当時、逸枝の思いは、ひとときも離れていることのできない夫に対してはいうまでもなく、そしてまた、家で飼うみぢかな愛鶏のみならず、遠く離れた、生まれ故郷にも向けられていました。「森の家」の修理からおよそ一年が立った一九五三(昭和二八)年の六月二六日、降り続く大雨で阿蘇から有明海に流れる白川が氾濫し、熊本市内は洪水に見舞われました。そのときの思いを逸枝は、熊本で『日本談義』を主宰する荒木精之に宛てた手紙で、以下のように、綴っています。
荒木精之様 「熊本大水害」特輯号をいただいたとき、すぐ次号へ何かお見舞いのことばでもさしあげたいとおもいましたが、それもとうとう果し得ないでしまい、失礼しました。 最初にラジオで、熊本の全市民に花岡山に避難命令がでたときいたときには、自分の耳をうたがったほどびっくりしました。朝日の東京版で、在京熊本県人連合会で、こちらにいる県民をはじめ一般都民に義捐をよびかけているとの異例の記事をみていよいよ驚きをふかくしました。私もさっそく郵便にたくして貧者の一燈をささげました1。
そしてこの手紙は、次の最後の節へと続きます。
「熊本大水害」を拝見して、災害のむごたらしさに、胸つまるばかりです。お見舞いのことばなど、もう出ません。 来る一月十八日は、私の還暦にあたります。そんな話をしながら寝に就いた一夜、夢の中でしきりに望郷のおもいを五木の子守唄に擬して作っていました。すなわち、愛郷のあかしとしておめにかけます2。
その一夜とは、熊本の大水害からほぼ四箇月が過ぎた、一九五三(昭和二八)年一一月四日の夜のことで、夢のなかで、次の一首が浮かんできました。参考までに、それに対応する「五木の子守唄」の原詩を角括弧のなかに入れておきます。
おどま帰ろ帰ろ 熊本に帰ろ 恥も外聞もち忘れて3 [おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと 盆が早よ来りゃ 早よ戻る]
そして、目が覚めた翌朝、続けて一〇首をつくりました。そのうちの最初の二連を紹介します。
おどんが帰ったちゅうて 誰が来て呉りゅに 益城木原山 風ばかり [おどんが打っ死んだちゅうて 誰が泣いてくりょか 裏の松山 蝉が鳴く] 風じゃござらぬ 汽笛でござる 汽笛鳴るなよ 思い出す [蝉じゃごじゃんせん 妹でござる 妹泣くなよ 気にかかる]
「五木の子守唄」のゆっくりとした三拍子の旋律に乗せた替え歌になります。こうして、一一首からなる「望郷子守唄」が、一気に完成したのでした。のちに逸枝は、幼年時代を思い出して、こう書いています。
私は熊本の生まれなので、母親のうたう五木の子守歌をきいてそだった。自分も子守の群にまじって、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、よくこの歌をうたったものであった。 この歌の曲には、一定の型はあるが、時や所や歌い手の気分によって、調子は自在にかえられる。歌詞も自由に改作されたり、新作されたりする4。
一方、「望郷子守唄」が生まれたころ、逸枝は、『女性の歴史』の構想と執筆に明け暮れていました。その中巻が刊行されるのが一九五五(昭和三〇)年五月ですが、そのなかの第三章「女性の屈辱時代」の第五節「いわゆる庶民文化」に、肥後国の民間説話についての記述がみられます。
民間説話の種類は多い。これも私の故郷のことになるが、私の故郷は南国であたたかく、家ごとにザボンがなる。北東の山岳地帯に阿蘇のけむり、南西の有明-八代の海に不知火がもえ、古来ひとよんで火の国といった。…… 「あとはどうなときゃあなろたい。」 という南国型の女性も私の故郷の百姓女である。 このように、この火の国は、民間説話の宝庫ともいえる国であるが、それは荒木精之氏の名著「肥後民話集」をみてもうかがわれよう5。
このように、熊本が大洪水に見舞われたこの時期、逸枝の望郷の念は、一段と高まりをみせたのでした。
しかしその一方で、この時期、逸枝の心も同じように、あたかも大水に襲われるがごとくに、苦しんでいました。以下は、一九五三(昭和二八)年一二月八日の「共用日記」に逸枝が書き記した落書き風の短文の冒頭の部分です。
私は破綻している。心に矛盾が多い。これが私の情熱やエネルギーの隠れた源泉となっている。私には自己反省の材料がかぎりなくある。私は人格の完成をもとめてさまよっている6。
次は、翌年(一九五四年)一月一四日に書かれた短文の一部です。
けさは夫をこまらせた。彼がいうには、私には、意識しないでひとをばかにしているところがあると。これに私は承服しなかった。なぜなら、それどころか私にはもっといけない奴隷根性があることをひそかに考えたからだ。けれども、奴隷根性の半面こそ夫のいうとおりのものではなかろうか、ともいまはおもう7。
そうした内面の葛藤を抱えながらも、楽しい出来事もありました。
その四日後の、一九五四(昭和二九)年の一月一八日、逸枝は還暦(六〇歳)を迎えました。そのとき、小さな宴が、友だち二人が加わって自宅で行なわれました。その祝い膳には、「森の家」でかわいがられていた三羽の鶏も参加しました。「もちろんトンコ、タロコ、ジロコもお相伴し、ご馳走をたべ、あまざけをすすり、逸枝が与える葡萄酒まで飲んで、上きげんだった」8。
そして、そのおよそ一箇月後、逸枝の『母系制の研究』(新版/第四版)が上梓されます。前年に刊行された『招婿婚の研究』とあわせて、この二冊の大著をもって、ようやくここに、戦前の呪縛から解き放されて、逸枝は、真の意味での女性史学者として世に立つことができたのでした。
それからさらに一年と二箇月が立ちました。一九五五(昭和三〇)年四月一一日の日記には、こう記されています。「球磨、水俣、福岡から憲三兄弟一行到着。トンコ、タロコ、ジロコ、人みしりして妙におとなしくしている。午後、兄弟会、水俣の姉に感謝状」9。このとき作成された感謝状を、姉の藤野は亡くなるまでとても大事に飾っていました。主治医の佐藤千里が、このように書いています。
ふじのの病室の壁には、逸枝の筆になる一枚の感謝状が額に入れてかけられていた。 感謝状 橋本ふじの様 あなたは、終始父母のために計 りその老後を楽しませること につとめられました。 また私ども兄弟にも絶えず 愛情を頒たれました ここに兄弟会東京開催 にあたり記念品を贈り感謝します。 昭和三十年四月十一日 兄弟会 球磨村 橋本秀吉 東京都 橋本憲三 福岡市 橋本武雄 人吉市 橋本袈義 水俣市 橋本静子 この、毛筆で丁寧に書かれた感謝状を見る度に、私は優しさとこっけいさの交じり合った奇妙な思いに浸されるのであるが、真面目であればある程童女めいてくる逸枝を好ましく思う10。
東京での兄弟会の熱気がまだ冷めやらぬ翌一九五六(昭和三一)年の八月一一日、水俣では静子が筆を執り、憲三宛てに手紙を書きました。内容を部分的に引用します。
店の近くに広い土地つきの頑丈で古風な大きな二階作り……の家があるのを求めました。……兄さん達が年をとられて寄り添って暮らしたいと思われるとき、いつでも来ていただいてよいために。いつでも行って暮らしてもよい処があると思われるだけで今安心してお仕事なさっていいわけです。 兄さん達も含めて、老後の暮らしがたつように設計をたてています。(静かな、樹木のあるよい処です)…… いつでもお出になってください。それまでは、ただおしごとだけを、と思っています。 借金をしましたが、それはちゃんとした目あてがあるのですから心配はいりません。しばらくは苦労しますが、兄さん達のためと、私達のために頑張ります11。
しかしながら、まだまだ、逸枝の仕事に終わりは見えませんでした。その手紙から三年後の一九五九(昭和三四)年一月四日から四月一三日まで、一〇〇回にわたって地元紙である『熊本日日新聞(熊日)』に随筆を連載します。そして七月に、講談社より単行本となって発売されます。この『今昔の歌』は、前年(一八五八年)に刊行された『孤独と愛と 学びの細道』(理論社)に続く、逸枝にとってこの時期の二冊目の自伝的エッセイ集となるものでした。
『熊日』紙上の「今昔の歌」の連載が終わった翌日(四月一四日)は、逸枝と憲三にとっての結婚四〇周年の記念の日でした。「私たちは、高群・橋本両家の人びとへのささやかなおくりものを三越(百貨店)に注文し、当日はくつろいで自祝のテーブルにつき、タロコにも不二家の菓子をふるまったが、そこへ奥村博史さんがみえて貧しいわれわれの催しに加わってもらったのは思いがけない仕合わせだった。奥村さんは自作の青い美しい指輪を夫妻の名でおくってくださった」12。奥村博史は、平塚らいてうの夫で、一九五六(昭和三一)年に、ふたりの出会いを描いた小説『めぐりあい 運命序曲』を上梓していましたし、美術家でもあり、つくる指輪は、富本一枝の夫で陶芸家の富本憲吉の導きで、国画会に出品した経験もありました。
『孤独と愛と 学びの細道』と『今昔の歌』に先立ち、一九五八(昭和三三)年七月に発刊された『女性の歴史』の続巻をもって、四巻からなる逸枝の「女性の歴史」は完結しました。前代未聞の偉業として世に讃えられました。そうした燦然と輝く評価を受けて、「望郷子守唄」の詩作から八年と二箇月が立った、逸枝の六八歳の誕生日でもある、一九六二(昭和三七)年一月一八日に、逸枝ゆかりの地において歌碑の除幕式が執り行なわれました。以下は、翌日の『熊日』朝刊(七面)の記事からの抜粋です。
熊本が生んだ日本女性史研究家高群逸枝女史=東京在住=が故郷をしのんでうたった「望郷子守唄」の歌碑除幕式は、女史の六十八回目の誕生日にあたる十八日午前十時すぎから、女史が幼年時代を過ごしたゆかりの地、下益城郡松橋町久具の寄田神社境内(寄田校跡)の碑前で盛大に行なわれた。式場には沢田副知事、小崎熊日社長、福田令寿県社会福祉協議会長、黒田ハマ県婦連会長ら来賓と地元側から中山寧人松橋町長ら関係者、それに東京から女史の代理として奥村博史氏(平塚らいてう女史夫君、洋画家)浜田糸衛氏(童話作家)高良真木氏(洋画家)アメリカから帰国中の駒井哲氏(元映画俳優)らなど約三百人が参列した。 式は荒木精之氏(日本談義主宰)の司会で進められ、松橋町西部中ブラスバンドの奏楽のうちに同町曲野、坂本洋子ちゃん(七つ)=当尾小一年・女史の弟高群元男氏(故人)の孫=の手で除幕、同時に数十羽のハトが放たれ、小崎熊日社長が碑に刻まれた「望郷子守唄」を朗読した。
松橋町久具寄田の地で、逸枝は四歳から九歳までの幼少期を過ごしています。式典では、数百の参列者が見守るなか、松橋町長の中山寧人が式辞を述べました。参列者のなかには、高群逸枝の弟の清人、静子の夫の橋本英雄の姿もありました。逸枝はこの日、参加することはかないませんでしたが、その代わりに、挨拶文を送りました。以下はそれからの抜粋です。
今日こゝに、望郷子守唄の碑の式典をお挙げいたゞきまして、無上の光栄でございます。…… 私は明治二十七年一月十八日、当松橋町に生まれ、大正九年心ならずも故郷火の国を遠く離れて、たゞいま東京に住んでいます。 他郷に出ている者にとつて、故郷は母のふところであります。思い出のゆりかごの地であります。…… 私の望郷子守唄は、直接的には昭和二十八年の熊本大水害に触発されてなつたものでありますが、同時に私自身が内外の苦難に当面していたところから生れたものであります。…… 故郷のみなさまが、おろかな私をとがめずかつ私の望郷子守唄を愛してくださつて、この美しい碑をゆかりの地寄田にお建てくださつたことを深く感謝し、この碑の精神が作者を超えて永遠ならんことを願つてやみません13。
この式典には、平塚らいてうも、体調かなわず、参列できませんでした。そこで、教育長の白木満義が、らいてうからの長文の挨拶文を代読しました。それは、このような言葉ではじまります。
高群逸枝さんを生んだ、この松橋町――ことに、四歳から九歳までのもつとも大切な性格形成期を過ごしたと思われる、この寄田神社の境内に、地元青年方の純真な願いから出た御企画で、地元有力者の方々のご協力により高群さんの歌碑が建ちましたことは、ふるさとの自然と人とを限りなく愛していられる高群さん御自身はもとより、高群さんを敬愛しております友人達も、よろこびと感謝にたえない次第でございます14。
らいてうは、逸枝の『母系制の研究』と『招婿婚の研究』の業績に触れます。
女性史学と云うのは、高群さんの言に従えば、「女性の立場による歴史研究の学問」でありますが、日本に於ける母系制の存在と、それの父系制への推移の過程を資料によつて観察し研究したこの二大著述は、婦人を圧迫しその人格を無視してきた家父長制度が、決して太古から日本に存在した絶対的なものでないことを、実証したものであります15。
それから、かつて自身が発刊した『青鞜』へと話題をつなげます。
これによつて、わたくしが五十年前婦人雑誌「青鞜」の創刊に際し、「元始女性は太陽であつた、今女性は月である」と訴えたあの詩的表現に、はじめて科学的な裏付けが与えられたわけでございます16。
さらに続けて、高群史学の金字塔となる『女性の歴史』全四巻がすでに完成し、いま、その追加の仕事として「続招婿婚の研究」に従事していることを紹介します。そしてらいてうは、次の言葉で、この挨拶文を締めくくるのでした。
ある評論家は、この建碑の話をきいて「火の女、火の国へ帰る」といゝました。永遠の生命――火の女である高群さんが、残されたお仕事を完成され、愛するふるさとに――火の国の土をしつかりと踏みしめて、この碑の前に立たれます日を、わたくしは今心に描いています17。
この日らいてうが祝辞のなかで言及した、「火の女である高群さんが、残されたお仕事」は無事完成し、『日本婚姻史』という書題となって、その翌年(一九六三年)の五月に至文堂から公刊されました。しかしながら、逸枝が母と仰ぐらいてうがこのとき祈念した、「火の国の土をしつかりと踏みしめて、この碑の前に立たれます日」は、とうとう来ることはありませんでした。もっとも、奥村博史がカメラに収めて持ち帰った幾多のカラー写真が、妻のらいてうを喜ばせ、他方で、写真を見た、当事者である高群逸枝と夫の橋本憲三の胸に、生国への熱い思いが燃え盛って蘇ったものと想像されます。「おどま帰ろ帰ろ 熊本に帰ろ[おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと]」の詩句を口ずさみながら。
この歌碑建立は、多くの関係者の寄付金によって実現しました。熊本市立図書館と熊本県立図書館の両館には、高群女史歌碑建立期成会による『高群逸枝先生望郷子守唄歌碑建立御芳志芳名綠』(一九六二年)が残されています。そこには、平塚らいてう一万円、奥村博史三千円、橋本英雄四千円、橋本静子三千円、橋本ふじの三千円の文字が並びます。
その一方で、水俣に住む憲三の姉の藤野の思いは、また別のところにありました。『熊日』の「望郷子守唄」除幕式の記事には三葉の写真が掲載されたのですが、そのなかの逸枝と憲三が熊本の方角に向かって正座して謝意を表わす写真の、あまりにもみすぼらしい普段着の姿に驚いたのでした。藤野は、間を置かず妹の静子に筆を執らせます。次は、一月二三日に静子が書いた文面です。
除幕式には英雄さんが出席させていただきました。盛会でたいへんきれいな会であったと申しています。…… 熊日に出された写真が老いられていて、近い期限で私たちといっしょに暮される方がよいと思います。きびしい生活を続けられたのですから、もうホッとされてよい日が必要です。いつでもお迎えに参ります。 田舎は静かで不安ありません。研究のお金がいればうちの姉さんが送るからと申しています。いってやって下さい。少しでも早く片づくとよいと申しています18。
写真に写っていた老いの様相は、紛れもなくこのときの逸枝の実際の姿でした。疲労が蓄積し、運動不足もあり、目がかすむようになるとともに、まさしく心身が衰弱していたのです。
この年(一九六二年)の旧暦の七夕前夜は、逸枝と憲三がはじめて出会って四五周年に当たる記念の日でした。そこでふたりはこの日、そのことに感謝して、仕事を休んで休養を取り、新たな気持ちで誓い合いました、以下に引用するのは、逸枝が書いた「誓い」の言葉です。
誓い われらは貧しかったが 二人手をたずさえて 世の風波にたえ 運命の試れんにも克ち ここまで歩いてきた これから命が終わる日まで またたぶん同様だろうことを誓う そしてその日がきたら 最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない すべてを土に帰そう 相見てから四十五周年 一九六二年七夕前夜19
この「誓い」の文のなかで、逸枝は、ふたりで歩いてきたここまでの道のりを、「二人手をたずさえて/世の風波にたえ/運命の試れんにも克ち/ここまで歩いてきた」と書きました。これを書いているとき、どのような場面が、逸枝の脳裏に写し出されていたのでしょうか。少し振り返ってみたいと思います。
憲三との二度目の出会いのあと、逸枝は、「永遠の愛の誓い」を文にして憲三に送ります。その内容は、次のようなものでした。
私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ20。
しかし、憲三は、すぐに返事を書くことはありませんでした。しばらくしてから届いた憲三からの返事は、次のような内容で、逸枝の気持ちを茶化し、踏みにじるものでした。
この世には永遠というものはありえない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう。あなたが僕の手紙をたいせつにしてくれるのはありがたいが、手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ21。
それまで逸枝は、愛というものを「永遠説」のもとに夢想していました。ところが、憲三が思い描いていたものは「瞬間説」だったのです。逸枝はいいます。「二十三歳のこんにちまでにすこしの疑いもなく持ちつづけていた愛の『永遠』の観念が根本からくつがえって『瞬間』のそれへと切りかえられることには、ひじょうな苦悩と体験、時間などがまだこのとき必要だったとしても、私はわるびれずこれを受容することを決意して、その第一歩を踏み出すことをためらわなかったのだった」22。
憲三が「瞬間説」を唱えれば、逸枝は、自身の「永遠説」を放棄してでも、憲三の「瞬間説」を受け入れようとします。「私はわるびれずこれを受容することを決意」という言葉が、それを例証します。憲三と逸枝のその後の歩みを特徴づける、憲三が唱導者であり、逸枝がその受容者である、そうした男女の関係の「その第一歩」がここにあったのでした。
逸枝は、しばしば、一徹者の憲三の意思に屈服した自分を見出すことになったにちがいありません。しかし、ほどなくすると憲三は、逸枝の不思議な才能に魅せられてゆくにしたがい、自分の方が従者であり、保護者であるような、ある種逆転した、ふたりの関係に畏敬の念さえ持ち始めたのではないかと思われます。それは、次の逸枝の文を基にした類推です。
四国遍路には、順打ちと逆打ちの二つがある。つまり番の寺の順をたどるか、逆をゆくかのちがいだが、おなじ道ながら逆打ちのほうは上り坂がけわしく困難だという。私は老人をいたわって、順打ちを主張してみたが、かれは一も二もなく逆打ちの苦行をえらんだ。私はもうここで完全にこの一徹者の老人の意思に屈服した自分を見いだすことになった。ただし、かれの主観では、かれは私の従者であり、護衛者であり、だからつねにその礼をとった23。
逸枝の四国巡礼に途中から同行した老人の伊東宮治は、逸枝を観音の化身と信じ、自身をその従者であり、護衛者であるとみなしました。一方憲三は、逸枝を天才者とみなし、自分をその擁護者であり、後援者であると位置づけたのでした。
四国巡礼から七年後、逸枝は、憲三を残して家出をします。以下は、家出のおよそ三箇月前の、一九二五(大正一四)年六月二日の日記に記された、逸枝の文の一部です。
私の行くところはどこやら分かりません。別れたくないが別れるのがいい、心がそうささやきます。どうぞ私のいない後には、よい家庭を作ってください。私のような不具なもののみが、あなたのご機嫌をそこねます。私はまたの世には不具ではないものに生まれてきて、あなたのほんとうの妻になりとうございます24。
この日記のなかの文は、独身時代に憲三に送っていた手紙の内容とほぼ一致します。そこには、このようなことが書かれてありました。「要するに妾は理性の上から見て、あなたと戀をしないでゐることを最もいいことだと思つてゐます。が、感情はさうではありません。……例へおたよりは絶えてゐても、妾はあなたを深く信じ且尊敬いたします」25。憲三からの返信は一向に届きません。残るのは、理性を越えた、押さえ切れなく噴き上がってくる熱情のみです。そしてこの手紙は、こう続きます。「あなたは『愛してゐる』といふあなたの眞心を一寸もみせて下さらない。それが妾には悲しい」26。
このときの逸枝の家出も、「あなたは『愛してゐる』といふあなたの眞心を一寸もみせて下さらない」ことが、その大きな理由でした。憲三は逸枝の家出に驚き、われに返ります。しかし、探すも見つからず、帰りの列車のなかで、次の手紙文をしたためました。
私はいま旅から絶望して帰るところです。さびしいむなし東京へ。私がそこへ明日の十二時にかえったとて、何が私を待っていましょう。……あなたがなくて、私に何の生活があろう。あなたと二人で、骨になっても、未来へも、どこまでもいっしょでなくては承知できぬ、どん底からの思索と抱擁とが私にはあるのです。……私は家をたたみました。……あなたとわたくしの形而下的な家庭は、かくして短日月にほろびました。私たちは、こんどは形而上的な家庭にすむのです。ナベ一つ茶わん一つの生活にしましょう。……田舎の一軒家に行きましょう。実は私は早くあなたにお目にかかれていっしょに巡礼乞食したいと思い家を捨てたのですよ。……恋しい恋しい私の妻よ!今にあなたのところへいきますよ。いっしょに回国しましょう。……ああこんどいっしょになってからは、交友を吟味しましょうね。家には一切入れず、向こうの家にもいかず、手紙か、野原、林などの散歩の交際にしましょうね。巡礼がすんだら、家をもちましょう。そして夏の休みの一ヵ月はきっと僕がナベを背負って旅行につれていきます27。
この手紙は、その後、逸枝が待つ旅館で手渡されます。こうしてふたりは東京にもどり、憲三はこれまでの振る舞いを反省するとともに、一段と妻に対して尊厳ある態度で接するようになります。一方の逸枝は、憲三が恋しくて恋しくてなりません。仕事からの帰宅を待つあいだ、旅館で受け取った憲三からの手紙を読み返しては、そこに書き込みをするのでした。書き込みには、このような自分の思いが活写されていました。少し長くなりますが、全文を引用します。
大正十四年十二月十日夜。まだお帰りになりません。今夜もこのお手紙を出して見ました。もう何処にも行きません。あなたに仕えようが足らないとき、私はこのお手紙を出して見るのです。 私とあなたとがこの地上から去って後もたぶんこのお手紙は残りましょう。私は王様のお姫さまよりなお幸福です。夢と血と愛をえて、天国に行くことができるのですもの。 あなたも私も地上では貧乏な夫婦でございます。人はみな誤解しています。けれども何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。私ほどの生の執着をもった女でも、この不可思議な事実を心のなかに確かめうるとは、まあ何て不思議でしょう。愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます。いつでも もう 死ねますから。このさき幾年生きるでしょう。なるだけおじいさんとおばあさんになるまで生きましょうね。私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない28。
おそらくこれが、これよりのち死が訪れるまでの、逸枝の憲三に対する偽らざる思いであったものと考えられます。憲三は、この書き入れについて、のちにこう語っています。
この書き入れは、単なる「てずさび」のみではなく、一種のいわゆる「せいもん」でもあり、つまり彼女はここに「誓文固(せいもんがため)」をしたのである。後の「誓い」(全集第10巻482ページ参照)に通じよう29。
この「誓文固」を逸枝が書いてからおよそ六年後、やっとふたりは自宅兼仕事場をもつことができました。逸枝は三七歳に、憲三は三四歳になっていました。もう迷いはなかったものと思います。逸枝は、ここ「森の家」での暮らしを、このように描写しています。
夫が勤めをやめてからは、毎日たのしく、みちたりてくらした。森の中のあらゆる事件も、異変も、二人でみてきた。私のあらゆる仕事のこと、手紙、何もかもが、すべて二人によって処理された。飽きることのない毎日だったといえる30。
こうして、「相見てから四十五周年/一九六二年七夕前夜」に至り、逸枝は改めて三回目の「誓い」を交わすのでした。若かりし日、逸枝は愛について「永遠説」を唱え、一方憲三は「瞬間説」を説きました。いまここに、瞬間の連続として永遠があるように、ふたりには思われたにちがいありません。
しかし、愛は永遠であろうと、いのちには限りがあります。もう残された時間がそう多くはありません。このとき逸枝も憲三も、必死に生きていました。その様子を、次章の「逸枝の臨終と憲三の市川房枝グループとの反目」において、詳しく叙述したいと思います。
(1)高群逸枝「望郷子守唄」『日本談義』通巻125号 1月号、1954年、36頁。
(2)同「望郷子守唄」『日本談義』、36-37頁。
(3)同「望郷子守唄」『日本談義』、37頁。
(4)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』理論社、1958年、211頁。
(5)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955年、315頁。
(6)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、384頁。
(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、385頁。
(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、386頁。
(9)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、372頁。
(10)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と眞實』通巻350号 8月号、1978年7月、47頁。
(11)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、434頁。
(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、418頁。
(13)『高群逸枝』「高群逸枝を顕彰する会」発行、2014年、10頁、熊本県立図書館所蔵。なお、高群逸枝と平塚らいてうからのそれぞれの「挨拶文」および「望郷子守唄」の全詩句は、熊本市立図書館と熊本県立図書館の双方の図書館が所蔵する、高群女史歌碑建立期成会によって作成された『高群逸枝先生望郷子守唄歌碑建立御芳志芳名綠』(一九六二年)にも記載があります。
(14)同『高群逸枝』、11頁。
(15)同『高群逸枝』、同頁。
(16)同『高群逸枝』、同頁。
(17)同『高群逸枝』、同頁。
(18)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、442頁。
(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、449頁。
(20)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、130頁。
(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、131頁。
(23)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、196-197頁。
(24)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、223頁。
(25)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、155頁。
(26)同『恋するものゝ道』、156頁。
(27)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、16-18頁。
(28)同「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、21頁。
(29)同「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、21頁。
(30)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、429頁。