一九七四(昭和四九)年二月、瀬戸内晴美の『談談談』が世に出ました。しかし、憲三がこの本を手にしたのは、それから半年後のことでした。といいますのも、八月七日と翌八日の憲三の「共用日記」に、次のような文字が書き込まれているからです。
八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。 八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」1。
かくして憲三は、瀬戸内の『談談談』に事実無根の記述を見出すのでした。
瀬戸内は、『文芸展望』に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」を連載するに先立って、松本正枝という女性に会って取材をしていたようです。そのことを、『談談談』のなかに見て取ることができます。それは、瀬戸内が、政治家の小沢遼子と中山千夏を相手に語る場面においてです。その箇所を、以下に引用します。
瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。 中山 普通との反対みたいね2。
瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。前章「瀬戸内晴美と戸田房子の小説のなかでの憲三中傷」において引用で示していますように、「共用日記」によれば、憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてです。しかも、面談したのは、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、にわかに信じることはできません。
続けて瀬戸内は、小沢と中山に対して、こんなことも話題にします。
瀬戸内 ……きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの。「婦人戦線が潰れたところがよくわからないんですけど、逸枝さんはよく聞いてみると、男を作って、しょっちゅう逃げ出していたそうですが、ほんとうですか?」「ええ、ほんとうですとも。われわれの時代のアナキストは恋愛に対してもアナーキーで、逸枝さんはそれを実行なさいました。人の亭主でもなんでもおかまいございませんの」「だれか逸枝さんの相手で覚えている方ございませんか?」「はあ、ございますとも」そのおばあさんはそれからちょっと出ていってお茶を入れて、「うちの人です」(笑い)。 小沢・中山 へえー(笑い)3。
瀬戸内は、「きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの」といっていますが、この「おばあちゃま」というのは、たぶん松本正枝(本名は延島治)のことでしょう。そして、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏を相手にしたこの対談について、「本書のための語り下ろし 昭和四十八年五月十日赤坂にて」4と書いています。それであれば、「おばあちゃま」を訪ねたのは、前日の五月九日で、水俣訪問から約三箇月後のことになります。そこから類推しますと、「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」と語ったのは、憲三本人ではなく、松本正枝だった可能性が派生します。もしそれが真実であったとするならば、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏のみならず、多くの読者に対して、憲三にかかわっての虚偽の印象を植え付けたことになります。
昨日人から聞いた醜聞を、真偽を確かめることもなく、さもおもしろそうに他人にいいふらし、さらにそのうえに、それを自慢げに文字に書く、瀬戸内晴美という作家に対して、憲三は、強い不信感を抱いたにちがいありません。
上に引用した『談談談』のなかからの二箇所は、逸枝と憲三の名誉にかかわって公然と事実を指示して毀損するものであるといわざるを得ません。この場合、指示された事実の内容に関して、その真偽が問われることはありません。つまり、書かれている文の内容が、真実であろうと虚偽であろうと、逸枝と憲三の名誉感情や自尊感情が公然と著しく毀損されていれば、刑法が定める名誉棄損罪が成立する可能性を排除することはできないのです。何ゆえに瀬戸内は、憲三にいわせれば「事実無根の記事」をかくも平然と書くのでしょうか。憲三は、いうまでもなく存命中の人物です。憲三の苦しみはいかほどだったでしょうか。私は、想像するにつけ、瀬戸内の真意を測りかねるとともに、その残忍さにこころが痛みます。
瀬戸内の『談談談』を憲三が読んだのは、一九七四(昭和四九)年八月でした。そのおよそ一箇月前に、戸田房子の「献身」が掲載された『文學界』(七月号)が発売されます。この小説の内容は、逸枝の入院と臨終を扱うものでした。前章で紹介しましたように、これもまた、憲三を奈落の底に陥れるものでした。おそらく憲三は、真実を無視して虚偽の世界を悠然と跋扈する女たちの姿を見て、恐怖さえ感じたかもしれません。
それでは、これに対して憲三は、どう向き合ったのでしょうか。それを見るためには、一九六四(昭和三九)年六月七日に逸枝が死去した直後の、周囲の人間の動きへとさかのぼらなければなりません。逸枝を慕う村上信彦のそのときの体験は、こうでした。
取るものもとりあえず、国立東京第二病院に駆けつけ、霊安室に直行した。室の中央の台の上に遺体が安置され、顔に白布をかけてある。一方に一段高い畳敷の小さな部屋があって、先客が集まっている。平塚らいてう、市川房枝、浜田糸衛、高良真木、熊本から来られた友人の五人である。……だが私は興奮していた。「なぜもっと前に知らせてくれなかったのです」と廊下で橋本氏に食ってかかり、こんなことになるなら面会謝絶を無視して押し入ってでもいま一度会っておきたかった。面会謝絶を忠実に守ったばかりに唯一無二の機会を逸してしまった。おれはばかだった……。無念と怒りが渦巻いて、私は強く詰め寄った。さだめし血相を変えていたにそういない5。
このとき村上は、憲三から、東京では密葬のみとし、その後本葬儀を熊本で執り行なう予定であることを聞かされ、この日が事実上の最後の別れとなりました。しかしその後、周囲の意見に押されて、自宅の「森の家」で葬儀が行なわれることになり、案内状が送られてきたものの、村上は出席しませんでした。葬儀も終わった、六月一八日に村上は、らいてう宅を訪ねます。この日の話題は、主に逸枝のことでした。村上は、こう書いています。
いろいろ話しているうちに、らいてうが高群さんをどのように評価していたかも分かり、この二人の女性の関わりを興味ふかく感じた。そのとき私は十日前の霊安室でのはしたない振舞を詫びたのであるが、私がまず詫びねばならなかったのは橋本氏だったと分かる日が、やがてやって来るのである6。
村上が霊安室で顔をあわせた「熊本から来られた友人」というのは、当時鎌倉に住んでいた熊本出身の志垣寛だったかもしれません。志垣は、逸枝と憲三の古くからの友人で、逸枝の葬送の儀に際しては葬儀委員長を務めました。次の引用は、七月七日に橋本静子宛てに出された志垣の私信にある末尾からの一節です。
平塚さんのきもいりで、近く例の女子連と会見することになっています。私が近く雑誌に逸枝さんのことを書くというのが評判になって、向うから会見を申込んできました。よく説明して納得させようと思っています7。
ここでいう「例の女子連」とは、逸枝の入院等で立ち回った、市川房枝の取り巻きの浜田糸衛や高良真木たちを指すものと思われます。次も、同じく志垣から静子に宛てて書かれた七月一二日のはがきの一部です。「市川女史一派の人々数人とあい、くどくど不平談をきゝました。要するに橋本君が金持ちだった事が不満の種でした」8。当時志垣が書こうとしていた文は、「高群さんと橋本君」と題されて、『日本談義』の八月号(一六五号)誌上の「高群逸枝女史追悼特集」に掲載されました。内容の一部は、第二四章の「逸枝の臨終と憲三の市川房枝グループとの反目」においてすでに引用していますので、ここでは割愛します。一方、この特集に憲三が寄稿したのは、「終焉記」という題の文でした。内容的には、逸枝の最期の入院に至るまでの経緯について、時系列に沿ってその様子が記述されています。さらに、その雑誌が刊行された直後に、今度は「高群追悼特集に添えて」という一文を起草します。擱筆日は、八月一五日です。この文を書かねばならなかった理由について、憲三は、こう記しています。
『日本談義』(165号)高群追悼特集のなかにみえる一グループと私とのことについて、グループの方では早く志垣氏に申し込んでらいてう家で会見、一方的な談話発表が行われたそうであるが、私はまだ誰にも深くは語っていない。私からみればすでに誤謬だらけといっていい風説が伝えられており、『談義』によっても誤伝をうみそうな危惧があり、この際私からの「真実」を明らかにすることは私のつとめの一つではないかと考えられてきた9。
この文は、A(市川房枝)、B(浜田糸衛)、C(高良真木)、D(初見の人)、E(市川みさを)と明記したうえで、「終焉記」のなかの論争点となるにちがいない重要な箇所を一つひとつ取り上げ、それについてより具体的に捕捉し釈明したもので、かなりの長文となっています。末尾の一節を、以下に引用します。
A(市川)は私が当然にも病人の身柄一切に責任を負って個室をとったり、葬儀を正したり、死亡広告を出したりしようとすることを迷惑がっているという実感を私に与え、しばしばあなた(私)はそれでよいだろうが、自分の面目は丸つぶれだという意味のことをいわれるのだが、私はそのつどけげんに思い、考えても見るが氷解できなかった。一つの実例をいえば、私は霊安室で主治医からの解剖希望をことわった。故人は肌身を人目にさらすことを極端にきらっていたから私はそれを尊重したのである。するとA(市川)はあなたはそれでよいだろうが病院にたいして自分の面目は丸つぶれだといったものである。…… 私はいま妻の霊前にぬかずいて一切のことがらをかなしく反芻し、彼女の声を聞こうとしている10。
市川房枝は、希代の女性史学者である高群逸枝の戦前からの後援者のひとりでした。そのため、逸枝の最期の入院に際して市川は、参議院議員という立場から、「清貧の学者」として、つまりは「施療患者」に準じる者として逸枝を受け入れられないか国立東京第二病院と掛け合っていたようです。また、葬儀に要するおおかたの費用についても、自身が負担する心づもりができていたかもしれません。その前提として、市川とその取り巻きには、逸枝と憲三は乞食同然の「貧民」であるというひとつの思い込みが、疑うことなく、長年意識下で形成されていたのでした。ところが憲三の口から、入院や葬儀にかかわる多額の資金が用意されていることを聞かされたのです。かくして、彼女たちがもつ暗黙の「貧民」像が崩れ落ちてしまいました。たとえて表現すれば、いつも餌を与えてかわいがっていた病弱の飼い犬が、最後の死に際になって飼い主に逆らい、自力で立ち上がると、元気な姿で大声を出して、周りを威嚇するかのように自身で自身の死に場所を決めようとした、といったところでしょうか。しかしながら、逸枝も憲三も、市川の飼い犬ではないのです。ここに、市川グループと憲三との反目の原因があったといえます。市川にしてみれば、自身が中心となってこれまで逸枝支援を要請してきた友人たちに対して、そしてまた、自身が仲介の労をとった病院に対して、「自分の面目は丸つぶれ」ということになるのかもしれません。一方の憲三は、なぜ自分の自由意思で妻の死に向き合うことができないのかという疑念に、裏を返せば、なぜ妻の死が他人の手によって私物化されなければならないのかという疑念に、そのときさいなまれたものと推量されます。
しかしながら、これに関しての直接的な憲三の言葉は残されていません。そこで、異例であり、場違いであることは十分に承知のうえで、この問題につきましての私見を以下に少し述べさせていただきます。
結果としていえることは、真の支援というものは、相手の魂を蹂躙したり、自分の徳になるように相手を利用したり、相応の利益を相手に要求したりするようなものではないということです。この問題に関連して、ここに、逸枝本人の言説を引いておきます。人が人に贈与することの危険性を、逸枝は、こう認識していたのでした。
……もっと甚だしい場合では、たとえば他から進んでなされた贈与などでも、多くの場合、それが通俗的な取引的観念もしくは恩恵的観念を結果的に形成し、両者間に、ともすれば、怨疾とか心おごりとかが、かもしだされる危険を伴うおそれがあるからである11。
この言説は、市川の支援を念頭において書かれたものではおそらくないでしょうが、しかし生前逸枝は、『女性の歴史』のなかにあって「市川さんのことほめすぎた」12と、静子に語っており、そのことから判断しますと、この逸枝の言説は、霊安室での市川と憲三の確執を先取りするものとして読むことも可能性かもしれません。たとえどんなに生前故人に多大な援助を与えていたといえども、入院や葬式は、最終的には、遺された親族の判断にゆだねられるべき事柄であって、仮に親切心からであろうとも、あるいはまた、たとえ相手方を「貧民」とみなす思い込みがあったにせよ、強引にそのなかに割り込み、差配しようとする行為は厳に慎むべきことではなかったろうかと理解します。
他方、憲三が貯えていた金融資産についてですが、逸枝は自由業ですので、退職金があるわけでも、年金が保証されているわけでもなく、年をとり筆が細れば執筆料の収入も細くなり、かといって、ときおり恵まれる支援の金品もあくまでも相手次第で、いつ途切れるかわからず、そのような家計環境のなかにあって、常にその日暮らしをするわけにもゆかず、したがって、老後の生活や、医療や葬式などのために将来必要となるであろうと思われるしかるべき資金を用意していたからといって、必ずしもそれは、非難に値する事柄ではなかったのではないかと思量します。
逸枝が亡くなる日まで、着るものも貧相、家具や食器も貧弱、口にするものも粗食であったこのふたりの、貧しさに甘んじた暮らしぶりを考えたとき、また、たとい日ごろはそうであろうとも、愛する妻との最後の別れのときだけはできる限りの贅を尽くして見送りたいという夫の心情を考えたとき、日常的にはその支援行為に深い謝意を捧げながらも、このとき市川が示した言動ばかりは「考えても見るが氷解できなかった」状況に立たされてしまった憲三のつらさは、いかばかりのものであったろうかと推察されます。
ここまで、愚見を述べてきました。本来、人が人を援助するという行為はどうあるべきであるのか、葬送の儀はいかにあるのがふさわしいのか、これらの問題につきましては、人それぞれに考えがあるものと思われます。私の個人的思いは以上です。それでは駄弁はこれくらいにして、ここから再び本論を続けます。
憲三は、「高群追悼特集に添えて」を書き上げると、この一文を、『日本談義』と一緒に、らいてうに送りました。すると、このような返事が返ってきました。
また本日は追悼号の「日本談義」ならびに委しい解説御送り頂き、早速ルンべを使って、少しずつ拝読しております。今迄一方的にのみきかされてはおりましたが、私なりの解釈、受けとり方はしておりましたが、あなた様から直接いろいろうかがいまして更に深く考えさせられ、遺憾に存じます点も少くありません。私もこんなに弱り込まず、今少し気力が出ましたら高群さんについて、ほんとに書きたいとおもいます。「火の国の女の日記」命あるうちに拝見したいものです13。
それから一〇年の歳月が流れた一九七四(昭和四九)年の七月、戸田房子の「献身」が突如として『文學界』に出現したのです。このとき、筆舌を超える表現しがたい鈍い波動が憲三を襲ったにちがいありません。戸田房子という作家は、逸枝の入院や臨終に立ち会った形跡はありませんので、浜田糸衛や高良真木のような人に取材したか、あるいはそうした人が、戸田を使って書かせたのではないかと、憲三は即座に直感したことでしょう。一〇年前のらいてう宅が「例の女子連」による「不平談」の場と化したように、今回の「献身」においても、さながら彼女たちの怨念の吹き溜まりとなっていたのです。そこで憲三は、少しでも自身と妻に科せられた、いわれなき汚名を晴らすために、過去に『日本談義』に書いていた「終焉記」のコピーに、未発表のまま手もとに残しておいた「高群逸枝特集に添えて」のコピーを添付し、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」という題をつけて、みぢかな人に配布したのでした。いまとなっては、どれだけ多くの人が過去のこの出来事を覚えていたか、そこまではわかりません。また、このふたつの文が、どれだけ汚名解消に役立ったか、それも知ることはできません。しかしながら、当時の憲三にしてみれば、一〇年もの時が経過したいまになって、再び受難に遭遇することになった妻の名誉を救い出し、その夫たる自分自身を慰謝する方法は、これ以外に残されていなかったのではないでしょうか。かくして、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」が、憲三にとっての最後の抗弁となったのでした。
すでに前章で叙述しましたように、一九七四(昭和四九)年四月に発売された『文芸展望』のなかの「日月ふたり」の第三回を読んだ憲三は、そのなかに現われていた数々の誤謬を指摘するために、瀬戸内晴美にはじめて手紙を書きました。抗議の気持ちを表わす意味もあったでしょう。そのとき憲三は、この手紙の写しを道子に託しました。「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」14と、憲三は書き添えました。
未公開の「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」(もともとの題は「高群逸枝特集に添えて」)が、みぢかな人に配布されたのは、それから数箇月後のことでした。時期からすれば、この配布は、戸田の「献身」の基調をなす、悪意とも受け止められる誤認に対する、憲三による真実の開陳であり、その裏には、強い怒りの思いが含まれていたことが、容易に想像できます。おそらく憲三は、この文も、道子に託したことでしょう。推量するに、瀬戸内に宛てた手紙のコピーも、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」も、この時期、憲三から道子に手渡された遺言書に近いものであったにちがいありません。といいますのも、このふたつの文は、憲三の死後、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)において、実際に公開されることになるからです。
『高群逸枝雑誌』は、憲三の死去に伴い第三一号をもって自動的に事実上の廃刊となりました。しかし、万やむを得ず、没後四年が立った一九八〇年一二月に、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)が再発行されます。その最終号には、「もろさわよう子様へ」をはじめ、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」や「瀬戸内晴美氏への手紙」が含まれていました。「もろさわよう子様へ」は、静子が書いたもので、全体としてその文は、もろさわようこが執筆した「高群逸枝」(集英社刊の『近代日本の女性史2』に所収)のもつ幾多の誤謬を指摘する内容となっています。「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」は、実際上の「献身」の事実誤認に対しての抗弁の役を担います。「瀬戸内晴美氏への手紙」は、生前道子が憲三から預かっていた瀬戸内宛ての手紙の写しです。まさに『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、無念の思いでもって橋本静子と石牟礼道子が編著者となって公刊した、逸枝と憲三の名誉を毀損するこれまでに発表された文章に対しての遺族側からの反論ないしは抗議の場となるものだったのでした。
一九七三(昭和四八)年夏の手術以降も、相変わらず憲三の体調はすぐれなかったようです。おそらくこの時期、ベッドに臥すことが多い日々を送っていたにちがいありません。憲三が、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」を目にするのは、翌年(一九七四年)のことです。そのころの憲三をそばで見ていた道子は、「この作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった」15と書きます。そのあとすぐに、戸田の「献身」と瀬戸内の『談談談』が続きます。こうして、かくも絶え間なく続く中傷や悪意のなかにあって、病魔に侵された憲三の心身は、さらに深刻度を増してゆきます。
いよいよ、次章「橋本静子と石牟礼道子の必死の看取りと弔意の数々」をもって、本稿「橋本憲三の生涯――ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」の最終章となります。「フェミニスト橋本憲三」は、果たしていかなる最期を迎えることになるのでしょうか。それを次章で見てみたいと思います。
(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、186頁。
(2)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。
(3)同『談談談』、同頁。
(4)同『談談談』、⑳④頁。
(5)村上信彦「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、18頁。
(6)同「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、18-19頁。
(7)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、22頁。
(8)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。
(9)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、21頁。
(10)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、38-39頁。
(11)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、496-497頁。
(12)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、6頁。
(13)前掲「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、22頁。
(14)橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、52頁。
(15)石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、44頁。