中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第一〇部 憲三の「高群逸枝全集」の編集と石牟礼道子との同居

第二七章 自身の後半生を逸枝と憲三に誓う道子

逸枝の死去ののち、東京の「森の家」では、『火の国の女の日記』の後半部分が憲三の手によって書き進められていました。一九六五(昭和四〇)年六月の逸枝の一周忌にあわせて、この自伝が刊行されると、迎えに来た静子と英雄の夫妻に付き添われて憲三は、遺骨をもって水俣に一時帰省します。そして、すぐにも東京にもどるや今度は、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に全力を注ぐのでした。第一回の配本は第四巻の『女性の歴史一』で、一九六六(昭和四一)年二月に刊行されました。およそこの二年間、静子は、二箇月に一度、二週間くらいの滞在予定で「森の家」に行き、憲三の編集作業の手伝いに当たります。

その間道子は、しばしば憲三に宛てて手紙を書き、自身の苦悩と逸枝への追慕の念を伝えたものと思われます。それについての、わずかな証拠が残っています。『火の国の女の日記』を執筆した時期、憲三は道子に手紙を書いています。「――もう二カ月も、誰とも、ひとことも対話しない日々が続いています。ただ姿なき彼女と――」。前後が省略されています。ここに何が書かれてあったのか、興味がもたれるところです。もし、そうした手紙類が現存するならば、この時期の憲三と道子の関係は、いっきに明確になるのですが――。

加えて想像するに、水俣にあって道子は、静子を訪ね、自分が宿す苦境の実際を同じく告白したにちがいありません。さらにそれを受けて、「森の家」で静子と憲三が、道子のことを話題に取り上げていた可能性も決して否定することはできないでしょう。現在のところ、逸枝の死去(一九六四年六月)から三回忌(一九六六年六月)までの二年間の憲三、静子、道子をつなぐ交流の軌跡は、一次資料(エヴィデンス)にあってどうしても十全に確認することができない、全くの空白部分となっています。しかしながら、この期間が三者にとって、濃密な関係構築の時期となっていたことは、その後に続く出来事から判断して明らかなように推量されます。

さて一方の道子は、逸枝が亡くなると、さっそく筆を執り、「高群逸枝さんを追慕する」という追悼文を七月三日の『熊本日日新聞』(六面)に寄稿します。以下は、その一節です。

 高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるに違いない。(注=妣は母)

道子は、『女性の歴史』以外の高群逸枝の著作について、「ほかの作品は『森の家』に行ってから徐々に読ませていただいたんです」と、述懐しています。しかし、この一著からの知識と感動のみをもってして新聞に追悼文を書き寄せるに至ったとは到底考えにくく、実際その文面を読む限りにおいても、淇水文庫で『女性の歴史』(上巻)を手にして以来、逸枝への関心は持続し、「高群逸枝さんを追慕する」を執筆するまでの約一年間、道子は、『女性の歴史』以外にも、入手可能な限りの逸枝の書物に目を通していたのではないかと推察されます。分量もあり、学術的な内容をもつ難解な部分もあります。道子にとって、自分の再生を賭した必死の読書だったにちがいありません。しかしその結果、このときまでに、すでに道子の内面には、逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が、醸成されようとしていたのでした。換言すればそれは、逸枝を妣/母として、いま一度生まれ変わりたいという強い願望の発露だったにほかなりません。道子の暗部に、ほのかな希望の閃光が射した瞬間でした。

続く一九六五(昭和四〇)年六月、逸枝の一周忌にあわせて『火の国の女の日記』が出版されると、道子はそれを読み、逸枝にとって憲三という夫の存在がどのようなものであったのか、その真の姿にはじめて接し、強い感銘を受けたものと思われます。しかしそれに先立って、実際には道子は、「全集に組まれる前の『火の国の女の日記』の初稿ゲラ刷を読んでいる」のです。これは、明らかに憲三が、道子の求めに応じて「森の家」から送ったものであると思われます。こうした交流を背景に、すでにこの時期、憲三に会ってみたいという情感が道子に湧き上がっていたとしても、それはそれとして、決して不自然なことではなかったのではないでしょうか。

他方で、渡辺京二が『熊本風土記』を創刊すると、道子は、「海と空のあいだに」の連載を開始します。第一回が創刊号(一九六五年一一月)に、そして第五回が通巻七号(一九六六年六月号)に掲載され、最終的には第八回(通巻第一一号、一九六六年一一月号)まで続きます。これが、『苦海浄土 わが水俣病』(講談社、一九六九年)のおおかたの部分を構成する、事実上の元原稿となるものでした。

明らかにこの時期、道子は、死に傾く自身を生へと蘇らせるすべをひたすら逸枝の著作に見出そうとしていました。憲三との手紙のやり取りもしていました。そしてまた、原因不明の奇病が体を麻痺させ、それによりいのちを落とす人間の悲惨な姿に、血筋として自分が宿しているかもしれない狂死の発現を折り重ねるかのようにして、これまた必死になって、この病気と向き合っていたのでした。

そうしたふたりを取り巻く状況のなかにあって、いよいよ憲三と道子が巡り会う日が訪れました。憲三の「共用日記」には、次のような記述が残されています。時は、一九六六(昭和四一)年の五月と六月です。逸枝の三回忌(二周年)にあわせて、憲三が水俣に帰ってきたときのことでした。それは、道子の「海と空のあいだに」の第五回が『熊本風土記』に掲載された時期でもありました。

五月一六日 静子と石牟礼さん訪問。
六月七日 二周年。……石牟礼さんお花。/ささやかな法事。読経。
六月八日 午後石牟礼さん。世田谷にいきたいといわれる。ごいっしょしていいとはなす。
六月二九日 15じ11分きりしまで出発、一週二週で帰水の予定。石牟礼さん同道。帰りはべつべつか

五月一六日に、憲三と静子が石牟礼宅を訪れると、今度は、六月七日の逸枝の三回忌に、道子が花をもって憲三と静子を訪ね、翌八日に再び訪問して、「森の家」に行きたい旨を伝えます。それから三週間後の六月二九日、ふたりはそろって、西鹿児島発東京行きの急行「霧島」の一等車に国鉄水俣駅から乗り込むのです。この一箇月半のあいだ、三者でどのような会話が取り交わされたのか、そして、どのような取り決めがなされたのか、それを明らかにするための証拠となる一次資料は残されていません。その後に起こる出来事から推量するしかないのです。

それにしても、子どももある既婚女性が単身、遠路東京まで行って、妻を二年前に亡くした寡夫である男性と一週間ないしは二週間を過ごすに当たっては、それなりの覚悟と目的があったものと思われます。その一方で、初見に近い人妻に東京へ連れて行ってほしいと懇請された場合、思慮ある男性であれば、二つ返事でその申し出に同意するとはにわかに信じがたく、それであればそれは、わずか一箇月半という短時間のうちにまとめられた計画ではなく、この約二年間の三者の交流のなかにあって熟慮が重ねられた結果の成案であり、この三回忌にあわせて、実際に三人が顔をあわせて気持ちを確かめあい、そのうえで、外部の人間からすれば無分別にも見えそうなこの計画が三者のあいだで共有されるに至った――この場合は、そう考えるのが妥当ではないかと、思量されます。

五月一六日に、憲三は静子と一緒に道子の家に行きました。憲三にとって道子に会うのは、これがはじめてだったのではないかと思います。しかし、すでに紹介していますように、静子の方は、栄町にいたころの子ども時分の道子を知っていました。道子は、こうも書き記しています。

橋本憲三氏の妹の静子さんという人をわたしは幼い頃から知っていた。というのも、水俣川の河口へうつる前に住んでいた栄町に、憲三氏の姉妹のお店がわたしの家の四、五軒先にあったのだ。食品の卸問屋をしておられた

道子はまた、次のように、静子のことを書いています。「静子さんは、わたしがどういう育ち方をしたか十分にご存知でいらしたにちがいない。祖母が街中をさまよっていた姿などもしょっちゅうごらんになっていただろう」。それだけではなく、精神病院を出るや鉄道事故で死亡した道子の弟のことや、道子自身の自殺未遂のことも、静子は知っていたにちがいありません。しかし、静子は、そうしたことを理由に道子を避けるようなことは決してなく、むしろ温かく包み込むような、理解ある態度で接しました。次は、道子による静子についての人物評です。「妹の静子さんは、たいそうのびやかな見かけの美女で、頭脳明晰な人だった。時々お手紙を頂いたけれども、切れ味のある名文である」

六月八日の午後、道子は憲三に、「森の家」がある「世田谷にいきたい」と懇願します。しかし、その理由や目的については何も書かれてありません。この間の状況から判断すれば、おおよそ道子は、次のようなことを憲三と静子に伝えたのではないでしょうか。「尊敬する逸枝先生を慕いながら、再び自分は逸枝先生を妣として『森の家』で生まれ変わり、これからの後半生を憲三先生の後添いとなって、逸枝先生とともに過ごしてゆきたい、静子さんを立会人として――」。そのように推測する理由のひとつには、道子が「森の家」で書いた日記の冒頭に、次のような文字が並んでいるからです。

わたしは 彼女を
なんと たたえてよいか
ことばを選りすぐっているが
気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる
……
わたしは彼女をみごもり
彼女はわたしをみごもり
つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ

別の箇所で道子は、こうも書いています。

 私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるか私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない。私自身を。それが私の出発でした

こうした文面を読むにつけ、産室としての「森の家」で、敬愛する妣なる逸枝の子宮に一度帰着し、そこから再び自分が生まれ落ちる――そのことへの道子の避けがたい衝動を、そこから感じ取ることができます。自分の出自、育った家庭環境、そしていまの結婚生活、そのすべてを産湯に洗い流し、別のもうひとりの「石牟礼道子」としてこの世に再誕生、つまりは再生を成し遂げる――何にもましてそのことを、道子は無心に願望していたのでした。

上京する前日の六月二八日、道子は、最後の行動に出ます。「橋本家へあいさつに行った。『うちのセンセイ』をつれていったのはひとまず進行したといえる」10。道子は夫の弘に、今回の東京行きをどう説明したかはわかりません。おそらくは本心を隠し、弘をあまり傷つけないように、水俣病の調査のためとか、それに類するもっともらしい理由をつけて説得したものと考えられます。

六月二九日、一五時一一分、水俣駅のホーム。その時が来ました。「いよいよ東京行き霧島に乗る。厳粛な気持ち。はじめて夜汽車に乗ることになった。瀬戸内海見えず。関門トンネルに気づかない。憲三氏とつい話しこんでしまったので」11。ふたりは、どのようなことを話題にしたのでしょうか。想像するしかほかに手立てはありません。逸枝のこと、「森の家」のこと、全集刊行のこと、水俣病のこと、さらには、連載中の「海と空のあいだに」のこと、そして、ふたりの今後のこと――。翌日の午後東京駅に着くまでのおよそ二五時間、ふたりの会話が途切れることはなかったでしょう。実にこうして、六九歳の憲三と三九歳の道子の一昼夜にわたる、生まれ変わりへ向けての厳粛なる道行きが、進んでいったのでした。

道子は、憲三について、こう吐露します。

ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった12

水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた13

ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。

「産室」となる「森の家」でのふたりの生活がはじまりました。七月三日の日記に、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以下K氏と書く)より、ノートの御許し出る」14とあります。これは、尊敬してやまない憲三と逸枝を主人公とする伝記執筆のためのノートを意味します。この伝記は、水俣へ帰郷後、まず「最後の人」と題されて『高群逸枝雑誌』に連載され、そして最終的に、道子が八五歳のときに、『最後の人 詩人高群逸枝』として書籍化されます。それを思うと、まさしく道子の生涯は、これよりのち、「最後の人」とともに歩んでゆくことになるのでした。

同じく七月三日のノート(東京日記あるいは森の家日記)には、こう書かれています。

 今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる15

その手紙は、次のように書き出されます。

 深い感謝の気持でこの手紙を書きます。このたびの上京について、私自身にとっては破天荒なことであり、はためにはずいぶんづかづかとしたお願いを、みなさまによっておききとどけ下さいましたことに、貴女さまの御配慮が全面的に動いて下さいましたことを、その経緯の積み重ねがありましたことを、私は肝にめいじているつもりでございます16

「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という語句や「静子氏を立会人として」手紙を執筆していることから推測しますと、このとき道子は、女としての自身が寄って立とうとする立場を明確に「誓った」のではないかと思量されます。この手紙には、世俗的な「後添い」や「後妻」といった言葉はいっさい使われていませんが、配慮の「経緯の積み重ねがありました」という字句に目を向けますと、およそこの二年間にあって、しばしば道子は静子に会っては、そのことにかかわって暗に意思表示をしていたのではないかという推断の道が開きます。こうした「積み重ね」が、すでに引用で示しています、「突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動」となって、ここに顕在化したものと思われるのです。

「森の家」に入って一週間が立ちました。七月六日の道子の日記に、「桑原史成さんと渋谷で会う。……東大都市工学衛生工学研究室宇井純さんを訪ねる。留守」17との記述があります。桑原は、フリーの写真家で、そのとき二九歳でした。三四歳の宇井は、下水道を専門とする研究者で、東大の助手をしていました。ふたりは、ともに水俣病に関心をもつ旧知の仲で、水俣へも足を運んでいました。道子は、三人で会って水俣病に関して意見を交換したかったものと思われます。さらに、桑原には、頼みたいことがありました。「逸枝先生の写真集のこと道子話す。喜んで撮りたいとのこと」18。しかしこの日は、何か事情があってふたりに反目が生じ、道子は「森の家」を飛び出してきていたようです。続いて日記には、こう記されています。「やっぱり世田谷に帰りたくなった。小雨。十一時十分帰宅、九八〇円取られた。残念。先生の部屋ドンドン叩く。締め出されていた。大騒動して窓から侵入。ニクラシ。おとなり徳永夫妻起き出し御協力、先生オヤスミ。起きない」19

次の日(七月七日)の日記。「九時きっかりに桑原さんみえる。六時彼と渋谷で落ち合い、東大技術史研究会。沛然たる雨、本郷三丁目ウイジュンサン……十一時帰宅。締め出しなし」20

それから二日後の七月九日、道子は憲三に連れられて、平塚らいてう宅を訪問しました。以下は、そのときの道子の印象です。

 らいてう氏はやはり飛びぬけた女性。うしろ姿に優雅さの衰えぬ人である。「ベトナムが、ああいうことになりまして」という御挨拶。水の流れの中に水があるように、すいと自分の使命感を前に押し出す、するとみんなも流れていくという風である21

憲三はらいてうに、道子をどう紹介したのでしょうか。興味がもたれるところですが、残念ながら調べる限り、資料には残されていないようです。

翌七月一〇日――「先生おやすみ。桑原さん来る。書斎にて彼に説明。桑原さん撮影大車輪(九時半頃から)。まず化粧部屋から、階段、避暑室、階下、書斎。庭で先生。ボヤーッとお写りになったらよろしいと思いますと進言。彼を囲んで昼食の用意。お寿司、カキフライ、きゅうり、ビールなど。揚げとしいたけのおつゆ。先生楽しそう。桑原さんの笑う目が美しいとおっしゃる」22。そのあと、「明日、帰水の予定。ならば滞京予定を終了したものとして、二階で休息。深く熱い充足感」23。「深く熱い充足感」とは何でしょう。想像にゆだねるほかない意味深長な言い回しです。

その日の夕方、詩人の渋谷定輔がやって来ました。逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』は、一九二五(大正一四)年一一月に萬生閣から上梓され、渋谷の『野良に叫ぶ』も同じ版元から翌年の七月に出版されています。萬生閣は実際上の平凡社で、両書ともに、発行者である下中彌三郎が、巻頭に「推薦文」を書いています。当時憲三は、下中を創業者とする平凡社に編集者として勤務していましたので、おそらく『野良に叫ぶ』の出版をきっかけに、下中の紹介により渋谷と知り合ったのではないかと思われます。

道子は、桜通りに出て、「ウィスキー小瓶、ビール小一本、鶏もつ、桃などを買う。いよいよ祝祭気分」24。こうして祝宴がはじまりました。「渋谷さんのプレゼント、開けてみようということでリボンをとる。美しい寒暖計。思わず歓声を上げる。うれしかった」25。寒暖計は、寒い日も暖かい日も、動じることなく常にひとつの場所を占めます。そこから、このプレゼントの意味を読み解くならば、ほぼ間違いなく寒暖計は、「婚約祝」あるいは「結婚祝」としての贈り物だったものと思われます。祝いの膳も佳境に入ります。「逸枝評憲三評、渋谷氏から熱っぽく出ると、やはり実体に迫っている感じがしてくる」26。では、「実体に迫っている感じ」とは、何を意味しているのでしょうか。いまや憲三の後添いとして逸枝とともにここに生きていることの真の実際感といったものでしょうか。渋谷は八時ころ家を出ました。続けて道子は、こう書きます。「厳粛なる夜。聖なる夜であるとも――」27。この一語から、この日が、憲三と道子が体を重ねて結ばれた最初の夜だったことが連想されます。

神秘に包まれた聖夜が明け、帰郷する七月一一日の朝が来ました。以下も、道子の日記からの引用です。

 六時目覚め。
 木立の中の深い霧。
 私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。
 沐浴。
 今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる28

「九時半、逸枝先生にお別れつげる。彼女は私の内部に帰る。切ない。玄関を出る」29。こうして道子は「産室」を出たのでした。

それよりおよそ三箇月半後の一〇月三〇日の道子の日記に、「おなじ女をわけあえば兄弟分になるという後代の俗」30という文字が書き込まれています。この遺俗を念頭に置いて道子の場合を考えれば、「おなじ男をわけあえば姉妹分になる」ということになります。おそらくこうして道子は、この「産室」において逸枝の「妹」として生まれ変わったのかもしれません。他方で、すでに引用しています「わたしは彼女をみごもり/彼女はわたしをみごもり/つまりわたしは/母系の森の中の/産室にいるようなものだ」という道子の文から推量すれば、あるいは、「森の家」の「産室」で逸枝が道子をみごもるという神秘的な観念の幽玄世界に、道子は日々浸っていたのかもしれません。「森の家」を発つに当たって、上のように道子は「彼女は私の内部に帰る」と書いています。これこそが、ここにおいて道子が逸枝をみごもり、逸枝が晩年を過ごす地として望んでいた暖かい火の国に持ち帰り、再生なった道子の新たな生き方のなかで、これよりのち生涯にわたって「作品」というかたちをとって産み落としてゆくという、秘められた道子の強固な意思表示として受け止めることができる箇所であるにちがいありません。換言すれば、「彼女は私の内部に帰る」は、逸枝の詩学と学問の全き後継者としての、あるいは、揺るぎない再生産者としての、道子の宣誓の言葉だった可能性さえあるのです。

こうして、道子の「突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動」は終わりました。改めて、六月二九日から七月一一日までの約二週間は、六九歳の憲三と三九歳の道子にとって何を意味するものだったのでしょうか。この短い同棲期間は、道子にとっては「生命の復活」を意味し、ふたりにとっては「後半生を契る祝言」を含意するものであったにちがいありません。このときこの森は、さながら生命誕生の小宇宙と化していたのです。おそらく、立会人である静子に、つまりは事実上の産婆役であるその人に、その神聖なる一連の出来事を報告するためだったのでしょう、この日両人は「森の家」をあとにして、原郷の水俣へと帰ってゆくのでした。

ところで、道子は、「七月十二日、熊本平野に入ってはれ。壮大な空。炎のような風」31、そして「九月二十五日夕、ふたたび世田谷森の家着」32と書いていますが、そのあいだの動静については、何ひとつ記述がありません。一方の憲三の「共用日記」には、九月一五日「出発」33、九月二五日「石牟礼さんくれ方ごろに見える」34とあるのみです。つまり、別々に上京したことはわかりますが、七月一二日に憲三と道子が到着してから九月一五日に憲三が出立するまでのあいだ、水俣でふたりが、どのような暮らしをしていたのかが全く空白になっているのです。ほかに、そのことを実証するに足る資料(エヴィデンス)も見当たりません。そこで、次のように想像してみたいと思います。この間、事の経緯からして道子は、夫の弘に離婚を申し出たのではないでしょうか。しかし、それが受け入れられず、また、息子の道生の反対にも直面し、道子は完全に居場所を失い、途方に暮れる日々を送っていたものと推測してみます。おそらく、そうした道子の置かれている状態を見かねたのでしょう、憲三と静子が、道子の家を訪ねてきました。その家は、「実家のとなりにあった、にわとり小屋を、かろうじて人間が住めるように父がしてくれた掘っ立て小屋」35でした。以下は、このときの来訪について、道子本人が記述するところです。

 その後憲三先生が再度私のところに見えたのは昭和四十一年秋で、家族の理解をとりつけてご一緒することになった36

また別の箇所では、道子はこのような描写も試みています。

 その橋本憲三氏と、妹の静子さんが突然我が家にやってこられたのは、秋晴れの美しい日であった。東京の「森の家」、つまりは逸枝さんの研究所の跡を見ておいてくれないかとのことだった。
 突然お見えになられ、いきなりそうおっしゃられて、私は仰天した37

上のふたつの引用文を合成しますと、おおよそ次のようになります。「約四箇月前の五月一六日の最初の来訪から数えて二度目に当たる、一九六六(昭和四一)年の美しい秋晴れのある日、突然、橋本憲三氏と妹の静子さんがわが家にいらっしゃって、妻の逸枝さんと長年暮らされた東京の森の家をこれから解体するので、その様子を見ておいてほしい旨のことを申し出られた。私は仰天したが、家族の理解をとりつけて、同道することにした」。もしこの推断が正しいとしますと、ここにはふたつの考慮に入れるべき問題点が介在することになります。ひとつは、「私は仰天した」という語句についてであり、もうひとつは、「家族の理解をとりつけて」という文言に関するものです。そこで、以下に、少し検討しておきたいと思います。

「私は仰天した」という語句には、大事なことが抜け落ちています。実際には、「私はあまりにもうれしくて仰天した」というのが、真実に近いのではないかと推量されます。といいいますのも、さらに別のところで、以下のように道子は、書いているからです。

私事を書かせて頂けば、処女作「苦海浄土」のかなりの部分は東京世田谷の朽ち果ててゆく森の家で、お励ましにうながされて書き進められた。当時そこしか、わたしの身を置く場所はなかった。逸枝の霊に導かれている気持であった。チッソ東京本社座りこみの心の諸準備も森の家でなされた。はじめていうことである38

このなかの、「当時そこしか、わたしの身を置く場所はなかった」という一語に注目すれば、道子にとって、いかにこのときの憲三の申し出が自分の意を満たすものであったかがわかります。まさに渡りに船、天の慈雨だったのでした。

次に、道子は、本当に「家族の理解をとりつけて」出京したのか、という点です。息子の道生が後年書いたものに、「母のことそして父のこと」と題された回想文がありますが、次は、そのなかの一節です。

 惜しみなく愛情を注いでくれた幼い日々が過ぎ、私が高校を卒業しこれから進学と言う頃に母は家を出た。目の前で起きている現実を凝視して激しく突き動かされる想いを、言葉に託して伝えたい。次々に寄せ来る感情のたぎりを文章で書き記しておきたい。集中して書ける場所をと言い出した。その衝動と決意は父も私も到底とめられることではなかった39

最後の、「集中して書ける場所をと言い出した。その衝動と決意は父も私も到底とめられることではなかった」という語句に目を向けますと、必ずしも円満に「家族の理解をとりつけて」東京行きが決行されたのではなく、どちらかといえば、家族の思いを一方的に断ち切って家を出た構図が浮き上がって見えてきます。憲三と道子の上京の日がずれるのは、せめてもの家族への配慮だったのかもしれません。

こうしていよいよ、憲三は九月一五日に、道子は遅れて九月二四日に水俣を立って、再び「森の家」へと向かうのでした。

「森の家」へ帰ると憲三は、再び『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集作業にとりかかります。奥付から判断しますと、配本は、以下のように進んでいました。憲三の「森の家」帰着は、九月一六日ですので、おそらくはこのときまでに、第一巻の「母系制の研究」と第九巻の「小説/随筆/日記」の印刷原稿はすでに出版社に渡されており、したがって残る作業は、第六巻「日本婚姻史/恋愛論」と第七巻「評論集・恋愛創生」の原稿の整理と「解題/編者」の執筆だったものと考えられます。

第四巻 女性の歴史一 一九六六年二月
第五巻 女性の歴史二 一九六六年三月
第一〇巻 火の国の女の日記 一九六六年三月か(ただし、奥付は一九六五年六月)
第二巻 招婿婚の研究一 一九六六年五月
第三巻 招婿婚の研究二 一九六六年六月
第八巻 全詩集・日月の上に 一九六六年七月
第一巻 母系制の研究 一九六六年九月
第九巻 小説/随筆/日記 一九六六年一〇月
第六巻 日本婚姻史/恋愛論 一九六七年一月
第七巻 評論集・恋愛創生 一九六七年二月

それではこれより、憲三の編集作業の様子を、道子の文から拾い出してみます。九月二五日に、道子が「森の家」に帰った日、「K氏は全集最終巻の編纂を抱えたまま風邪をひいて、二階書斎のベッドで仰臥のまま、その仕事を続行中である」40。そのことから判断すると、第六巻の「日本婚姻史/恋愛論」については、すでにこのときまでに原稿の整理が終わっていたものと考えられます。それから一週間が過ぎた一〇月三日の夕方、全集最終巻の第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」の下書きができあがりました。憲三は道子に、それを読むようにと、手渡しました。

しばらく手が出ない。さしのぞくことは越権ではないか。再度の仰せによって読ませていただく。短文であるが、その言葉の深さ(彼女への愛)格調(その心)の高さに胸うたる。どっとかなしくなる。おさびしそうな先生。曇りの空をみる。秋色の庭。時間とは何であるか41

さらに、この引用文は、次のように続いてゆきます。

 夜、先生ニンニク食べられて下書きお清書。御苦心の様子。わたしは『美想曲』を読み進む。切々と時間が進む。端正な姿で書いていらっしゃる先生。左の目に左手をあてて。左の目は失明している方の目である42

憲三は、自らの不注意により、誤って小さいころ失明していました。道子の目もまた、このころすでに視力の低下がはじまっていました。「このときたまたま私の左眼の視力が、非常に衰えてしまっているのを[憲三]氏に発見されるということがあったりした」43のでした。

翌日の一〇月四日、道子は、「静子さんに解題を書かれていること報告の手紙書く」44と、六日に、最終配本予定の第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」が整い、ついにここに全集編集のすべての作業が完了したのでした。「比類ない愛の書完成。廃屋、老残、というお言葉がある。むべなるかなと思い、言葉なし。果実酒を黙って献じる。そして彼女の霊前には二粒の栗」45。ちょうどそのころ、第九巻の「小説/随筆/日記」が公刊され、一〇月一一日に理論社の編集者が献本五冊を持参。「K氏はそのとき最終回(第七巻)原稿――編者のことばだけをのこして――を渡されたのであった」46

それから二日後の一〇月一三日、今度は道子の「空と海のあいだに」の第八回の原稿が完成しました。すでに述べていますように、「空と海のあいだに」は、『熊本風土記』の連載文でした。一九六五年一一月の創刊号に第一回が、最初に憲三と静子が道子の家を訪ねた一九六六(昭和四一)年五月一六日からおよそ二週間後に刊行された六月号(通巻第七号)に第五回が掲載され、それ以降、七月号(通巻第八号)に第六回が、八月号(通巻第九号)に第七回が続いていました。今回書き上げた第八回は、「海底の神々 その二」の副題をもち、一九六六年一一月号(通巻第一一号)のためのもので、結果的に、この第八回が連載最後の文となりました。その後、八回にわたる「空と海のあいだに」と、その他の原稿が組み合わされて、一九六九(昭和四四)年に講談社より『苦海浄土 わが水俣病』となって、世に問われることになるのです。

「空と海のあいだに」の第八回の原稿ができたころについて、道子は、こう書き留めています。

……森の家の一室をあたえられて、わたしは『苦海浄土』の‶海石″の一節を執筆中であり、出来上がったものを読んでいただき、その後批評をうかがって、世田谷桜四丁目の郵便局から、「熊本風土記」の編集者に送っていたのである47

『苦海浄土』の‶海石″は、『苦海浄土』第四章「天の魚」の第二節に相当する「海石」に対応します。

また、別の箇所では、このときのことを、次のような表現を使って、回想します。

そのとき私は「苦海浄土」の第一稿(原題「空と海のあいだに」)を渡辺京二氏の『熊本風土記』に連載していて、その原稿も「椿の海の記」の半分くらいも憲三先生がまず目を通され、森の家から送ったことが忘れられない48

『椿の海の記』は、一九七六(昭和五一)年の一一月に朝日新聞社から発刊されます。憲三が亡くなって半年後のことであり、この本を憲三が手にすることはありませんでした。

他方、この時期について、道子は、このような回顧もしています。

……あの「森の家」の一室で、ノートの標題を「最後の人」と名付けたのだった。
「最後の人としたのですか。なるほど、うん。よい題だな」……
 顔を拭いたタオルを首に巻きつけたまま……橋本憲三氏は、自分で立てた朝のコーヒーを啜られる。……十月も末のある朝だった49

そして憲三は、道子にこういいました。「その、僕が生きている間に、書きあげて、読ませて下さると、ありがたいのですがね」50。憲三は、道子にとっての「最後の人」が自分自身であることを承知していたものと考えられます。

しかし道子は、返事に窮し、内心こう思いました。

この夫妻に関して、これまでわたしが知っていることといえば、昭和二十九年に講談社から出されていた『女性の歴史』上巻……と、全集に組まれる前の『火の国の女の日記』の初稿ゲラ刷を読んでいるだけである。気の遠くなるような勉強が前途に待っている。この師のご存命中にはとても間に合うまい……51

道子は、「森の家」を処分して水俣に帰った憲三を助けて『高群逸枝雑誌』の創刊に加わり、その雑誌に「最後の人」を連載します。しかし、それが単行本としてまとめられ、世に出るのは、「森の家」滞在から四六年が経過した二〇一二(平成二四)年のことでした。「この師のご存命中にはとても間に合うまい」という予感が的中したともいえますし、この間、最後まで「最後の人」に一心不乱に寄り添ったともいえるかもしれません。

九月二五日に道子が「森の家」に帰ってから、ほぼ一箇月が立とうとしていました。水俣に残してきた夫と息子は、道子のことを心配していたでしょうし、道子も、ふたりのことが気になっていたにちがいありません。道子の日記から、以下に、拾い上げてみます。まず、息子の道生に関連して――。

一〇月三一日「帰途ふいに胸騒ぎする。道生にか弘にか、先生にか何かありはせぬか。何もないように祈って帰る」
一一月一日「道生に逢いたいこと切なり」
一一月八日「道子、下のバアチャン、道生に手紙」
一一月一三日「道生から速達、成長した手紙」
一一月一五日「道生へ手紙、よく考えて書く。婚約したという。道生十八歳。昔なら二十歳か。大学卒業したら結婚するという。いやはやしかし、びっくりした。彼の純情をほめて激励の手紙」
一一月一六日「道生にどうしても逢いたいし。泣けてくる」
一一月一七日「道生の手紙また読む」
一一月一八日「道生どうしているかしら」
一一月二十日「道生に逢いたいし、東京に受験に来るのかしら」52

断片的な記述ではありますが、それでも、息子に寄せる母親の切々たる思いが伝わってきます。他方、夫の弘に関しては、記載の量が少なく、次の三点です。

一〇月二五日「石牟礼からお金」
一〇月二八日「道子午前中、弘に手紙」
一一月六日「弘より手紙、ガックリ」53

これだけからは、道子の夫への気持ちは十分に伝わってきませんが、弘が生活費を送金していることから判断しますと、弘は道子を見捨てているわけではないことがわかりますし、受け取った手紙の内容に道子が「ガックリ」と失望しているところから推量しますと、離婚話に弘の態度が否定的だったという状況があったのかもしれません。

道生の文のなかに、家についてと両親について記述した箇所がありますので、ここで紹介します。家については、「祖父の白石亀太郎が主になって造ってくれた家で雨が降ればあちらこちらで漏れてくる暮らしだったが絶えず人が集まる楽しい暮らしだった。小学校の頃まで溺愛されて育ったことを鮮明に覚えている」54と、述べています。両親については、こう書いています。

 母は父の求める妻としては早くにその役目を放棄していた。母と父との思いの違い。両親のそれぞれの葛藤は物心ついたころから目の当たりにしていた。静かで優しい父は黙認するしかなかった。
 ものを思うと取り憑かれたように書き始める母。何を言おうと通じない。囲碁や釣りや庭いじりを好み知人や親戚の面倒や相談にのり人柄の良い学校の先生だった普通で穏やかな父だった。そんな母に距離を置きながらも資金的援助を怠ってはいなかった55

弘は教師として小学校に勤務し、道生は大学受験を控えた高校三年生でした。道子が「森の家」に滞在していたとき、ふたりは水俣でどのような暮らしをしていたのか、調べる限りでは資料に残されておらず、再現することはできませんが、憲三の体調が優れなかったこともあり、「森の家」での炊事洗濯などの家事全般は、ほとんど道子が担っていたようです。それは、書き残されている日記から明らかで、たとえば、一〇月一三日の日記には、こうした一文を見ることができます。

 今朝は牛乳にしましょう。そうしましょう。そして、二度じきでよい。僕はあまり食べたくありません。あなた風邪はなおりましたか。なおったの。そりゃよかったなあ――
 そこで私は、とんとんと二階をおりて、非常に簡単で充分に栄養的な二度じきのための食事をつくりにゆくのである56

読む限り、おそらくどこにでもありそうな夫婦の朝の会話です。献立は、次のようなものでした。

 朝食、味噌汁(豚肉、カボチャ、油揚げ、葱、ラーメンスープ入り)、先生 牛乳、麦飯、ウニ、白菜漬け、フクミ(先生名付ける)昆布、梅干。先生、牛乳。夜、バタ卵とじ(人参、葱)、麦飯、牛乳、蜜柑二個ずつ、ウニ、昆布57

憲三が、最終配本予定の第七巻「評論集・恋愛創生」の原稿の整理を終え、それを理論社の編集者の藤井良に渡し、一方道子が、第八回の「空と海のあいだに」を脱稿し、それを『熊本風土記』の編集者の渡辺京二に郵送すると、いよいよ、「森の家」解体へ向けての本格的な作業がはじまりました。まずは、本の整理です。一〇月一七日、三社のなかで事前に二〇〇万円の最高値をつけていた古賀書店が来訪し、打ち合わせ。さっそくその日から、ふたりは本の整理に取りかかりました。執筆の際に逸枝が参考にした膨大な量の書籍が「森の家」の本棚を埋め尽くしていました。道子は、このように書いています。

 私は世田谷の森の家の内観の威容を感動を持って思い起こすが、そこは見たこともない一大書庫で、水俣の淇水文庫より更に充実した内容のように私にはおもわれた。
……正規の書斎、(応接間)、茶の間はいうにおよばず、湯殿の横の小部屋といわず、化粧部屋といわず、二階書斎(寝室を兼ねる)も張り出しのおどり場も、壁面という壁面はすべて天井までとどく書誌類でことごとく埋まり、書架のしつらえ方の機能的、合理的であることはおどろくべきもので、すべて憲三氏の設計になる手づくり(カンナは大工さんがかけた)であった。
……書物はここでは生き物であり、世俗を断ったこの夫婦の対話者としてそこに居並んでいた58

それでは、どのような書物が「そこに居並んでいた」のでしょうか。道子は、実に克明に記録していました。長くなりますが、貴重な逸枝の蔵書リストですので、以下に再録します。

 古事記伝二巻、古事類苑、古事記大成、国史大系(五十三巻)史料大成(四十二巻)群書類従(二十二巻)故実叢書(三十二巻)日本文学大系(二十三巻)大日本古文書(一巻)大日本古記録、後二条師通記(上・下)世界史(ソビエト科学アカデミー版十巻)親族法(穂積重遠)図説日本文化史体系(九巻)日本庶民生活史(三巻)日本歴史大辞典(二十巻)大百科事典(二十七巻)日本文化史体系(四巻)日本風俗史講座(二十六巻)未開家族の論理と心理(マリノウスキー)御湯殿の上の日記(十巻)六国史(十一巻)国文学講座(十巻)モルガン古代社会(上・下)ミクロネシア民族誌、支那古代社会研究、支那古代経済思想及制度、小右記(小野宮実資)権記(藤原行成)春記(藤原資房)中右記(藤原宗忠)玉葉(藤原兼実)明月記(藤原定家)兵範記(平信範)言継卿記(山科言継)神話伝説体系(十一巻)古琉球、琉球神道記、日本古代共同体の研究、社会思想全集(二十四巻)古典劇体系(十巻)寺領荘園の研究、南方民族の婚姻、新日本歴史講座(五十冊)歴史学研究、日本農業史、大鏡活援、紫式部日記正解、支那原始社会形態、日本上代における社会組織の研究(大田亮)支那の家族制、朝鮮の姓史と同族部落、日本婚姻史論、日本荘園史概説、三宅博士古希祝賀記念論文集(柳田国男、聟入考収録)キュウリー夫人伝、ゴッホ伝、国学院雑誌……59

逸枝の一大蔵書を前にして、道子は、これまでいかに無学であったかに気づくとともに、これからの無限の勉学をあと押しするかのような、大いなる力をそこから感じ取ります。

 いまの中学校程度の学力も持たなかった私にはこれらはまったく想像もつかぬ未知の世界だった。
……私が生まれてこの方、おそすぎる覚醒がおとずれた三十七歳までの無学の時間をすっぽり、この夫妻は系統的な勉強に当て続けていたのだという実感が、取り囲まれている大書架から伝わって来た。……私は、絶望感よりも、この一大書庫に、無限の天地のようなものが広がってゆくのを感じた。……死ぬまで勉強というものをしてよいのだというような啓示と、この天地へのいいようもない慕わしさを感じたのである60

おそらく、勉学心にかかわるこの無限の感覚が、「森の家」滞在の最大の成果であり、この後の道子の作家としての原動力となるものであったにちがいありません。別の箇所で道子は、以下のように語っています。

 勉強しよう! とひとつのせんりつに貫かれながらわたくしはおもう。勉強というものを、晴れてやったことのなかったわたくしにとって、森は、うつつにみる必然である。わたくしは、きっと、はためには突然・・変異を起し、世紀の大脱走を企て、まぼろしの森に逃げこんだのにちがいない。
 いや、森が宿したのがまぼろしであるのかもしれぬのである。この関係性こそ不思議なことであった。余命いくばくもない森が宿している関係性のたまごに対して、わたくしはふかい興味をもつ61

「私を宿したのが幻の森」なのか「森を宿したのが幻の私」なのか、道子は反問しながら、深く煩悶します。しかしそのとき、その旋律は、「勉強しよう!」という深い戦慄となって、道子の心を射抜いたようです。こうして明らかに、道子と森は相互に受胎し、森の聖霊を宿して道子は再生なり、他方で、道子の老残を胚胎した森は死滅の運命をたどるのでした。このことを、さらに別の言葉に置き換えるならば、こうして道子は逸枝の死霊の相続人として復活を遂げ、その一方で、蘇った道子がこれから歩みゆくことになる新たな聖地への道行き同伴者としての役割を必然的に担って、憲三もまた、森の死とともに、生まれ変わったということになるでしょう。したがって、道子が「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という語句は、「後妻」とか「後添い」とかいう現し世の俗言を超えたところに見出される、三つの巴が美しく組み合わされた合体模様を象徴する聖なる予言として受け止めることができるにちがいありません。その意味で、まさに「森の家」は、それを生み出すにふさわしい産所であり霊地だったのです。道子が選んだ巡礼の地「森の家」を出て再び還俗するに当たって、道子は、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」62とも書いています。□□にいかなる文字が隠されているのか、それは、憲三と道子のふたりだけが知ることであり、当然ながら、誰にもわかりません。しかしながら、逸枝自身、自著の『孌愛論』のなかで、確かに「寂滅」という語を使っていました。参考のために、以下に、その用例を引用します。

 くりかえしいえば、孌愛は合體(もしくは自己解消)を理想とするものであり、これにたいして生殖は分裂(もしくは自己保存)を意味するものである。これはアミーバの昔から不變の原則なのである。
 では、この兩者の關係は、究極なにを指向するかといえば、……それは人類の無限の増殖よりは、人類の完全な合體――無性化、そして人類の寂滅(もしくはさらに他の新生命への發展)なのであろう63

もし、憲三と道子が、この逸枝の「寂滅」にかかわる言説を前提として、道子が東京を発つ前日の一一月二三日の「ゆうべたしかめあった」のであれば、「生殖」を超えて、「新生命への発展」を確認し合ったことになるのではないでしょうか。こうして憲三と道子のふたりは、最終的に逸枝の予言に従って、新たな生命体としてここに蘇ったのでした。

そう考えますと、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」のなかの□□に隠された文字は、おそらく、「再生」ないしは「蘇生」、あるいは「新生」か「復活」の二文字になるものと思料されます。

「森の家」に滞在中の道子の書くもののなかに、「われわれの森はと云えばそれらの中にそびえ立ち、その夕闇の一瞬を司る」64という表現があります。また、別の箇所では、自身の外出からの帰りを「二時、わが家へ。化粧部屋で着替え」65と表現しています。もし、道子と憲三が明白な他人同士であれば、決して「われわれの森」とか、「わが家」とかいった表現は使わず、それぞれにおいて、事実に即して「憲三氏の森はと云えば……」、そして、「二時、憲三氏の家へ。……」という言葉遣いに、止めるのではないでしょうか。「われわれの」という所有格の表現は、これ以外にも散見されます。

また、憲三と自分を主語として書くに当たって道子は、数箇所で「わたくしたちは」という表現を使っています。たとえば、「秋から冬に入ってゆく空の重さを心に抱いて、わたくしたちは馬事公苑へゆく」66という箇所が、その例に相当します。単なる一介の滞在者であるならば、「憲三氏と私は」と書くのが通例でしょう。「わたくしたちは」と書く以上は、ふたりがすでに極めて親密な関係になっていたことを例証します。

それでは以下に、「ゆうべたしかめあった」翌日の道子の離京までの足取りを、短くまとめてみます。

本の整理にふたりは一週間を費やしました。一〇月二四日、庭に出て憲三は、不要となった雑誌や新聞などを焼きました。一方書籍類は、引き取りにきた古賀書店のトラックに運び込まれました。道子は、そのときの様子を、このように描写します。

 昼間の森の中の火と煙と先生の後姿一生忘れがたし。本を積んだトラックが角をまがって行ったとき先生見たら、先生は古賀さんの後姿にていねいにおじぎをされていた。道子門にかけこみ、泪湧く。大型トラック一ぱいの本。競りに出されるとか。
 先生、貴女がいて下さって助かりました、とおっしゃる。握手。おいたわしい67

本の送り出しは、憲三にとっては、俗世を断って森に生きる孤高の学者だった妻逸枝と、その著述を長年編集者として献身的に支えてきた夫である自分とに、別れを告げる瞬間でした。一方、道子にとっては、新たな生を得て復活した文筆家としてこれから立つうえでの勇気と展望とを、逸枝と憲三から確実に相続する一瞬でもありました。このとき、憲三は、見送る愛蔵書に深々と頭を下げ、道子の目からは涙がこぼれ落ち、それからふたりはしっかりと手を握りしめて、互いに互いの存在を重ね合わせるのでした。

分身としての蔵書と別れたあと、次に憲三は、「森の家」そのものと別れなければなりませんでした。以前から世田谷区役所とのあいだで、「森の家」は解体し、公園へと造成することで話が進められていました。一一月一四日、譲渡仮契約書に調印する日が来ました。午後二時ころ、「世田谷区役所公園課長、用地課長、公園課員、桜町会長、杉本哲次(軽部家分家、杉本造園株式会社の社長)」68が訪ねてきました。

 時々、例の先生の高い笑い声、こんな声の時はあまり正常ではない。失調症のようにきこえる。
 いよいよ定まりましたよ、道子さん、印鑑をつかねばなりません。そう言ってタンスの上の紙箱から印鑑を出された。四時頃人々帰り、下りてゆくと、ああ、もういよいよこの家もなくなります。一二月一五日に引きあげですよ。……(彼女の遺影に向かって)……(うん、)いっしょにかえろうね69

同じくこの日、憲三と道子は、水俣に建造する予定の逸枝の墓廟について語り合いました。ヒントになったのは、先日ふたりで訪れていた馬事公苑で見かけた記念碑でした。以下は、そのときの憲三と道子の会話です。

 「三メートルは大きいかな。物々しいかな。しかし小さければ中途半端なものになる。」
 「……石積みは三メートル四方になっても自然の山に入ればそれほど大きくもないと思います。この立方体を石の壁と考えて屋根をおいた形を考えると、つまり石の小屋、お二人と憲平ちゃんの永久のお住いの小屋と考えると、決して大きくなどありません。
 「そうですね! いやそれはすばらしい。石の小屋と考えると実にいいな、そうきめました。」70

道子は、この墓廟について、晩年に執筆した自伝のなかで、以下のように触れています。

 ちょうど高群逸枝さんのご夫君、橋本憲三先生が、水俣のご姉妹の所に帰っておられ、お墓というか、記念碑のことを考え中であったので、わたしは、かの祖父の愛弟子さんのことを話した。こうして今、逸枝さんの面影の刻み込まれた石碑が、水俣市役所のすぐ上にのこされている。憲三先生に申しつかって、在京の彫刻家、朝倉響子氏に、「目立たなくともよいが、後世に残るような」特別の墓碑のデザインをお願いしにった。快く引き受けて下さって、石工の吉田一二三さんに頼み、現在の形の石碑がある71

本を売却し、土地と屋敷を譲渡し、墓碑についての案もほぼ確定し、いよいよ水俣へ帰還する日が近づいてきました。一一月一六日のことでした、熱心に新聞を読んでいた憲三が、「突然、道子さんがかわいそうだとおっしゃる。時々先生の顔はキリストのようにみえる時がある。人間は全部カワイソウですね、と申し上げる」72

二日後の一八日から、道子の「森の家」を離れる準備がはじまりました。二三日、離京前日。「道子獅子奮迅の働き、おそうじ。彼女の書斎、便所、階段、茶の間。それから下着洗濯。……形見のお写真いただく。裏にはなむけの毛筆の(前代未聞とのこと)お言葉。胸せまる。明朝、お見送り辞退申し上げる。特別晩餐、食前酒、散らし寿司(マグロ、シイタケ、金糸卵、人参、生姜)お吸物(春菊、卵、チリメンジャコ)」73

そして、当日の二四日を迎えました。

 先生御玄関からお見送り、(その前お茶を――おしまいのお茶――立てて下さる、八時)ていねいにおじぎをする。落葉の道を歩き出す。玄関をしめる音。立ち止まる、二階に上がっていらっしゃる音、やがて窓にお顔が出る。……振り返る。神秘な青い空。……
 音のない時間がどっと私のめぐりを流れ出す。さよなら、森の家よ。寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった。先生さようなら。角を曲がる。……八重洲口へ。……霧島乗りこみ、十二時74

帰水後、道子が「橋本静子さんをたずねる」75のは、一一月三〇日のことでした。この間の出来事を静子に報告したものと思われます。「静子さんの全身に漂う詩情。彼女の目美し」76。そして翌日、道子は「憲三氏に手紙書き。速達で出す」77のでした。

堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』に断片的に記載されている憲三の「共用日記」に目を向けると、その後の足取りは、おおよそ次のようになります。

一二月二日、引っ越し作業の手伝いのため、静子、水俣を出発。翌日の「11時-12時のあいだに静子来」。次の日の「早朝から荷まとめの作業に従事」、七日に「通運から荷物の下見に加藤雄宏さん」が来て、打ち合わせ。翌八日、「荷積みを加藤さんにたのみおき、2時50分この家を捨てる。はやぶさ(特急)に乗る」。一夜が明け、「瀬戸内海が見えてきたころ」に食堂車へ行き、そこで朝食、そして「14時53分水俣着」78。かくして一九六六(昭和四一)年一二月九日、六九歳の憲三は、すべての作業を終え、肥後火の国の南西部に位置する水俣の地に帰還したのでした。

思い起こすと、最初に逸枝が出京したのは一九二〇(大正九)年で、その後、その地で逸枝と憲三の結婚生活がはじまります。二年前にすでに逸枝は亡くなり、ふたりで生活をともにした思い出の「森の家」も、いまや憲三の手で閉じられました。一方で、憲三が編纂した『高群逸枝全集』(全一〇巻)の配本が続いています。憲三は、実の姉妹が住む家に寄寓します。この土地には、ひと足先に帰郷した道子もいます。こうしたなかにあって、憲三の新しい生活の幕が開くのでした。その様子は、次の第二八章「憲三による逸枝墓碑の建立と『高群逸枝雑誌』の発刊」において詳述したいと思います。

(1)石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、9頁。

(2)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、444頁。

(3)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、11頁。

(4)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、153頁。

(5)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、274-275頁。

(6)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、275頁。

(7)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(8)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。

(9)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、1頁。

(10)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、246頁。

(11)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(12)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。

(13)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、287頁。

(14)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(15)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(16)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(17)同『最後の人 詩人高群逸枝』、258頁。

(18)同『最後の人 詩人高群逸枝』、258-259頁。

(19)同『最後の人 詩人高群逸枝』、259頁。

(20)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(21)同『最後の人 詩人高群逸枝』、261頁。

(22)同『最後の人 詩人高群逸枝』、264頁。

(23)同『最後の人 詩人高群逸枝』、265頁。

(24)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(25)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(26)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(27)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(28)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(29)同『最後の人 詩人高群逸枝』、266頁。

(30)同『最後の人 詩人高群逸枝』、297頁。

(31)石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、31頁。

(32)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、4頁。

(33)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、154頁。

(34)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(35)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、464頁。

(36)同『最後の人 詩人高群逸枝』、463頁。

(37)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、271-272頁。

(38)石牟礼道子「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、94頁。

(39)石牟礼道生「母のことそして父のこと」『魂うつれ』第73号、2018年5月、36頁。

(40)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、5頁。

(41)同「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、9頁。

(42)同「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、同頁。

(43)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、55頁。

(44)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、9頁。

(45)同「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、10頁。

(46)石牟礼道子「最後の人3 序章 森の家日記(三)」『高群逸枝雑誌』第3号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年4月1日、27頁。

(47)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。

(48)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、463頁。

(49)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、8頁。

(50)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、10頁。

(51)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、11頁。

(52)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、298、301、307、312、317、318、320、321、322頁。

(53)同『最後の人 詩人高群逸枝』、290、294、305頁。

(54)前掲「母のことそして父のこと」『魂うつれ』、35頁。

(55)同「母のことそして父のこと」『魂うつれ』、36頁。

(56)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、283頁。

(57)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(58)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、53-54頁。

(59)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、54頁。

(60)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、54-55頁。

(61)石牟礼道子「最後の人 第八回 序章 森の家日記8」『高群逸枝雑誌』第14号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1972年1月1日、35頁。

(62)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。

(63)高群逸枝『孌愛論』沙羅書房、1948年、9頁。

(64)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、5頁。

(65)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、271頁。

(66)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、24頁。

(67)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、290頁。

(68)同『最後の人 詩人高群逸枝』、313頁。

(69)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(70)同『最後の人 詩人高群逸枝』、315頁。

(71)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、12-13頁。

(72)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、318頁。

(73)同『最後の人 詩人高群逸枝』、325-326頁。

(74)同『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。

(75)同『最後の人 詩人高群逸枝』、328頁。

(76)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(77)同『最後の人 詩人高群逸枝』、329頁。

(78)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、155頁。