一九二〇(大正九)年八月三日と四日の両日二回に分けて、『九州新聞』(ともに六面)に全一一連からなる逸枝の「辭郷の歌」が掲載されました。以下は、その最初の二連と最後の二連です。
ばら色の 青春の日の正面に向つて もの静かに妾は彳んでゐる。 X だが星よ 泣いて今夜は照らしてお呉れ センチメンタルな妾の古里を X そして妾の 驚くべき此天才の 微妙な壁畫となつてお呉れ。 X ては古里よ ほんにさよならさよなら ほんに妾の愛しい古里よ。
このとき、詩作もひとつの完成の域へと向かっていました。
私は定型短歌では表現されないものを内部に感じたときに破調短歌にすすんだが、さらに短詩形では盛り切れないないものを感じて長詩に移った。 それは『放浪者の詩』と題する一巻になった。―これを書き終えたのは八月下旬のことだった1。
一方この間、憲三と逸枝の手紙のやり取りは、頻度を減じていました。自分が送った手紙を小説の素材にする憲三の執筆姿勢に向けた逸枝なりの反発だったのかもしれません。しかし、出京がちかづくと、「母にすすめられて球磨のKにも知らせてやった」2。逸枝との再会後、憲三は球磨に帰るとただちに筆をとり、「末人像」という題のもと、城内校での別れからこのときの再会までを創作文にして、『九州新聞』に寄稿しました。そこには、憲三が払川の逸枝を訪ねたときの様子が、このように書かれてあります。
私は汽車と、馬車と、徒歩とで午後四時頃彼女の家に着いた。…… 私は彼女の家で母親と會つても、弟さん妹さんと會つても、別にわづらひも、へだたりも感じなかつた。 『大變御無沙汰いたしました。』と私は父なる人に挨拶した。 私は一と時も早く彼女に會ひたかつた。が、どうしたのか彼女はなかなか顔を見せなかつた3。
憲三は、「一時間近くぢつと我慢してゐた。……彼女が無事に生存してゐるらしい氣勢も、その可能を信じさせるに足るやうな、たつた一つの小さな物音さへも、遂に受取ることが出來なかつた」4。そこで憲三は口を切りました――。
『お母さん』 私は耐まらなくなつて云つた。 『逸ちやんは!』…… 『逸子は居ります。』 お母さんは笑つた。 『何處かに居りますよ。』 『どうぞ此處へ呼んで下さい。』 と、私は叫んだ。 『逸ちやんは僕に、決して手紙をやつてはならぬとか、僕が來ても、決して會はないからいいなどと云つて寄越してるんです。』 『あれはもう變な娘で御座いますから。』 お母さんは再び笑つた5。
すぐに姿を現わさなかったということは、顔を見たくないほどまでに、逸枝は憲三を拒絶しようとしていたのでしょうか、それとも、隠れん坊よろしく、自分を見つけ出してくれるのをこころときめかせて待っていたのでしょうか。憲三は、逸枝の部屋に入りました。逸枝は、ここにいて、憲三と母親の会話を聞いていたのです。見ると逸枝は、「わざと部屋の隅に小さく坐つてゐた。そして黙つてゐた」6。すると「彼女はぢつと私を見た。その眼はたしかに次のやうなことを語つてゐた」7。
『この人はまあ何て憎いけれど可愛い人だらう、この人は別れてからもう一年まるで妾(わたし)を振向いて見ようともしなかつたのだけれど。この人の手紙は冷たくて、意地悪で、ただ面白くもない皮肉だけのものだつたわ。だけどかうしてまた會つて見ると、何て素直な子供らしい、いゝ人なんだらう。そして、逸ちやんは、なんて優しく母さんに尋ねていらつしたわ。妾はどうせこの人を愛しないではゐられないんだわ』8。
逸枝は、三つ年上の姉さん女房です。憲三のことが、「可愛い人」や「子供らしい、いゝ人」に思えても、何ら不思議はありません。このとき、「二人は静かにそして涙ぐましい接吻をした」9のでした。接吻のあともふたりの会話は続きます。「妾ね、もう一週間ばかりしたらあなたに黙つて上京して仕舞ふつもりで居たのよ。……でも、妾のことはよく解つて下さるでせう!」10。それに対して、憲三は、こう応じます。
『ああ、解つてないでどうするものか。だが、或る人は僕がお前に對してあるセンスを缺いてやしないか、と云うんだよ。卽ちお前の天才、詩、夢想、唯美主義、貞操などについて僕一流の獨斷的な偏見をもつてゐると云ふのだ。』 『そんなことないわ。あなたは何も彼も正しくそのままを御存しだわ。いいところばかりでなくわるいところまでも。そしてそれを無條件で許して下さるのだわ。妾はそのことをいつもあなたに感謝しているのよ。』 『それは僕のニヒリズムだ。』 『いいえ、あなたの誠實です。』11
ここに、屈曲のうちにも姉を慕う誠実な弟の姿があり、これに対して涙ぐみながら感謝をする姉の姿が、重なり見えてきます。この相互理解が、逸枝と憲三の崇高なきずなを奏でる主旋律となって、ふたりの生涯に響き渡ったと、あえてここで先走って言い切ったとしても、そう大きな間違いにはならないものと思量します。
逸枝は、こう書きます。このとき憲三は、「私の出京については生活費は保障するから、むりなことはしないようにといってくれて、だまって旅費百円を本の下において帰った」12。次の年(一九二一年)の六月に叢文閣から出版された逸枝の処女作である『日月の上に』の定価が、二五二頁で壹圓五十銭です。現在の同一体裁の本の価格に置き換えるならば、およそ三千円でしょうか。これを目安に換算しますと、憲三が旅費として逸枝に渡した百円は、現在の二〇万円前後に相当するものと思われます。想像するに、だいたい憲三の給料の一箇月分、ないしは一箇月半分だったにちがいありません。逸枝は、またこのようにも書いています。
憲三は生活費を送ってくれるといったが、私は旅費だけをもらって、あとはなにか労働して自活するつもりだった。東京に出ることは、若い貧しい私たちには必至的な運命であって、いちどは二人いっしょに出ようとしたが、収入のあるものがのこって、そうでないものを助けるという常識的な考えにおちついた13。
そして、ついにその日が来ました。
大正九年八月二十九日午前六時、私は払川の父母の家を辞した。あたらしい天地をもとめて。「逸枝は東京に出発したり」と父はこの日の日記に書いている。暁霧がはれたばかりで、すがすがしい初秋の気が山や川や道をこめ、払川は静かな朝だった。 父は窓のふちに片手をかけ、すこしからだをかがめて、土橋から向うの道にまわってきて、川をへだてて父と向いあって別れの最敬礼をした私に、かるく頭をさげてこたえてくれた。母は大銀杏樹の店の手前の山角まで送ってきた。もう路傍には女郎花が丈高く咲いていたが、母は花の中に立って、別れの言葉をあたえた。そして、「出世しなはりえ」といった。私は、「出世します」とつつしんで答えた。……やがて母はその道をまがって歩き去ったが、これが父母への永久の別れとなった14。
弟も妹も、姉の逸枝を見送りました。
末弟元男は朝鮮にあり、家にいる清人と栞の弟妹が、昔なつかしい瀬戸山の記念碑のところまで送ってきた。ここで道は急坂となり、下りきると、松橋に通ずる街道に出る。弟妹は私が消え去るまで手を振って、この哀れな姉の門出をさかんにしてくれた15。
急坂を下りる逸枝の姿がそこにありました。そして、その出で立ちは、こういうものでした。
私はそのとき、遍路行で切ったままの髪を束ねて下げ、元禄袖の着物と袴と靴、そしてつばびろの麦わら帽をかぶり、肩からズックのカバンをさげていた。そのカバンには、夏の着がえ一枚、下着類すこし、洗面道具、本一冊、紙とインク、万年筆、それに一綴りの原稿をいれていた16。
清人と栞が手を振るなか、とうとう逸枝の旅姿は、坂の下に消えてゆきました。
逸枝が払川を立った八月二九日、あたかも逸枝の旅立ちを見送るかのように、憲三の「未人像(まつじんざう)」の第一回が『九州新聞』の四面を飾りました。「未人像」とは、人間の末尾に位置する者の姿、といった意味でしょう。全一〇回の連載で、逸枝に対する過去の行動への自省が基底に流れています。とりわけ、「末人像(五)」「末人像(六)」「末人像(七)」は、主に過去に逸枝から送られてきていた手紙で構成されています。憲三は、こうした手紙からの引用文を草しながら、これまでのふたりの交際の道のりを反芻していたにちがいありません。そのなかに、このような一節がありますので、紹介します。いつ出されたものかは、不明ですが、逸枝のこころからの思いが綴られていると思量されます。
あゝ、何てやかましく書きましたことでせう。妾はあどけなく申します。妾はあなたに申します、あなたがもし妾を愛して下さいますならばあなたと妾との二人きりの世界に住みたい、無限の幸福無限の抱擁、若々しい戀愛、燃ゆる霊妾はあなたを欲しあなたは妾を欲する、そのためには二人の間の子どもさへも厭はしひ。二人でゐたい。二人つきりで。妾は年齢さへも無視してゐるのです。妾は不斷に若いのです。若い祝福、若い神秘、若い善美人間若かれ、と妾は申します。妾は世話女房を忌みます。妾は永久にあなたの蜜の如き戀のさゝやきを享け得るうら若き愛人でありたひ。妾は快活に飛び歩くでせう。御いつしよに手をとりとられて楽しさを微笑み合うでせう17。
逸枝は、払川を出ると、「この上もない弱虫だったので、松橋から一直線に東京へというわけには踏みきれず、故郷への最後の愛着にしみったれて、熊本の日比野さんのところに四泊し、なんということなしに名残りを惜しんだ。……九月二日、私は上熊本駅から東京行きの列車に乗った」18。「日比野さん」という人物は、すでに書いていますように、師範学校時代の友人で歌人の続友子です。日比野宅に滞在中、逸枝は憲三の「末人像」を読んでいたものと思われます。しかし、「あなたと妾との二人きりの世界に住みたい」という上記の引用文を含む「末人像(六)」が『九州新聞』に掲載されたのは九月五日のことで、すでにこのとき、逸枝の姿は東京にありました。
東京に着くと逸枝は、「赤坂乃木坂の近くの基督教婦人矯風会経営の婦人ホームを訪ねて行った。主任の相沢さんは、翌日すぐ大久保百人町の矯風会本部に私をつれて行って、守屋東さんに会わせてくれた」19。そこで、紙函製造所での職が提案されるも、それとは別に思いがけないことが起こります。守屋の希望で、持参していた「放浪者の詩」を見せると、「守屋さんは誰かその道の人の紹介で出版できるようにしたいといってくれた。その結果、私の詩集は新潮社から出ることになった」20。さらに、幸運が続きます。「球磨の夫からは生活費を送るから静かに勉強せよといってきた。そこで紙函製造所行きは自然解消となり、私はこれも守屋さんや相沢さんの世話で、その頃ホームに出入りしていた世田ヶ谷の大百姓軽部仙太郎さんのところで勉強することになった」21。
大正九年九月十五日、この日は雲一つない秋晴れだった。赤坂のホームから車にのって、渋谷、三軒茶屋を通り、草ぶかい世田ヶ谷満中在家についた。村は八幡さまの祭りで、若い主婦が、猫を抱いて迎えてくれた。主人夫婦に女中が二人、男が一人、それに馬が一匹いた。大きな欅の木立にかこまれた静かな旧い家であった22。
逸枝が軽部家に入って二日後の九月一七日の『九州新聞』(六面)には、逸枝を思う憲三の短歌が掲載されます。「わが秋の歌」と題された五首のなかから二首を選んで、以下に紹介します。
よき妻よ 思い出なれば いと口惜し 去年の秋かや 汝と抱きし。 我れ汝と 遠く離れて なげかへば 秋立ちけらし 恨み長しも。
時は秋、妻と離れて暮らす憲三に、寂寥が忍び寄ります。逸枝もまた、故郷に残してきた自分の抜け殻に思いを馳せ、同じく『九州新聞』に短歌五首を寄稿します。以下は、一〇月六日の六面に掲載された「山林の乙女に寄す」のなかの二首です。
山林の 君が楽しき 日月には 小鳥の影も 流れたり。 かの國の 林のなかは 静かにて 乙女が一人 歩いて通る。
こうして逸枝は、軽部仙太郎となみ夫妻の庇護のもと、東京での新生活に入ってゆきました。
私はこの家で厚遇されることになった。私のためには奥の八畳の部屋が与えられ、朝は孟宗竹林のなかに仙太郎さんがこしらえてくれた洗面台に、女中が湯をはこんでくれ、風呂も毎日、食事もいちいち自室に運ばれた。私は自分にあたえられた部屋と、すぐ畑につづく武蔵野の自然のなかだけでくらし、他にわずらわされるものは何一つなく、秩序正しい自由な生活をおくることができた。寄宿費は二十円。Kからは毎月三十円送ってきた23。
新しい暮らしがはじまってそろそろ一箇月になろうとする一〇月上旬のことです、いよいよ柳澤健の『現代の詩及詩人』が尚文堂から世に出ました。そのなかの一編「高群逸枝子」は、逸枝の詩を絶賛するものでした。以下は、その結びの言葉です。
自分の見るところでは、この婦人の異常なる藝術的叡智と熱情とは、奇蹟を以て目すべきものである。かうして藝術的早熟が、一時的に開花して間もなく萎縮するものでない限りは、彼女が早晩この國に於ける最も尊敬に値する詩人の一人になり得るであらうといふ自分の豫想は、恐らく間違ふことはあるまいと思はれる。自分は、そうした日のくることを、深い祈りと欣びの感情を持つて待たずにはゐられない24。
しかし、喜びもつかのま、大きな不幸が逸枝を襲うのでした。死亡広告によると、一二月一一日午後一一時、病に伏していた逸枝の母親の登代子が亡くなりました。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう。葬送は翌十二日の夜にかけて行われたが、丘の墓地に向って進む野辺おくりの提灯の火が三町あまりつづいたという」25。死亡広告は、『九州日日新聞』には一二月一六日の五面に、『九州新聞』には翌一二月一七日の五面に、それぞれ掲載されました。逸枝は、こう書きます。「母が病むときいても私は東京に出たばかりで帰れなかった」26、そして、ついにその「故郷の母が死んだ。私はなぜ死んだろう、なぜ死んだろうと、毎日つぶやきとおした」27。
そのつぶやきには、このような思い出も含まれていたかもしれません。すでに紹介していますように、生まれると「観音の子」として大事に育てられるとともに、「かぐや姫」という神話的な名で呼ばれ、続いて小学校に入るころには、十八史略や源氏物語などの古典を教えてもらい、また『十三才集』においては、「母様にしかられて泣く夕には/虫もかなしや/ころころと鳴く」や「やみませる母上様にさゝげんと/秋の山道を花折りに行く」と、母への思いを歌にしました。さらに長じて、自分の両親について憲三に語るときは、逸枝は、「妾のうちは、父の現實主義と、母の理想主義とで出來てゐます」28と紹介し、他方、憲三との約婚を前にして母は、「お前たちの生活はさぞ見ものだらう」29といい、実際婿入りのときには、憲三を胸に抱いて「この妙な娘の一生をたのむ」30といった母親でした。その母親が亡くなったのです。遠く離れて住む逸枝は、故郷に向かって手をあわせたにちがいありません。五六年の比較的短い生涯でした。
臨終に際して登代子は、東京の逸枝を思い浮かべながら、「帰郷しなくてもよい」という言葉とともに、こう息子の清人に言い遺しました。「世の中に貢献する仕事をするように草葉のかげからいつも祈っているということをよく伝えてくれ」31。逸枝はいいます。「母は徹頭徹尾、愛の人、平和の人だった」32。
一方、逸枝の父の勝太郎は、「母の死をもってわが事も終わったとして、翌十年三月、払川小学校長の職を辞した」33のでした。『九州日日新聞』は、一九二一(大正一〇)年四月二四日の四面において、「高群校長送別」の題をつけて、こう報じました。「熊本縣下益城郡年禰南部校長高群勝太郎氏は赴任以來満六ケ年一般父兄有志の信用厚かりしが今回離職に付数日前氏が多年の功績に報ふるため同校に於て送別會を兼ね記念品贈呈式を擧行し多數の参會者ありたりし」。
父親の送別会のちょうどその少し前のことではないかと思われます。逸枝のもとに、来客がありました。そのことについて、逸枝は、次のように記述しています。
母のとつぜんの死は異郷にある私を打ちのめした。― それから寝こみがちな日がつづいた。そのなかで、「民衆哲学」という論文を書いて、生田長江さんに送った。生田先生は、わざわざこの遠い家まで、春陽堂の『新小説』の編集者といっしょにこられ、押し入れに投げ込んでいた『日月の上に』も、おもいがけなく日の目を見ることになった。大正十年の早春のことだった34。
逸枝にとって生田長江は、このときが初対面でしたが、すでに名前は知っていました。といいますのも、二年前の一九一九(大正八)年七月一二日の『大阪朝日新聞』(夕刊一面)に掲載された「文藝月評 八」の「脚本」に、柳澤健は、生田を取り上げ、こう書いていたからです。その当時逸枝は、『大阪朝日新聞』を愛読していました。
先ず生田長江氏の『鎔鑛爐』(雄辯)である。此作はその科白の受渡しこそ巧妙を極めてゐるものゝ、それ以外の點に於ては頗る不手際である。……大きいことに不手際で小さいことに手際な日本人特有の性情をわが鋭敏長江氏に見ることは頗る遺憾である。
生田の来訪のおり、「押し入れに投げ込んでいた」と逸枝がいう「日月の上に」は、上京してから軽部家の居室で執筆していた長編詩で、「内容はひとりの野性的な娘(感情革命によって確立された私の像)を中心人物とした、多くのフィクションを含む、自伝的物語」35でした。この作品のもともとの題は「詩」というものでしたが、生田は、題詩にある「吾日月の上に座す」に着目して、「日月の上に」という作品名に変えます。かくして、その物語詩が、一九二一(大正一〇)年四月一日発行の四月号『新小説』に掲載されるのです。巻頭を飾った生田長江の筆になる「『日月の上に』の著者に就て」は、逸枝を「天才者」として高く評価するものでした。
高群逸枝さんは、まだ二十歳にも満たない婦人です。最初にその『民衆哲學』と伝ふ論文原稿を拝見した私は、単にそれを拝見しただけでも少からず驚かされました。現代の日本に於て、これだけしつかりした推理と、これだけ鋭い直觀とをもつた婦人が、果して幾人あらうかと思ひました。けれどもその後、彼女の長篇詩『日月の上に』を拝見するに及んで、私は彼女が単に婦人として稀有の人であるのみならず、あまねく文壇思想界に於ける殆んど如何なる人々に比べても些の遜色を見ないほどの天才者であることを知りました36。
さらに生田は、こうも付け加えます。「しかも、常に噴出の機會をねらつてゐる地の底の火熱に近いものを感じさせないではゐません」37。まさしくここに、「火の国の女詩人」高群逸枝が、誕生したのでした。
生田の「『日月の上に』の著者に就て」に引導されて、長編詩「日月の上に」は、次のような題詩ではじまります。
汝洪水の上に座す 神エホバ 吾日月の上に座す 詩人逸枝
逸枝は、これについて、こう書きます。「この題詩は作品とともに主として詩壇人たちの悪評を買って問題となったもので、山村暮鳥さんなどは、『吾日月を尻に敷く』などと、下卑たことを書いたりしたものだったが……しかし、一般と青年、学生等の間にはひろく読まれたことは、作者自身が受け取った多数の手紙によって知られた」38。
確かにこのとき、柳澤健に続いて生田長江もまた、逸枝の詩才を発掘するという実に大きな役割を果たしたのでした。それをきっかけに、「先生はこの家と、武蔵野の自然がお気にめしたようで、それからもたびたび散策の足をのばしてくださった」39。当時四〇前の生田は、文芸評論家としてのみならず、ニーチェの翻訳家としてもすでに社会に認められる存在でした。そうした散策のときでしょうか、「私が詩劇の制作にすすみたいと希望をのべると、すぐに賛成され、『日月の上に』をみてもその素質を感じるといわれ、まず演劇を知ること、音楽に通ずること、外国語をマスターすること等を話してくださって、そのためにはよろこんで便宜をあたえてやろうといってくださった」40。
他方で、生田を驚かせた「民衆哲学」は、次の年(一九二二年)に京文社から公刊される『私の生活と藝術』に所収されることになります。逸枝によると、この論文を書くことによって、「恋愛以降の混迷した状態から離脱して、安心立命の一つの根拠を確立した」41のでした。
「恋愛以降の混迷した状態」をもたらした張本人は、いうまでもなく橋本憲三その人ということになります。そこへ「大正一〇年五月初旬、故郷のKが学校の茶摘み休みを利用して軽部家へたずねてきた」42のです。おそらく憲三は、『新小説』四月号に掲載された逸枝の「日月の上に」を読んでいたにちがいありません。生田長江の推薦により『新小説』に発表することになった経緯を、逸枝は知らせていたのかもしれません。さらに憲三が軽部家に滞在するなかにあって、六月一五日を発行日にもつ『日月の上に』が叢文閣から、二日後の六月一七日を発行日とする『放浪者の詩』が新潮社から、世に出ます。逸枝にとって、まさしく「月漸く昇れり」の瞬間でした。このとき、逸枝と一緒に憲三も、この二著を手にしたことでしょう。
『日月の上に』は、長編詩の「日月の上に」のほかに、短編の「五月の雨」「虐待される歌」「妻歌う日没時に」「夕べの哀歌」、そして「月漸く昇れり」の計六編から構成されていました。最後の「月漸く昇れり」のなかから主たる詩語を断片的に拾い上げ、順に並べてみますと、次のようになります。「妾」の読みは、おそらく「わらわ/わたし」でしょう。あるいは「しょう」と読ませる意図があったかもしれません。
妾が女詩人として/九州から出て來た時に/お前が妾に呉れたものは/不自由と不幸とであつた 云つて呉れるな/貴女の御本領は詩作ですなどと/なぜ我々は/詩作の爲めに苦しまねばならないのか…… 乙女をして歌はしめよ/太古の山に住ましめよ/女郎花をして咲かしめよ/しら雲をして飛ばしめよ 俗悪な世の/俗悪な群衆が/斯くも妾を不快にし/斯くも妾を飛び去らしめる…… ああ解放されたる展望よ!/よろこばしくも寂みしく妾は思ふ!/(月漸く昇れり!)/野邊なる月が/妾の心を照る時に43
逸枝は、「九州から出て來た時に/お前が妾に呉れたものは/不自由と不幸とであつた」と詠います。城内校での出来事が念頭にあったのかもしれません。この詩片から、逸枝の憲三に対する不信感なり嫌悪感なりの一端を読み取ることができます。
すでに前に述べているとおり、一方の『放浪者の詩』は、出京するときにはすでに完成していた作品で、矯風会本部の守屋東の口利きにより上梓が可能となった経緯がありました。この詩集は、「長詩」「短歌連作」「短歌」から構成され、目次に先立ち「序」があり、それは、二三のアフォリズムで成り立っていました。ここに、この時期の逸枝の思考のすべての断片が、箱詰めされているように感じられます。以下は、その最初の言辞です。
一、放浪者は何の貞操ももたない44。
ここにある「貞操」を、女性にとっての性的関係の純潔さの保持という意味に解するならば、姦通罪を規定する当時の刑法に照らしてこのアフォリズムは、極めて挑発的で反逆的な様相を帯びます。すでに触れていますように、逸枝は手製の『少女集』(熊本市立図書館所蔵)のなかで、「操、厳かなる操の下に、いつ枝は清く住まんとぞ思ふ」と書いていましたし、憲三と会ってすぐにしたためた「永遠の愛の誓い」には、「私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます」との文字が並んでいます。ところがその後、城内校で新婚生活を送っていたとき、これもまた、既述にありますように、憲三は逸枝に、このような言葉を浴びせかけました。「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」。この言葉は、逸枝に少なからぬ衝撃を与えました。「Kが押しつけた『沈鐘』を読んだことは、私には大きなショックだった。これが感情革命の導火線となったのだった。作中の森の姫ラウテンデラインは、私のうちに眠っていた『火の国の女』をよび覚まして、これを表面化させた。ここに私はKを忘却し、私自身となった」。
おそらく逸枝は、城内校での生活の破綻から実家にもどり、出京するまでのおよそ一〇箇月のあいだにあって、自身の視野から憲三の姿が消え、それに代わって、何ものからも束縛を受けない、自由な女の魂を獲得することになったものと思われます。そのとき到達した新たな地平の一端が、「放浪者は何の貞操ももたない」という境地だったのでしょう。しかし、いずれにしても、「放浪者は何の貞操ももたない」の金言は、憲三の女性に求める思いの焼き直しにすぎず、その意味で、憲三からの借用であるがために、実質を伴わない、生半可な観念的境地である可能性が残ります。明らかにもとをただせば、いっさいのわずらわしさを嫌悪する憲三が示した、無神経にも遠慮会釈なく自分に寄りかかってくる逸枝に対する拒絶反応に由来するものだったのです。しかしながら、もし実際に、この表現に、「何の貞操ももたない」自由で奔放な逸枝の行動が内蔵されているとするならば、いやがうえにも憲三をいらだたせる要因となったにちがいありません。憲三が逸枝に会いに上京してきたとき、逸枝と憲三の双方とも、相手を全面的に受け入れることもできなければ、完全に拒否することもできない、そうしたふたつの極に縛られた、不安定で中途半端な状況に立たされていたのではないかと思料します。
四月号の『新小説』に「日月の上に」が掲載され、続く六月に『日月の上に』と『放浪者の詩』の二冊の単行本が公刊されると、逸枝の身辺が一気にあわただしくなりました。
私の昼の時間はジャーナリストや各種類の男女の訪問客のために奪われるようになった。訪問者のない日はほとんどなかった。……私はまだ訪問者をさける分別をもたなかったので、いちいち対応して悩んでいるのを、後にはなみ夫人がみかねて上手にことわってくれるようになったが、それでも心の自由さはだんだんむしばまれてくるようだった。もはや林の中の思索も、散歩すらも可能でなくなった45。
こうした状況を、憲三も直接目の当たりにし、「心の自由さはだんだんむしばまれてくる」逸枝を心配したにちがいありません。それとは別に、根拠のない憶測になるかもしれませんが、逸枝に生田長江の影を感じ取った可能性も考えられないわけではありません。といいますのも、すでに述べていますように、逸枝の「愛の黎明」に登場する三人の男性との恋愛事件が、いまだ憲三の脳裏に焼き付いていたものと考えられるからです。
そこで憲三は、「ジャーナリストや各種類の男女の訪問客」からのみならず、「よろこんで便宜をあたえてやろう」と好意を示す生田長江から、逸枝を守る道を直感的に選んだものと推量されます。
「彼は休みの期間が過ぎるとすぐ帰るはずだったが、私をみるなり、たちまちひょう変して、私を略奪する気になったらしく、故郷の南の海岸にいって一年くらい二人だけでのんびりくらしてみないかといい出した」46。結果的に、この憲三の申し出を、逸枝は受け入れることになるのでした。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、178頁。
(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、179頁。
(3)橋本憲三「末人像(二)」『九州新聞』、1920(大正9)年8月31日、4面。
(4)同「末人像(二)」『九州新聞』。
(5)同「末人像(二)」『九州新聞』。
(6)橋本憲三「末人像(三)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月2日、4面。
(7)同「末人像(三)」『九州新聞』。
(8)同「末人像(三)」『九州新聞』。
(9)同「末人像(三)」『九州新聞』。
(10)同「末人像(三)」『九州新聞』。
(11)同「末人像(三)」『九州新聞』。
(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、179頁。
(13)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、202頁。
(14)同『今昔の歌』、209-210頁。
(15)同『今昔の歌』、210頁。
(16)同『今昔の歌』、211頁。
(17)橋本憲三「末人像(六)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月5日、4面。
(18)前掲『今昔の歌』、213頁。
(19)同『今昔の歌』、214頁。
(20)同『今昔の歌』、214-215頁。
(21)同『今昔の歌』、215頁。
(22)同『今昔の歌』、同頁。
(23)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、184頁。
(24)柳澤健『現代の詩及詩人』尚文堂、1920年、162頁。
(25)前掲『今昔の歌』、236-237頁。
(26)同『今昔の歌』、237頁。
(27)同『今昔の歌』、215頁。
(28)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、180頁。
(29)同『恋するものゝ道』、178頁。
(30)前掲『今昔の歌』、201頁。
(31)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、185頁。
(32)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(33)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、186頁。
(34)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、187頁。
(35)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、189頁。
(36)生田長江「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』1921年4月号、別1⃣ 1頁。
(37)同「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』、同頁。
(38)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、187-188頁。
(39)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、189頁。
(40)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、190頁。
(41)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、187頁。
(42)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、190頁。
(43)高群逸枝『日月の上に』叢文閣、1921年、248-252頁。 最後の詩編のタイトルは、目次においては「日漸く昇れり」となっており、これは「月」とするべきところの誤植ではないかと思われます。
(44)高群逸枝『放浪者の詩』新潮社、1921年、1頁。
(45)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、190頁。
(46)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。