中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第九部 「森の家」での家庭生活と逸枝の最期

第二二章 ふたりの「森の家」生活と橋本藤野と橋本静子からの支援

憲三と逸枝が、「森の家」に引っ越したのは、一九三一(昭和六)年七月一日でした。

 私たちのこうした新しい家―研究所兼住居―は、私が出京当初しばらく思索と読書におくった思い出ふかい森の中に、私が『婦人戦線』の断末魔の苦しみをしているあいだにKの強行ででき上っていた

この家の建築の経緯は、こうでした。憲三は、逸枝が研究に専念できるようにと、こころを砕いていました。

 そこで軽部仙太郎さんは自分の所有林を利用して新築しないかといい、それに幸い虎の門のN宮家の解体資材の一部を自家用に買い入れているものがあるから、それも提供しようといってくれた

土地は、小田急線の経堂駅から歩いて二〇分のところにある、間口が一〇間、奥行きが二〇間のおよそ二百坪。東、南、西の三面は、杉、松、檜などの木々が生い茂り、一、二階あわせて六室、延べ約三〇坪のクリーム色の方形の家が、北寄りの地所に建てられたのでした。こうして逸枝は、「『婦人戦線』の廃刊と同時に、身にそぐわない過去の売文生活をも清算して新生活に入る」ことになりました。

このときの新生活を逸枝は、こう振り返ります。

日常生活は単純で質素だった。……
消費組合に払ったある月のメモにはつぎのようにある。

  石油一缶    二・四五
  米一斗     二・九〇
  鶏卵五〇〇匁    八〇
  砂糖、煮ぼし    九五
  味噌三〇〇匁    二四
  醤油        五八
  わかめ       一〇
  ちり紙ほか     九〇
  木炭      二・三五
  組合出資金   一・〇〇
  計    十二円二十七銭

 毎月の出費は、このほかに地代(十二円)、電灯(三円)などを加えても五十円程度ですんだ。研究のための資料費および臨時の雑費はべつである。
 収入はKの若干の貯蓄と私の原稿料だった

当時の米の価格をもとに現在の物価の上昇率を算出してみます。一斗は容積の単位で一〇升です。米一升を重さの単位で表わすと一・五キロで、したがって、米一斗は一五キロの重さになります。現在の米価を五キロで三千三百円とします。そうしますと、一五キロ(一斗)の価格は、九千九百円になります。逸枝が挙げている上のリストによれば、当時の米一斗は二円九〇銭ですから、それをもとに算出しますと、米価の上昇率は、三、四一三倍となり、この上昇率を適用しますと、地代の一二円は約四万一千円、電灯代の三円は約一万円、月の出費の五〇円は、だいたい一七万円相当の金額になります。月一七万円で生活を営む現在の夫婦生活から判断しますと、憲三と逸枝の夫婦の暮らしぶりは、決して楽ではなかったことが想像できます。

逸枝はまた、着衣については、こう語ります。

 研究生活にはいると、私は不便な和服を廃して洋服式にかえた。またこのほうが経済的でもあった。夏はブラウス。冬はセーターにKの古上衣を着用することで足りた。セーターの色があせると染剤で黒に染めかえる。スカートは裾がすりきれると切りちぢめてゆく。後にはKのサージの古ズボンをスカートに縫いかえたりした

この夫婦は、床屋にゆくこともありませんでした。「私は断髪が長くなると、Kがときどき裁縫ばさみで切ってくれた。Kの髪は結婚以来ずっと私がおなじはさみで切ってやっていた。Kは床屋ぎらいだった」

「森の家」に入り研究生活をはじめて数箇月が立ったときのことでした。清貧にあったこの夫婦に、光が差し込みました。

 昭和六年の暮れにKは平凡社に復帰した。下中さんが『大百科事典』編集部に招いてくれたのである。……小田急線経堂駅で電車に乗り、新宿駅で中央線に乗りかえ、東京駅八重洲口前の平凡社までゆくには約一時間かかる。私は毎朝八時にKを送り出すと、帰り夕方五時までは扉にはすべて鍵をかママて仕事一すじに専念した

逸枝の一日はおおむね、このように過ぎてゆきました。

 起床は六時。八時に朝食。それから書斎に入り勉強。昼食抜きで午後四時にそれをやめ、六時に夕食をすます。夕食後は勉強のつづきやら原稿執筆やらにおくる。十時就寝

こうした切り詰めた食生活、そして一日一〇時間近い労働は、当然ながら、逸枝の体を弱らせてゆきました。逸枝は、こう書いています。

 昭和八年の秋には、椅子にかけていると下半身が麻痺し、腹部から胸部にかけて強直を感ずるようになった。数日両眼が充血し、眼球にはおそろしい血の網がはられた。それでも私は、かつて熊本の生活できょくどの飢えや衰弱に耐えた経験をもっているので、こんども自己の抵抗力を過信して、平気でやり過ごそうとしていた

ある日のことです。ついに身体が悲鳴を上げました。「意外に早目に帰ってきたKを迎えにいこうとして足が自由にならず寝台から落ち、階段口まで這って行って気を失ってしまった。玄関にはいつものとおり鍵をかけていたので、Kはお風呂場の硝子窓をこわして入ってきて、そうした私をみつけて、はじめて一切の事情を理解した。彼は自分の無頓着を悔い、半ば仕事を休むようにして、数ヵ月介抱してくれた」10

体が衰弱したり、執筆の目途が立たず、不安に襲われたりするときなどでしょうか、逸枝は、ふと娘時代の自分を振り返り、しみじみといまの自分を見つめ直していたようです。といいますのも、熊本市立図書館に『少女集』が所蔵されていますが、そのなかの至る所に書き込みがみられるからです。この『少女集』は、逸枝の手稿冊子で、ノンブルはありません。また、製作年も特定できていませんが、筆跡や自筆と思われるイラストレイションから判断して、『十三才集』とほぼ同じころではないかと思われます。それでは、『少女集』のなかの書き込みから幾つかその断片を拾って、以下に紹介します。

「静かに御父母上様に仕へまいらんとぞ思ふ」の文字が並ぶ頁の左の余白には、「いまや妾、夫にかしづく。……夫に心の限り盡さん……」と、逸枝は書いています。次に、「少女はさびしく床しき里の詩人を慕ふ。厳かに優しき詩人をなつかしむ」の文字が並ぶ頁の左の余白には、「さすがにこんなことを書いてた時分は、夢でいつぱい胸がふくらんでゐたし、比較的うつくしい生活をしていた」との書き込みがみられます。また、「いかに父母の里のなつかしからん」ではじまる頁の空白部分には、「父母が死んで十年になつちまひ、妹は尼さんになつた。……けれども私はいつまでもやつぱり詩人……大人になつた気持がしない。三十九になつたが……」と、書き込んでいます。さらに加えれば、「操なき女は獣類ぞ。處女たる我身は厳格なる處女として」で終わる頁の左隅の余白には、逸枝は、「昭和八年六月、いま私は本気になつて、婦人論の著述にとりかゝつてゐる。しかし、まだ……まとまつてゐない」と書いています。このように大量の書き込みをしていることから想像しますと、ひとり寂しく書斎にいるときの逸枝の話し相手は、幼い日につくった私家版の手製文集のなかの自分だったのかもしれません。

平凡社で憲三が取り組んでいた『大百科事典』は、全二八巻(第二七巻が補遺、第二八巻が索引)、四六倍判、一巻平均六五〇頁、価格は三円八〇銭と四円八〇銭の二種類という壮大な企画で、一九三三(昭和八)年一一月に配本が開始され、二年後の一九三五(昭和一〇)年一一月に完結しました。しかしこのとき、平凡社の社運が傾きます。

 昭和十年(一九三五)の夏頃から経営状態はかんばしくなかったが、十月二十五日になって不渡りが出た。金額は五十万円前後だったが、二度目の破綻だけに事柄の処理は容易ではなかった11

『平凡社六十年史』の記述は、こう続きます。

 債務者会議の決定で、社員の大幅整理が行なわれたが、社長以下一心同体となって働いてきた社だけに、この整理は社側としてもいちばん辛い処置だった12

これにより、憲三も解雇されました。逸枝は、「これはまったく予期しなかった大きな打撃だった」13と書きます。収入が途切れます。憲三にとっても、仕事が奪われた衝撃は、いかほどだったでしょうか。

それぞれおよそ四年間の二度にわたる平凡社勤務にあって、憲三が主に編集したのは「現代大衆文学全集」(第一次案全三六巻)と「大百科事典」(全二八巻)でした。離職以降の憲三は、会社勤めをすることはなく、ひたすら逸枝のそばにいて、逸枝の専属の編集者として黒子に徹します。その最初の作品が、一九三六(昭和一一)年の一〇月に厚生閣によって上梓された『大日本女性人名辭書』という書題の、本文六二三頁に古今の女性およそ一千八百名が収録された大冊の辞書でした。憲三の失職に伴う収入減を補うための、やむを得ぬ現実的な仕事という側面は確かにあったとしても、こうして、詩人高群逸枝からアナーキスト高群逸枝を経て、学者高群逸枝への大きな転換の第一歩が、ここに刻まれたのでした。

一九二〇(大正九)年に離郷して以来、長く東京で生活する逸枝は、それでも自叙伝のタイトルを「火の国の女の日記」としたように、故郷「火の国」をこころから愛する女でした。一方その間、夫の憲三の姉妹である藤野と静子が、一途な「火の国の女」にふさわしく、生国を出て東京の「森の家」で清貧にして学問に生きる逸枝と憲三のふたりを物心両面からしっかりと支えました。

堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』(二〇〇九年、ドメス出版)によりますと、橋本辰次・ミキ夫妻の長女藤野(本名フジノ)は、一八九四(明治二七)年一月一七日に肥後国八代郡日置村に生まれています。高群勝太郎・登代子の長女として逸枝(本名イツエ)が生まれるのは、次の日の一月一八日です。したがって、藤野と逸枝は全くの同世代人になります。このふたりの誕生からちょうど三年後の一八九七(明治三〇)年一月一〇日、肥後国球磨郡大村において藤野の弟憲三(本名は憲蔵)が生を受けます。憲三の妹静子(本名シズコ)は、肥後国球磨郡一勝地村を生地にもつ一九一一(明治四四)年七月二五日の生まれで、兄の憲三とは一四歳、年が離れていました。

いつどのような事情から那良口から水俣に移住したのかの詳細は不明ですが、藤野と静子が「橋本商店」を開いたのは、一九三三(昭和八)年の秋のことでした。そのことについて堀場清子は、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかで、次のように書いています。堀場は、逸枝亡きあと水俣に帰還した憲三のもとを、夫である日本近代史を専攻する早稲田大学教授の鹿野正直とともにしばしば訪ね、精力的に聞き取り調査をした詩人にして女性史を専門とする研究者です。

九月二七日、藤野協議離婚して復籍。自立をめざし、橋本一家の一丸となった応援によって、早くも一〇月一日には水俣町古賀町に「橋本商店」の看板を揚げた。店主橋本藤野、事務員は静子だった。米・炭・雑貨・ミカンや梨などの果実類・酒・食品などしだいに商品をふやし、買い手や取引相手の信用を得て繁昌した(その後橋本商店は、栄町、浜町と転々しながら発展し、現在は水俣市幸町にある)14

また、堀場は、こうも書いています。その翌年(一九三四年)のことです。

五月一四日、橋本藤野は分家して、妹静子を養女とする。六月一九日、西村英雄を婿養子とし、静子との婚姻を届け出た。静子は結婚後も、軍人だった夫の任地熊本と、水俣の間を往来して、店の事務と経理を仕切った。大八車を引いて働き、店を大きくしたと、聞いたこともある15

この年(一九三四年)の一月に藤野は四〇歳に、静子は七月に二三歳になりました。

一方、このころの逸枝は、一九三一(昭和六)年七月に「森の家」に隠棲して以来、客の来訪をいっさい固辞し、一日に一〇時間近く仕事部屋にこもり、研究に専念する日々にありました。夫の憲三は、一九三五(昭和一〇)年の秋に、平凡社を解雇され、それ以降、寄り添って逸枝の学問を支えます。研究が完成し、『大日本女性史 母系制の研究』が世に出たのが、一九三八(昭和一三)年六月のことでした。

次第に開戦が近づいてきました。次は、一九四〇(昭和一五)年の四月二九日に、逸枝が静子宛てに書いた手紙の一節です。

 おたよりありがたく拝見、お写真なつかしくなつかしく。先日は英雄さまこまごまお手紙まことにうれしく存じました。……
 私が年とって動けなくなったらあなたが養ってくださるってありがとう。感謝します。
 あと十五年――私たちもそうすればよぼよぼになることでしょう。喜んで静子さんのところへ帰りたいと思っています16

この手紙からおよそ三箇月が立ち、憲三と逸枝は、「火の国」への帰省の途につきました。「昭和一五年八月二日の朝、Kが玄関の扉に鍵をかけているのを見ながら、『しばらく留守にします。帰ってくるまでどうか無事で』と念じた」17。ふたりが乗った列車は、東海道、山陽道を経て、九州に入り、八代で肥薩線に乗り換えると、山に囲まれた球磨川沿いを走りました。人吉のふたつ手前の那良口で下車し、憲三の兄の秀吉が住む家に向かいました。そこに、憲三の父の辰次と母のミキが一緒に暮らしていました。「玄関に立ってあいさつし、そして隠居所に行った。隠居所は一間きりで、大きな炉が切ってあった。……お父さんは部屋の中央にやすんでいられた。苦痛はなく、食欲もあるが、言語が自由にならないとのことであった。お母さんは元気でお父さんの介抱をしていられた。父は七十七歳で、母は七十三歳だった。私たち、とりわけこんどは私の帰省をよろこんでくださった。私たちは、父母の希望で、しばらくここに寝とまりして、老父母をみとることにした」18

裏山に橋本家の空華塔(納骨塔)がありました。辰次が、「自ら石を探し、家人や村人たちの手をかりて運びあつめ、それを兄の協力でコンクリートでかためてでき上ったひなびたもので、碑面の文字も自分で書き、自分で彫ったという。塔の中にはすでに子一人、孫一人の骨壺が納まっていた。私たちの憲平ちゃんも骨はないが祭ってある。……いずれ私の骨もこの墓にはいることであろう」19

ふたりは那良口を発つと、憲三の姉の藤野と妹の静子が暮らす水俣に向かいました。水俣は、一度八代にもどり、そこで鹿児島本線に乗り換えて南下した、鹿児島県との県境近くに位置しています。途中車窓からは、かつて約一年間ふたりが生活した弥次海岸が見えました。「姉の家は栄町にあった。米炭その他雑貨を売る店で、妹夫婦を養子にしていた。妹夫婦は夫英雄さんが軍人で熊本に住んでいるので、姉妹のどちらかの一人が父の看護をするのに、遣り繰りに骨が折れるという。妹は読書好きで、淇水文庫に案内しようといった。文庫は蘇峰さんが厳父淇水を祈念して建てたものだった」20

藤野と静子が店を構える栄町通りには、数年前まで、わずか少し離れて、石牟礼道子(旧姓は吉田)の家族が住んでいました。このとき幼少の道子は、「橋本商店」に買い物に行っていますので、藤野や静子と顔をあわせていたものと思われます。さらに、縁というものは実に不思議なもので、のちに道子が、逸枝の『女性の歴史』(上巻)を手にし、体が震撼するのを覚えたのが、この淇水文庫でのことでした。

水俣での滞在を終えると、ふたりは、鹿児島本線を北上し、八代を過ぎた小川駅で降り立ち、そこからバスに乗り換えて、「小野部田に三宝寺を訪ねた。三宝寺は小学校の国語読本巻十一に出ている『鉄眼の一切経』の宝蔵国師(鉄眼)の生誕の地である。……本堂に案内を乞うと妙有尼が出てきた。四十に近いこの妹は、処女のまま尼になったせいか、若さと美しさは娘の頃と変わらない。……翌旧盆十三日、妹を伴いKとの三人で、さらに奥の山中の私の両親の墓に詣でた」21。バスを降りると、「徒歩で約二里の旧峠道をあえぎ登る。顔蒼ざめ、汗ながれ、たえがたい悪寒を伴う。わが身もすでに衰えたり、との感ふかし。しかし父母へのつとめもこれが最後になるかもしれないと、自らはげまして、とにかく頂上にたどりついた。……そこから下り道となり、やがて払川部落に入る。両親の墓は下鶴の小高い丘の中腹にあるのだった。父が建てた母の墓のうしろにそれを抱くようにして弟清人が建てた父の墓があった。私はまのあたりはじめて父の墓碑を見るのだった」22

それからふたりは、再び那良口の憲三の両親の家に向かいました。しばらく滞在したのち、「八月二十四日朝、お父さんに別辞をのべ、お母さんに駅まで送っていただいて帰途についた。すすめられていたので熊本に途中下車して、妹夫婦の仮ずまいを訪ねた。子飼橋ゆきの市電にのると、その終点のところだった。……ここではからずも『日本談義』の荒木精之さんにお目にかかった」23

こうして、およそ三週間にわたる一連の帰省の日程が終了しました。

 二十三日の午後八時まえ東京駅につき、帰家したのは十時に近かったろう。バスを下りて森が見えるところまでくると二階の書斎に灯がついているように疑われた。よく見れば、樹間に団々たる月がかかっているのだった。
 この美しい月と森の家とがたしかめ得られたとき、私の旅の愁いは消えて、私は完全な自分にかえった。この瞬間、ふたりの団結のよろこびが胸にあふれて歩行の自由が奪われた。Kも感動をかくさず、私たちは体と心とを寄せあい、しばらく立ち止まって、それを眺めた。
  われらが研究所!
  われらが純愛の家!24

憲三の父親の辰次が亡くなるのは、翌年(一九四一年)の三月一〇日でした。そして、いよいよアジア・太平洋戦争へと突入しました。一九四一(昭和一六)年一二月八日、マレー半島への上陸とともに、ハワイの真珠湾攻撃にはじまり、その後日本軍の戦線は拡大し続けました。しかし、一九四二(昭和一七)年六月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、戦局は大きく傾き、南太平洋の日本軍は次々と壊滅の道をたどっていくのでした。

そうしたなか、水俣の藤野と静子の援助が、途切れることなく続きます。一九四二(昭和一七)年一月二二日の日記には、こう記されています。「鉄道便で小荷物到着。二七キロ」25。小荷物のなかには、みかん大粒(三〇)、ネーブル(八)、レモン(四)、自然薯(二)、里芋、馬鈴薯、小豆、大豆、椎茸、砂糖ザラメ、同黒、小麦粉、干しえび・いわし、ちりめんじゃこ、石けん(二)、味の素(二)、歯ブラシ(二)、スモカ、へアネット(二)、丸餅(四〇)、梅干し(一缶)が入っていました。また、その年の一〇月一五日の日記には、「水俣から小包。――栗、ざこ、その他」26の文字が並びます。

年が明けると、一九四三(昭和一八)年二月一七日から二四日まで、憲三は、父親の三回忌のため帰省しました。この間逸枝は、「留守日記」を書きました。そのとき逸枝は、陰膳をして憲三の無事を祈ったと、以下のように、「留守日記」に記しています。

 ご飯をたべてきた。はじめて新しく炊いた。のりとざぜん豆のおかず。夫にもよそい、お茶も二人ぶん。上にあがると、きのうとおなじ夕焼けである。窓からみていると、あの欅の下から夫がやってくるような錯覚がおこる。こたつに火をいれる。むこう側の夫の影にあいさつして机にむかう。影はふかく頭をたれてねむっている。ああまた日没時だ。風がさびしい。かきおとしたが、のこりのぼた餅をたべた。ちょうどお母さんが夫からもらってたべてくださったであろう時刻に。つめたくはあるが、うまかった。いまごろ水俣ではどんなだろう27

おそらく、このときの憲三の水俣帰省は、ふたりが離れて時を過ごす、最初の機会だったものと思われます。逸枝は、母親の姿を見失った幼子のように、言葉で表現できないような、寂しさと不安のなかにあったものと推量されます。といいますのも、次のような、憲三に寄せる逸枝の思いが、二点ほど、書き残されているからです。

一点目は、一九三〇(昭和五)年に、逸枝の自伝的小説である『黒い女』が世に出ますが、そのなかに含まれている、こうした一節です。「彼女は一分間も夫を離れては生きてゐられなかつた。けれどもそんなことを仮にも彼女がいふなら夫もわらふだらうし他人はなほ嘲るだらう」28

もう一点は、次の一節に求めることができます。

 たまに夫が外出すると、その留守のさびしさはたまらない。もう帰るか、帰るかと、門に出て待ちくたびれる。こういう私という女はなんといったらいいだろう。とても学者の型ではない29

ここからもわかりますように、逸枝は、夫の存在を忘れて勉強に没入することのできる女ではありません。常に思いは憲三のもとにありました。

憲三の帰省から一年が立った一九四四(昭和一九)年の一月一八日に、逸枝は五〇歳の誕生日を迎えます。「妾薄命」を自覚していた逸枝にとって、「人生五〇年」の域に達したことは、夢のような喜びでした。しかし、その翌日、「この研究所の前後に焼夷弾が落下して、静かな森の一軒家はたちまち防空訓練の標的となり……井戸からリレー式で運ばれるバケツの水が壁や窓や木立に力なくそそがれた。これが一つの象徴であるかのように、その後の戦局の重大化はもはや誰の目にも明らかとなり、それに応じて彼女の上にも、いろいろな影響がもたらされることになった」30。それは、講演や執筆の辞退要請を意味します。一方で、配給物資の欠乏にも悩まされ、憲三はとうとう決意して、「前庭を開墾して、本格的に『家庭菜園』と取り組むことになった。二人の生命、ひいては彼女の仕事をまもるためには、闇買いをしないとすれば、こうでもしてしのいでゆくほかはなかった」31のでした。

B29型長距離爆撃機による本土空襲は、一九四四(昭和一九)年六月の北九州爆撃からはじまり、一一月には、東京がはじめての爆撃に見舞われます。身の危険が迫ってきました。そこで、ふたりは、水俣の静子に宛てて、「遺書」を送りました。その内容は、次のとおりです。

 遺書
私たちが不慮のことがあった場合つぎのように処置されたし。
〇書籍類 ××図書館に寄付交渉のこと。ただし在京逸枝先輩友人たちに意見あれば、従うこと。一応左記に書面相談せよ。
  高島先生
  穂積先生
  平塚氏
  竹内氏
  竹中氏
〇五千円 母上、姉養老金として静子へ
  千円 空華塔供養費として兄へ
  千円 高群両親墓供養費として清人へ
  千円 高群妙有へ
 二千円 あと始末費 静子へ
 その他 静子へ
  昭和十九年十一月三日  橋本憲三
                逸枝
橋本静子様32

年が変わり、一九四五(昭和二〇)年に入ると、戦局はさらに悪化の一途をたどり、三月一〇日、焼夷弾一九万個の投下により約十万人が焼死しました。東京大空襲です。三月一八日にふたりは静子に宛てて手紙を書き、自分たちの疎開計画を知らせました。それは、「一、疎開の目的」「二、新居」「三、その他」から構成されており、そのなかには、こうしたことも記されていました。「もし疎開できたら、新居があるまで水俣の店におちつく。だから無理して条件のわるいところを探すことはない。そちらに行ってから憲三が探すもよい。逸枝の健康が弱っているから、周囲の環境や日当たりのわるいところはどんなに家がよくても不可。水俣図書館が近いところだと大へん好都合(ただしすこしは遠くてもかまわない)。そちらの意見もきかせてください。それから母上に大きな声で、このことをはっきりわかるようにいって生きのびてもらってください。母さんやみなさんと暮らせることが、うれしくてうれしくてなりません」33

しかし、この計画は実行されませんでした。理由のひとつは、「書物輸送の算段がつかなかった」34ためであり、いまひとつの理由は、五月の下旬のころ、「水俣の姉妹の家が敵襲によって失われた」35ためでした。

日本の敗戦が近づいてきました。「国民義勇隊」が組織されると、世田谷四丁目の小隊の一覧表が示された回覧板が隣組から届きました。そのときの逸枝の様子を、こう憲三は書いています。

 逸枝はこの一覧表を自ら写し取り、もしKが戦場に出るなら、自分も特志看護婦となり、
「死ぬときはもろともに死にます」
 といった36

憲三から離れられない逸枝の決意が伝わってきます。しかし、憲三の入隊は避けられました。

一九四五(昭和二〇)年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦しました。八月一五日、終戦のこの日を憲三と逸枝は、「森の家」で迎えました。すべてが終わりました。憲三四八歳、逸枝五一歳の暑い夏でした。

終戦の翌年(一九四六年)の三月、逸枝は、「かの山の花―父上忌に―」と題して、このような詩をつくりました。

癒えない病の床で/父上が眺めたもうたという/那良口の花
谷間の峽間をあかるくし/そば道を照らして年ごとに咲くという/那良山の花
ああ父上の一瞥が/かの山花に/何と尊い永久的な意義を与えていることか
毎年めぐりくる/三月十日父上忌は
また同時に/われら一族の花まつりの日ともなろう37

また、同じこの時期、逸枝は、以下のような、「しぐれの雨―たのみ―」という詩もつくっています。

遠いところから降ってきて/いま私の勉強部屋のそとで/「こんにちは」といってる
しぐれの雨よ/その足で行ってくれ
母さんと姉さんの山へ/水俣の町へ
三宝寺へ/益城の山と野へ
しぐれの雨よ/その足で行ってくれ
そして伝えてくれ/東京の森の家からよろしくと38

上の二編の詩から、故郷の家族を思う気持ちがしみじみと伝わってきます。そして、このときの家族の所在は、こうであったと、逸枝は書きます。

 このとき、義母と義姉は疎開のまま那良口に、義妹静子は帰還した夫英雄と水俣に、そして妹妙有は三宝寺に、ボルネオから引き上げてきた清人一家は払川に、おなじく朝鮮から引き上げてきた元男は松橋の曲野にいたのだった39

両家の家族にあっては、一九四九(昭和二四)年一〇月二六日に憲三の母親のミキが死去します。逸枝の弟の元男も、ミキと同年の三月三〇日に他界し、一方、妹の妙有は三宝寺を離れ、その後、山口県下関郊外の観音を祀る山寺の庵主となるのでした。

それからおよそ五年の歳月が流れ、一九五一(昭和二六)年一一月三日に、逸枝は、熊本県教育委員会から近代文化功労者に推挙されます。一一月七日の日記に憲三は、「静子から手紙―文化の日の顕彰式に出てくれたと」40と、書いています。

この年(一九五一年)の一二月に、ついに逸枝は「招婿婚の研究」を脱稿しました。そこで、「この機会に、化け物屋敷と呼ばれている森の家は、水俣の義姉が出てきて修理してくれることになった」41のでした。修理工事は、翌年(一九五二年)の夏に行なわれました。逸枝の七月三日の日記には、次のように記されています。

 天気、午後五時まえ晴れあがる。憲三東京駅へ。逸枝はご飯をたきはじめる。いま七時五十分。そろそろお着きか。風呂もわきはじめた。お茶もわかしてある。電灯も今夜は書斎と茶の間の二ところにつけた。玄関にもつけておこう。五拾五分。門に出てみよう。
 門に出てみた。月がうつくしい。夢のような晩だ。なかなかみえない。引き返して、風呂をみると、まだすこしぬるい。
 いま、八時二十分。ちょうどおいで42

このときの「森の家」の修繕について、堀場は、こう記述しています。

七月三日藤野が上京し、二三日まで滞在して応援した。家の修理費として姉妹から一〇万円、姉から夫妻の歯の治療代として一万五千円、逸枝のオーバー代として一万円を贈られる43

水俣の橋本家の近くで内科医院を営む医師に、佐藤千里がいました。のちに、憲三と藤野の主治医となる人物です。偶然にも、佐藤の実家の母親の坂崎かおる(本名カオル)が逸枝の幼少期の友だちでした。のちに逸枝は、かおるについてこう書いています。「久具時代の一級下の友坂崎かおるが師範に入学したので、これと友だちになったのである。のちに彼女はよい夫と子供にめぐまれ、いまもたっしゃで故郷の天草に幸福な日を送っている。私はずっと仲よくしており、いまもたよりをかわしあっている」44

「森の家」の改修工事のさなか、その家に滞在していた藤野は、そのとき目にした様子を佐藤千里にこう語っています。

ほんに、あん人達ときたら、一勝地の母が昔使ったこまか(小さい)鍋釜で、ままごとのごたる暮しばしとらした。鶏達も、逸枝さんには甘えてなあ。研究の邪魔になると憲さんが逸枝さんの書斎から追い出すと、鶏達はふてくされて外で砂浴びなどしよった。あたしや静子が訪ねて行くと、憲さんの身内をせい一ぱい歓待しようと思わすどじゃろう、自分で台所に立ちよらした。それでも、何とのう要領が悪うて、一寸ばかりいぢらしかった。見かねて憲さんが台所仕事を代ろうとすると、こっそり袖を引っ張ったり、脇を小突いたりして、ほんに小娘のごつ逆いよらした45

どうやら逸枝は、台所仕事が苦手で、日頃から憲三が担当していたようです。しかしながら、飼っていた鶏とは逸枝は相性がよく、そのなかのトン子について、このように描写した箇所がありますので、抜き書きします。

 トン子は扉がしまっていると、大いそぎで玄関に出かけていく。そこもしまっていると、また大いそぎで勝手口にまわって侵入し書斎へくる。
 私の書斎は、終戦の放送日をさかいにして、階下に移っていた。トン子は、雛の時からおもしろい子で、いちはやく家のぐるりを探検して、私のところをかぎあてた46

一方、そのころの家の経済事情を憲三は、こう振り返ります。

 私たちのくらし――生活費――は、彼女の資料費には事欠くことが少なくなかったとはいえ、明日の米塩にこまるということはほとんどなかった。一、二度窮境に落ちたこともないではなかったが、非常手段をとれば打開できる程度のもので、質屋利用を知らず、使用済みとなった資料の売却なども考えになく、最低の生活はつねに保障されていた47

憲三がいう「非常手段」とは、「森の家」の修理費用を姉の藤野に出してもらったように、水俣の姉妹からの援助のことが念頭にあったのかもしれません。石牟礼道子は、憲三の姉の藤野について、こう書いています。

 森の家の夫婦は学者と編集者であるから、実収入はたいそう低額でぎりぎりの生活であった。それを知ってお姉さまの方は、
 「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」とおっしゃって、水俣の店の収入を存分に森の家に送金しておられた由である48

実際、「森の家」の土地二〇〇坪を購入するときも、水俣からの金銭的援助を受けています。それは、一九五五(昭和三〇)年の七月ころのことでした。憲三はこう記しています。

 私たちが軽部仙太郎さんの死去によって窮地に立ったなみ夫人からのぞまれて、森の家の土地二〇〇坪を買ったのもこの時分だった。この代金は逸枝の印税と水俣の援助で支払われた。彼女は水俣の援助を心苦しく考えためらったが、それも軽部夫人ののぞみにはかえられなかった。私たちはこの機会に故郷から世田谷区に戸籍を移し、七月三〇日からあらたに東京の住民となった49

もっとも憲三は、こうもいいます。「ただ、世間にはジャーナリズムにあやまられて、彼女ないし私たちの貧乏という点については伝説的にさえ信じられているものがあるのではないかと思われたが、彼女もKもあえてこれを訂正しようという努力はしなかった。無駄な骨折りに終わると考えられたからだった」50

憲三も逸枝も、自分たちの収入や資産については、「徹底的に共有」のものと認識していました。そのことは、次の逸枝の言葉が例証します。

 私は、夫の扶養ということを、可能不可能とは全く別にして、生来的に問題にしたことがない。それと同時に、結婚後の同居生活では、近代個人主義とは別に-それは非難しないが-徹底的に共同だった。夫はなんの介意なしに私のえた印税を処理した。夫の収入に対する私の態度も同じだった51

さらに、自分の著述については、逸枝は、こう認識していました。以下は、逸枝が、静子に宛てて出した手紙の一部です。

主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です52

以上、憲三と逸枝の「森の家」における暮らしの一端を描写してきました。それを総合しますと、おおよそ、次のようにまとめることができます。

(1)逸枝と憲三の愛情関係は、憲三の帰省中に逸枝が陰膳をして無事の帰宅を祈ったことに象徴されるように、逸枝がこれまでに求めてきた「不離の愛」あるいは「一体の愛」の高みに到達していた。
(2)逸枝の印税も、憲三の平凡社からの給与も、収入は、個人資産として別々に管理されていたのではなく、ふたりの共有財産として一括合算して取り扱われていた。
(3)逸枝の認識のなかには、自分が世に出す著述物は、名義は形式的に自分の名前であるが、実際的には、憲三との合作であるという思いがあった。
(4)そうしたふたりの生活にあっては、その陰で、熊本の水俣に住む憲三の姉の橋本藤野と妹の橋本静子の物心両面にわたる献身的な援助が存在していた。

上の四点を一言で言い表わすならば、愛情も、金銭も、仕事も、ふたりのあいだでは、分かちがたく一体のものとしてとらえられていて、それを背後で、憲三の姉と妹が支えていたということになります。

もっとも、逸枝の意識は、憲三との暮らしだけに集中していたわけではありませんでした。それと同時に、逸枝の気持ちは、ふるさと「火の国」にも寄り添っていたのです。そのことを、次章の「『望郷子守唄』の歌碑除幕と出会いから四五年目の『誓い』」のなかで描いてみたいと思います。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、244頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、243頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、244頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、247-248頁。

(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、248頁。

(6)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、248-249頁。

(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、250頁。

(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、248頁。

(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、253-254頁。

(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、254頁。

(11)『平凡社六十年史』平凡社、1974年、170頁。

(12)同『平凡社六十年史』、171頁。

(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、256頁。

(14)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、68頁。

(15)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、69頁。

(16)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、251頁。

(17)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、292頁。

(18)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、293頁。

(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(20)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、297頁。

(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、298頁。

(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、298-299頁。

(23)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、300頁。

(24)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(25)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、307頁。

(26)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(27)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、310-311頁。

(28)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、8頁。

(29)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、429頁。

(30)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、322頁。

(31)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(32)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、325頁。

(33)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、328頁。

(34)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(35)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(36)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、329頁。

(37)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、337頁。

(38)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、338-339頁。

(39)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、339頁。

(40)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、401頁。

(41)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、370頁。

(42)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、407頁。

(43)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、111頁。

(44)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、127-128頁。

(45)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、47頁。

(46)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』理論社、1958年、175頁。

(47)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、418頁。

(48)『石牟礼道子全集』別巻、藤原書店、2014年、275頁。

(49)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、391頁。

(50)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、418頁。

(51)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、515頁。

(52)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。