橋本憲三は、一八六四(元治元)年生まれの橋本辰次を父とし、一八六八(明治元)年生まれの橋本ミキ(旧姓は田村)を母として、一八九七(明治三〇)年一月一〇日に熊本県球磨郡大村(現在の人吉市)の地に生まれました。父親の辰次は、熊本県八代郡日置村の出で、同じ八代郡の太田郷村の出身である母親のミキと結婚し、入籍したのは一八九一(明治二四)年のことでした。最終的にこの夫婦に授かったのは、秀吉、フジノ(藤野)、憲三(戸籍名は憲蔵)、シゲノ、武雄、袈義、シズコ(静子)の四男三女でした。したがいまして憲三は、この夫婦にとって三番目の子で次男ということになります。高群逸枝より三年遅れての誕生でした。
橋本静子は、両親の馴れ初めをこう語っています。
父は八代在の農家の長男、義母に女の子が生れ偏愛する様子を見て、家産をゆずって家を出たといいます。母は富農の娘で、小柄の色白で、赤い手柄をかけた桃割れが似合うかわいい娘振りだったそうです。村の盆踊りで父を見染め、あまたの有志を振り切って父のもとに嫁いだのでした1。
一八九一(明治二四)年に長男の秀吉が、一八九四(明治二七)年に長女の藤野が生まれると、次男の憲三をおなかに宿しているとき、辰次とミキの夫婦は、八代から球磨川を上り、新天地に向かいます。石牟礼道子は、そのときの様子を、憲三の姉の藤野から聞いた話として、次のように書き表わしています。
父の橋本辰次は太田郷の、ここは古くから広大な荘園がひらかれていたところで、そのあたりの在の自作農の息子、母みき子は地主の娘でした。……この夫婦はかなりの田畑を整理して妹に家督をゆずり、上流の相良盆地にむかって、いわば新天地をもとめて舟に乗ったのでした。八代から人吉まで、今ならば急行で一時間のところですのに、船頭の棹と人の体に巻きつけた綱の力で急流の岸辺をえいえいと遡行させ、途中の一勝地までくると日が暮れますから、船の上で食事ごしらえをして、船の上で一晩泊ります。それからまた一日かけ、まるまる二日かからねば人吉まではゆきつけぬ船の旅でした。……どのような天地がひらけているのか、上流からの川風にゆられながら、父母に手をひかれて、そのような屋形船に乗せられた姉藤野の幼い記憶によると、みき子はそのとき妊っていて、おなかにいた子が憲三だったということです2。
それから時が流れ、一九〇三(明治三六)年のことではないかと思われますが、憲三が六歳のとき、ふたつ下の四歳の妹のシゲノが不慮の事故により死亡しました。憲三は、逸枝と共著で一九二二(大正一一)年に金尾文淵堂から『山の郁子と公作』を公刊します。その本は、憲三が書いた前半部分の「山の郁子と公作」と、逸枝による後半部分の「公作へ郁子より」から構成されていました。シゲノの死について憲三は、「山の郁子と公作」のなかで、このように触れています。
彼の妹が不慮の死を遂げたときのことであつた。妹はあまり高くもない崖から夢のやうに落ちて、彼の眼の前で、大地に頭を打ちつけて、そのままころりと轉つて、何の苦もなく死んで了つた。彼は嘘のやうな死骸の前にぼんやりと突立つてゐた3。
この「山の郁子と公作」は、憲三が逸枝と知り合う前後にかかわる自叙伝的な、あくまでも「小説」ですので、内容は必ずしも真実ではないかもしれません。他方、静子が堀場清子に語ったところによれば、その事故は、次のようなものでした。
小渡の家は球磨川の川岸にありまして(県道沿い)、其の朝、球磨川の洗い場に顔を洗いに行くのを渋ったのだそうです。母はやさしい人でしたけれど、子供の躾はおこたらず、「猫でも顔を洗うのに(猫は前足につばをつけて、顔をこするのを――)まして人間の子が顔を洗わないで御飯をたべることは出来ない」と言われて、シゲノは球磨川の洗い場にいき、寒い日のことで、川に転倒しておぼれていたのだそうです。かなしい母4。
静子は一九一一(明治四四)年の生まれですので、この事故には、直接立ち会っていません。したがいまして、これは、のちに両親か兄姉のような人から聞いた話にちがいなく、そのため憲三の挿話よりこの言説の方が真実に近いかどうか、それもまた定かではありません。
しかしながら、どちらの原因で死亡したのかは別にして、家族にとって痛ましい事故であったことには変わりありません。六歳になる憲三はちょうど尋常小学校に上がったところでした。それから一三年が立ったのちに憲三は、シゲノの思い出と、彼女に寄せる哀惜の念とを、こう綴っています。
――山里に嵐が吹いて、雜木林が疎らに空いて見えるやうになつた。 その下の落葉を漁ると、中から鬼灯大の山芋の實がいくつとなく轉げ出た。山里の子供達は争つて夫れを拾つて白い細絲に通した。……子供達は山芋の實のことをみんなひめ(・・)と云つて居た。 少年は冷え切つた自分の體には構ひもせず危ふげな手つきで火箸をとりながら『ひめの輪』を熱い灰の中に埋めた。 その間、彼の妹は正しく坐つた膝の上に両手を重ねて、ぢつと、少年に火箸の先さを見守つて居た。喜びはその二つの黒見勝な清しい瞳にあつた。 まもなくひめ(・・)はこげ(・・)て快よい匂ひが、プンと、小さい二人の嗅覺をそゝつた。二人は相顧みてニツコリ笑つた。……しかし、こんなときも、少年は妹に對して決して獲物の分前を等しくすることは許さなかつた。おとなしい妹は彼のなすがまゝにして、夢にも、自分が彼よりたくさん拾つたことを主張するやうなことはなかつた。 いつたい妹は年に似合はずませ(・・)て居てよくすべてに氣がきいてゐた。『怜悧な兒はやつぱり早く死ぬる。』と、母は泣いて後に人に語つた程であつた。…… その妹が急に死んだ。―― じつと、墓の前に額づいた私の眼の前に浮ふまぼろし、夫れは五つの彼ではなくて、十八のそれはそれは美しい振袖姿の少女であつた5。
引用文中の山芋の実の「ひめ」は、「むかご」を意味します。また、末尾にある妹の年齢の「五つ」は、数え年による表記であると思われます。
すでに上で示しています静子の言葉によりますと、このころ一家は、大村を出て小渡に住んでいたようです。シゲノが死去する事故があった翌年の一九〇四(明治三七)年二月のことになりますが、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定されました。憲三の父の辰次は、日清戦争に続いてこの日露戦争でも軍務につきました。戦争が終わるのは翌年の九月です。憲三の小説「山の郁子と公作」に、父親の出征の様子が次のように記されています。出征が一九〇四(明治三七)年であれば、そのとき父親は四〇歳、息子の憲三は七歳になっていました。
写真に残つてゐる軍服姿の父は容貌魁偉天晴れな大丈夫であるが、日露の役に召集せられて、貧乏な家族を後に残していよいよ船に乗り込んだとき、見送りの人人から栄ある名誉の名によつて一斉に浴びせかけられた、万歳と水煙りとの中に唯黙然と突立つた思ひ出の中の父の姿は、あまりに寂しかつた。 「ああ、また人をおだて上げて殺さそうとする声がはじまつた。」 これはある正直な一将校が、万歳に対する皮肉な嘲笑であつた6。
また、「山の郁子と公作」には、こうした母についての描写も見ることができます。
彼の母は至つて口數が少なかつた。そして所謂菓子を與へるにしても、何等嬉しがらせの前振れもなければ、恩恵による教訓もなく、ましてそれが爲に報酬を求めることも、義務を負はせることもしなかつた。そしてその素晴らしい愛は黙黙の間に現はれ、また黙黙の間に隠れるのが常であつた7。
そののち、憲三の一家は、小渡から一勝地に移ったようです。しかし、小渡でどのような生活をしていたのか、また、いつここに移ったのか、そのようなことを示す正確な資料は残されておらず、また、それについての憲三の記憶も途切れがちです。唯一、憲三が道子に語ったところによると、だいたいこのようになります。
――ぼくの一家はそういう次第で人吉に一度は移り住んだのです。ぼくは、その翌年、青井神社のそばの家で生まれたということですが、もう、鹿児島本線がかかるという話は具体化していたとみえて、人吉で営みはじめた雑貨屋が思わしくゆかなかったらしいこともあって、一勝地に、鉄橋がかかるという噂を、つまり当てこんでですね、移って来たらしいのです。それでぼくは、松谷尋常小学校というのに入っていたのですが、全校生徒が八十人くらい、三学級ありました8。
鹿児島本線が八代から人吉へ延伸され、一勝地で鉄橋の架橋作業が行なわれることになれば、球磨川の水運の要所であった一勝地は、物資や人の往来で、いままで以上に今後にぎわうことが予想されます。一家の一勝地への移転の背景には、そうしたことがあったものと思われます。さらに憲三は、道子にこう語っています。
一勝地でのぼくの家はその、川船のもやいどころでもあったのです。球磨地方は木材、木炭、楮などの産地ですから、木材は筏で流すのですけれども、まあそのような人吉からの物資を川船で流して八代で荷さばきをして、戻りの、上りの船が一勝地で一泊するわけですので、「橋本屋」という宿をひらきましてね、初代ではなく、前にやっていた人のを買いとるかなにかして、はじめたらしいのですけれどね。…… ぼくのその頃の仕事といえば、ランプみがきなんです。家の商売柄、ランプがたくさんありました。……毎日、そのランプのホヤを磨かされるのです。ランプのホヤは、大人の掌でははいりきれませんから、宿屋の子でなくとも、ランプのある家では、子どもが、ランプの磨き役をしていたと思いますよ。…… それでね、ぼくの家は二階屋で、下が三部屋、上が四部屋、これはみんなお客部屋なんです。広い中庭があって池をとり、そこにお客に朝夕出すための、鯉とか鮎とかをたくさん泳がせてありました9。
一九〇八(明治四一)年、八代から人吉までの鹿児島本線が開業しました。逸枝の『今昔の歌』に、鹿児島本線の開通の時の様子が、次のように綴られています。
肥薩線が人吉まで開通したとき、ちょうど守富校にいた父は、修学旅行として学童たちをつれ、母をもともなって、秘境人吉の見学に出かけた。父母は球磨川渓谷のうつくしさと、トンネルの多いのと、人吉町のあかるさとにおどろき、鎌倉以来の城下町のしずかな文化的たたずまいに感嘆して帰り、その話をしてきかせ、私の夢をさそった10。
そののち一九二七(昭和二)年に、八代から鹿児島までの海岸に沿った新線が開業すると、こちらを鹿児島本線と呼ぶようになり、八代から人吉を経由して鹿児島の隼人に通じる山間の線は、肥薩線の名で知られることになります。この文のなかで逸枝は、「鹿児島本線」ではなく、執筆時の線名である「肥薩線」を用いています。
一九〇八(明治四一)年の開業の当時、逸枝は一四歳で、下益城北部高等小学校を卒業したときで、三歳年下の憲三は一一歳で、おそらく尋常小学校の五年生に在籍していたものと思われます。ふたりが実際に会うのは、まだもう少し先のことです。しかし、憲三の将来については、熊本師範に進学することが、このころすでに家族のあいだで合意されていたようです。憲三は語ります「小学校で首席を通していたので、父がその気になってくれ、確定的には尋常六年の頃だったと思います」11。
八代と人吉を結ぶ路線が開業しますと、物や人びとの流れは、球磨川ではなく、当然ながら鉄道へと移ってゆきました。「山の郁子と公作」のなかに、こうした描写箇所があります。
汽車が開通してからこの船場は次第に寂れて行つた。夕方になると打連れて何十艘となく這入つて來た河船も全くその姿を見せなくなり、往来は恰度火の消えたやう、すうと威勢よく幾臺の俥が燕のやうに入り亂れて飛び交つた昔の面影は、再び見られなくなつて了つた12。
また、堀場の問いに答えて、憲三は、このように説明しています。「船宿は明治四十一年に鹿児島本線が八代から人吉まで延びたときから衰微し、人力車立て場もなくなり、やがて一家は那良口駅の奥地に官営製材所ができたのに父が惹かれたのか那良口に移りました」13。静子も、この時代について、こう書いています。「終の栖の那良口では、村人の需要に合わせて、米、麦、味噌、醤油などの小商いをしておりました。球磨地方は当時全国的な木炭生産地であり、『球磨木炭同業組合』が設立されていて、そこの木炭検査員となり一応くらしが立ちました」14。
おそらくそのころのことではないかと思われますが、今度は憲三に不運が襲いました。それは、失明に至る大きな事故でした。憲三は、次のように話しています。引用文中の「森の家」とは、逸枝と結婚し、彼女が執筆に専念できるように、一九三一(昭和六)年に東京の武蔵野の森のなかに建設したふたりの住居を指します。
実際は鳥わなをかけようとして、枝を取り去った小さい木を弓のように曲げようとして手をすべらし、その木の切口の先端が左眼の瞳をかすめたに過ぎません。痛みは瞬間だけでした。しかし瞳孔に達したとみえて失明しました。弟(武雄)と二人で泣きながら帰りました(絶望して)。森の家の中頃までは電柱や近づいてくる人影などはまだぼんやりみえていました。その後急速に陥没しました(眼窩がくぼみました)15。
一方、このときのことについて憲三は、「山の郁子と公作」に、次のように書いています。「父は叱つた。母は泣いた。兄は黙つて彼を遠い町の病院へ連れて行つた。彼は其處で人生の無常と憂鬱と呪詛と祈祷を知つた。彼は十四の春を迎へた」16。この記述内容が正確であるならば、おそらく事故に遭遇したのは、一九一〇(明治四三)年一月一〇日の満一三歳の誕生日を迎える前後のころではないかと推量します。それから、歳月が流れるものの、憲三のこころの痛みは決して消えることはなく、一九一六(大正五)年一一月一五日の『人吉時報』(四面)に詩情となって現われます。この「思ひ出の熊本」は、八節から構成されており、ここに、最初のふたつと最後のひとつの詩節を紹介します。
一 灰色の古き建物 なづかしき夜の灯の色 熊本は吾れ病みを得て はじめても知りし名なり 二 病院の九十の月日 悪戯の報ひと知れど 友もなきその明け暮れの 如何ばかり寂しかりけむ。 八 五歳の星は移りて 吾は今不遇に泣くなり。 兄様の『目はなぜ白い』 四つになる妹は尋ぬる――。
最後に出てくる「妹」は、シゲノでしょうか。それであれば、シゲノの不遇と自分のそれとを重ね合わせていることになります。しかし、もし「妹」が静子であれば、兄を愛おしむ静子の思いの発露として読むことができます。のちに静子は、事故当時のことを、こう書いています。「憲さんの目のけがの時は、お金がなく材木屋の伊藤松さんに前借に走り、お金をクシャクシャの紙に包んだ父が、仕事着のまま町の医者に連れて行った」17。
一五歳になった憲三は、おそらく一九一二(明治四五)年三月に一勝地尋常高等小学校を卒業したものと思われます。しかしこのとき、目の疾患が、過酷なことに、憲三の師範学校受験の機会を奪いました。これに関して柴田道子が、こう説明します。憲三から聞き取った内容であると思われます。
逸枝が小学校を常に首席で卒業したころに、K[憲三]も首席をとおし、兄弟のうちでもすこぶる頭がよかった。彼は熊本師範に進学することに決っていた。そこに左眼失明という不運に遭遇する。利発で活発なK少年は、突如進学を絶たれ、人生をどんなにはかなみ、ニヒルになったか想像にあまりある18。
憲三が熊本師範への進学を諦めなければならなかったことは、本人はいうまでもなく、多くの悲しみを両親と家族にもたらしたにちがいありません。他方で憲三は、ニヒリズムという自己の性格について、このように分析します。「自分では生得的なものと思っています。しかし一方ではごく正直者で、正直と、ニヒルと、正義感が同居していたと思っています」19。
高等小学校を卒業し、「代用教員になるため講習所に入ったとき健康診断があり、ツベルクリン反応が陽性(軽度-桃色)で治療を受けるよういわれました」20。そこで憲三は、「就職前は胸部疾患の治療やら家の手伝いなど」21をして過ごしました。静子の文の一節には、「憲三は村の高等小学校で、開校以来の秀才だといわれていましたが、進学が出来ず、異例の準訓導の辞令で村の分教場に赴任」22とあります。憲三が、教職についたのは、一九一四(大正三)年四月のことで、神瀬村在所の高沢尋常小学校でした。因みに、奇しくもこのとき、逸枝もまた、西砥用尋常高等小学校の代用教員としてはじめて教壇に立ちます。もちろん、いまだふたりは、相手の存在を知ることはありません。逸枝二〇歳、憲三一七歳のそれぞれの春の出来事でした。
憲三は、最初の赴任校について、次のように振り返ります。
いまは球磨村、当時神瀬村の高沢尋常小学校につとめました。二ヵ月たらずで、この学校附属の大槻分教場というところの教師がやめるか転出かでそこへやらされました。 私は大よろこびです。教師は私ひとり。頭をおさえるものがなくて勉強ができるものですから(いまも分校としてあるでしょう)。児童数は私のとき二十人内外で、ある一学年が欠けていました。ランプ時代でしたが、私が石油をたくさんつかうといって、本校に使いにいったものに注意を受けましたが、私はかまわず請求しました。それから私が『読売新聞』をとったので郵便屋さんがひじょうにこまり、けっきょくある部落まで届けて置き、それを大槻部落の人が神瀬の主邑に物売り物買いにいった帰りに受け取ってくるということになりました。炊事は上級の女生徒が順番で準備してくれました。村に当番があって学務委員を通じて用が果たせました。ここに二年たらずいました23。
その後憲三は、一九一六(大正五)年四月から一年間、湯前村の湯前尋常高等小学校に、続いて一九一七(大正六)年四月から一年間、山江村の尾崎尋常小学校に勤務することになります。『人吉時報』の第一号が出るのは、憲三が湯前校に勤務していた、一九一六(大正五)年七月五日のことでした。この新聞は毎月、五日、一五日、二五日の三回発行される地方紙でした。これよりのち憲三は、この新聞を舞台に、評論や詩、小説などを投稿し、文学青年として頭角を現わしてゆきます。
最初の憲三の評論文は、「橋本紅雨」の筆名で第三号に掲載された「巻頭言を讀みて」と題された手紙文でした。その一文は、これまでの月二回の刊行を三回に改めただけで、編集者も変わりないなかで、本来五九号とすべきところを初号として発刊した経緯を綴った初号掲載の「巻頭言」について、その理由を問いただすものでした。続く四号に、憲三は、「てるかくにて――」と題して詩文を寄稿します。そのなかで憲三が書いているように、「てるかく」は、一八七七(明治一〇)年に起こった士族による反乱である西南役の古戦場です。少し話は飛びますが、石牟礼道子が、『暗河』の創刊号に「西南役伝説」(第一回)を寄稿するのが一九七三(昭和四八)年で、憲三が亡くなる三年前のことでした。のちのちの憲三と道子の巡り会いの地点から眺めれば、このとき憲三が書いた「てるかくにて――」は、極めて暗示的な作品であるということができます。第六号に掲載された「テルモビレ山上の碑石」も戦いを題材にした短文で、ここでは、テルモビレ王との戦いに散ったスパルタ武士の死が語られています。第一〇号(一〇月二五日刊)と続く第一一号(一一月五日刊)には、二回に分けて小説「ある男」が連載されます。ここでは、北海道に旅立つ友人との一場面が描かれていました。一九一七(大正六)年に入ると、第一五号(一月一日刊)掲載の小説「皮肉」と第一五号(四月二七日刊)掲載の小説「そのまゝに」が続きます。この二作の筆名は「甫水」となっていますが、内容から判断して、おそらく憲三の作品に間違いないでしょう。こうした経緯に着目するならば、すでにこの時点で憲三は、この地域にあって、文学青年の名を思うがままに享受していたものと想像されます。
そうした文筆活動を背景として、憲三は、『少数派』という題の同人誌を刊行しようとしていました。一度も会ったことはありませんでしたが、同県の同じ教員である逸枝に宛てて憲三は、勧誘のためのはがきを送りました。「球磨の一青年K」からのはがきを受け取った逸枝は、そのときのことを、このように回想します。
一九一七(大正六)年のはじめごろ、私は、一通の思いがけないはがきを受け取った。私は前年の九月から父の払川校に移って、あいかわらず山の女教師の愉しい生活に没頭していたが、そのころ私が父のすすめで自信なく書いた短い感想文が教育雑誌に出たのをみて、球磨の一青年Kが回覧雑誌を出すとかでそれへ参加をすすめたものが前記のはがきだった。回覧雑誌は『少数派』と題するもので、文芸や社会思想めいた論文をのせてあるものだった。当時の私はまったく無縁のものといってよかった24。
「球磨の一青年K」からのはがきに対して、逸枝は、返事の手紙を書きました。憲三は、そのときの逸枝の印象を、後年、堀場清子に、こう述べています。
特異なひとだと思いました。世間知らずのひとと思いました。この人は社会一般の習俗からはみだし、ふるい形容ですけれど、「泥中の蓮」という感銘をうけました。矛盾しますが「夢」と「意思」のひとと思いました25。
また、憲三は、逸枝の参加については、こう回顧します。
はっきりした意思表示は最初しなかったと思いますが、ややあとで詩と感想文(二つ)をのせました。別々の号に。小山勝清は最初から参加しました26。
この同人雑誌『少数派』は残存しません。これについて憲三は、このように述懐します。「すべていま影も形もありません。ガリ版でした。彼女がみたのは第一号からです」27。
このとき憲三は二〇歳、熊本県の球磨郡の山間部にある尾崎尋常小学校の準訓導。憲三が住む最寄りの駅は、鹿児島本線の八代駅から南下した那良口駅。一方、逸枝は二三歳、同じく熊本県の下益城郡の山間部にある払川尋常小学校の代用教員。逸枝が住む最寄りの駅は、鹿児島本線の八代駅から北上した松橋駅。かくして、いよいよここに、一通のはがきをきっかけとして、一九一七(大正六)年の春まだ浅いある日のこと、一組の男女の運命的な愛の物語の、その幕が開いたのでした。
(1)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、17頁。
(2)石牟礼道子「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」『高群逸枝雑誌』第31号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1976年4月1日、24頁。
(3)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、57-58頁。
(4)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、261頁。
(5)橋本甫水「妹のこと」『文章倶樂部』第8号、新潮社、1916年12月、66頁。 なお、これとほぼ同じ内容の文を、その前の『人吉時報』(1916年8月25日、1面)と、その後の『山の郁子と公作』(金尾文淵堂、1922年、59-61頁)に見ることができます。
(6)前掲『山の郁子と公作』、82頁。
(7)同『山の郁子と公作』、62頁。
(8)前掲「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」『高群逸枝雑誌』第31号、24頁。
(9)同「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」『高群逸枝雑誌』第31号、25頁。
(10)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、206頁。
(11)前掲『わが高群逸枝 上』、267頁。
(12)前掲『山の郁子と公作』、9-10頁。
(13)前掲『わが高群逸枝 上』、265頁。
(14)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、18頁。
(15)前掲『わが高群逸枝 上』、265頁。
(16)前掲『山の郁子と公作』、6頁。
(17)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、18頁。
(18)柴田道子「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年10月1日、24頁。 執筆者の柴田道子(児童文学作家・社会運動家)は、以下のとおり、水俣の橋本憲三訪問記を「逸枝さんへ」と題して『高群逸枝雑誌』に四回に分けて連載しています。「逸枝さんへ1――水俣へ――」(第20号)、「逸枝さんへ2――編集室より――」(第21号)、「逸枝さんへ3――松橋から払川へ――」(第23号)、「逸枝さんへ4――松橋から払川へ――」(第24号)。最後の寄稿文からおよそ一年後に、四一歳で没。
(19)前掲『わが高群逸枝 上』、267-268頁。
(20)同『わが高群逸枝 上』、270頁。
(21)同『わが高群逸枝 上』、同頁。
(22)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、18頁。
(23)前掲『わが高群逸枝 上』、270-271頁。
(24)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、127頁。 この引用文においては、「一通の思いがけないはがきを受け取った」のは、「一九一七(大正六)年のはじめごろ」と逸枝は書いていますが、のちの憲三は、「これは大正五年末としたほうが正しいと思います」と語っています(橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、8頁を参照)。
(25)前掲『わが高群逸枝 上』、7頁。
(26)同『わが高群逸枝 上』、12頁。
(27)同『わが高群逸枝 上』、同頁。