中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第五部 憲三の平凡社入社と逸枝の家出事件

第一二章 逸枝の死産経験と憲三の平凡社就職

「胎児は弥次でも、難渋をきわめた東上の車中でも元気よく動いて、私の不安と動揺とをなぐさめているようだった」。東京に着いて、約一箇月が過ぎました。この間「軽部家では旧に変わらない待遇を受けた、出産についても手ぬかりなく気をくばってくれ、なみ夫人が医師や助産婦の来診から、産具、産衣類まで整えてくれた」。しかし、「大正十一年四月十日、私は世田谷の軽部家で憲平ちゃんを死産した」のでした。「医師によると、直接の死因は脳震盪で、それは助産婦の手落ちによるとされたらしかったが、助産婦は母体の衰弱を盾にとって抗弁したようだった」。しかし、のちに憲三は、こう語っています。「医師がそう言ったのですよ。産婆の手落ちだと……。じつは僕が殺したようなものですよ。……産婆が押してくれというんです。手伝ってくれと。だから、僕は言われる通り、押したんです。……えー、わけもわからず。力一杯」

他方、自分の子の死産を知った逸枝は、どのような心的状況だったでしょうか。自分が生まれる以前に誕生していた三人の兄のことについて、母親から聞いていた、その記憶が蘇ってきたにちがいありません。最初の子は死産、次の子はひと月半で早逝、三番目の義人も一年あまりで亡くなっていたのでした。熊本市立図書館に所蔵されています手稿本の『十三才集』のなかに、次のような、逸枝の「兄上を思ふ」の一節を見ることができます。

妾に一人の兄上様 おはしましき なづかしき そのおん名は義人とのたまひぬ……
妾には只の一人の御兄様だになし 妾は切に亡き兄上様を思ひまつりて さびしき 涙のみ 流れ出づるなり

逸枝は、その姿を知ることのない幻の兄の義人に思いを馳せ、「さびしき 涙のみ 流れ出づるなり」と書きました。そこから類推しますと、「憲平ちゃん」の生き顔を見ることができなかった逸枝は、そのとき、とめどなく流れる涙とともに、崩れ落ちたにちがいありません。その後、憲三と逸枝の夫婦には、子宝に恵まれることはありませんでした。意図的なものだったのか、それとも、あるがままの自然の結果だったのかは、資料的には不明です。

あたかもその悲しみを乗り越えるかのように、この年(一九二二年)は、多産の年となりました。弥次時代に発表した『美想曲』に続いて、六月五日には『妾薄命』が、金尾文淵堂から上梓されます。冒頭、「手簡――序に代へて」を柳澤健が書いています。内容は、自著『現代の詩及詩人』のなかの「高群逸枝子」の再掲に続けて、「一年半の旗を終わつて日本に戻つてきた私はあなたが既に中央詩壇に名を成してゐるのを見ることが能きました」ではじまる、フランスからの帰朝後に知る新たな逸枝についての一節が加えられたものとなっています。この『妾薄命』は、「白白白」「妾薄命」「連作篇」「幼日歌抄」の四編から構成されており、「白白白」には「甘い生命」が、「妾薄命」には「白骨の歌」が、「連作篇」には「古里の與ふる歌」「古い扉」「辭郷の唄」が含まれます。逸枝自身はこの本をこう評します。「定型歌と破調歌とをごっちゃにして組んでいるため……定型の初作から破調へ到達した作品の必然的な過程を隠してしまっていることが致命的な欠陥となっていて私としては残念である」。『妾薄命』には、めずらしく憲三を詠った作品が所収されていますので、以下に引用します。

憲三が妻の逸枝は芹摘みに
憲三は窓に
窓には梅の花

この歌は、極めて示唆に富みます。といいますのも、「逸枝が芹を摘み、憲三が窓辺にいてそれを待つ」情景を、「逸枝が原稿を書き、台所にいながら憲三がそれを待って編集する」情景へと置き換えるならば、どうでしょうか。逸枝と憲三とのあいだの、前代にはほとんど見ることのなかった革新的な夫婦の役割分担の形式がほのかに見えてくるからです。

さらに出版が続きます。七月一五日、橋本憲三と高群逸枝の共著になる『山の郁子と公作』が、『妾薄命』と同一の版元である金尾文淵堂から公刊されます。九月に入ると、一二日から『九州新聞』において、逸枝の「女詩人汝に語らん」の連載がはじまります。これは、およそ三年前に『九州日日新聞』に連載した「婦人時言」に続く、郷土紙におけるおそらく二番目の評論文になります。四面に「女詩人汝に語らん(十一)」を掲載した九月二三日の『九州新聞』は、次の五面において、憲三が逸枝の肩に手を置く、仲睦まじいふたりの写真を入れて、「本紙が生んだ女流詩人と青年作家/『山の郁子と公作』/橋本憲三君と高群逸枝女史が山に在つた日の記念出版/引續いて長篇執筆」という長い表題のもと、憲三論を展開しました。以下は、そこからの抜粋です。少し長くなりますが、この時期の憲三の存在を知るうえで貴重かと思われますので、引用します。

もう四[、]五年も前のこと……本紙に『太陽へ』の一篇を寄せ、文藝に興味を有する多數の讀者の注意を惹いた、それが橋本憲三君であつた……逸枝さんと一緒になつてから、憲三君はあまり原稿を送らぬやうになつたが……逸枝さんは『日月の上に』の詩集を出し、天晴な女流詩人となり濟ました時、私は憲三君の存在を疑つた、君も亦與謝野寛氏や、田村松魚氏のやうに細君にその光を覆はれたのではないかと……逸枝さんが『日月の上に』から『放浪者の詩』それから『妾薄命』と矢繼早に詩集歌集を出して益々才名を謳はれるのに、憲三君は何の作物をも發表しないのは甚だ物足らぬ淋しさを感じて居た……けれどもそれは幸に杞憂うであつた……矢張創作は吃々と續けて居た[。]そしてその試金石がママママ尾文淵堂から出版された『山の郁子と公作』である……君は初め一人で書く筈であつたが、山にあつた日の懐しい記念だからと云ふので、前半を自分で書き、後半を逸枝さんに書かして、夫婦水入らずの合作とした、そして巻頭の十七頁は、本紙に初めて發表した君の出世作とも云うふべき『太陽へ』の一部でその他は新作である……いま斯の人が勇ましく文壇に打つて出る――君が最近の消息に只今『戀するものゝ道』といふ長いものを書きかゝつてゐます……とある……将来ある作家として文壇に認められる日も遠くあるまい(K生)

さらに一〇月二〇日には、『私の生活と藝術』が京文社から刊行されます。「目次」も「前書き」もなく、本文は、「女詩人汝に語らん」「民衆哲學」「出發の生活」「解放へ」「近代思想の缺陥」「詩と社會」「詩壇に革命す」「裸體の女」「巡禮行」「漂泊の旅より」「風吹く山」「壁のお婆さん」「抽出された小鳩」「話好きの人達」「守護神よ」「谷の幻の家」の計一六編から成り立っています。内容、形式ともに異質なものが混在している感があり、大雑把に、最初の五編が評論文(哲学)、次の三編が詩論と女性論、続く二編が紀行文、最後の残る六編が創作文(小説)といったらいいでしょうか。このとき逸枝に内在していた多様な思考のすべてが、ここに凝縮されていると見ることができます。それでは、以下に二箇所を選んで、紹介します。前者は「解放へ」からの、後者は「裸體の女」からの引用です。まず、ひとつ目の引用です。

『放浪の詩』の序に、放浪者には貞操は無いと書いた事が、いろいろ誤解されてゐるらしく、また方々からのお訊ねにも接しますので、お答へ申させて頂きます。
 此れは、わかり易く申しますなら、『貞操』と云ふ法律は無いと云ふ事なので御座います。實質はどうあらうとも、理論の支配を離れた實質だと申すので御座います。すべてのものがそうだと申すので御座います。そこで理論の任務は、實質の描寫か豫想かにあるのだと申すので御座います。
 此れは、實質に體する第二義的な參考にはならうとも、實質を支配し指導する力はもたないので御座います。少なくとも私には、もたないので御座います。なぜなら實質は、實質自身出發するので御座いますから。何處から出發するかと申せば宇宙から出發するので御座います。宇宙は何かと申せば分からないので御座います。それだけです

「貞操」という観念を含む実質たるいまの自分がどこから来ているのかを説明しようとしている文にも読むことができます。自分は、法律や理論に縛られない、そして、その存在さえも定かでない「宇宙」から来ているという自覚は、それを押し進めれば、「原始社会」から、あるいは「理想郷」から来ているという着地点へとつながってゆきます。ここに、非進化論的で無政府主義的な逸枝の思考の原型と、そしてまた、己の出自を求めての「原始社会」ないしは「理想郷」へと向かう旅路の出発点とを、発見することができるのではないでしょうか。そうした思いを、すでに発表している詩の世界においても、認めることができます。その箇所を『妾薄命』から引きます。

妾はいま歸りませう
父よ母よ
宇宙が妾を呼ぶままに10

それでは、ふたつ目の引用に移ります。「裸體の女」からの一節です。

戀愛も滅亡するのだし
人生も滅亡するのです

御覧
無智な男女の戀は烈しいが
人がだんだん複雜になると
戀の偶像は露骨に現はれる
たとひそうでなくとも
人は自分で自分にいましめられ
容易には戀が出來なくなる

實はかうして
戀がつまらなくなつて仕舞ふのだ

プラトニックな戀が
だんだんうるさくなると
淫従な官能ばかりが
強い刺戟を求め続け爛れる
そこで性交は衰へ
種の繁殖は期しがたくなる

人はすると神々の生活にあこがれ
次第次第に
性を没した神人が出來上り
全く生殖をしなくなる11

このことは、女性が子どもをもたなくなることへの予言でもあります。ほぼ間違いなく、この先験的な認識こそが、これから逸枝が本格的に展開しようとする女性論の土台となる原理部分といえるにちがいありません。そして、この認識に由来して、逸枝自身の生殖行為もまた、実際部分はこうであったのではないか――そうした想像がにわかに訪れないわけではありません。

この年(一九二二年)に発表された最後の作品が『戀唄 胸を痛めて』でした。国立国会図書館がデジタルコレクションで公開しています『戀唄 胸を痛めて』の奥付を見ますと、発行日として一一月二八日の日付が残されています。しかしながら、のちに上書きされた痕跡が認められないわけではありません。発行は、『私の生活と藝術』と同じ京文社です。この『戀唄』のなかに、自身の夫を詠んだのではないかと思われる詩があります。それは、「妾の戀人は」という題の五連からなる詩です。以下に、その最初の連と最後の連を引用します。

わたしの戀人は實用家よ
戀をしにきて仕事をなさる
仕事をなさる其の時には
妾は雲を見てあそぶ

静かにおし!
愛する良人つれあひさまの
お仕事の邪魔にならぬやう……
だけど妾はいいの12

この詩のなかに登場する「愛する良人さま」は、おそらく憲三のことではないかと推量されます。どうやら仕事に熱中するあまり、妻をほったらかしにし、寂しがらせているようです。このとき憲三は、『戀するものゝ道』の執筆と編集に邁進していたものと思われます。この本は、すでに紹介していますように、序篇の「七夕前夜」が憲三によるふたりの出会いにかかわる小説で、それ以外の残りの本文は、すべて逸枝から憲三に宛てて出された手紙によって構成されています。一方、既刊の『山の郁子と公作』の後半部分の「公作へ郁子より」が、逸枝から憲三への手紙で構成されていたことを考えますと、いかに憲三が、逸枝の手紙を素材にした本を世に出そうとしていたのかがわかります。逆にいえば、憲三が書いたのは、『山の郁子と公作』における前半部分の「山の郁子と公作」と『戀するものゝ道』における序篇の「七夕前夜」のみだったのです。逸枝にしてみれば、自分が書いた個人的な手紙が利用されることに不満が募っただけでなく、自分をモデルにして書く憲三の小説にも、耐えがたい不信感が残りました。逸枝は、こう書きます。

 彼が私をモデルとして描いた作品は私のもっとも読みたくないものであった。というのはそこでは故意にさえ彼の権限下にくみしかれたものであるとされ、また一般読者からみると、一見魅力のない、むしろ醜悪なキチガイ女として描かれていたのだ13

そういう不快感が逸枝にあったことは確かでしょう。しかし、それにもかかわらず、憲三は、なぜこの時期に、ふたりの数年も前の出来事を描いた小説と、逸枝の古い手紙とを組み合わせた、一見すると古色に満ちたような内容の書籍を刊行しなければならなかったのでしょうか。おそらくこの原稿は、城内校時代にほぼできており、青年小説家として身を立てるうえでの試金石にする目的で書かれたものだったにちがいありません。しかし、当初の目的はそうであったとしても、もはやこの時期になると、自身の野望はほぼ消え去り、お蔵入りしていたこの二著を刊行することによって、何とか生活費を稼ごうとしたのではないかと思料されます。おそらく逸枝の印税だけでは、家計が成り立たず、背に腹は代えられない状況にあったのでしょう。もし、そうした状況で憲三が仕事をしていたのであれば、逸枝が表現する「仕事をなさる其の時には/妾は雲を見てあそぶ」のも、換言すれば、憲三の邪魔にならないように、雲を相手にひとり遊びをするのも、やむを得なかったのかもしれません。

後年、憲三はこう証言します。

 「郁子より」および小説「山の郁子と公作」にはめこまれている手紙は実際のものもあり、創作もあります。……私の嫌がり恥じている本がもう一冊あります。これには順を追った正真正銘の彼女の生まの手紙が収録されています。……『恋するものゝ道』という書名で、耕文堂という出版社から出されています。……‶金取り仕事″なのです14

憲三単著の『戀するものゝ道』が耕文堂から実際に出版されたのは、翌一九二三(大正一二)年の四月一五日のことでした。憲三、逸枝の両人にとって、恥を忍んでの「金取り仕事」でした。そこから判断しますと、このときまでに憲三は、小説家としての自身の大望をすでに諦め、事実上、筆を折っていたものと考えられます。他方逸枝は、この時期について、こう書いています。「私はがんらい筋肉労働で糊口し、書くものを商品としない覚悟でいたのだったが、弥次以来の結婚生活にながされてこの態度がたもてなくなり、この後約十年の間はむしろ金取り本位の雑文書きにおちいった嫌いがあった」15

『戀するものゝ道』の出版から二箇月後の六月、憲三に幸運が舞い込みました。職が見つかったのです。『平凡社六十年史』は、次のように語っています。

 この前後の社員の動きをふり返ってみよう。藤井久市が事務社員として入社した頃の社員の数が、合計四人だったことはすでに述べたが、編集部員が正式に入社してきたのは株式組織になってからだ。その第一号は後に「現代大衆文学全集」の計画立案にあたった橋本憲三だった。下中の教育運動の面での同志だった志垣寛の紹介である。たまたま志垣夫人と橋本夫人(女性史研究家の高群逸枝)が熊本女子師範で同窓だった関係からしたしくつきあっており、平凡社の新発足に際しての社員募集に応じたわけだった16

『平凡社六十年史』の巻末にある「略年表」によりますと、一九二三(大正一二)年六月一二日、資本金五万円、代表取締役に下中彌三郎が就任して、平凡社が株式会社になります。憲三が入社したのは、このときのことでした。これでひとまず、収入のめどがつき、困窮からの脱出が可能となったのです。

しかし、職を得た喜びもつかのま、大きな地震が東京を襲います。その瞬間を、逸枝は日記に残しています。

 九月一日(大正一二年)
 この日、私の夫は気分がわるいといって社を休んだ。ちょうど正午どき、お八重さんが部屋に運んできた昼のご飯をたべていると、急にめりめりと音がしはじめた。
「そら、地震だ!」
 という声があちこちの部屋で起こった。私と夫とは、いつもの地震だとたかをくくっていたが、そうでなく、おどろくべき強震で、逃げ出すのさえあぶないほどの揺れかたであった。軽部夫人も、おばさん(養蚕の加勢人)も、お八重さん(女中)も、竹藪に逃げ込んだ。夫は私のあとから転びそうな様子をして。―私たちは大きな孟宗竹につかまって、しばらくのあいだはぼんやりしていた17

九月二五日の『九州新聞』七面の「文藝消息」は、憲三と逸枝の無事を伝えました。

橋本憲三氏 世田ヶ谷滿中六一四の寓居で高群逸枝氏と共に無事目下震災を題材にした長作物の執筆中

しかし、その右隣りの項には、こうした悲報も伝えていました。

志垣寛氏 東京市外千駄ヶ谷三〇七の避難先にて五つになる可愛盛りの二男を失ひ悲嘆に暮れて居る

関東大震災は、橋本憲三の夫婦に幸を、他方、志垣寛の家族に不幸をもたらしました。逸枝と、志垣寛の妻の美多子(旧姓は斎藤)は、熊本師範の女子部で同級でした。このとき、逸枝が美多子に連絡をとったかどうかは、資料上不明です。しかしながら、交友は続きます。逸枝が亡くなった際の葬儀委員長を務めるのが、志垣寛でした。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、196頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、195-196頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、195頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、196頁。

(5)石川純子「高群逸枝論(10)『胎児の意思』と『母性の意思』2」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、9頁。

(6)柳澤健「手簡――序に代へて」『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、19-20頁。

(7)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、176頁。

(8)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、136頁。

(9)高群逸枝『私の生活と藝術』京文社、1922年、101頁。

(10)前掲『妾薄命』、104頁。

(11)前掲『私の生活と藝術』、161-163頁。

(12)高群逸枝『戀唄 胸を痛めて』京文社、1922年、55-58頁。

(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、191頁。

(14)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、16頁。

(15)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、201頁。

(16)『平凡社六十年史』平凡社、1974年、72頁。

(17)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、201頁。