中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第三部 憲三と逸枝の婚約と城内校での新婚生活

第九章 憲三の「神経衰弱」発症と逸枝の「感情革命」達成

青年と少女の語らいを戯曲風に構成した橋本憲三の短文に「山の挿話」があります。ちょうど逸枝が四国巡礼の旅から帰熊しようとしていた時期に書かれたもので、一九一八(大正七)年一〇月五日の『人吉時報』(五面)に掲載されました。以下は、そのなかの一節です。

青年 さようなら 小鳩。

少女 ほんとに貴朗あなたはいらつしやるの。

青年 私は私の生活を始めなければならない。

少女 貴朗は妾の胸から、美とローマンスを奪つてお仕舞ひなさるんですわね。

青年 私にはしなければならぬ、もつともつと重要な仕事がたくさんあるんです。

少女 それでは、そのために哀れな女の全生活を否定しても構はないつて仰有るんですの。

青年 どうぞ許してお呉れ。私は私のエゴイズム(利己主義〇〇〇〇)を憎む。しかし、私の生活を犠牲にすることはできない。

これは、明らかに青年と少女の別れの場面ですが、あたかも城内校での憲三と逸枝の三箇月に及ぶ新婚生活の終焉を先取りしているかのような暗示的な文になっています。それでは実際には、城内校での生活が破綻したのち、憲三と逸枝のそれぞれは、どのようなことに時間を費やしたのでしょうか、それを見てみたいと思います。

一九二〇(大正九)年八月二九日の『九州新聞』四面に掲載された憲三の「末人像(一)」は、「私は一年振りに彼女に會ひに出掛けた。」ではじまり、「かうして一年たつた。」で終わります。つまり、この「末人像(一)」には、一九一九(大正八)年一一月に逸枝が城内校を去って払川の実家にもどってから、憲三が翌年の夏に払川に逸枝を訪ね、単身逸枝が出京するまでのおよそ「一年」が記述されているのです。創作文ですので、細部に関しては事実と異なる箇所があるかもしれませんが、大筋としては、ほぼこのとおりだったのではないかと思われます。それでは、「末人像(一)」の記述内容を幾つかの断片に分けて、以下に引用することにより、この間の憲三の動きを要約することにします。

 私は一年振りに彼女に會ひに出掛けた。
 私はその間、自分の病氣にすつかり氣を腐らして苛苛してゐた。私は勿論彼女のことを敢て忘れ得る程の勇氣と、餘裕はなかつたが、さてそれでは、一體どうしたらいゝか、になるとまるで分らなかつた。それは、其の頃の私にはどうせ歯が立たぬ問題なのであつた。私には第一力が不足してゐた。第二に名案がなかつた。第三に誠意に缺けてゐた。

それでは、ふたりが約束していた東京行きはどうなるのでしょうか。

 私達は其の前に、いつしよに出京することに話を決めてゐたが、それは私の思ひ掛けなかつた病氣によつて、見事に頓挫して仕舞つた。

それでは、日々の暮らしは、どのようなものだったのでしょうか。

 私は先づ何よりも自分の健康を恢復することを、私及び私達の幸福の爲めに痛切に感じたが、それさへなまけ者には誠意がなかつた。私は最初の間こそ殊勝にも出來るだけ冷水摩擦と、運動と、散策とを實行したが、此の大して面白くもない世の中に、一體何の望みがあるのか、と考へると自分のお目出たと、未練と、卑怯とが氣恥しくなつて、それから一も二もなく止して仕舞つた。そしてついでに醫師の熱心な勧告と、周到な注意までも斥けて、自分の暗い陰氣な部屋に閉じ籠つたまゝ、只管に黄色い雑念と、青白い妄想の中に、徒に摂生夢死の快を貪りとつた。

それでは、その病気とは、何だったのでしょうか。

 これはいゝ體格だ、とかつて或る體育家は私の身體に折紙をつけて呉たことがあつた。そして私のかゝりつけの醫師は、あなたの身體は割合にいゝのですよ、と保證して呉れたが、私の病氣-神経衰弱はますます嵩じて行くだけがおちであつた。

それでは、彼女への思いは、どうだったのでしょうか。

 私は自分の運命に對して、何れも不服を云ふ譯はなかつたが、それでも或るときひそかに不覚の涙を流した。私は彼女を唯、切に愛してゐる事實は、流石に私を悲しませずにはおかなかつた。……
 私は、滅多に手紙を書かなかつた。私の思ひは鬱した。愛することは誠に苦しいことだ、と私は思つた。かうして一年たつた。

こうした闘病生活のなかにあっても、憲三は、教師としての勤務は続けていましたし、「自分の暗い陰氣な部屋に閉じ籠つたまゝ」小説の執筆にも向かっていました。この間憲三は、『九州新聞』に、「寂」「餘寒」「山彦」の三つの小説を連載しています。実に多産です。

「寂」は、家族のそれぞれがこれまでに経験した病気や事故の様子が断片的に描写されています。母は病に倒れたことがありました。姉は入院を経験します。必ずしも家庭には、常に明るい陽ざしが差し込んでいるわけではありませんでした。

 かうして家には、彼がたまたま・・・・歸つて來ても、彼を悦ばせることは何れにもなく、やつと飯だけが、母の手で焚かれるだけで、汚れた着物を始末してくれるものさえなかつた。
 それで、彼は戀人に會ひに行く時などは、よく留守中の兄の着物を借つたりした

さらに話は、次弟と末弟のことへと進みます。

 彼はそれから、一番末の弟が樹から落ちて、怪我をしたとき、たつた一度歸つたことがあつた。
『我既に一眼を失ひぬ。次弟既に一耳を失ひぬ。末弟今また一脚を失わんとするか。……急遽彼を病床に訪はむとす。我が心暗然。』
 しかし、彼は、弟の顔を見ると、すぐ歸つてしまつた。そして、それきり、彼は家との直接の交渉を絶つてしまつた

そしていまの心境について、こう語ります。「殊に戀人が彼をひとり、冬まで残して去つたことは、彼を殆んど寂寥のどん底に投げ込んだ」

「我既に一眼を失ひぬ」と語る憲三は、加えて、幼い日、仲のよかった妹を事故で失っています。自身はかつて、肺結核の診断を受けて就職に支障をきたしたこともありました。加えていまや、憲三のもとを逸枝は立ち去り、引き換えに「神経衰弱」の病が襲いかかっているのです。さらには山里の冬の寒さが、いやがうえにも憲三の寂寥に忍び寄ります。

同じ時期に逸枝は、『九州新聞』に短歌を寄稿します。そのなかから、以下に二首、紹介します。憲三へ向けた思いが込められているとの解釈も可能でしょう。

此の獨想ひ波打ち野べをゆき
こころ久しこころ彼方に

しらたまの乙女心は晴れがまし
小鳥と共に誰を思はむ

そうしたなか、『人吉時報』が「橋本憲三君及び同夫人逸枝女史」を報じ、ふたりのこれからに大いなる期待を表明するのでした。以下はその全文です。

現代に於ては鐡幹、晶子、古くば星厳、紅蘭、その他曰く、何々、云ふだけが野暮なるべし、天下後世をしてわが球磨を知らしむるには我が橋本氏夫妻の力を借らずんばある可からず、吾等は橋本氏夫妻ある事を以て我郡より大西郷を有するよりも、白頭首相を有するよりも、ロイド、ジョージを有するよりも、ウイルソンを有するよりも光榮に感ずるものなり、近く手を携へて御上京の由、君が一管も筆により洛陽の紙價九天の高きに至るべし

こうして憲三と逸枝の記念すべき約婚の年は往き、一九二〇(大正九)年の正月が来ました。憲三は一〇日に二三歳の、逸枝は一八日に二六歳の誕生日を迎えます。続く一月二七日から『九州新聞』において憲三の「餘寒」の連載がはじまりました。「餘寒(四)」には、こうした一節があります。当時の憲三の心境の一端を表わしている部分ではないかと思われますので、次に引用します。

 彼はもう暫く机に向はない。それを思ふとたまらなく淋しかつた。彼には彼が今しようとしてゐることより他に、まだしなければならない仕事が澤山あつた。彼は書くと云ふことよりも、讀むことや、考へることや、観ることを多くしなければならなかつた。そして、何よりも先づ自分の生活を豊かにしなければならなかつた

「餘寒」が完結すると、逸枝の連作詩が『九州新聞』に掲載されます。「古い扉」と題された五連からなる自由律の詩です。以下に奇数の連を紹介します。

古い扉よ
誰も知らない王宮の
春風の日のお前に凭れよう。

そして妾は
有名な女詩人となり
蜜と三日月とを空想しよう。

そこで私は
古い扉よお前に言はう
誰もゐないしお前は尊いと

「古い扉」は何を象徴するのでしょうか。憲三その人かもしれません。もしそうであれば、憲三を尊敬し、その胸にもたれかかって、いまや女詩人となって自分は世に出たいという気持ちが表出された作品として、この詩を読むことができます。その一方で、詩型にも変化がみられます。この時期、逸枝の身に、のちに詳しく述べるように、詩作への態度の変化を含む、「感情革命」が起こっていたのです。

他方、「餘寒」に続く憲三の『九州新聞』における連載小説は、「山彦」と題された作品でした。あたかも、逸枝の「古い扉」に呼応するかのような表現箇所がありますので、その部分を、次に書き留めます。一歩家から踏み出そうとしたときに襲ってきた想念が描かれています。

 彼は遊んでゐる方の手で、あわてて、一寸眼鏡を直しながら、ばちぱちと眼をしばたたいた。
『おれは忘れちやいないのだ。』
 彼は頭を振つた。
『おれは決して、勝手に、おれひとりの夢を見てゐる譯ではないのだ。』
 彼は歩き出しながら、片頬を掌で押へた。
『おれは、お前に済まないといふことはよく知つてゐる。しかしおれはおれをもてあましてゐるのだ。一體、此の自分自身をさへ信用し切れないでゐるやうなおれに何が出來るといふのかね。』
 日が素直に落ちて行つた。彼は何か拍子抜がしたやうな氣がしてひよいと首を縮めて、さて頬に當てゐた手を離した

「自分自身をさへ信用し切れないでゐるやうなおれに何が出來るといふのか」――私には、これこそが、憲三がこれまでに逸枝に対して示してきた態度の根底を形成する部分であるように感じられます。つまり、生きるということにかかわって、そして、対人関係において、さらには家族の一員として、常に憲三は、自信を喪失した状態で、そして何とかそれに耐えながら、自らの生を紡いできていたのではないでしょうか。自身の左眼の失明、神経衰弱の病、家族の数々の不幸の耐えがたい重みを必死に支えるための行為が、彼にとっての執筆活動だったにちがいありません。城内校で新婚生活を送っているとき、逸枝は、自分が憲三に送った手紙を、焼き捨てることなく、小説の素材にするために憲三が残していたことに、「はずかしさと腹だち」を感じながらも、決してそれを責めることはありませんでした。ここから判断しますと、逸枝は、憲三の苦しみの内実と小説執筆へと向かう衝動との両者に存する関係性をはっきりと理解していたものと思われます。しかし、そうはいっても、逸枝の心情は決して穏やかではなかったようです。実際憲三に、こうした内容の手紙を送っていた可能性があります。以下は、「山彦」からの引用です。

 私どもの戀は、もう腐りかかつてゐるのでは御座いませんかと存じます。切つて棄つべき時が到頭やつて來たのだと思はれます。
 それだけです。外には何にも御座いません。今、此のまゝで簡単にお別れいたします。御返事はどうぞ下さいますな、すると御承諾下さつたものだとお認めいたすのですから。ね、さうして下さい。兩親達には、だけど黙つてゐませうね。でないと大變うるさいのですから。くれぐれもそれをお願ひいたします10

本心から別れを願っているようにも読めますし、自分のつらい気持ちを理解して、優しい言葉の手紙がほしいと訴えているようにも読めます。果たして、逸枝と憲三の関係は、修復できるのでしょうか。

憲三に「神経衰弱」の症状が出ていたこの時期、一方の逸枝にも、城内校から実家にもどり出京するまでのあいだに、大きな変化が派生していました。逸枝はそれを「感情革命」と呼びます。それではこれより、「感情革命」とはどのようなものだったのか、それを再現してみたいと思います。

憲三を相見知ってからこのころまでの気持ちを、逸枝は、このように総括しています。逸枝がいかに古い自分を捨てて自己変革をしてゆくのか、その過程の一端がよく現われていますので、少し長くなりますが、ここに引用します。

 私は従来の私を白紙にかえしてしまった。そしてこの「恋愛と結婚の苦悩」の時期を、私は思慕と曲従(曹大家『女誡』)とにうちのめされ、私の相手であるKは悪魔主義と毒舌に終始したのだった。
 それはまことに不思議な経験だった。男性の露骨なエゴイズムと、男性の臆面もなく叩きつけてくる卑俗さに、これほど新鮮な魅力を感じたことはかつて私にはなく、またこの段階ほど彼の嗜虐的な行動や若干の先輩ぶった放言によって、女としての私の古い貞操観や、低能、鈍感、分裂症状等の欠点が、川床のごろた石のように、谷間の死骸のように露出されたことはなかった。この醜態と自信喪失とから、私が立ち直ることは、容易なわざではなかった。それは苦悶と自己嫌悪とに充ちたものだった。……
 しかし、この過程で、われわれは自己を飛躍させ、豊かにし、つぎの純粋な「与えられた道」の時期に入ることになるのだ11

実年齢は逸枝が三歳上でも、精神年齢にあっては憲三がはるかに勝っていたようです。憲三がもっている知識量と思考力が、純真無垢な「山の乙女」の逸枝をなぎ倒します。逸枝は、それに反論することもできず、黙って受け入れるしかないのです。こうして、いままで持ち合わせてきたセンティメンタルでロマンティックな心的状況が瓦解し、逸枝を「白紙にかえしてしまった」のでした。

憲三の悪魔主義とエゴイズムは、一面においては、逸枝にとって実に「新鮮な魅力」を感じさせるものでした。しかし、別の一面においては、女としての自身の内面を構成していた「古い貞操観や、低能、鈍感、分裂症状等の欠点」を一気に露呈させてしまったのです。逸枝の苦悶はここにありました。自己嫌悪にさえ陥ります。しかしこれが、逆に、飛躍のための跳躍台になったのでした。

城内校での生活は、逸枝に「感情革命」を迫り、詩人として、そして女性観において、古いものを捨てさせるという、実に多くの恩恵をもたらしたのでした。

逸枝は、このように具体的に書いています。

 球磨から帰ってから東京に出るまでの約十ヵ月間に、私は奇蹟的ともいってよいかも知れない感情革命をとげ、それが一時に大量の作品となってあらわれた12

この「感情革命」が起こる前段として、詩作にかかわるふたつの階梯がありました。第一段階は、「雲、山、水のなかに溶け込んで、その一景物のような姿で充ち足り、その稟性は愛と平和に貫かれていた」13作品で構成されていました。次が、その代表的な作例です。

人なつかし わが世なつかし いまはわれは
泪こぼして 山の上にあり

椿の花 拾いて仰ぐ ひとひらの
白雲飛ぶや 飛ぶやいずこまで14

しかし、憲三との恋愛がはじまり、それが深く進行するにつれて、自ずと作風に変化が訪れます。これ以降、第二段階に入ります。「結納」から四日が立った、一九一九(大正八)年四月一八日の『九州新聞』(六面)に「酔に乗じて」と題して逸枝の短歌八首が掲載されます。以下は、そのなかの二首です。

燃ゆる燃ゆる 燃ゆる焔に 身をよせて
とけて流れて 仆れるゝも好し

殺されむ 殺してやらむ 血の情け
血の情けかも 血の情けかも

さらに一箇月後の五月一八日の『九州新聞』(六面)には、「甘いいのち・・・」の詩題のもとに五首が掲載されます。以下は、そのなかの三首です。

かなしみの やむにやまれぬ 胸のうち
甘いいのちを 何とせうぞの

たつぷりと 甘いいのちに 身を窶つし
花を一と枝 酒を一と壺

酔ひしれて 泣けば暮春の 花が散る
甘いいのちを 何とせうぞの

この「甘いいのち・・・」には、前文が付されています。「わが唄は常に辞世の唄にしてわが命は常に旦夕に迫るわが異常なる天才は斯して空しく亡びむ」。注目すべきは、ここに「天才」の文字を使っていることです。かつて熊本女学校時代に教師に、「お前は天才ではない」と、たしなめられ、逸枝は崩れ落ちる思いを経験していました。そしていま、ようやく自分を「天才」の高みにおいて認識するようになったのでした。

それから三週間後、『大阪朝日新聞』に掲載された柳澤健による「婦人を待てる文壇」が、逸枝の目に止まりました。それには、このような文字が並んでいました。

女性解放といふことは、単に夫から家庭から妻を解放するといふこと許りではない、また、工場の勞働時間や賃銀に關すること許りではない。それよりも、世界と文化の上から見てもつと大切なことは、男性の息の籠りすぎた精神生活の雰圍圏のなかゝら、女性を解放することである。換言するならば、優れたる閨秀作家が燦びやかな姿をもつて混雜してゐる男性の群の上に匂やかに現はれきたることである15

これを読んだ逸枝は、さっそく柳澤に手紙を書き、手製の詩集『白白白』を送りました。そのなかには、こうした歌が収められていました。

吹く風の 白白白の 大揺れに
消えて消るる 夕映さの徑

底に泌む 溶けし桃いろ 樹の光り
大揺れに揺れ 陽は揺れに揺れ16

これらの逸枝の詩に対する讃美の辞が世に出るのは、翌年(一九二〇年)に刊行される柳澤健の『現代の詩及詩人』のなかの一節「高群逸枝子」まで待たなければなりませんでした。

それにしても、逸枝の「白白白」のイメージは、どこから来ているのでしょうか。逸枝は、憲三への手紙のなかで、「今、妾の心は白紙ですの。娘の妾は騎士のあなたによるのですの」と書き、四国巡礼を漂泊の旅と称し、「愛の黎明」の初回の文の題名に「告白」の文字を使い、そして、そののち逸枝は、死と重ね合わせながら白骨を主題に詠います。連想できるのは、「白紙」「漂泊」「告白」「白骨」です。

城内校での新婚生活とその破綻は、逸枝の成長と詩作に大きな衝撃を与えました。いよいよここに至って、第三段階に相当する「感情革命」が生まれ出るのでした。

これは不思議なことだった。私はたびたびいったように、文学を知らず、興味もなく、この種の本はまだ数えるほどしか読んでいなかった。それでKのところで文学についての概論や解説や内外の小説、戯曲、詩などを読んだのであるが、とくにKが押しつけた『沈鐘』を読んだことは、私には大きなショックだった。
 これが感情革命の導火線となったのだった。
 作中の森の姫ラウテンデラインは、私のうちに眠っていた「火の国の女」をよび覚まして、これを表面化させた。ここに私はKを忘却し、私自身となった。それは結果としては「女体の成熟」をめざす方向をもつものだった17

「とくにKが押しつけた『沈鐘』」という本は、登張信一郎と泉鏡太郎(泉鏡花)の共訳で一九〇八(明治四一)年九月に春陽堂から出版されていた『沈鐘』だったものと思われます。のちに詳しく述べますように、これが、逸枝の生涯を規定する、開眼の書となるのでした。

さらに逸枝は、こう続けます。

 球磨から帰ってくると感情革命とともに、山の乙女の女体は成熟し、その精神は悲鳴をあげて生き悶え、人生のむざんな露骨な表現への苦悩、それのひきおこす思想的相尅、もう一ついえば家の貧乏等に、山の乙女の私は、あるときはか弱く抵抗し、あるときは進んで対応し、跳ね飛び、あるときは打ち仆されて死骸となった。常識も、自己防衛も断絶した18

そしてついに、逸枝にとっての新しい詩型が誕生します。次も逸枝の文です。

 まさに一飛躍だった。陶酔の山の乙女はここにきて冷厳な観照派となり、さらに異様な四次元的な抽象的世界へ入り込もうとする気はいさえみせはじめた。こうして、山の乙女の生活情緒は、ついに短歌の定型(三十一文字)からはみ出し、破調(自由律)の短歌となった19

続けて逸枝は、その作例として、この時期につくった、次のような不定型の短歌を紹介します。

人の声野の声人の声
道遠く秋響す

きょうの日は暮れぬ
まずよろこばむきょうの日を

沈まば沈め赤い日よ
ではランプをつけよう

このとき逸枝が獲得したのは、約束事で成り立つ定型ではなく、束縛のない自由型でした。これをさらに発展させれば、もはや短歌から離れ、長編の物語詩の世界へと分け入ることになります。そうした世界の一端を、のちに公刊する『日月の上に』(叢文閣、一九二一年)に見ることができます。

かくして逸枝は、「女体は成熟し」「Kを忘却し」、ひとりの女として「私自身となった」のでした。このことはまた、逸枝の「女性論」への開眼を意味します。「感情革命」は、ひとり詩作にかかわる自己変革だけではなかったのです。この時期逸枝は、まさしく「女性変革」を求めて声を上げたのでした。その主張は、「婦人時言」と題して『九州日日新聞』に登場します。これは四回の連載物で、一九一九(大正八)年一二月九日六面の「一、分裂」にはじまり、休載なく、翌一〇日六面の「二、自覺」、一一日六面の「三、智識」、そして一二日六面の「四、自由」をもって完結します。それでは「婦人時言」から、各回の柱となる部分を以下に短く引用して、逸枝の主張するところを構成してみたいと思います。

昔婦人は槪して社會的にも家庭的にも一般道徳から考へて見て奇麗に解決が着いて居た[。]夫れが色々の原因から少しづゝ破壊されて光と闇とが同時に押し寄せて來た。……今や直覺の夫れ自身と他より投影されたる夫自身の複雜微妙な關係や其の關係を諦視せむとする夫れ自身の努力は吾々をして底知れぬ深淵へ投込つゝ有るのです。
[「一、分裂」より]

第一生きてゐる事を吾々は知つてゐますか、なぜ母性保護の必要が有るのです、なぜ選擧權獲得の必要があるのです、なぜ騒いでゐるのです、一番恐ろしい事は未だに混亂し分裂し苦悶しつゝある内部的不安が外界の露骨な潮流に餘儀なくされて器械化し人形化し奴隷化して行く事です[。]
[「二、自覺」より]

現在の吾々にとつては先づ何よりも智識です、と恁う申すのです。智識は一面から見て、もとより形式で有り手段で有りませう[。]然るに其の形式手段が所謂内容目的に及ぼす力、所謂内容目的を誘道啓發する力、所謂内容目的を新範疇にまで厖大せしめる力、もう一歩進んで所謂内容目的を構成し輪廓する力をお考へ下さい[。]
[「三、智識」より]

斯の如く觀じ來れば自由とは卽ち一個の「自己保安」に基調する人間的主觀の概念で有つて常に正しき自己を中心とする篠理ある雰圍氣に外なりません[。]かゝる見地よりして吾々は飜へつて吾々婦人の現在生活に於ける自由を考へたいと存じます[。]……而も獨り個人的社會人的國民的立場に止まるのみならず藝術的天才哲學的偉人其他あらゆる異材の輩出を吾々婦人の間にも見出したいこと切望に耐へない次第で有ります[。]
[「四、自由」より]

この「婦人時言」を読むと、この時点においてすでに、いかなる定型からも、いかなる常識からも、そしてまた、いかなる制度からも解放された「自由」を元手に、詩人からアナーキストへ、アナーキストから女性史学者へと向かうこれからの道程が、逸枝の内部にはっきりと刻み込まれていることがわかります。

この年(一九二〇年)の夏のことです、フランス大使館に赴任しようとしていた柳澤健から逸枝のもとに手紙が届きました。それには、「外務省に私のポストをみつけて置いたから、さっそく出京してはたらきながら勉強するように」20と、書かれてありました。しかし逸枝は、「官衙づとめに自信がなく、かえって恩を裏ぎるようなことになっては申しわけがないと思い、それを受ける勇気が出なかった。……端的にいえば、自由の窒息をおそれたのであった」21。この申し出に対して逸枝は、「深い謝辞とともに率直に柳沢さんにそれを告げるとともに、愛顧にこたえるためにかならず出京して勉強したいということも伝えた」22のでした。おそらく柳澤からのこの手紙には、近日中に拙著『現代の詩及詩人』が刊行され、そのなかに「高群逸枝子」の一節が加えられていることが明かされていたものと思います。

かくしていよいよ、「神経衰弱」を病む憲三は故郷に残し、独り火の国を出て東京に上る、逸枝の不退転の覚悟が整ったのでした。

(1)橋本憲三「寂(五)」『九州新聞』、1919(大正8)年11月7日、6面。

(2)同「寂(五)」。

(3)同「寂(五)」。

(4)高群逸枝「こゝろ久し」『九州新聞』、1919(大正8)年11月7日、6面。

(5)高群逸枝「空気の斑點」『九州新聞』、1919(大正8)年11月29日、6面。

(6)「橋本憲三君及び同夫人逸枝女史」『人吉時報』、1919(大正8)年12月5日、1面。

(7)橋本憲三「餘寒(四)」『九州新聞』、1920(大正9)年1月30日、6面。

(8)高群逸枝「連作『古い扉』」『九州新聞』、1920(大正9)年4月2日、6面。

(9)橋本憲三「山彦(一)」『九州新聞』、1920(大正9)年7月23日、6面。

(10)橋本憲三「山彦(二)」『九州新聞』、1920(大正9)年7月24日、6面。

(11)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、127頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、173頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(15)柳澤健「婦人を待てる文壇」『大阪朝日新聞』、1919(大正8)年6月9日(夕刊)、4面。

(16)柳澤健『現代の詩及詩人』尚文堂、1920年、156頁。

(17)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、171頁。

(18)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(20)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、178頁。

(21)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、202頁。

(22)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、179頁。