあったでしょう。そののち訪問者たちが書いたもののなかには、憲三本人が自覚していた逸枝と自身の真実の姿とは大きく異なる内容でもって、世に発表されたものもありました。栗原弘と栗原葉子の著作も、例外ではありませんでした。
憲三の一九七三(昭和四八)年七月一〇日の「共用日記」に、栗原弘と栗原葉子夫妻の来水の様子について、こう記されています。
栗原弘・葉子さん、河野さんの紹介名刺をもってみえる。同志[社]大院生(3年)、高群研究(婚姻)をしているとのこと。6時ごろ水天荘へ。葉子さんは同大学美術科出身。また院生になって勉強したいとのこと47。
続く七月二三日の「共用日記」には、「同志社大学院生(3年)栗原弘さんみえる。1月ぐらい下宿して、高群婚姻史についていろいろ質問したいとのこと。下宿について西条美代子さんを紹介する」48、さらに七月三一日の「共用日記」には、「栗原さん、『平安鎌倉室町家族の研究』コピーはじめ、市役所で(ゼロックス)」49との記載があります。
憲三が亡くなるのが、栗原弘と栗原葉子夫妻の水俣訪問から三年が立った一九七六(昭和五一)年五月です。それからさらに九年の歳月が流れます。栗原弘の校訂による『平安鎌倉室町家族の研究』が、一九八五(昭和六〇)年二月に国書刊行会から上梓されると、続いて六年遅れて、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が、一九九一(平成三)年五月に高科書店から刊行されるに至ります。しかしながら、「平安鎌倉室町家族の研究」も「日本古代婚姻例集」も、すでに引用によって示していますように、憲三が述べるところによれば、「強いて採録するにもおよぶまいとして」、『高群逸枝全集』から除外されていた稿本だったのでした。
栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が高科書店から刊行されてから三年が経過した一九九四(平成六)年の九月、同じ版元から栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が世に出ました。著者の栗原弘は、その「はしがき」において、こう述べます。
高群逸枝は『母系制の研究』『招婿婚の研究』という大著を発表し、日本の原始古代社会に母系制が存在し、女性の地位が高かったことを主張した。今日、この高群学説には批判と賛同が複雑に交錯し、どちらかといえば、批判の方が多いといえるであろう。しかし、婚姻史・女性史の分野では今なおその影響力は少なくないといえる。筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した。その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた50。
「筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した」と、栗原は書いています。その論文には、『高群逸枝雑誌』の二九号、三〇号、および三一号に掲載された「柳田国男の婚姻史像」も含まれるものと思われます。自身が書いているとおり、当時栗原は、明らかに、「高群学説に傾倒した」人物だったのです。
憲三の死によって、この雑誌は、三一号で事実上の廃刊となります。しかし、もろさわようこの「高群逸枝」を読んだ憲三の妹の橋本静子はその反論の場として、道子の協力を得て、『高群逸枝雑誌』を復刊したのでした。三二号となる終刊号の「編集室メモ」のなかで、ただひとりの同人であった道子は、この雑誌を振り返って、「この間、村上信彦氏を始め、河野信子、石川純子、西川祐子、栗原弘、寺田操諸氏の御高作を頂くことが出来たのは、甲斐ない同人の慰めであった」51と書きます。
ところが栗原は、「その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた」と、書き記したのでした。これを読んだ道子は、おそらく仰天したものと想像されます。次のような道子の言葉が残されています。
かの有名な、 われ日月の上に座す 詩人 逸枝 というのを、まだわたしは読めていないと近頃思う。栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来、結構このあたりでも、藪の賑わいが聞こえてくるからである。逸枝の業績を一瞥もしないで「やっぱりそうか」と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい。私は、壮大な仮説の古典として高群史学を読みたい52。
この文は、栗原に向けられた道子の痛烈な皮肉として読むことができます。
栗原のこの変節は何に由来するのか、想像するしかありません。純粋に研究遂行上のひとつの到達点だったのかもしれませんし、疑うわけではありませんが、何か別に隠された意図があったのかもしれません。さらに道子を驚かせたのは、次にみられる栗原の言辞だったのではないでしょうか。
高群学説の誤謬には洞富雄から鷲見等曜まで、実にさまざまな批判が行われてきた。筆者はそれらの多くが正しいことが理解できるようになった。しかしながら、従来の批判は、彼女がひたすら真実を追求した結果が不幸にも誤っていたとする見解に立っていたと思われる。ところが、筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った53。
栗原が指摘するように、果たして本当に、「高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物」だったのでしょうか。これにつきましては、すでに「中山修一著作集」第二二巻の『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第四部「『三つの巴』私論集」において詳述していますので、そちらに譲るとして、したがいましてここでは、別の次の四つの視点から問題点を整理し概観してみることにします。
(1)いかなる経緯をたどって、憲三が全集に入れなかった「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の遺稿が、憲三の死後、「遺言による高群逸枝著作権継承者」54となっていた橋本静子から離れ、栗原弘と栗原葉子夫妻の手に渡ったのか。
(2)いかなる理由があって栗原夫妻は、未整理の下書きの段階にある原稿(「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」)を、つまりは、いまだ逸枝本人によって最終的な確定がなされていない原稿を「校訂」して世に出したのか。
(3)栗原弘と栗原葉子夫妻は、なぜ、高群逸枝の著作である「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のふたつの稿本を校訂出版するに際して、「高群逸枝著作権継承者」である橋本静子に出版の内諾を得なかったのか。
(4)いかなる経緯をたどって、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のふたつの稿本は、栗原夫妻の手を離れ、熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)に所蔵されるに至ったのか。
それではこれより、これら四つの論点につきまして、順次考察を加えます。
まず、最初の論点についてです。
栗原弘は、自身が校訂した『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」において、その遺稿に接したときのことを、こう文字にしています。
私が高群に傾倒したのは大学院に入学した頃であった。当時、私は女性史と民俗学に興味を持っていた。……村上[信彦]氏の力強い躍動的な筆致に感激し、高群の著作を次々に読み進み、『招婿婚の研究』を読み終えた。……ただその中で未完の『家族の研究』の存在を初めて知った。それから河野信子氏の御紹介を得て、橋本憲三氏を水俣に訪問することができた。昭和四十八年の初夏であった。高群逸枝雑誌編集室と称する倉庫の二階の一室で、橋本氏より白い厚紙で綴じられた分厚い四冊の稿本を見せていただいた。これが『家族の研究』であった。……私は橋本氏にお願いして『家族の研究』をコピーさせていただいた。私は、出版まで持って行きたい旨を橋本氏に伝えたが、もちろんその節に私が本気でやるとは橋本氏は思っていなかったであろう。この本について最も精通していた氏でさえ、出版をあきらめていたからである55。
この「あとがき」によれば、栗原弘が校訂した『平安鎌倉室町家族の研究』は、「白い厚紙で綴じられた分厚い四冊の稿本」のコピーが底本となっています。ところが、それから六年後に出版された、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』の、栗原葉子の筆になる「あとがき」には、こうした文言が並べられているのです。
私達は水俣の図書館で道を尋ねて高群のお墓を詣でたあと、憲三氏を訪ねたのだった。そのとき何を語ったのかほとんど記憶がない。ただ氏は、「革命はおきませんかネ」とつぶやかれた。倉庫の二階のその部屋にはベッドのうえに高群の大きな写真が飾られていて、氏の部屋の窓から逸枝の眠る山の中腹を望みながら「自殺しようとは思いませんが生き永らえようとも思いません」とおっしゃるような生活を送っておられた。憲三氏はその三年後の昭和五十一年死去された。七九歳であった。…… 氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた。他の遺品のほとんどを静子さんは水俣市の図書館に寄贈された56。
ここで、栗原葉子が明言しているのは、憲三の葬儀のあとに、逸枝の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」を妹の静子から遺品分けによって譲渡されたということです。果たしてこれは、真実でしょうか。疑問に思うのは、こうした石牟礼道子の言説が残されているからです。死期が近づくと、憲三は道子に、こう伝えました。
遺言を静子にしたのですよ、元気なうちにしておいた方がよいのでね。もしや重態になっても誰にも知らせてはならない。旧友たちにも、身内にも。ましてジャーナリズムなどには。葬式などはいっさいしないこと、あなたも香典などもって来てはいけません。これは守って下さい。遺物などどこかに寄贈することも考えられるが、押しつけになるから一切を土に返すこと。それらいっさいを静子に託しました。あれは実行力がありますからね。……57。
ここから判断しますと、遺言により、憲三の「葬儀」も「遺品分け」のような儀式も行なわれなかったのではないかということです。もうひとつ道子の重要な証言が残されていますので、以下に引用します。
[橋本憲三先生]ご生前私は、彼女[高群逸枝]に関する資料をいただきたいとお願いしたことは一度もなかった。橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからないのを知って、私はある困惑に包まれた。憲三先生が死の直前まで「彼女のゴミ類」を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである58。
道子の言説に従うならば、「橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからない」、そうした状況のなかにあっての一組が、栗原弘と栗原葉子の夫婦だったのではないでしょうか。道子は、「憲三先生が死の直前まで『彼女のゴミ類』を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである」とも書きます。おそらく憲三にとって、全集から外した「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」は、逸枝の「ゴミ類」にすぎず、遺言によりはっきりと、憲三は、その焼却を静子に指示していたものと思われます。
一方、静子が、憲三の遺言に忠実な、しかも実行力のある「著作権継承者」であったことは、次の事例が証明します。
一九八六(昭和六一)年に龍溪書舎から刊行された『女人藝術』の復刻版を見ると、「著作権継承者の了解が得られませんでした」という理由により、逸枝が『女人藝術』に寄稿した文のすべてが削除されています。静子自らが、自分のことを「遺言による高群逸枝著作権継承者」と書いていますので、『女人藝術』の復刻版が世に出るに当たって逸枝の文の掲載を見送る判断をしたのは、静子本人だったものと考えられます。
憲三の遺言書は現存していないようですが、おそらくそのなかに、『高群逸枝全集』以外の著作物は、今後いっさい人の目に晒してはならぬといったような指示がなされていたのではないかと想像されます。それであれば、どのような理由から、あるいは、どのようないきさつがあって、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の稿本は、栗原弘と栗原葉子の手に渡ったのでしょうか。不可解な謎としかいいようがありません。
このことに関連してあえて付け加えるならば、憲三の死去から五年後の一九八一(昭和五六)年に朝日新聞社から橋本憲三と堀場清子の共著になる『わが高群逸枝』(上下の二巻)が出版されます。両巻の奥付には、コピーライト表示があり、そこには「© S. HASHIMOTO K. HORIBA 1981」と表記されています。ここから、橋本憲三の著作に関する版権の継承者もまた橋本静子であることがわかりますし、同時に、静子が、いかに著作権にかかわる権利関係を大事にしていた人物であったのかも、自然と浮かび上がってきます。
次に、二番目の論点である、本人にとって未確定の原稿である「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が、なぜ、第三者によって出版に供されなければならなかったのか、この点につきまして、見てみたいと思います。
すでに指摘していますように、『招婿婚の研究』の巻末に設けられた「著作目錄」において、逸枝は、既刊図書とあわせて、次のように、この二冊の稿本をリストに挙げていました。
平安鎌倉室町家族の研究 四〇〇字詰 二、〇〇〇枚稿本 日本古代婚姻例集 四〇〇字詰 八〇〇枚稿本
ここから判断しますと、逸枝はこの二冊を、将来的には印刷に付し世に出したかったのではないかと推察することができます。しかし、これも、すでに引用によって示していますように、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」には、『招婿婚の研究』が出版される当時にあって、『招婿婚の研究』執筆のための基礎調査であった、一方の「平安鎌倉室町家族の研究」については、「計約二千枚、これは後に『平安鎌倉室町家族の研究』と題された。カードのままの未整理分を加えて約五〇〇家族の調査だった」と、他方の「日本古代婚姻例集」については、「約八〇〇枚。後に『日本古代婚姻例集』と命名された。未整理分を加えて約一〇〇〇例の調査だった」と書かれてあります。ここから判断できることは、どちらの稿本も、「未整理」の状態にあったということです。その後、逸枝本人によって手が加えられ、最終の確定原稿になったことを示す記録はいっさい残されていません。憲三自身も、第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」のなかで、実際にこのように語っています。あえて再度引用します。
全集には、はじめ、もう一巻、「平安鎌倉室町家族の研究」を予定していたが、編纂の最終段階で検討の結果、この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でないため、やむをえず、これは除外されるにいたった。別に、「日本古代婚姻例集」の採録も一応考えられたのであったが、その成果の精髄は「平安鎌倉室町家族の研究」とともに「招婿婚の研究」に吸収されていることではあり、強いて採録するにもおよぶまいとして、同じく除外されることになった。
そしてまた憲三は、『高群逸枝雑誌』(第三号)に「平安鎌倉室町家族の研究」のなかのひとつの頁を、図版にして紹介しています。それは、私の著作集の第二三巻の第三部第一話「『三つの巴』画像集」において、「【図75】高群逸枝の原稿4/『平安鎌倉室町家族の研究』」として再掲しています。四百字詰め原稿用紙の余白いっぱいに書き込みや指示の矢印が入っています。見る限り、明らかに未完成の草稿段階にある原稿ですので、正確な判読は、書いた本人しかできないのではないかと思われますし、また未整理の原稿でもありますので、逸枝の存命中であれば、おそらく整理の段階で幾多の加除がなされていたにちがいないとも思われます。にもかかわらず、何ゆえに栗原は、「校訂」という手法にまかせて、躊躇することなく世に送り出したのでしょうか。著者である逸枝が生きてそれに立ち会っていれば、天地動乱の蛮行として、その目に映ったのではないかと愚考します。
しかも栗原は、これもすでに紹介していますように、「高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた」と書きます。未整理のままのいまだ最終的に擱筆していない、つまり本人にとっては執筆進行中の、決定版には程遠い草稿をもってして、「根本的な誤りがあることに気付いた」ことが、どれほどの学術的な意味をもつのでしょうか。私には、限りない疑問として感じられます。そしてその一方で、すでに黄泉の客となっているとはいえ、他者による自作自演ともいえそうなこの行為を目撃することができたならば、学者たる逸枝と編集者たる憲三は、どのような思いに駆られるでしょうか。死者へのいわれなき侮辱としてふたりの目には映じるのではないかと、私には思われます。
次に、第三の論点についてです。なぜ、栗原弘と栗原葉子夫妻は、高群逸枝の著作である「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のふたつの稿本を校訂出版するに際して、「高群逸枝著作権継承者」である橋本静子に出版の内諾を得なかったのでしょうか。
栗原弘が校訂した『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」にも、それから六年後に出版された、栗原葉子と栗原弘が校訂した『日本古代婚姻例集』の「あとがき」にも、出版に当たって橋本静子に了承を得たことを示す文言はありません。前者の「あとがき」に、「末筆ながら、水俣では橋本静子、田島美江子両氏に大変お世話になった」とありますが、これは、裏を返せば、水俣から帰ったのちの校訂の作業中、静子との交流が全く途絶えていたことを示唆します。また、後者の「あとがき」には、「昭和五十八年に死去された村上信彦さんにも感謝の意を述べたい。幾度か下さった親身溢れるお手紙は私達にとって大きな精神的支柱となった。またこの書の出版は橋本静子さんの全面的なご好意によって可能となった。改めて感謝したい」という文言はありますが、「全面的なご好意」の具体的内容につきましては、いっさい何も触れられていませんので、それが何を意味するのかは不明です。謝意を伝える順番から判断しても、栗原夫妻にとっての静子の位置づけは、「親身溢れるお手紙」の送り主である知人の村上信彦よりも低かったことがわかります。もし仮に、出版の許可を「高群逸枝著作権継承者」である橋本静子に事前に願い出ていたとすれば、おそらく静子は、『女人藝術』復刻版刊行のときと同じように、それを拒否したであろうと、私は思料します。
いまだ、著者である逸枝の死亡から『平安鎌倉室町家族の研究』の出版まで二一年、同じく『日本古代婚姻例集』の出版まで二七年しか経過していませんので、おそらく版権は切れていなかったものと思われます。しかし、両校訂書の刊行に際しては、版権が切れていると一方的に思い込み、そのため版権所有者の承諾は不要との判断があったかもしれません。たとえ仮にそうであったとしても、この遺稿が、「遺品分けのように譲り受けた」ものであってみれば、法的問題のみならず、道義上の問題としても、事前に遺族に出版の了解を得、そのことを「あとがき」において明記してもよかったのではないかとも思料します。因みに、『平安鎌倉室町家族の研究』の奥付には、コピーライトの表示はありません。一方、『日本古代婚姻例集』の奥付には、「©校訂者 栗原葉子 栗原弘」と記載されています。この表示は、明らかに校訂者の両名が版権を所有していることを示します。すでに紹介していますように、憲三の死後、憲三と堀場清子の共著である『わが高群逸枝』(上下の二巻)が出版されるに当たっては、奥付に、「© S. HASHIMOTO K. HORIBA 1981」とのコピーライトにかかわる表示がありますので、それと比べれば大きな違いが存在していることがわかります。したがいまして、これもまた、私には大きな不明点として残ります。
少し想像してみます。遺族で「著作権継承者」である静子が、『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版に接したとき、どのような思いに駆られたでしょうか。誰も望んでいないことを人知れず実行に移すおぞましさに驚愕したにちがいありません。いやむしろ、いまだ「ゴミ類」として焼却していなかった自分を責めたかもしれません。
「森の家」で生前憲三は石牟礼道子に、すでに引用していますように、「彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」と語っていました。憲三が全集に取り上げなかった「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が世に出たことによって、遺族で「著作権継承者」である静子もまた、「はずかしめを受ける」事態へと陥ったのではないかと愚考します。
参考までに、逸枝作品の校訂本が、いまひとつありますので、ここで、コピーライトの表示の仕方、および、「あとがき」における静子への敬意の表わし方につきまして、見てみたいと思います。この本は、一九一八(大正七)年に、二四歳の逸枝がおよそ半年をかけて四国巡礼の旅に出かけたときに、旅先から『九州日日新聞』に寄稿した連載物を再整理したもので、堀場清子を校訂者として一九七九(昭和五四)年一月に朝日新聞社から刊行された『娘巡礼記』です。この校訂本の奥付を見ますと、「©1979 S.Hashimoto」と明記されており、版権所有者が「橋本静子」であることがわかります。また、校訂者の堀場清子は、この本の「あとがき」に、次のように書いて、静子への敬意を表わしました。
最初の旅から六十年をへだてて、ふたたび逸枝の旅立ちの朝がきた。専念寺の和尚さんや桶屋の夫婦のうしろに立って、私も見送りの仲間に入る。高群夫妻にとって無二の理解者であり応援者であられた橋本静子氏の、よろこびに満ちた顔も、もとよりそこにある。 笠の紅緒の紐をしめ、馴れない草鞋を踏みしめながら、いま逸枝は専念寺のかわいい山門をくぐる。あらたな読者の魂をたずねて、八十八ヵ所をめぐる巡礼娘の旅よ、さきくあれ59。
ここに、校訂者である堀場の、静子に対する、そして逸枝に対する、溢れんばかりの愛情を感じ取ることができます。栗原弘の校訂本である『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」における、もうひとつの栗原葉子と栗原弘による校訂本である『日本古代婚姻例集』の「あとがき」における、静子への言及は、すでに上で紹介していますので、読み比べればわかりますように、堀場のそれとは雲泥の差があります。これは、栗原弘と栗原葉子の、静子との距離感が、いかに希薄なものであったかを例証します。しかし、それは校訂者としての個人の資質なり感性なりの問題であり、ここでそれについて何かを述べるつもりはありません。しかし、コピーライトの表示の問題は、版権が誰の手にあったのかを示す、法律的にも極めて重要な意味をもちますので、あえてここで問題にしたいと思います。
すでに述べてきましたように、憲三が亡くなるのは、一九七六(昭和五一)年五月です。そのとき、憲三の遺言により、妹の橋本静子が「高群逸枝著作権継承者」になります。それから三年の歳月が流れ、堀場清子校訂の『娘巡礼記』(一九七九年、朝日新聞社)が、その六年後に、栗原弘校訂の『平安鎌倉室町家族の研究』(一九八五年、国書刊行会)が、さらにそれから六年が過ぎて、栗原葉子・栗原弘校訂の『日本古代婚姻例集』(一九九一年、高科書店)が刊行されます。静子が亡くなるのは、二〇〇八(平成二〇)年四月です。したがいまして、これら三冊の校訂本は、静子存命中の刊行となります。
同様に、これもすでに言及していますように、『娘巡礼記』におけるコピーライトの表示は、「©1979 S.Hashimoto」です。『平安鎌倉室町家族の研究』にはコピーライトの表示は何もありません。『日本古代婚姻例集』におけるコピーライトの表示は、「©校訂者 栗原葉子 栗原弘」です。私は、『娘巡礼記』におけるコピーライトの表示が、最も適切な表記の仕方であると考えます。続く『平安鎌倉室町家族の研究』になぜコピーライトの表示がないのか、私には理解できません。他方、『日本古代婚姻例集』におけるコピーライトの表示が「©校訂者 栗原葉子 栗原弘」となっていることから推察しますと、このときまでに著作権が、「橋本静子」から「栗原葉子と栗原弘」に移ったように解釈できます。しかしながら私は、兄から譲り受けた、高群逸枝の著作に関する権利を、全くの赤の他人に静子が譲渡したとは、どうしても考えることができません。そのことを示す資料も、探す限りにあって、見当たりません。なぜ、著作権を巡ってこのような現象が起こったのでしょうか。私には、どうしても不可思議に思えてなりません。
最後に、なぜこのふたつの遺稿が、いま熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)にあるのかという四番目の論点について考えてみます。
現在、熊本県立図書館のホームページにアクセスし、「くまもとデジタルギャラリー」の検索画面に「高群逸枝」の文字列を入力しますと、「くまもと文学・歴史資料館セレクション」三点が表示されます。そのうちのひとつが、「平安鎌倉室町家族の研究」で、閲覧できる一点の画像は、藤原冬嗣にかかわるおそらく最初の頁であろうと思われます。そこで、熊本県立図書館に問い合わせのメールをしました。このときの交信内容は公的利益にかなうものであるため、今後の公開にかかわって事前に相手先に通知をしていますので、それに従いその一部を、ここに書き記します。
(一)中山修一からくまもと文学・歴史館への質問第一信(二〇二四年一一月六日)
現在私は、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」の第一八巻「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書いています。つきましては、「くまもとデジタルギャラリー」にあります、くまもと文学・歴史館資料コレクション「高群逸枝原稿 平安鎌倉室町家族の研究」(四綴)につきまして、以下にお尋ねいたします。
(1)この資料の入手経緯(入手時期や寄贈者名等)につきまして、そちらの記録に残っている範囲で結構ですので、ご教示ください。 (2)この資料は、栗原弘校訂『平安鎌倉室町家族の研究』と完全に一致しているかどうか、わかる範囲で結構ですので、ご教示ください。 (3)この資料は、いつでも自由に閲覧できるものなのか、もしそれが可能な場合、閲覧場所はどこなのかもあわせて、ご教示ください。
以上、三点をお尋ねいたします。お手数をおかけいたしますが、お返事をちょうだいできれば、うれしく存じます。ご高配にあずかりますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
(二)くまもと文学・歴史館から中山修一への返信第一信(二〇二四年一一月七日)
この度は、当館のHPをご覧いただき有難うございます。当館所蔵資料「高群逸枝原稿 平安鎌倉室町家族の研究」に関する、ご質問につきましては、以下のとおりです。
(1)入手経緯についてですが、この資料は平成七年(一九九五年)に当館に御寄贈頂きました。御寄贈者様につきましては、御容赦ください。 (2)原稿全てについての校訂を確認してはおりませんが、一致しているものと考えております。 (3)恐れ入りますが、自由閲覧とはなっておりません。研究目的に限りご利用可能で、まず「申請書」(別紙参照)をご送付いただく必要がございます。(申請いただいた後、お時間を頂戴いたします。)また、閲覧に関しましては、紙質等の研究などの現物でなければならない理由がない限り、画像での御提供(閲覧)となります。
色々と制約がございますが、資料保護等の観点から、ご理解いただきますようお願いいたします。閲覧のご希望等ございましたら、再度ご連絡頂きますようお願いいたします。
(三)中山修一からくまもと文学・歴史館への質問第二信(二〇二四年一一月八日)
さっそくのご回答、ありがとうございました。これに関連しまして、さらに以下に四点、ご質問させていただきます。
(1)貴館に所蔵されています当該資料「平安鎌倉室町家族の研究」は、真正の実物でしょうか、それとも、複写物を製本したものでしょうか。 (2)ご承知かと存じますが、当該資料のほかに、高群逸枝の遺稿をのちに校訂して出版されたものに、『日本古代婚姻例集』があります。こちらの手稿本も、当該資料「平安鎌倉室町家族の研究」とあわせて、貴館に所蔵されていますでしょうか。 (3)「御寄贈者様につきましては、御容赦ください」とのご回答ですが、そちらの公的記録には、寄贈年月日とともに、寄贈者名が明記され残されていますでしょうか、それとも、寄贈年月日のみで、寄贈者名は残されておらず、現在まで「寄贈者不明」として取り扱われているのでしょうか。 (4)当該資料は特別な理由がない限り、「画像での御提供(閲覧)」とのご回答ですが、「画像」とは、いまそちらのHPで公開されています一枚の画像を指しますか、それとも、全頁を画像として閲覧ができるような状態になっているのでしょうか。もし後者の場合でしたら、国立国会図書館が提供していますデジタルコレクションに準じて、個人送信によって個々人のPCにおいて閲覧が可能となるシステムになっているとありがたいのですが、そのようになっていますでしょうか。
以上、四点につきまして、ご質問させていただきました。お忙しいなか、誠に恐縮に存じますが、ご高配にあずかり、お返事をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
(四)くまもと文学・歴史館から中山修一への返信第二信(二〇二四年一一月一三日)
当館へお問い合わせいただき有難うございます。お尋ねのことにつきましては、以下の通りです。
(1)「平安鎌倉室町家族の研究」は実物を所蔵しております。 (2)「日本古代婚姻例集」につきましても当館で所蔵しております。 (3)寄贈者様につきましては、個人情報の観点から公表しておりません。御了承下さい。 (4)「画像での御提供(閲覧)」についてですが、資料全ての画像について閲覧が可能です。当館での閲覧サービスにつきましては以下の二点での御提供となります。 ア、当館にお越しいただき、画像をご覧いただく。 イ、当館にDVDと返信用封筒(DVDの枚数や、送料は利用者様ご負担)をお送りいただければ、データをこちらで入力しご返送いたします。 但し、どちらの場合も、申請書(アとイでは申請書様式が違います。)が必要です。また、申請書到着後二週間程度のお時間を頂戴することがあります。ご了承いただきますよう、よろしくお願いいたします。
資料の閲覧等ございましたら、再度ご連絡いただければ幸いです。
以上が、「平安鎌倉室町家族の研究」に関する、熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)との交信内容の一部です。ここからわかることは、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の双方の真物を熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)が所蔵しているも、その入手経路は公開できないということです。栗原夫妻から熊本県立図書館へ渡った経緯を想像すれば、おおかたその可能性は、次の三つになるのではないかと思われます。ひとつは、両人が直接当該図書館に寄贈した、もうひとつは、両人が第三者に譲渡し、その後その人物が当該図書館に寄贈した、さらにもうひとつは、両人が古書店か古物商に売却し、それを当該図書館が購入した、以上の三つです。
さて、『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」において、校訂者の栗原弘は、こう書いています。
校訂内容は時間をかけておれば優れているということにはならない。けれども、私としては高群の著作の信用を落さないように出来る限りの努力はしたつもりである。それでもどこかに校訂ミスがあるのではないかと恐れる。その場合は後日訂正しなければならないので読者の御教示をお願いしたい60。
もし、校訂ミスが見つかり、その場合には訂正しなければならないという自覚が本当にあるのであれば、研究者たる校訂者が校訂に使った原本である手稿本をやすやすと手放すことはないのではないかと思われます。熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)からの回答にあるように、寄贈されたのが間違いなく一九九五(平成七)年であったとするならば、県立図書館への帰属替えは、『平安鎌倉室町家族の研究』が世に出て一〇年後、『日本古代婚姻例集』が世に出て四年後に行なわれたことになります。なぜ栗原は早々に原本を手放し、将来発生する可能性のある「訂正」という重要な責務を放棄してしまったのでしょうか。これにつきましても、私の目には大きな疑問として映ります。
さらにそれに加えて、私は、こうした疑問ももっています。すでに引用によって示していますように、『日本古代婚姻例集』の「あとがき」において、校訂者のひとりである栗原葉子は、「氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた」と書いています。人は、「遺品分けのように譲り受けた」、いわば、亡くなった者を偲ぶよすがとなる形見の品を、自身の手もとにあって長く大切に保有することなく、かくもやすやすと他人に手渡すことが本当にできるものなのでしょうか。私の個人的心情からすれば、決して納得のゆくものではありません。
しかしながら、私にとっての疑問はこれだけではないのです。といいますのも、自著の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』のなかで栗原は、単に『母系制の研究』や『招婿婚の研究』といった学術の範囲を超えて、逸枝の「意図的な操作改竄」を意図的にすべての著作にまで敷衍化しようとしているからです。その箇所を以下に引用します。
高群の誤謬問題について、参考になるのは、『火の国の女の日記』である。その中で、高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、「一体的同志的」結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である。彼女の場合は、通常一般の人間が、親族の恥を隠すために、事実を改竄する性質のものと一線を画さなければならない。というのは、自己の理想のために、事実が曲げられるのは、彼女の著作に共通しているからである。高群は、自分の父母の過去の事実を正確に把握しており、また叙述のための方法論上の錯誤があったとは思われない。その上で、高群は、極端な事実の変容をおかしているのである。……ただし、『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している61。
この言説は、著述家として逸枝の人格を全面的に否定するものです。もし仮に栗原がいうように、逸枝にとって「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこに「事実を改竄する」「共通した創作原理」が働いていたのであれば、私たちがいま手にする『高群逸枝全集』全一〇巻そのすべてが、「事実に反する虚構」でできていることになります。果たしてそれは、本当のことでしょうか。
栗原の説が前提とするのは、次の部分です。「高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、『一体的同志的』結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である」。しかしながら、よく読めばわかるように、いかにこの前提が「事実を改竄する」ものであるのかは、すぐに判明します。以下に、その証拠(エヴィデンス)を幾つか挙げてみます。
実際には逸枝は、『高群逸枝全集』の第一〇巻の「火の国の女の日記」のなかで、父親の酒乱ぶりについて、はっきりとこう書いているのです。
酒のみがはじまると、子供部屋のない家なので……家を追い出されて、しょんぼりと立っていただろう小さかった私のおもかげが、いまも目に浮かぶようにみえてくるのである。こうして子どもの私は、酒の座のいとわしさや、喧騒や、そこに露出される人間どもの悪鬼めいた姿などにしょっちゅうおびえていたが、いっぽうではまたそうした人間どもに同情もするといった複雑な人生観の芽ばえをも引きだしていたのだった62。
さらに、父親の酒癖の悪さについては、『婦人戦線』の「自伝」のなかで、逸枝は、このようにも表現しています。一三か一四歳になったころの話です。逸枝に思いを寄せる少年がいました。
酒亂の父が母をぶんなぐろうとして追つかけたりする。近所の子供達は、面白がつて見物する。そんな時、彼は近所の人達とともに子供達を追つぱらつたり、母を逃がしたり、父を寝かしたりしてくれた。さわぎが静まつて、弟達も寝てしまふ頃まで、彼はわたしの家の石段のそばに立つて、わたしのことを心配してくれてゐた63。
また父親の勝太郎は、酩酊すると自制を失い、横溢する性欲を妻にぶつけ、暴力を振るうことも日常的でした。
わたしの次に弟達が生れた。……この頃から、わたしの家には、呑んだくれどもが、毎日のやうにやつてきた。その上、子として浅ましくも、悲しく感じられたことは、父の母に對する限りなき欲望の追求である。おお、そのため美しかつた母は瘠せ衰へた。また彼女は、子供に対する氣兼ねからも、われらの「呑んだくれおやじ」の暴力に烈しく抵抗し、そして大ていそれが原因となつて、踏まれたたかれた64。
加えて逸枝は、自分の自伝的小説である『黒い女』に、このようにも、書くのです。
私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか65。
逸枝が父親の酒癖について書いているこれだけの実例を挙げれば、栗原が書くところの、「高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、『一体的同志的』結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である」という一文が、いかに事実に基づかない虚妄の言であるかは、すぐにも明らかになるでしょう。したがいまして、これにより、「彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している」と決めつける、その前提が崩れたことになります。前提が崩壊した以上、栗原の結論も、それに従い自然消滅します。それでも、逸枝の「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこには「すべてに共通した創作原理が存在している」ことを主張しようとするのであれば、「詩も研究書も日記も」一著一著そのすべての逸枝の著述にかかわって、いかに「創作原理」が働いた虚偽の作品となっているのかを、信頼できる一次資料に基づいて余すことなく例証すべきではないでしょうか。それができなければ、もはや学術的な価値をもった有益な指摘どころではなく、単に威圧的で攻撃的なだけの傲慢な言説の領域へとはかなくも帰結するのではないかと思量します。
さらにここに個人的な愚見を加味することが許されるならば、逸枝の「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこには「すべてに共通した創作原理が存在している」ことを主張したものの、それが虚妄の可能性があることが判明したいま、その言説が所収されている栗原の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』それ自体そのものにこそ、「創作原理が存在している」可能性があり、私自身は、今後の女性史、とりわけ婚姻史や家族史の研究の発展のなかにおいて、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が、いかように先行文献として検討されてゆくのか、その推移を注視したいと考えます。
一九世紀英国の詩人でデザイナーであり、手紙のなかで自身を「セミ・アナーキスト」と呼んだウィリアム・モリスが死んだのは、一八九六年のことでした。そのあと、娘のメイ・モリスが、全二四巻からなる『ウィリアム・モリス著作集』を編集します。こうした編集の仕事や女性の仕事は、決して人びとの賞賛を受けることはありませんでした。しかし、それから時が流れ、二〇世紀のフェミニストの伝記作家であるジャン・マーシュが、闇に隠されたかかる業績に光をあてることになります。それについて触れている箇所を、以下に引用します。
メイの小さな戯曲は成功しなかった。しかし、父親の死の一〇年後に彼女は彼の『著作集』の編集に着手することになるが、そのとき、戯曲を書いていたことが彼女の自信につながっていたものと思われる。この愛情あふれる労作は、従来不当にも軽視されてきた業績である。というのも、確かに編集者というものは、その仕事によって自分の名声を勝ち得ることは一般にありえないが、メイはモリスの出版物をすべてにわたり校合し、未刊行の作品について分類と選択を行なっており、こうした彼女の膨大な仕事はかなりの賞賛に値するからである。多くの場合このような仕事には、著者の意図した意味を最もよいかたちで提供するために、異なる草稿を読み比べてえり分け、間違いではないかと思われる箇所を訂正すべきかどうかを決定する仕事が含まれる。モリスは多忙な人だったし、死後の名声にはほとんど注意を払わなかったので、膨大な量の手書きのノートや手稿を残していた。したがってこのような仕事は、決して容易なものではなかったはずである。そのうえにメイはまた、『著作集』を構成する全二四巻のそれぞれに伝記と解題に関する短い「序文」を書いている66。
少し長い引用になりましたが、この一文を読むと、モリスと娘のメイの関係と、逸枝と夫の憲三の関係とは、おおむね類似していることがわかります。憲三も、若いころ小説を書いていましたし、平凡社の編集者として一時期働いてもいます。おそらくそれが、『高群逸枝全集』の編集に際して、有効に作動したものと思われます。しかしながら、原稿の発掘、校合と決定、取捨選択、配列、出版契約、入稿と校正、原本整理という労の多い仕事でありながら、メイと同じように、憲三に周りから賞賛の言葉が投げかけられることはありませんでした。しかし、憲三の仕事がなければ、いま私たちは、『高群逸枝全集』を手にすることはないのです。憲三の仕事に光をあてる必要性が、遅ればせながら、いままさに訪れているのかもしれません。
別の観点に目を転じますと、メイは、『ウィリアム・モリス著作集』の各巻の巻頭において解題を執筆しています。そのなかでメイは、しばしば「私の父は」という言葉を主語に使いながら、モリスの美質を称賛するのでした。娘としての父親に向ける敬愛のまなざしがよく現われている側面として指摘することができます。他方、憲三は、逸枝にとって恥となるような文は、すべて『高群逸枝全集』から除外しました。これは、二人三脚でもって著述物を世に送り出した、一方の当事者である編集者が、もう一方の当事者である著者を、あくまでもかばおうとする、麗しい義務行為として受け止めることができるかもしれません。
すでに述べていますように、「森の家」に残り、『高群逸枝全集』の編集を終えた憲三は、姉の藤野、妹の静子、そして自身を「最後の人」として敬愛する石牟礼道子が住む、火の国水俣に帰還します。そして、道子をひとりの同人として季刊誌『高群逸枝雑誌』の刊行に取りかかるのでした。第一号が出たのが、一九六八(昭和四三)年一〇月のことでした。この創刊号の頁をめくると、主に、道子の「最後の人1 序章 森の家日記(一)」と憲三の「『火の国の女の日記』の後」の二本の文によって構成されていることがわかります。後者の文は、「墓碑」「伝記」「全集」「森の家」「持衰」の六項目に沿って書き進められており、そのなかの「全集」の項目に目を向けると、次の一節が、飛び込んできます。
全集の編纂は厳密な手続きと根気のいる仕事だった。第一資料あつめ。第二選択、第三排(ママ)列、第四原本整理。これらの作業には程度の差こそあれ欠漏・不合理・不自然等がつきまとって編者をくるしめるものがある。全集ということばにもこだわりがないとはいえない。たとえば、世に網羅主義の全集はあってもおそらく網羅しつくした全集はあり得ないだろう。選集ということばもあるが、これも現実には代表作の意味よりはむしろ便宜主義を語っていると思う。私は主著主義をとることで自分を納得させた67。
ここからわかりますように、逸枝の全集を編むに当たって憲三は、「主著主義をとることで自分を納得させた」のでした。憲三がみなした逸枝の主著は、戦前の詩歌とその延長にある戦前戦後の恋愛論と、戦後第四版として改訂された『母系制の研究』と、その一年前に公刊された『招婿婚の研究』と、そしてそれに続く『女性の歴史』(全四巻)と『日本婚姻史』、さらに加えて、途中絶筆となった『火の国の女の日記』でした。逆に全集から排除されたのが、アナーキズムに根拠を置く一連の政治的論考と、国体主義に根拠を置く一連の歴史的論考でした。憲三は、どうしてもこのふたつの領域に属する論考を、全集に入れることはできませんでした。それは、おそらく逸枝の遺志でもあったものと思われます。といいますのも、生前逸枝は、憲三にこう語っていたからです。
日記一巻と追加研究一巻とができ上ったら「過去の紙くず」は一切焼いてしまって、また新しい出発をしましょう68。
これこそが、戦前にあって自分たちを規定していた旧い世界と戦後に新たに生まれた進歩的な世界――戦争を挟んで全く異なるこのふたつ世界のなかにあって生き抜かざるを得なかった者だけが経験する、一種不条理な宿命だったのかもしれません。そうした屈曲の人生を歩んだ逸枝独自の内面や所作とは、どのようなものだったのでしょうか。そしてそれが、時代とどう響き合ったり、反発し合ったりしたのでしょうか。それを語ることは、逸枝その人の「女性の歴史」の現像につながるにちがいなく、興味は尽きません。
また、それと同時に、すでに本稿の複数個所で引用しています、「彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」という憲三の言説についても、ここでは十分に検討をすることができませんでした。この言葉は、「著者と編集者」あるいは「労働者とパトロン」の内実を探るうえで極めて重要で、示唆に富んでいます。したがいまして、これを手掛かりに掘り起こしてゆけば、逸枝と憲三の本質的関係にたどり着くにちがいありません。
上に述べたさらなる学問的関心事にかかわって、その解明に挑戦するために、論述の場を替えるべく、改めていま私は、著作集26『残思余考――すべては夢のなかから』の「二番目の夜」において「高群逸枝のパーソナリティーの分析――親子関係、職業選択、気質、そして心的風景」を、そして続く「三番目の夜」において「橋本憲三の生涯――ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」を、用意しようと思い描いています。
それでは、この予告をもちまして、とりあえず第四話「橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法についての一考察」をここに閉じることにします。ご高覧いただき、ありがとうございました。
(二〇二五年九月)
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、479頁。
(2)高群逸枝・橋本憲三補『火の国の女の日記』理論社、1965年(第1刷)、奥付。
(3)橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、11頁。
(4)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、313頁。
(5)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、155頁。
(6)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、16頁。
(7)前掲「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、15頁。
(8)秋山清『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』思想の科学社、1973年、8-9頁。
(9)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、9頁。
(10)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(11)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(12)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、10頁。
(13)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(14)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、11頁。
(15)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、156頁。
(16)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(17)石牟礼道子「最後の人 第六回 序章 森の家日記6」『高群逸枝雑誌』第6号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年1月1日、27-28頁。
(18)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、1-5頁。
(19)同『戀愛創生』、316-317頁。
(20)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、287頁。
(21)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、462頁。
(22)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。
(23)前掲『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、269頁。
(24)『高群逸枝全集』第八巻/全詩集・日月の上に、理論社、1966年(第1刷)、357頁。
(25)高群逸枝『戀唄 胸を痛めて』京文社、1922年、「序」の2頁。
(26)「まないた」『婦人民主新聞』、1966年10月2日、1頁。
(27)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、239頁。
(28)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、244頁。
(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237-238頁。
(30)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、256-257頁。
(31)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、257頁。
(32)高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「跋」の1頁。
(33)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、356頁。
(34)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、306頁。
(35)高群逸枝『日本女性傳』文松堂書店、1944年、1-2頁。
(36)高群逸枝『日本女性社會史』眞日本社、1947年、1頁。
(37)家永三郎「わざわいするモルガン的色眼鏡」『日本読書新聞』第425号、1948年1月21日(縮刷版の361頁)。
(38)高群逸枝「家永三郎氏の書評に答う」『日本読書新聞』第427号、1948年2月4日(縮刷版の365頁)。
(39)同「家永三郎氏の書評に答う」。
(40)同「家永三郎氏の書評に答う」。
(41)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、39頁。
(42)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。
(43)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年、372頁。
(44)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、350-351頁。
(45)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、368-369頁。
(46)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、58頁。
(47)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、180頁。
(48)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、181頁。
(49)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(50)栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年、i頁。
(51)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。
(52)石牟礼道子「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、早稲田大学出版部、1997年、213頁。
(53)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、i頁。
(54)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、3頁。
(55)高群逸枝著、栗原弘校訂『平安鎌倉室町家族の研究』国書刊行会、1985年、1093-1094頁。
(56)高群逸枝編、栗原葉子・栗原弘校訂『日本古代婚姻例集』高科書店、1991年、i頁。
(57)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、56-57頁。
(58)石牟礼道子「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)1979年10月17日、3面。
(59)高群逸枝著・堀場清子校訂『娘巡礼記』朝日新聞社、1979年、270頁。
(60)前掲『平安鎌倉室町家族の研究』、1096頁。
(61)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、364頁。
(62)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、28頁。
(63)高群逸枝「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』(特輯自傳)第1巻第10号、1930年、21頁。
(64)同「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』、19頁。
(65)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、63頁。
(66)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, pp. 256-257.[ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、344頁。]
(67)前掲「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、11頁。
(68)橋本憲三「三つの言葉 ✳後記にかえて」『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、483頁。