中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第二部 逸枝の放浪と憲三の作家活動

第四章 逸枝の「汚辱の沼」生活と男性の出現

逸枝の「永遠の愛の誓い」に対して、憲三から送られてきた返信は、逸枝をどん底の暗闇に投げ入れました。しかし、逸枝は、憲三の思いが、わからないではありませんでした。後年、逸枝は、こう書いています。

 人間の誓いには限界があり、それを永遠の名で表現することは、自他と神をけがすことになる。……恋愛の手紙などというものは、たぶんKがいうように「時の拍子」で書かれるものであって、それをそうでないと考えるのははかない希望にすぎないのであり、一種の夢でしかなかろう。……それなのに、私がみつめていたのは、Kのいうような「行けるところまで行こう」というのではなくて、「行けないところをも行こう」という、いわば超自然的な世界だったのだ

とはいえ、恋愛観にかかわる、逸枝の憧れる超自然的な「永遠説」を否定するかのような、憲三の現実的でニヒリズム的な「瞬間説」は、逸枝に、自分は「『時代』にとりのこされている女である」という認識をもたらしました。それを乗り越えるためには、「せまい山間から、ひろい天地に出て、人生の真理を知る」必要があり、そのことが逸枝に、親元を離れ熊本に行く決断を迫ったのでした。

逸枝が熊本に向かったのは、単なる恋愛の苦悩からの一時的避難という理由からだけではありませんでした。この時期以降、世界も日本も大きな変革の波に遭遇してゆきます。世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設――。逸枝は、こうした大波が打ち寄せてこようとするまさに直前の、その波打ち際に、いまや立っていたのです。

一方の足元では、「妻子を女工や酌婦に前借で売り払うといったような、いわゆる『女工哀史』の地獄絵巻がくりひろげられていた。私の周囲の農村でも、この経済の変動によって日一日と苦境に追いこまれつつあり、子どもたちのなかには遠く三池や熊本の紡績、八代地方の製糸等へ売られていくものがすくなくなかった」。そしてまた、逸枝自身もこの時期、「家の貧困に加えて、父の停年も近づいており、それを打開しようとして教員検定試験などもうけてみるが技術の教科に阻まれて失敗するし、つねに生活の面では追っ立てられるような気もちでいた。こうして、あらゆることがよってたかって、私をはげしくむち打ち、かりたてているようだった」

そこで、憲三との出会いからまもなくすると、一九一七(大正六)年の一〇月、勤務していた払川尋常小学校を辞めた逸枝は、すべてを振り捨てて熊本に向かったのでした。着いた先は、京町中坂の専念寺でした。ここはかつて熊本女学校時代に、済々黌に通う弟の清人と一緒に下宿していた寺です。いまここには末弟の元男が住み、済々黌に通学していました。こうして二度目の熊本生活がはじまります。逸枝にとっての喫緊の課題は、自立のための職探しでした。そこで逸枝は、小学生のときに夢に見ていた新聞記者になることを願って、行動を起こします。頼ったのは、『九州日日新聞』の入江白峰でした。以下は、逸枝の回想です。

白峰さんは社会部長の宮崎大太郎さんの京町の家に私をつれて行き、また九日社で小早川秀雄社長にも面接させた。だが、私の時代感覚と筆と服装とが適性を欠いていたので、これはものにならなかった。私は末の弟と専念寺にいたが、そこへ白峰さんが訪ねてきてくれたとき、机の上にあった源氏物語をみて、「けっきょくあなたは新聞記者にはあわない。学者の型だ」といってくれた

就職の失敗だけではなく、思想的にもこのとき、逸枝は混迷の淵にありました。熊本には師範学校時代の友人で歌人の続友子がいました。次も、逸枝の、このときの熊本生活についての回想です。

 私はこの熊本の生活では、続友子さんとだけ論議をたたかわした記憶をもっている。むろん続さん……が一枚上で、私はやはり唯心論者で、時代おくれのとんちんかんのことばかりいっていた。彼女を通じて知った熊本の文学青年たちの風潮も球磨のKたちと変わらないようだった。ここでもサニズムなどが幅をきかせているようだった。五高生の間などでは吉野作造らのいわゆる民本主義思想を奉ずる一派もいたようだった。私の古くさいロマンチシズムは大きな響をたててむざんにも崩壊してゆくようだった

そうしたなか、その年の一二月、憲三が突然逸枝を訪ねてきました。憲三は、そのときの様子を、こう記憶していました。

私の予告なしの自発的訪問で、専念寺に行きました。夕方近いころで……彼女がびっくりして迎えました。……本尊の右手にオルガンがおいてありました。彼女は、「弾きましょうか」といいましたが、内心うろたえている容子なので辞退しました。すると、前の高台に案内するといって……空地に(隈部道場あと)につれてゆきました。もう日は落ちて眼下にひろがる熊本の街々の灯をのぞみながら、芝生に肩をくみ、オーバーにくるまって、何かと話をしました

年が明けて一九一八(大正七)年を迎えました。一月の下旬、旅費の貯えのない逸枝は、会いたくなって憲三に手紙を書き、加藤神社の前にある「染屋」という旅館を知らせたうえで、来熊の懇請をします。しかし、憲三からの「その返事のなかに、『何を染屋ぞ』という迷語があった」ことに、逸枝は驚かされました。というのも、逸枝にとってその「迷語」は、性的関係を連想させるものだったからです。そこで逸枝は、「染屋」には連れてゆかず、前回同様に専念寺近くの高台の草原に案内するも、「すっかり逆上して、とんちんかんのうわごとを並べたてて、一時間もたつかたたないうちに、また上熊本駅へ送ってゆき、帰りの汽車に乗せてしまった。会ってみれば正直者でもある彼なので、けっきょく私のいうままにおとなしく帰ったのだったが、二、三日すると、『ばかにするな』といってよこした。私は悲観して、ながながと、弁解の手紙を書いた」10。その弁解の手紙の末尾には、こう書かれてありました。「けれど、私のあなたへの思慕はすこしも変わりません。お寺に帰るとめまいがしてすぐ仆れてしまいました。着物や本を売って旅費をつくって汽車に乗って人吉へ行きたいと思っています。たぶんいくかもしれません。愛してくださいますか。みじめであってもやっぱり愛してくださいますか。さよなら恋しい人よ」11

そこには、何をやってもうまくゆかない、打ちひしがれ、死に絶えんばかりの逸枝の姿がありました。そしてそのうえに、貧しさも加わります。

私は畏友続さんにも、この尊敬する球磨の青年にも、いつも軽くあしらわれているかっこうで、心が傷つけられてばかりだった。私は温かな親や弟妹、かわいらしい教え子、貧しくても親切な村の人たち、それとうつくしい自然にかこまれて、愛と平和の雰囲気に生きていたが、それがガラリとかわり、いまや唯心論の幻影が大きな響きをたてて崩れおちるのをみなければならなかった。私の心はすすり泣き、あるいは右に行き、左につまずいて、帰趨をしらなかった。
 その上、弟が卒業して去ると、私は無一文のままとりのこされ、一週間も二週間も食べないこともあった。しかし、このような窮地にあることは、安元和尚も、続さんも、球磨の青年も、故郷の親たちも知らなかった。私は麻糸つなぎの手内職をしたりして凌いだ12

逸枝はいいます。「都会は私には汚辱の沼だった」13。しかしその一方で、「深夜の本妙寺の裏山を歩きまわったり、街に下りて千反畑町の図書館をのぞきこんだりして、わずかな救いをえていた」14。その図書館で出会ったのが『天路歴程』でした。逸枝は、こうもいいます。「この話は、私に天啓的に、どん底脱出への誘いと、大きな勇気とを与えてくれたと思う。大正七年(一九一八)の三月の春もえそむるころには、私はもう巡礼旅行を空想しはじめていた」15

ちょうどそのときのことです、逸枝に別の男との、一見すると厄介そうな問題が覆いかぶさってきたのでした。『恋するものゝ道』の「第三 生命の河」(全二四信)は、熊本の逸枝から球磨の憲三に宛てた手紙で主に構成されています。以下は、「第十七信」からの抜き書きです。

 妾は今夜ある人の訪問を受けました。恰度お湯に行かうと門を出かけてゐた處でしたのでいつしよに湯屋まで歩きました。その人は昨夜書いたといふ長い手紙を手渡ししました。今日のうちにも、朝と午后と二通だけ郵便から寄越したといふのに・・・・。
 湯から歸つて灯火の下で。それを讀みました。是非一と言でいいから返事を、といふのです。
 其の人はこちらの歌人です。
 あなたに會ひたい!ああ、あなたがなづかしい、なづかしい、どんなにあなたがなづかしいでせう。
 妾はその人といつしよに歩いてゐる間、ある悲哀を感じました。でも、それは……。
 その人はどうかすると、さびしさうにものを云ふのです。さびしさうな人です。たとへば地獄の底を歩いてゐるとでもいふやうな・・・・16

こうしてこのとき、ひとりの熊本の文学青年が逸枝を見初めたのでした。のちに憲三は、この男性について、次のように解説します。

熊本に出た彼女は大正七年四、五の両月、物的にどん底生活に落ちました。……この時期に一青年が彼女に近づきました。彼女はさっそく私に知らせ、一日に朝、昼、午後の郵便で三回も血書が届けられたとか、きょうは十円どこからか借りてきた、酒をのんで崖から飛んで死ぬつもりとかいってさんさん・・・・と泣く、男の心からの涙というものをはじめてみせられてうごかされたとかいうようなことを17

そのとき逸枝から憲三に宛てて出された手紙には、一青年からの手紙も同封されていて、その青年に納得させたいので、あなた(憲三)のことを話すことを許してほしい旨の内容が書かれてあったようです。これを読んだ憲三は、こういいます。「胸がむかつきました。私の潔癖(実は偏執かも知れません)に障りました。そういうことはかんたんに自分で処理すべきものではないか、私を介在させる必要はないだろう。自立精神に反するだろうとしたのです。それで返事を出しませんでした。……彼女はこれによって私からの愛の保証をたしかめようとしていると勘ぐりもしました。……彼女は青年とのかかわりを自らたち切ることをしませんでした。できない性分です」18。逸枝からの手紙はひっきりなしに届きました。しかし憲三は、逸枝に対して「自分から断絶はしませんでした。実際には、愛しているといわれるものに断絶宣言はできません。性分です。……もし結ばれたら、祝福をおくりたいと思う余裕ももっていました」19

次の文は、『恋するものゝ道』の「第三 生命の河」に所収されている最後の「第二十四信」からの抜粋です。

 淋しい風の日で御座います。……
 漂泊の旅。
 漂泊の旅。……
 あなたは強い冷たい人です。
 あなたは冷たい人です。……
 ああ、妾の故郷は入日の國である。妾は白いおひづるをきて鉦を鳴らして此處へ行かう。ああ、妾はきつと巡禮になつて出ます。
 一目お目にかかりたう御座います。……
 なつかしいあなた!戀ひしいあなた!慕はしいあなた!
 妾の道をよく敎へて下さいまし。ああ、風が吹きます。
 すぐに御返事を。一心にお待ちします。
 返事を待ちます。一心に、是非に、すぐに下さらないと出ます20

憲三の心境はこうでした。「こういうものへの返事は苦手でもありました。彼女が欲している返事は書けも書きもしなかったと思います。巡礼訪問は大歓迎と書いたおぼえがあります」21。結果としてこのとき憲三は、決して逸枝のところに行って寄り添ったり、自分の手もとに引き寄せてかくまったりはしませんでした。逸枝がいうように憲三が冷たすぎるのか、そうではなくて逸枝が甘えすぎているのか、その判断は人さまざまでしょうが、明らかなことは、逸枝には、自分の身に降りかかった難問を自分の力で解決する能力に欠けていたということです。こうした微妙な男女の愛の駆け引きのなかにあって、「一九一八(大正七)年六月四日、私は熊本の京町専念寺をたって、四国巡礼の旅に出た」22のでした。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、131頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、131-132頁。

(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、132頁。

(6)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、187-188頁。

(7)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、133頁。

(8)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、111頁。

(9)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、133頁。

(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、134頁。

(11)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(12)前掲『今昔の歌』、188-189頁。

(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、135頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、138頁。

(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、138-139頁。

(16)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、99-100頁。

(17)前掲『わが高群逸枝 上』、120頁。

(18)同『わが高群逸枝 上』、同頁。

(19)同『わが高群逸枝 上』、121頁。

(20)前掲『恋するものゝ道』、117-119頁。

(21)前掲『わが高群逸枝 上』、160頁。

(22)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、139頁。