中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第一一部 「火の国」での逸枝顕彰と憲三への批判と中傷

第三〇章 瀬戸内晴美と戸田房子の小説のなかでの憲三中傷

秋山清に続いて、水俣の憲三を訪ねてきたのは、作家の瀬戸内晴美でした。憲三の「共用日記」によりますと、一九七三(昭和四八)年の二月一日、「午後八時三十分-10時50分、瀬戸内さん、村上彩子さん(筑摩書房)とみえる。石牟礼さん同道」。翌二日、「午前一一時、瀬戸内さん村上さん、Mさん。瀬戸内さんお墓まいりしてくださったと。紅梅白梅がさいていたと。室にいらず、そのまま水俣駅へ(庭で静子あう)」。瀬戸内は、そのときはじめて会った憲三の印象にかかわって、このように書いています。

 水俣の静子さんのお宅の片隅の倉庫の二階に独り棲いをしていられた憲三氏は、想像していたより若々しく、写真で見るよりスマートで、どことなく粋でハイカラな老人であった。
 物静かだが愛想がよく、どんな不躾な質問にも積極的に答えてくれた。
 ……私が望むなら、どこまでも私の取材に協力しようという姿勢を見せて下さった

この一文に続けて瀬戸内は、「私はまだ逸枝の伝記を書くまでの準備は出来ていないし、憲三氏と逸枝の愛のかたちを知りたかったので、憲三氏の好意にあふれた申し出にも、すぐに飛びついていかなかった」と、書きます。もしそうであれば、瀬戸内の水俣訪問の目的は、一体何だったのでしょうか。このとき筑摩書房の村上彩子が同伴していることや、その五箇月後に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が筑摩書房発刊の文芸雑誌である『文芸展望』に登場することから推し量れば、やはりこのときの訪問は、逸枝と憲三の伝記を書くに当たっての事前の了解をとるためだったのではないかと思われます。実際のところ、ちょうどこのとき、季刊誌となる『文芸展望』の創刊が迫っていました。四月の創刊号には、石牟礼道子の「椿の海の記」の第一回が掲載されて、連載がはじまります。そして、次の七月刊行の第二号に、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載され、これまた連載が進んでゆくのです。このようにして、これからしばらくのあいだ、道子の「椿の海の記」と瀬戸内の「日月ふたり」のふたつの作品が、『文芸展望』を舞台にして共演することになるのでした。

続く「日月ふたり(第二回)――高群逸枝・橋本憲三――」は、一〇月発売の第三号にその姿を現わし、第四号は休載となりました。問題が起こったのは、年が変わった一九七四(昭和四九)年の三月のことでした。「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された、四月に発売予定の第五号の見本誌が、筑摩書房の村上彩子から事前に送られてきたとき、それを見るや、ついに憲三の堪忍袋の緒が切れてしまったのです。一九七四(昭和四九)年の憲三の「共用日記」には、このように書かれてあります。

三月二六日「文芸展望5、村上彩子さんからとどく(筑摩書房)。瀬戸内氏『日月ふたり』3、掲載」。
三月二八日「瀬戸内氏にはじめて手紙をかく」

「日月ふたり」の第三回を読んだ憲三は、このときはじめて瀬戸内に手紙を書きました。前年夏の手術以降も、相変わらず憲三の体調はすぐれなかったようです。おそらくこの時期、ベッドに臥すことが多い日々を送っていたにちがいありません。「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」と書き添えて、憲三は、この手紙のコピーを道子に託します。疑うことなくこれは、憲三から道子に手渡された遺言書に近いものでした。実際この手紙は、『高群雑誌』終刊号(第三二号)において公開されます。『高群逸枝雑誌』は、憲三の死去に伴い第三一号をもって自動的に事実上の廃刊となっていたのですが、この『高群雑誌』終刊号(第三二号)は、万やむを得ず、没後四年が立った一九八〇年一二月に発刊され、「もろさわよう子様へ」と「瀬戸内晴美氏への手紙」と題されたふたつの手紙文を含むことになります。「もろさわよう子様へ」は、静子が書いたもので、全体としてその文は、もろさわようこが執筆した「高群逸枝」(集英社刊の『近代日本の女性史2』に所収)に対して幾多の誤認を指摘する内容となっています。一方の「瀬戸内晴美氏への手紙」は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」にかかわる誤謬が憲三本人の手によって詳細に指摘されたもので、生前道子が憲三から預かっていた瀬戸内宛ての手紙の写しです。まさに『高群雑誌』終刊号(第三二号)は、無念の思いでもって橋本静子と石牟礼道子が編著者となって公刊した、逸枝と憲三の名誉を毀損するこれまでに発表された文章に対しての遺族側からの反論ないしは抗議の場となっていたのでした。

それではまず、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」には、どのようなことが書かれてあったのかを見てみたいと思います。憲三の瀬戸内宛ての反駁の手紙は、手紙としては実に長大なもので、そのなかで、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘するのですが、そのうちの最大の核心部分は、『婦人戦線』のころの同人であった松本正枝が、逸枝の恋人が自分の夫の延島英一であったことを、聞き手の瀬戸内晴美に語る、次の場面でした。

 逸枝の印象を訊くと、
「そうですねえ」
 と、ちょっと遠い所を見る目つきをして、
「とにかく変わった人でしたから」
 といい、口辺に微笑とも苦笑ともとれる笑いを浮べながら、
「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」
 という。
「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」
「ええ、アナーキーな恋ですから」
「その頃の恋の相手の方を御存じでいらっしゃいますか」
 正枝さんは、小さな肩をちょっと落とすようにして、ふっと座を立つと部屋を出ていった。玄関のつきあたりにあった炊事場でお湯をわかしてきた薬かんをさげてほどなく部屋にもどってきた人は、白い柔和な表情で、またふっと軽く微笑して坐りながらさらりといってのけた。
「存じておりますとも」
 さっきの話のつづきのつもりらしい。
「うちの主人でしたから」

逸枝を中心とする無産婦人芸術連盟が結成されたのは、一九三〇(昭和五)年の一月でした。構成員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四名。そして、続く三月に、この結社の機関誌となる『婦人戦線』が創刊され、それは、翌年(一九三一年)六月刊行の第二巻第六号まで続きます。この間、松本正枝もこの雑誌に論考を寄稿しますが、瀬戸内に宛てた手紙のなかで憲三は、「松本さんの『婦人戦線』論文はほとんど(あるいは全部)延島さんの代筆。たぶん住井すゑさんはご存知でしょう」と書いていますので、松本正枝はこの雑誌の活動にほとんど加わっておらず、実質的には、夫の延島英一が関与していたことになります。これが、『婦人戦線』を巡るおおかたの環境でした。そして四〇年以上が経過したこの時期に至って、松本正枝は、逸枝と自分の夫の延島がその当時恋人関係にあったことを瀬戸内に暴露したのでした。

それでは次に、それに対して憲三は、手紙のなかで、どう反論したのでしょうか、それを見てみたいと思います。「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」という語句については、「事実は全く正反対。恋愛論においても。実践において」と主張し、「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」という発語については、「現在の私、次号を読まない私には、『恋人』の語は適当とは思われません。強いて考えれば、表層的擬恋の状況とでもいうものではないかと思われるのです」10と、切り返します。逸枝と延島は、『婦人戦線』を通して、ともにアナーキストとして思想的に共感しあう間柄でした。瀬戸内の問いかけに、松本はそれを「アナーキーな恋」と表現し、一方の憲三は、「表層的擬恋の状況」という言葉で表わします。

さてそれでは、本当のところ、逸枝と英一の関係はどのようなものだったのでしょうか。それを解き明かす証拠となる一次資料、たとえば、双方の当時の日記や書簡類が残されていないようですので、断定することはできません。それにしてもなぜ、どのような事情があって松本正枝という女性は、真偽は別として、かくも簡単に自分の夫の過去の品行を他人に打ち明けたのでしょうか。他方、それにしてもなぜ、どのような判断があって瀬戸内晴美という作家は、必ずしも真実とは限らない正枝の発話をそのまま信じて、自分の文にやすやすと取り入れたのでしょうか。疑問が残ります。

しかしながら、瀬戸内自身は、正枝をこう評価していますので、以下に引用します。

 正枝さんの話し方は決して逸枝さんと夫との情事を非難しているふうではなく、過去の事実として語っているという感じを受けたし、高群逸枝という天才女人の多面的な性格の説明にはなっても、逸枝の人格の瑕瑾として感じるような話し方ではなかった。
 ユーモラスで皮肉なことを、全く飄々とした顔でいってのけるのは、この人の天性のものか、晩年身につけたものかわからなかったが、私には好感が持てた11

瀬戸内は、はっきりと、ここで「情事」という言葉を使って、逸枝と延島の関係を断定しています。明らかに瀬戸内は、事前に憲三に確かめることも、何か別の資料に当たることもなく、ひたすら正枝の語りに好感を寄せているのです。つまり、伝記執筆に必要とされる、事象にかかわるクロス・チェックがなされていないのです。一方、憲三にとって、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」は、自分の認識とは程遠い記述が至る所で散見される内容となっており、憲三はこの文を、ペンが剣に変貌した一種の凶器として、心身が震える思いで受け止めたのではないかと推量されます。事実、瀬戸内に宛てたこの手紙のなかで憲三は、「このところ、雪が舞ったり、冷雨にみまわれたり、不注意で血圧が一四〇~八〇の正常からいっぺんに一八五~九六に上昇、気分がわるく、体力気力……がおとろえ、頭がふらふらしているけれども、とにかくベッドで(仰向けになって)」12書いていることを告白するのでした。

その後「日月ふたり」は、第四回が、一〇月発刊の『文芸展望』第七号に掲載され、翌年(一九七五年)一月の第八号に掲載された最終回をもって、この連載は終了するのでした。この時点で終了することになった経緯について、瀬戸内はこう明かします。

 「日月ふたり」を書きはじめると、憲三氏はたいそう喜ばれ、毎月懇切な批評や、誤りの訂正をして下さった。こまごましたお手紙で私にはすべて有難かった。
 しかし、話が逸枝と延島英一の恋愛のことに進むと、俄然神経質になられて異常なほどしつこく、延島未亡人の正枝さんが、逸枝の手紙を秘蔵しているのではないかといって来られた。
 それまで私に示されていたのとは全くちがう憲三氏があらわれた。私は憲三氏のショックが意外でもあり、意外でもないような気がして、複雑な想いにとらわれた。正枝さんから私はそういうものは見せられていないといっても、信じてもらえないようであった。……
 私は正直いって、憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、「日月ふたり」を書きつづける意欲を失っていった13

前述していましたように、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を掲載した、四月発売予定の『文芸展望』第五号が筑摩書房の村上彩子から憲三のもとに送られてくるのは一九七四(昭和四九)年三月二六日のことで、憲三が瀬戸内にはじめて手紙を書くのは、その二日後の二八日でした。したがいまして、「『日月ふたり』を書きはじめると、憲三氏はたいそう喜ばれ、毎月懇切な批評や、誤りの訂正をして下さった。こまごましたお手紙で私にはすべて有難かった」といったような事実は、おそらくなかったものと考えられます。次に瀬戸内は、「延島未亡人の正枝さんから、逸枝の手紙を秘蔵しているのではないかといって来られた」と書いていますが、確かにこのときの手紙で、憲三はこのことについて、こう触れています。「次号で私の知らないことで、たとえば彼女の手紙などで私にとって最悪なことを知らされるような事態になろうとも、私の信念はかわらず、かくれてみえないところにあり、私は災禍、受難ととるだろうと思います」14。しかしながら、「俄然神経質になられて異常なほどしつこく」という瀬戸内の表現には、それ以降も数回にわたって憲三からの問い合わせが続いたことを連想させるものがありますが、その後に続く手紙類は現存していないようですので、確認することはできません。したがって、この手紙が最初で最後だった可能性もあります。

では、本当に瀬戸内は、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」のでしょうか。この点をここで吟味しなければなりません。といいますのも、本人がそう語っている以上、そのことはそのとおりであるにちがいないと思われますが、それだけが理由となって「『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」わけではないのではないかと考えられる余地が、他方で残されているからです。

瀬戸内晴美と筑摩書房の村上彩子が、はじめて憲三を水俣に訪ねたとき、石牟礼道子も立ち会っています。おそらくそのとき、憲三がつくる『高群逸枝雑誌』のことが話題になり、道子も、この雑誌に逸枝と憲三の評伝である「最後の人」を連載していることを話したにちがいありません。それから一年が過ぎた一九七四(昭和四九)年の四月に、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』に登場するのですが、ちょうど同じ月に、「最後の人 第十一回 第一章 残照2」も世に出るのです。道子の「最後の人」の連載が順調に進んでいることに、このとき瀬戸内は気づいたにちがいありません。ふたりは、まさしく競合するテーマで執筆しています。瀬戸内の連載回数は、いまだ三回で、道子のそれは、すでに一一回を数えます。扱っている資料は、松本正枝などからの聞き取りもありますが、主に瀬戸内が利用しているのは、逸枝と憲三が著わした『火の国の女の日記』です。一方の道子は、「森の家」での憲三との同居生活の実際から「最後の人」を書き起こすという、極めて有利な立場にありました。

それとは別に、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」から五箇月後の九月、鹿野政直と堀場清子の夫婦が憲三を訪ねてきました。鹿野は、日本近代史を専門とする早稲田大学の教授で、堀場は女性史家です。ともにふたりは、逸枝の生き方と業績に共鳴していました。翌一〇月に「日月ふたり(第四回)――高群逸枝・橋本憲三――」が出た二箇月後の一二月から、いよいよ憲三と堀場清子のあいだで、郵便を介した一問一答形式による「おたずね通信」がはじまります。憲三の一二月三一日の「共用日記」には、「堀場さんの『おたずね第一信』41項を書きあげる」15とあります。

除夜が明け一九七五(昭和五〇)年の幕が上がりました。一月四日「午後一時すぎ鹿野堀場夫妻みえる。6時ごろ天水荘へ帰泊」16、一月五日「午前九時すぎ夫婦みえる。ナポレオンで昼食のごちそうになる。明日午後五時の汽車にて帰郷とのこと。そのとき立ち寄られるとのこと。それまで資料をお借りになる。資料をおもちになって夫妻天水荘へ」17。一月六日「午後5時すぎ夫婦みえる。おわかれ」18、一月一〇日「私の誕生日。78歳。……石牟礼さんみえる。誕生日祝いの赤飯と折をもらう」19。「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』(第八号)に掲載されたのは、それから五日後の一月一五日のことでした。文末には、「(了)」の文字が記されていました。

憲三が瀬戸内に宛てて送った手紙のなかには、「固有名詞――地名人名などの誤植は校正者にはわからないと思われるものがありますから、『日月ふたり』完結後に、正誤表をつくってみて、差し上げようと思っています」20という記述がありました。仮にこのまま連載を続け、今後そうした「正誤表」が『高群逸枝雑誌』などにおいて発表されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。ましてや、固有名詞だけに止まらず、内容についての「正誤表」も公開されるならば、瀬戸内の文の信憑性や信頼性が厳しく問われることになりかねません。あるいはまた、同じくこの先、道子の「最後の人」や堀場の「おたずね通信」が書籍化されるようなことになれば、どうでしょう。もしそうしたことが現実のものとなれば、自分の書く「日月ふたり」は、その実証性と論証性において明らかに劣り、そのことによって作家としての名声に傷がつく可能性に、瀬戸内は思いを巡らせたかもしれません。そうであったとすれば、そのことが、主たる要因であったかどうかは別にして、「『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」まさしく別の大きな要因ということになります。さらには、それとは全く異なる要因があった可能性も指摘することができます。すでに引用した文から明らかなように、瀬戸内は、「憲三氏と逸枝の愛のかたちを知りたかった」と書いています。もしそれだけが執筆の目的であったとするならば、五回の連載をとおして、一九二五(大正一一)年の九月、逸枝が置き手紙を残して、当時自宅に寄宿していた憲三の友人男性と家を出た「事件」と、『婦人戦線』時代の逸枝と延島英一との恋愛を巡る「事件」とを書き終えたいま、もはや瀬戸内の関心は完全に燃焼してしまい、その後に続く、逸枝の女性史学の完成へ向けての物語まで書く意欲は最初からなく、五回目のここがちょうど連載の「(了)」にふさわしい時期だったのかもしれません。瀬戸内がこう書いているところが印象的です。「堀場さんが熱心に憲三氏に取材しているという噂が聞こえてきた。私は内心ほっとした。そして憲三氏が堀場さんの方へ向いてくれ、私を釈放してくれたら有難いとさえ思った」21。以上のように見てゆきますと、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」という言葉には、少なからず疑問符がつくことになります。

それはさておき、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を読んで、誤りを指摘するために瀬戸内に手紙を書いた一九七四(昭和四九)年の三月以降の憲三は、心身ともにさらに悪化が進み、一進一退の状態にありました。それから半年後に憲三を訪問した堀場清子は、そのときの様子を、こう描写します。

 朝日評伝選『高群逸枝』の取材のために、鹿野政直と私とが、はじめて橋本氏を訪ねた昭和四十九年九月、氏は「事件」の衝撃の渦中にあった。それ以外のことを聞こうとする私達の質問に対し、氏の答えはいつもその点にたちもどって、少なからず困惑させられた。逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった22

堀場は、訪問当日の憲三の様子について、「『事件』の衝撃の渦中にあった。……最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」と、表現しています。しかし、その「いたましさ」は、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」によってのみもたらされていたというわけではありませんでした。もうひとつの憲三にとっての「いたましさ」が、鹿野と堀場の水俣訪問二箇月前に、すでにもたらされていたのでした。それは、『文學界』に掲載された戸田房子の「献身」と題された小説で、逸枝の臨終の際に起こったある「事件」が主題化されていました。ここでもまた、憲三の認識とは大きく異なる描写が至る所で闊歩していたのです。その物語は、こうしてはじまります。

 昭和三十九年晩春の朝のことである。二人の男が彼女の寝室に入って行き、ベッドの中の綿のはみ出た蒲団と色褪せて毛のすり切れた毛布にくるまっている鷹子を、そっと担架に移した。……門の前に待機していた白い救急車に鷹子を運び入れた。
 鷹子の夫の楠昌之は、萎えた開襟シャツとズボンで担架のあとから歩いていた。彼は七十歳にはまだ間のある年齢であったが、老年に特有の黄ばんだ艶のない顔をして、額と鼻のわきに彫り込んだような皺をつくっていた。……
 彼のあとから、かなりおくれて、坂本滋子が両手に紙バッグと風呂敷包みをさげて、急ぎ足で救急車の方へ近づいて来た23

[本城]鷹子が高群逸枝で、楠昌之が橋本憲三、坂本滋子が、市川房枝の側近のひとりの女性、おそらくは画家の高良真木であることは明白で、医師の竹内茂代が発案し参議院議員の市川の紹介で入院が決まった国立東京第二病院に、一九六四(昭和三九)年五月一二日の朝九時過ぎ、逸枝が搬送されるところを描いている場面であることは、その事情を知る者にとっては、これもまた、容易に判断がつくことでした。そして、この物語には、市川房枝と竹内茂代が、脇田さつきと山下照代という仮名で登場しますし、石崎せつ子という婦人が、おそらくは平塚らいてうのことでしょう。

この小説では、全編にわたって、楠昌之つまり橋本憲三は、妻の気持ちを理解しない、横暴で利己主義に凝り固まった、腹黒い風采の上がらない男として描かれています。逸枝が息を引き取ったあとの霊安室での様子についての描写にも、その一例を見ることができます。それは、次のような会話で構成されています。

「実は脇田先生にお願いがあるのですが、お聞きいただけないでしょうか?」
「どういうことでしょう?」
「新聞に妻の死亡広告を出したいのですが、先生にお名前を出していただきたいのです。いかがでしょうか?」……
「新聞広告をするとなれば、二、三十万は覚悟しなければなりませんよ」
「金はいくらかかってもかまいません」
「失礼なことを伺うようですが、ご用意があるのですか?」
「沢山ではありませんが、銀行預金が四百万ございます。亡き妻のために出来る限りのことをしたいと思います」
 女たちはあッという愕きでいっせいに楠昌之に視線を集中した。四百万円! いったいどこから得たお金なのだろう。鷹子の悲惨な生活を見かねて授けつづけてきた女たちは、自分たちにすら縁遠い巨額な金を昌之が持っていたと知って茫然となった24

続けて脇田さつきは、こういうのでした。

「私はね、楠さん、そんなにお金をお持ちでいながら、皆さんから金銭的な援助を平気で受けていらしたあなたのお気持ちがわかりません。私は、あなたがたお二人をいままで貧乏だとばかり思っていました。そのように事を運んできました。いま考えますと、貧乏でなかったあなたがたに対して大変失礼なことであったと思います。お詫びいたします。――死亡広告のことは、私の素志と相容れない点がありますので、私の名前を出すのは遠慮いたします。どうかあしからず」25

「献身」が『文學界』に発表されたのは、一九七四(昭和四九)年の七月でした。ちょうどそのとき、村上信彦から、一〇月一日刊行予定の『高群逸枝雑誌』第二五号のための「私のなかの高群逸枝8」の原稿が送られてきました。そのなかで村上は、「最近出たモデル小説」26という用語を使って、その小説に触れていました。驚いた憲三は、「最近出たモデル小説」の詳細を問い合わせます。すぐにも返信がありました。八月三一日に書かれた村上からの返事は、以下のようなものでした。

 ある雑誌のモデル小説というのは、「文学界」7月号の戸田房子の「献身」です。一読して、市川房枝たちの側からの考えだということが分かります。高群さん入院前后をめぐるあなたと一部の女たちとの対立をえがいたもので、私はあなたから事情を聞いていたのですぐ見当がついたのです。私としては、よむことをおすすめすべきかやめることをすすめるべきか判断がつきません。たゞ、よんだら不快を感ずるだけでしょう27

そのあと憲三は、この小説を入手し、取り急ぎ読んだでしょう。もっとも、憲三の読後感は、調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、「不快」どころか、実際には、突然背後から鈍器のようなもので頭を殴られたような、激しい衝撃を憲三は感じたにちがいありません。というのも、現に実在する人物が、小説という虚構空間に連れ込まれ、あることないこと、おもしろおかしく、罵倒され中傷されている場面に出くわしたとき、それに怒りを覚えない人はいないと思われるからです。「小説」である限り、そこに描かれている内容に、著者は責任をもつ必要はないかもしれませんが、名誉を棄損された「モデル」は、いかばかりの傷を負うことでしょうか。それにしても、「小説」という隠れ蓑をうまく使って、一〇年前の出来事がなぜいまになって蒸し返されなければならないのでしょうか。発表された時期を考えますと、瀬戸内晴美の「日月ふたり」に誘発されたとも考えられます。

逸枝の臨終を主題にした「献身」は、憲三にとりまして、細部の事実関係には承服しがたい箇所が多々含まれていたにしましても、出来事自体は実際にあったことですので、憲三をそう驚かすものではなかったかもしれません。しかし、実際の出来事に事寄せて、個人を攻撃する態度には、憲三は、許しがたく耐えがたいものを感じ取ったにちがいありません。それは、次のような、霊安室での楠昌之と脇田さつきの、死亡広告と金銭を巡る会話をそばで聞いていた坂本滋子の心情を描写した箇所によく表われています。

 坂本滋子は昌之から金の話を聞いた瞬間から、打ちのめされた気持ちになっていた。……
 昌之の行為はずるくきたない。どこまで男らしくない男であろうと、滋子は彼を心の底から軽蔑した。そういう男と半世紀近くも一緒に暮してきた鷹子のことを思うと、だまされつづけた鷹子が可哀想でならない。なぜ昌之との共同生活を解消しなかったのかと、いまさら言ってみても仕方がないが……日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか28

しかしここで、高良真木がモデルではないかと思われる坂本滋子や著者の戸田房子を責めることはできません。男性を清算して女性を新生させようとする思考は、もとをただせば、逸枝が創案したともいえるからです。逸枝が主導した無産婦人芸術連盟の標語であった「強権主義否定」「男性清算」「女性新生」を想起すれば十分でしょう。しかしながら、上で引用した、坂本滋子の心情を戸田房子が描いた表現部分、つまり、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」の箇所は、明らかに事実とは異なっています。戸田房子の記述内容が、いかに事実を無視した蒙昧なものであるかを示す一次資料(エヴィデンス)を、以下に五点、引用します。

憲三の仕事からの帰宅を待つ逸枝は、自分が家出をしたとき旅館で渡された憲三からの手紙を読み返していました。そしてそこに、書き込みをします。おそらくこれが、これよりのち死が訪れるまでの、逸枝の憲三に対する偽らざる思いであると考えられます。

 大正十四年十二月十日夜。まだお帰りになりません。今夜もこのお手紙を出して見ました。もう何処にも行きません。あなたに仕えようが足らないとき、私はこのお手紙を出して見るのです。
 私とあなたとがこの地上から去って後もたぶんこのお手紙は残りましょう。私は王様のお姫さまよりなお幸福です。夢と血と愛をえて、天国に行くことができるのですもの。
 あなたも私も地上では貧乏な夫婦でございます。人はみな誤解しています。けれども何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。私ほどの生の執着をもった女でも、この不可思議な事実を心のなかに確かめうるとは、まあ何て不思議でしょう。愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます。いつでも もう 死ねますから。このさき幾年生きるでしょう。なるだけおじいさんとおばあさんになるまで生きましょうね。私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない29

ここで注目していいのは、「何一つ私をいまはあなたから裂くものはない」や「愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます」という逸枝の文言でしょう。

次に二点目として、「森の家」での生活をどう感じていたのかを、逸枝が告白した文がありますので、紹介します。

 夫が勤めをやめてからは、毎日たのしく、みちたりてくらした。森の中のあらゆる事件も、異変も、二人でみてきた。私のあらゆる仕事のこと、手紙、何もかもが、すべて二人によって処理された。飽きることのない毎日だったといえる30

以下に紹介する三点目が、逸枝が考えていた、自分たちの収入についての見解であり、四点目が、自身が書く著述物に関しての見解です。資産は「徹底的に共有」、著述物は、憲三との「合作」――これが、逸枝が認識するところでした。

 私は、夫の扶養ということを、可能不可能とは全く別にして、生来的に問題にしたことがない。それと同時に、結婚後の同居生活では、近代個人主義とは別に-それは非難しないが-徹底的に共同だった。夫はなんの介意なしに私のえた印税を処理した。夫の収入に対する私の態度も同じだった31

主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です32

最後に五点目として、以下の文を紹介します。ふたりが会って四五周年になる一九六二(昭和三七)年の七夕前夜に、逸枝と憲三が誓い合った言葉です。逸枝が亡くなる二年前の誓いです。

われらは貧しかったが
二人手をたずさえて
世の風波にたえ
運命の試れんにも克ち
ここまで歩いてきた
これから命が終わる日まで
またたぶん同様だろうことを誓う
そしてその日がきたら
最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない
すべてを土に帰そう33

ふたりの不離の愛を示す幾多の証拠のなかにあって、わずかこの五つの例文を読むだけでも、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」という記述が、いかに真実から乖離し、逸枝と憲三の人権を侵害し、ふたりの名誉を毀損しているかがわかります。まさしく犯罪を構成しかねない描写ではないかと思料されます。

それにしても、事実を曲げてまで、男にだまされた女の哀れさという虚構をつくり上げ、その上に立って女性を擁護し男性を断罪するところに、潜在的に定型化されたこの時代の女性の固定的視点がにじみ出ているようにも感じ取れます。果たしてこれが、どうあろうとも男性を悪の化身として措定し、それを標的に闘おうとする、同時代の女性解放運動家たちにとっての日常活動の常套手段というものだったのでしょうか。あるいは、それとの関連が深い女性史やモデル小説(あるいは伝記小説)と呼ばれるものにおける当時の際立つ記述手法のひとつだったのでしょうか。

こうして「献身」は、書かれていることの真偽はともかく、市川房枝とその周辺の女たちに秘められていた不満の大きさと執念の深さだけではなく、自らが確信する女性擁護/男性断罪の定式をも、自ずと表出した「女性史」の一幕となったのでした。

(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、178頁。

(2)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(3)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、68頁。

(4)同『人なつかしき』、69頁。

(5)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、184頁。

(6)橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、52頁。

(7)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、424頁。

(8)前掲「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、59頁。

(9)同「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、54頁。

(10)同「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(11)前掲『人なつかしき』、69-70頁。

(12)前掲「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、56頁。

(13)前掲『人なつかしき』、69-70頁。

(14)前掲「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、56頁。

(15)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、188頁。

(16)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(17)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(18)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、189頁。

(19)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(20)前掲「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、58-59頁。

(21)前掲『人なつかしき』、70頁。

(22)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、183頁。

(23)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、80-81頁。

(24)同「献身」『文学界』、114-115頁。

(25)同「献身」『文学界』、115-116頁。

(26)村上信彦「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、21頁。

(27)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、25頁。

(28)前掲「献身」『文学界』、116-117頁。

(29)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、21頁。

(30)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、429頁。

(31)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、515頁。

(32)前掲『わが高群逸枝 下』、311頁。

(33)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、449頁。