中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第一〇部 憲三の「高群逸枝全集」の編集と石牟礼道子との同居

第二五章 憲三による「高群逸枝全集」の編集と刊行

一九六四(昭和三九)年六月七日の午後一〇時四五分、ガン性腹膜炎により、高群逸枝は、国立東京第二病院において息を引き取りました。病院からの急変の知らせを受けた夫の橋本憲三は、自宅を出て病院へと向かう途中にあり、残念ながら、臨終に際して妻の手を握ることも、言葉をかけることもできませんでした。しかしながら、最期の病床にあって逸枝は、次のようなことを、憲三に託していました。

私とあなたの愛が火の国(自叙伝)でこそよくわかるだろう。火の国はもうあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いて置いてください。ほんとうに私たちは一体になりました

すでにそのときまでにあって、「火の国の女の日記」は、第一部「しらたま乙女」、第二部「恋愛と結婚の苦悩」、そして第三部「与えられた道」が完結していました。憲三に託されたのは、第四部「光にむかって」、第五部「実り」、そして最後の第六部「翼うばわれし天使」の三部でした。第四部と第五部は、戦争が終わり、女性史学者として逸枝が世に認められてゆく時期の描写となり、第六部は、最期の病床の様子を扱う内容になることが想定されていました。執筆中、憲三は、自身の胸の内を明かすかのように、「『火の国の女の日記』 高群逸枝の自叙伝について」の表題のもと『熊本日日新聞』に寄稿します。掲載されたのは、一九六五(昭和四〇)年二月五日の朝刊八面でした。その一部を、以下に引用します。

 私は告別が終わった翌日から今日につづく医者がよいをしながら、彼女のいなくなった廃屋同様の一室にひとりむなしく残って「日記」の整理をした。同じ年に奥村画伯を失われたらいてう夫人は、「涙の中で、墓を建てるよりさきに、故人が望んでいたデッサン集を作らねばならないと決心した」という意味を書いておられるが、私も形の上でそっくりそのようになった。「奥村博史素描集」は一周忌を前にしてすでに刊行されたが、「火の国の女の日記」もそうなるであろう。

この文からも読み取れますように、『火の国の女の日記』の刊行には、逸枝の一周忌に際して霊前に捧げようとする意図が含まれていました。いまその本を手にすると、「はしがき」には、以下にみられる逸枝の言葉が、添えられています。

  どこからあたしゃ来たのやら
  どこへ帰っていく身やら…

 『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫のこの歌はさながら私自身の歌でもありはしないのだろうか。人生の峠に立って長かった道程をふりかえってみると、私は人の子であり、妻であり、また同時に詩人で、歴史学者だった。そしてもちろん人類の一員だった

ハウプトマンの『沈鐘』を読むように逸枝に勧めたのは、ほかならぬ憲三でした。思い起こせば約四五年前の一九一九(大正八)年の夏、家出を決意した逸枝は、途中、妹の栞を旅館に残したまま、城内尋常小学校に勤務する憲三のもとに行くと、そのままそこでふたりの生活がはじまりました。そのとき憲三は、逸枝に次のようなことをいいました。「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」。これを聞いた逸枝は、大きな衝撃を受けました。それは、憲三の恋愛観を知ることができたという意味においてだけでなく、自身のこれまでの生き方に大きな疑問と反省が生じたためでした。

この本は、登張信一郎と泉鏡太郎(泉鏡花)の共訳で一九〇八(明治四一)年九月に春陽堂から出版されていた『沈鐘』だったものと思われます。そのなかに、山の姫であるラウテンデラインが、姿の見えぬ池の主に呼びかける場面があります。そのとき山の姫が詠じたのが、以下の歌でした。

來し方もわれ知らず、
行く末いかで辨へむ、
山の、深山の、小鳥か、魔女か。
谷の小川に流るゝ花の、
麓の森に香は滿てど、
咲ける梢は人知らじ。
さるにてもわが思ひ、
唯、父戀し、母戀し。
戀うるに効なき過世とならば、
よしよし其も面白や。
黄金の髪の光り輝く、
容色麗しき、われは山姫

このとき憲三に勧められるままに読んだ、『沈鐘』のなかの、まさしくこの詩こそが、逸枝のその全生涯を暗示するものであったにちがいありません。「『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫のこの歌はさながら私自身の歌でもありはしないのだろうか」の一語が、そのすべてを例証します。『火の国の女の日記』の「はしがき」に、上で上げた逸枝の言葉を引用しながら、憲三は、何を思ったでしょうか。

すでに詳しく紹介していますように、憲三から紹介された『沈鐘』がきっかけとなって、逸枝に「感情革命」が起こり、定型から自由律の短歌へと作風が変わります。そして、第一詩集『放浪者の詩』において、「放浪者は何の貞操ももたない」と宣言し、同時期に刊行された詩集『日月の上に』にあっては、「乙女をして歌はしめよ/太古の山に住ましめよ/女郎花をして咲かしめ/しら雲をして飛ばしめよ」と歌い上げ、さらに『妾薄命』では、「妾はいま歸りませう/父よ母よ/宇宙が妾を呼ぶままに」と叫び、『戀愛創生』では、「愛の女神が原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない」と訴えます。逸枝が求めて止まない、「太古の山」の「森の中」の「遠い故郷」へ向けての熱い思いを全身で受け止め、形に表わしたものが、憲三が用意した「森の家」でした。そして、この希望の家に住み着いた逸枝は、いまや詩人から一坑夫に姿を変え、「太古の山」の「森の中」の「遠い故郷」にあって自由と歓喜に包まれて生きていたであろう古代日本の女性たちの発掘を目指して、その実践作業へと乗り出してゆきます。爾来三十有余年、見事ここに、日本における「女性史研究」の鉱脈が発見されたのです。

また逸枝は、自叙伝「火の国の女の日記」を書くに当たって、次のようなメモを残していました。自身と夫憲三との関係を如実に示すものです。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。
 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう

逸枝は、「私の人生はすべて受け身に終始したように思われる」と書きます。これを逸枝は、自分の欠落点として「優柔不断」とも「曲従」とも「奴隷根性」とも呼びました。そのことは、逸枝には自ら主体的に、自身の人生の枠組みをつくったり、物事への対応方法を構築したりする能力に欠け、その部分に関しては夫の憲三にすべてを依存していたことを意味します。逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。

 逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。
 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう

しかし、ひとたび憲三によって枠組みが与えられるや逸枝は、「感情革命」をとおしての定型詩から自由律詩への転換において、アナーキズムの論戦において、そして女性史学の開拓においてそうであったように、実行や実践という地平にあって、周りの予想と期待をはるかに超えるその能力を発揮するのでした。これこそが、「物質的精神的な投資家」としての「夫の希望でもあった」のです。「教育者」であり「投資家」である夫と、「労働者」であり「開拓者」である妻の相互信頼関係の精緻が、最終的に、ふたりが求める愛の「一体化」を招来していったのでした。

憲三は、『火の国の女の日記』を編集しながら、そうした追憶に駆られていたものと推量します。まさに逸枝の、『沈鐘』から「火の国の女の日記」へと至る生涯は、憲三に支えられたものであり、逸枝の手によって生み出された著述も、憲三の助力なくしては成り立たない、共作、共演の作物でした。以下に引用する文は、生前逸枝が静子に宛てて書いていた手紙からの一節です。

主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です

『火の国の女の日記』の奥付には、こう記されています。「高群逸枝 火の国の女の日記 1965年6月・第1刷発行 著者/高群逸枝 橋本憲三補 発行者/小宮山量平 発行所 株式会社理論社」。「著者/高群逸枝 橋本憲三補」という表記に、ふたりの生涯のすべてが凝縮されているのではないでしょうか。

この時期の憲三の動向は、「共用日記」によく表われています。以下は、「共用日記」が断片的に所収されている堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』からの引用です。

五月三一日 小宮山さん四時前内容見本届けられる。/豪徳寺からお骨をだいてくる。軽部夫妻の墓に詣で、別辞。憲平ちゃんの土をもち帰る。
六月二日 静子はやぶさ10時5分-11時着。
六月五日 『火の国の女の日記』小宮山さん一時に持参。
六月六日 はやぶさ(10時5分東京駅着)で英雄さん

預けていた豪徳寺から逸枝の遺骨をもらい受ける一方で、予定どおりに『火の国の女の日記』が出版され、そして、英雄と静子の妹夫妻が、西鹿児島駅発東京行きの寝台特急列車(ブルートレイン)の「はやぶさ」で、水俣から上京してきました。かくして六月七日、遺族は、ここ「森の家」で逸枝の一周忌を迎えたのでした。以下の引用は、六月七日の「共用日記」に残されている文言です。

五月三一日より逸枝をベッドにやすませ、毎夜をともにした。明朝この家を出て46年余の東京滞留に終止符をうち、故山にともなう。らいてうさん献花。お桃さん。村上信彦さんから電報。徳永夫人10

翌六月八日、喪主の憲三は、遺骨を胸に抱き、迎えにきた妹夫婦に付き添われて、故郷の水俣にもどっていきました。しかし憲三は、遺骨を預けると一六日には折り返し「森の家」に帰ります。『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に本格的に取りかかるためだったものと思われます。この時期の憲三は、心身に不調をきたし、苦悩のなかにありました。七月二三日と二四日の「共用日記」からの引用です。

七月二三日 昨日から「火の日記」よみかえし、校正をしているが、十分もすると涙がでて、字がみえなくなり、頭いたむ。
七月二四日 昨夜頭痛、胃痛、に不安感。残務-著作集-遂行まで生命がもつかなど思う11

しかし、勇気づけられる出来事もありました。発刊から一箇月が過ぎたこの時期、『火の国の女の日記』の書評や紹介文が、雑誌や新聞で取り上げられはじめたのです。そのなかにあって、橋本万平が『週刊読書人』の「読書人の言葉」に寄稿した「比類のない自叙伝 高群逸枝火の国の女の日記を読む」は、憲三にとって「比類のない紹介文」となりました。その末尾の一節を次に引用します。姫路市在住の執筆者の肩書は「大学助教授」となっていますので、神戸大学に勤務していた物理学者の橋本万平だった可能性もあります。いずれにせよ、「高群女性史学」の熱烈な信奉者だったにちがいありません。

 菊版で全四九一ページ、二段組の尨大な本である。人によってこの本から得る所は様々であり、興味を覚える所もちがうであろう。この本は千五百円の高価な本であるが十分その金額に相当する内容のある本である。「日本女性史」の開明に一生を捧げた女史が、一人非凡な「日本女性の生活史」を身をもって綴ったこの本を、是非読んでもらいたいと私は声を大きくして世に叫びたい12

続いて、八月一六日には、『熊日』(夕刊三面)の「東京サロン」という囲み記事において、理論社社長の小宮山量平へのインタヴィューが掲載されます。以下は、「人間高群の再認識が必要なわけですね」という聞き手の問いに対しての小宮山の返答です。

 世間では高群さんのことを、生活を投げうって学問に貢献した女として、いわば神格化して考えがちです。ほんとうは彼女ほど‶人間的″な学問をした人はいない。……思想的には彼女はほんとうの意味でのアナーキズムを経過していると思う。常に右せず左せず、子どものような素朴な態度で幸福とは何か、平和とは何かと問い続けてきた。……年とるにつけてアカデミックになり枯淡の境に入るのが日本の学者の常ですが、彼女はついに最後まで若々しく、童女のような心情を失わなかった。根っからの詩人であり、学問を詩の営みとして行なった、まれな学者であったと思うのです13

そしてこの欄は、以下のような『高群逸枝全集』の刊行予告でもって、結ばれます。

 小宮山氏は「日記」出版に続いて「高群逸枝全集」出版の計画を練っている。全十巻。具体的にはまだ発表の段階ではないが「こればかりは、出版人としての僕の義務と考え、採算を度外視して必ず出します」と強く言い切った14

必ずしも万全の体調ではありませんでしたが、こうしていよいよ憲三の手は、多くの労苦を伴う全集の編集作業へと向かいます。このとき憲三は、「全集」の各巻をどうした内容で構成しようと考えたでしょうか。そのとき憲三が巡らした構想にかかわって、ここで少し考察してみます。

すでにこれまでに詳述していますように、戦前戦中を支配していた皇国史観の上に立って書かれた一連の著述を清算し、民主主義と平和主義を標榜する戦後社会に生きる、真の女性史家として世に出るに当たって上梓した大作が『招婿婚の研究』(大日本雄弁會講談社、一九五三年)と『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄弁會講談社、一九五四年)の二著でした。その後、これを基礎研究として、通史として書かれたものが四巻からなる『女性の歴史』(一九五四-一九五八年、大日本雄辯會講談社)でした。そして、『招婿婚の研究』の続編として出版されたのが、『日本婚姻史』(至文堂、一九六三年)でした。これが、女性史学者としての逸枝の最後の研究書となるもので、その巻末の「著者略歴」には、次のように書かれてありました。

明治27年 熊本県に生まる。
昭和6年~現在 女性史・婚姻史専攻。
著書 母系制の研究、招婿婚の研究、女性の歴史(4巻)。

これを見る限り、詩人としての逸枝の、アナーキストとしての逸枝の、それに続く、国体主義者としての逸枝の、かつて展開した鮮烈な活動の面影は、もはやどこにもありません。『母系制の研究』、『招婿婚の研究』、そして『女性の歴史』(全四巻)、さらに加えて『日本婚姻史』を著わした、女性史・婚姻史専攻の学者としての顔のみが、読者に向き合っていたのです。これを受けて憲三は、この七冊をもって逸枝の主要著作とみなしたにちがいありません。実際、『高群逸枝全集』の第一巻に「母系制の研究」が、第二巻と第三巻に「招婿婚の研究」が、第四巻と第五巻に「女性の歴史」が充てられ、そして、第六巻の前半部分に「日本婚姻史」が所収されました。

憲三は、この『高群逸枝全集』を全一〇巻で構成しようと考えたらしく、第六巻の後半部分に「恋愛論」を入れ、続く、第七巻に「評論集と恋愛創生」を、第八巻に「詩集」を、第九巻に「小説と随筆と日記」を、そして最後の第一〇巻に、途中絶筆となった「火の国の女の日記」を充当しました。憲三の身勝手にはじまり、逸枝を苦しめる結果となったアナーキスト時代に書かれた論考も、時代の流れとはいえ、その流れに乗って書いてしまった戦前戦中の歴史書も、当然ながら、すべて「全集」から外されました。のちに憲三は、こう書いています。

 全集とは何でしょうね。全集をどう規定するか。選集という形もあるでしょう。ある基準でいえば、彼女の全集はこの二倍でも足りないくらいです。全集を出す意味について僕は彼女と対話するのです。
 つまり彼女のみていた真理、この真理でもって、彼女は孤絶したこの家の外の世界に貢献したといえばいえる。それに到達するまでの、彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける。これは僕の法治主義です15

つまり、このとき憲三は、「彼女のみていた真理」こそがすべてであり、それ以外のものは「紙クズ」同然であるという考えに立っていたのでした。そして、編集作業を振り返って、のちに憲三は、こうもいっています。

 全集の編纂は厳密な手続きと根気のいる仕事だった。第一資料あつめ。第二選択、第三ママ列、第四原本整理。これらの作業には程度の差こそあれ欠漏・不合理・不自然等がつきまとって編者をくるしめるものがある。全集ということばにもこだわりがないとはいえない。たとえば、世に網羅主義の全集はあってもおそらく網羅しつくした全集はあり得ないだろう。選集ということばもあるが、これも現実には代表作の意味よりはむしろ便宜主義を語っていると思う。私は主著主義をとることで自分を納得させた16

ここからわかりますように、逸枝の「全集」を編むに当たって憲三は、「主著主義をとることで自分を納得させた」のでした。

さて、年が明けると、いよいよ『高群逸枝全集』の配本がはじまりました。第一回の配本は『高群逸枝全集第四巻 女性の歴史一』で、一九六六(昭和四一)年二月に刊行されました。それとほぼ同じ時期に『高群逸枝全集第一〇巻 火の国の女の日記』も発刊されたものと思われます。この巻は、内容的にも体裁的にも、すでに世に出ている『火の国の女の日記』の完全な流用であり、発行年月もそのままで、変わりはありません。つまり、書題と表紙だけが差し替えられた、『火の国の女の日記』の増刷版といった感じのものでした。そして、最終回の配本が、翌年の一九六七(昭和四二)年二月刊行の『高群逸枝全集第七巻 評論集・恋愛創生』でした。これをもって『高群逸枝全集』全一〇巻は完結します。

この全集の特徴的なことは、どの巻の奥付にも、「著者 高群逸枝」と並んで「編者 橋本憲三」の名が記載されていることです。すでに紹介しています、逸枝が最期のベッドで言い残した夫婦の「一心」、あるいは著者と編者の「一体」が、ここに表われているようにも感じ取ることができます。

一九六四(昭和三九)年六月の逸枝の死去から一九六七(昭和四二)年二月の全集の完結まで、およそ三年の歳月が費やされました。その間、憲三は、「森の家」の「廃屋同様の一室にひとりむなしく残って」、執筆と編集の作業に当たりました。そして、その最初のおよそ二年間は、水俣に住む妹の静子がしばしば訪れては、憲三の身の回りの世話と仕事の手伝いをしました。このように憲三は書いています。

 東京第二病院にあなたを見舞いに航空機で飛んできてくれた夫妻、とりわけあなたが愛した静子。あなたの没後、医者通いをしながら自伝「火の国の女の日記」を整理したり、書き継いだりしているひとりぼっちの私をみかねて、二た月のうちの二週間ずつ十回ぐらいやってきて何彼と援助してくれた静子17

また、静子も、そのときの事情を、以下のように書き記します。

 兄が、『火の国の女の日記』を書き継いで、理論社社長小宮山量平氏の御見識で出版をお採り上げくださり、同じく小宮山量平様の御厚志の『高群逸枝全集』の校正などで東京を離れなかった間を、私は加勢に上京していました18

一方で静子は、「森の家」の庭の様子を、実に情感豊かな文で書き表わしてもいます。以下は、その一部です。

 通称「森の家」の四季を見た訳ですけど、野鳥が運んだ糞の中の種子の植物がいろいろの種類で自生していました。鳥たちはどこからとんで来るのか、群をなして幾群かで一日中を訪ねていました。
 栗の実を拾い、むかごを採り、ポポの木は大きくなってしまって、もうたべきれない程、胡蝶の木もあって、リスだか野ねずみだか見たことがあります。柿の実は固く熟して甘く、二階の窓からも採れました。ゆすら梅の甘ずっぱい赤い実、姉が書斎にしていたところの前にはぶどう棚があって、いっぱい実りました。少しクリーム色の入った白のバラは、お葬式の時の写真にもあざやかに写っています。木戸の入口から玄関までのフェルト草履の感覚、あれは、何十年だか住んでいたあいだ中の落葉がかき集められて作られたのだそうです19

このあとも、静子の細やかな自然観察が、清楚な文となってさらに続いてゆきます。こうした静子の文筆の巧みさは、兄も認めるところでした。次は、石牟礼道子が聞き取った憲三の静子評です。『高群逸枝全集』が完結したのちの「別巻」(写真集)刊行を構想するときのことでした。「静子にも書かせる。アイツは凄い文を書くんだから。子守りしながらヒョイヒョイあんな葉書でも書いてよこす」20。また憲三は、道子にこのようなこともいっています。「あいつは編集者になるとよかったがな。逸枝の仕事を高く評価してくれて、仕送りのしがいがあると言っていましたよ」21

静子の水俣からの送金は、収入のない憲三の生活を助けるためのものだったにちがいありません。そして、すでに引用で示していますように、自身も、「二た月のうちの二週間ずつ十回ぐらい」の頻度で、つまり、おおかた二年間にわたって「森の家」を訪問しては、『高群逸枝全集』の編集に精を出す憲三の手伝いをしていたのでした。そのあと、通常では考えにくいことですが、途中水俣への一時帰省を挟んでの約五箇月のあいだ、静子と入れ替わるかのように、今度は石牟礼道子が、「森の家」に滞在することになるのです。それに至るまでには、どのような事情が隠されていたのでしょうか。断片的な資料しか残されていませんが、可能な限りそれらを積み上げ、これよりのち、その実際の一端を再現してみたいと思います。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、479頁。

(2)高群逸枝・橋本憲三補『火の国の女の日記』理論社、1965年(第1刷)、1頁。

(3)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。

(4)ハウプトマン『沈鐘』登張信一郎・泉鏡太郎訳、春陽堂、1908年、6-7頁。

(5)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。

(6)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、419-420頁。

(7)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。

(8)前掲『火の国の女の日記』、奥付。

(9)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、148-149頁。

(10)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、149頁。

(11)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、149-150頁。

(12)橋本万平「比類のない自叙伝 高群逸枝の火の国の女の日記を読む」『週刊読書人』第586号、1965年8月2日、7頁。

(13)「高群逸枝全集を出す小宮山量平氏」『熊本日日新聞』(「東京サロン」欄)、1965年8月16日、夕刊3面。

(14)同「高群逸枝全集を出す小宮山量平氏」『熊本日日新聞』。

(15)石牟礼道子「最後の人 第六回 序章 森の家日記6」『高群逸枝雑誌』第6号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年1月1日、27-28頁。

(16)橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、11頁。

(17)橋本憲三「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、25頁。

(18)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、13頁。

(19)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13-14頁。

(20)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、310頁。

(21)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、275頁。