前章において述べましたように、話し合いの結果を受けて、いよいよ逸枝は、女性史研究に向かうことを改めて決意しました。それでは逸枝は、ここへと至るこの間、女性の置かれている状況をどう認識していたのでしょうか。いま一度『戀愛創生』に立ち戻りたいと思います。そのなかに、こうした一節があります。
婦人ほど、悲惨なものが、今日あろうか。彼女は暗黒、彼女は打ちひしがれてゐる。八方から叩かれてゐる。死滅しないのは、死滅する餘裕がないからである1。
別の箇所では、このようにも述べます。
愛の女神を原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない。 (中略) しかし、耐へてゐるといふことは、あきらめてゐるといふことではない。彼女は、積極的に、かの光明と、自由とへ、この家庭を推し進めて行かうとする意志と、行為とをもつて立つであろう。 このとき、彼女は社會に宣戦し社會に火蓋をきらねばならない2。
ここにいう「愛の女神」とは、逸枝の化身であるにちがいありません。その彼女が、いままさに「社會に宣戦」を布告しようとしているのです。逸枝の信じるところによれば、結婚制度のはじまりとともに、自由で自然な「恋愛生活」も終わりを告げ、一夫一婦制のもと、妻は夫の私有財産の一部と化し、女たちにとっての耐えがたい屈辱の時代が幕を開けたのでした。屈辱から立ち上がり、「かの光明と、自由とへ」解き放された暁には、何が待っているのでしょうか。それは、逸枝の書物のタイトルにある「戀愛創生」の一語に凝縮されるところの新世界であるにちがいありません。つまりは、人類がすでに失ってしまい、いまや忘れ去られてしまった「恋愛」の創生(あるいは再生ないしは復活)がそこに待っているのです。それは、逸枝にとってみれば、一方で、私有財産と一夫一婦という強権制度の解体を、そしてもう一方で、理にかなったひとつの母性保護の創造を含意するものでした。
それでは、「愛の女神」がかつて住んでいた「原始の森の中」とは、どのような世界だったのでしょうか。それに相当する部分を拾い出してみます。
農耕の生活が安定するやうになつてくると、ここに始めて人類は、経済的に最も安定した生活を送ることが出來た。それと共に、母系制度が確實な形をとつて現はれ、民族は財産共有の基礎の上に立てられた。即ち、それは共産主義的な社會の形式であつた。婦人はこの血族團體の指導者であり、支配者であつて、大いに尊敬せられ、彼女の意見は、家庭内におけると同様、種族の問題に関しても大いに尊重せられた。彼女は仲裁者であり、裁判官であり、神官として宗教的信仰の義務を盡していた3。
逸枝は、女を中心として成り立っていたであろうと思われる社会の根幹をなす「母系制度」に着目します。こうして、いまだ闇に閉ざされていた「女性の歴史」の発掘作業がはじまるのです。それは、男によってつくられた「歴史」を敵に回しての逸枝にとっての「聖戦」であったにちがいありません。といいますのも、それは、婦人解放のための史的根拠の創出であり、解放戦線に使用する「武器」の製造を意味したからです。
そのための場として、富農で援助者の軽部仙太郎・なみ夫妻が、間口一〇間、奥行き二〇間の二百坪の土地を貸し与えました。一九三〇(昭和五)年一二月二日の日記に憲三は、「軽部仙太郎さんみえる。家屋新築の件」4と書いています。「Kは私がソローの『森の生活』を愛読しているのを知っていたので、できればそういう森の中に研究所を建ててやりたいと考えていた」5のでした。すでにこのころから、『婦人戦線』からの撤退は考えられており、逸枝にとっての新たな転戦の場が設けられようとしていたのかもしれません。住所表示は「世田谷町満中在家五六二番地」で、小田急線の経堂駅から徒歩二〇分のところにあり、周りは森と雑木林が点在し、富士山を望むこともできました。そこに、六室からなる二階建てを新築し、その一室が逸枝の仕事部屋にあてられました。逸枝と憲三はこの家を「森の家」、のちには「女性史学研究所」と呼びました。「上荻窪二六九」の借家からこの新居にこの夫婦が引っ越したのは、『婦人戦線』の事実上の最終号が発刊された六月一日からちょうど一箇月後の一九三一(昭和六)年七月一日のことでした。
この日逸枝は、刊行をまぢかに控えた『婦人生活戦線』につける「序文――若き友に與ふ」を書きました。この「序文――若き友に與ふ」は、「これを書いてゐる今、窓の外はいちめん七月である」ではじまり、「昭和六年七月一日 世田ケ谷の寓居にて 著者」で終わります。四日後の七月五日に、この本は寶文館から世に出ました。
逸枝は、仕事初日のことにつきまして、晩年に至るまで忘れることなく、記憶していました。
仕事場はできたけれども、五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)を一冊のせて座ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた……6。
そして逸枝は、こうも書きます。
だがもう賽は投げられていた。いまはだれに訴えることもできないし、さく衣をきせられた狂人のように、どんなにわめいてみたところで、一軒家のひとりぼっちの私の声は、けっしてどこにもとどかないだろう。けっきょく私は出発し、前進するほかなかったのだった7。
こうして、必要な書籍もなければ研究資金もなく、さらには知人や友人との交友関係をも断ち切り、まさしく無一文の孤独な「狂人」のようなあり様のなかにあって、逸枝の「森の家」における女性史研究は、スタートしたのでした。女性史学事始めのこのとき、ふたりはすでに人生の半ばにあり、逸枝は三七歳に、憲三は三四歳になっていました。
『大日本女性史 母系制の研究』に入るに先立って、逸枝は、これまで日本においてどのように女性史研究が進められてきていたのか、先行研究の状況を調べたものと思われます。それについての逸枝の認識はこうでした。
外国には、たとえばエンゲルスの「家族私有財産および国家の起源」とか、ベーベルの「婦人論」などの、いわば女性解放の聖典ともいっていいものがあったが、わが国にはそれらしい学問の名に値するものといっては一つもなかった。 (中略) もっとも、たとえば河田嗣郎の「家族制度の発達」(明治四二)「婦人問題」(同四三)とか、堺利彦の「男女争闘史」(大正九)とかは、主として前記の外国文献等によった尊敬すべき編著であるが、その日本史ないしは日本女性史的観察となると幼稚というほかないものであった8。
そこで逸枝は、このように考えました。
日本では、女性解放の思想や運動は、明治以降顕著になったが、女性自体の被圧迫史ないし生活史については、ほとんどなんらの研究努力もはらわれていなかった。歴史を無視して現実の把握ないし未来の展望が可能であろうか。私はそうかんがえた。 (中略) そこで私は、日本女性史をテーマとし、「女性史」という新しい学問の一分野の開拓――つまり、女性史学の樹立というようなことをかんがえた9。
次に逸枝は、「新しい学問の一分野の開拓」に向かうに当たって、その全体像を構想したにちがいありません。これについて逸枝は、一九三八(昭和一三)年に発表する『大日本女性史 母系制の研究』の巻頭の「例言」のなかで、以下のように、それを全五巻で構成したい旨の抱負を述べています。驚くべきことに、このような早い段階において逸枝は、自身の「女性史学」の全構想を示したのでした。ここに「高群史学」の全貌が姿を現わすことになります。
一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。 1 母系制の研究 2 招婿婚の研究 3 通史古代 国初より大化迄 4 同 近代 改新より幕末迄 5 同 現代 維新より現在迄10
本人も語っていますように、前半の二著が特殊研究、後半の三つの書物が通史研究ということになるでしょうか。実に壮大な計画です。しかし、ほぼこのとおりに、執筆が進んでゆきました。以下は、その実際の刊行書籍の一覧です。
(1)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938(昭和13)年6月。 (2)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。 (3)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (4)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (5)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (6)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが一九五八(昭和三三)年ですので、「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけて全巻完結することになります。
こうした「高群史学」の構想のもと、第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』の完成へ向けての第一歩が、ここに踏み出されたのでした。
他方で、「森の家」への引っ越しから五箇月が過ぎたこの年(一九三一年)の一二月、『大百科事典』の編集のために、招かれて憲三が平凡社に復帰します。それからおよそ四年が立った一九三五(昭和一〇)年三月の日記に、逸枝は、「老後は主人を誘って、人間のほんとうの生活に入りたい」11と書き、五月の日記には、「神様は何の役に立てようと私を生まれさせてくださったのだろう。夫をもこのために巻き添えをさせてしまう悪徳の深さ」12と記しています。
ところが、この年(一九三五年)の一〇月、『大百科事典』は完成したものの、経営不振に陥った平凡社は、突如として社員全員に解雇を通告します。これにより夫は失職するのでした。それは収入が途絶えることを意味し、ふたりにとって大きな打撃となりました。そのとき夫婦のあいだで、このような取り決めがなされました。
1 あと三年で『母系制の研究』を脱稿すること。 2 現在の所持金千円で二ヵ年の家計を賄うこと。 3 研究費用には当分私の雑文稿料をもって当てる。 4 とりあえず女性人名辞書をまとめる13。
逸枝は、四番目の項目で「とりあえず女性人名辞書をまとめる」と書いています。家計逼迫のおり、おそらく憲三の発案であったものと思われますが、この夫婦は、『大日本女性史 母系制の研究』の刊行に先立って、取り急ぎ、『大日本女性人名辭書』を世に出すことを考えました。次の引用は、それについての、逸枝による後年の説明です。
年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。私のこれまでの主たる作業は、江戸時代以前の一切の歴史文献を片はしから読破して、系譜および婚姻記事を抽出することが中心であったが、副次的に史上の女性人名をカードにとっていた。いまそれを拡張活用して人名辞書としてまとめたら、今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった14。
「何より出版による印税収入が期待されるのだった」と逸枝本人が書いているように、この『大日本女性人名辭書』の出版の主たる目的は、そこにあったのでした。また、上の引用文には、「私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした」といった文言があります。果たして、「Kの協力」とは、どのようなものだったのでしょうか。以下は、鹿野政直と堀場清子が来訪した際に、憲三がふたりに語った言葉です。
「あの本は出典をすべて書いてあるのが特徴でしょう。もっとも多くは俗書です。そのため、今日の用には立ちません。」その後の、短い沈黙に続いて言われた言葉は、私達を驚倒させるに十分だった。「あの本の大半は僕が書いたのです。彼女は、要約ということができないひとなんですよ。」15
憲三は、「あの本の大半は僕が書いたのです」と明言します。のちに石牟礼道子は、以下のように書き、この憲三の言辞を裏書きします。
事業家、経営者として、憲三がいかにすぐれた資質者であることか。『高群逸枝全集』を出現させてゆく過程をつぶさに見てゆくと『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも隠されているその綿密な企画力、実行力、持続力、全過程への心配り、さらには事後処理の完璧さにおどろく16。
その一方で、上に示している引用文のなかにあって、「あの本は出典をすべて書いてあるのが特徴でしょう」とも、憲三は明言しています。
実際、『大日本女性人名辭書』の「凡例」を見ると、そのひとつに、次のような文字が並んでいますので、紹介します。
一、記述はすべて定説或は通説に従つてなした。定説、通説の外に、根據ある異説はこれを附記するに努めたが、著者の見解等は何れにおいても加へなかつた。而して各項末には、一々、その出典根據を明記した17。
各項末に「その出典根據を明記した」とのことですので、その表示にかかわる具体的事例を見てみます。たとえば、「三十六歌仙」のひとりである「小野小町」の項目の末尾(一一五頁)には、「野史」と明記されています。「野史」は「通説」を表わすものと思われます。他方、最近有島武郎と心中をはかった「波多野あき子」の項目の末尾(四〇八頁)には、「大日本人名辭書」の書名が付されています。『大日本人名辭書』の下巻新版は、一九二六(大正一五)年六月に大日本人名辭書刊行會によって出版されていますので、一九三六(昭和一一)年一〇月発刊の『大日本女性人名辭書』において「波多野あき子」の項目が書かれるに当たっては、この下巻新版の「ハタノ アキコ 波多野あき子」の項目(二〇九五頁)にある記載内容が参照されたものと考えられます。そこから類推しますと、『大日本女性人名辭書』は、先行する『大日本人名辭書』の「女性版」として構想されたものであったにちがいありません。
こうして見てゆきますと、高群逸枝を著者名として、一九三六(昭和一一)年一〇月に厚生閣から出版された『大日本女性人名辭書』は、その書式において、先行類似図書である『大日本人名辭書』におおかた倣い、これまで事典や全集の編集に携わっていた憲三が、平凡社での実務経験を生かし、『大日本女性史 母系制の研究』のために逸枝が作製していた女性人名カードを辞書にふさわしく校合整理するとともに、逸枝のカードにみられた冗漫な項目の内容については要約し、不足している項目に関しては新たに捕捉し、こうして最終的に、形を成していったものと思われます。
その大半の原稿が憲三の手によってまとめられた『大日本女性人名辭書』が厚生閣により上梓されたのは、『大日本女性史 母系制の研究』(厚生閣、一九三八年)の出版に先立つ、一九三六(昭和一一)年の一〇月のことでした。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。
しかし、それから九〇年が経過した安全なこの時点に立って、いまこの本を眺めてみますと、明らかに違和感が残ります。一点は、生没年が、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法(つまり皇紀)によって表記されていることです。たとえば、アナーキストの「伊藤野枝」の場合は「二五五五-二五八三」、編集者の「波多野あき子」の生没年は「二五五四-二五八三」といった具合です。
もう一点は、憲三に対する逸枝の距離感です。
巻末の「跋」は、「黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません」18という謝辞ではじまります。ここにいう「家主の庇護、指導」の語句のなかの「庇護、指導」の具体的内容は、上に述べたとおりのものであったと考えられますが、注目すべきは、夫の憲三のことを「家主」と呼んでいることです。逸枝は、『婦人戦線』に「家庭をケトバス」を書き、妻は夫の所有物でないことを謳い上げていました。その論点からすれば、「家主」という用語法は適切ではなく、ここに、不自然さを感じないわけにはゆきません。であれば、もはやここに至って逸枝は、完全にアナーキズム的思考を放棄したと考えてもいいのかもしれません。あるいは、「しらたま乙女」の唯心論に舞い戻ってしまったと考えることもできるかもしれません。
どうやら、「森の家」での新生活以降、逸枝に「変節」が生じたようです。『婦人戦線』の「綱領」のひとつが、「われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。標語 男性清算!」19であったことを想起するならば、「男性清算」という標語と「家主」という表記とのあいだには、歴然とした溝が認められます。しかしながら、そうした「男性清算」にかかわる逸枝の思いは、もはや過去のものであり、いまや敬愛すべき憲三が「家主」の座についていることが、そうした呼称の使用例から明らかになるのです。単に時局にあわせた仮の姿として「良妻賢母」を演じて見せているとも考えられますし、その一方で、夫に対する逸枝の真なる思いがそこには表現されていたものとも推量されます。また、それと同時に、これらのふたつの思いが逸枝の内にあっておそらく混在していたのではないかという推論も、決して排除することはできません。
『大日本女性人名辭書』の「跋」は次の語句で結ばれました。
なほ此書の甚だ不備である事に就きましては、今後の補正のため大方の皆様の御示教、御援助を得たく、それと供に前記「大日本女性史」も第一巻として「日本母系制の研究」を支障なき限り近く脱稿の筈で御座いますゆゑ、これが刊行の上は何卒御併讀たまわらんことをも、序でを以て御願ひ申上げて置く次第で御座います20。
ここに、「母系制の研究」の発刊がまぢかいことが予告されています。この予告は、女である自分たちの出自と来歴とを「歴史学」というかたちにおいてはじめて知ることになる胸躍る予感を、多くの女性たちに与えたにちがいありません。すでに、一九三一(昭和六)年に『婦人戦線』は廃刊となり、翌一九三二(昭和七)年には『女人藝術』も同じく廃刊となっていました。かつての「プロ派」と「ブル派」の対立も、「アナ派」と「ボル派」の抗争もおおかた姿を消していました。ここに、婦人解放運動にかかわる女性たちが一様に手を結び、ひとつになって立ち上がる時代的な契機が潜んでいたように思われます。つまり、対立や抗争の焦点が、時局により失われていたのです。
そうしたことを背景として、「高群逸枝著作後援会」が発足しました。呼びかけたのは、平塚らいてうと『東京朝日新聞』の竹中繁子でした。逸枝は、こう書きます。「この会は事務所を竹中さんのところに置き寄付および著作の普及等を目的として昭和十二年一月に発足し、その後私はすくなからぬ便宜をあたえられることになったのだった」21。
「後援会」発足から一年半後に発刊された『大日本女性史 母系制の研究』の「跋」のなかに、呼びかけに応じ、発起人となった六五名の名前が挙げられています。そのなかには、次のような女性たちが含まれていました。市川房枝、生田花世、今井邦子、原信子、長谷川時雨、新妻伊都子、富本一枝、岡田禎子、奥むめお、金子茂、神近市子、吉岡彌生、竹中繁、竹内茂代、野上彌生子、窪川稲子、山川菊榮、丸岡秀子、松田解子、深尾須磨子、藤田たき、圓地文子、佐藤俊子、平林たい子、平塚明、守屋東。一方、男性としては、徳富猪一郎、志垣寛、島中雄三、島中雄作、下中彌三郎、白井喬二をはじめとする諸氏の名が、挙がっています。
この「高群逸枝著作後援会」からの支援金と『大日本女性人名辭書』からの印税収入とが追い風となって、憲三と逸枝の夫婦は何とか苦境を脱しました。それは、「森の家」での生活が安定することだけでなく、逸枝の女性史研究の第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』がいよいよ完成へと向かうことをも意味しました。
「森の家」において研究生活に入ったころを回顧して、逸枝は、以下のように書いています。
この家に移り住んだ昭和六年ごろから、満州事変、犬養首相暗殺、労働者、社会主義者、学者の受難が相ついでいて、日本は反動亡国への道を一気に突き進みつつあったが、この事件[二・二六事件]で、それはもはや決定的なものとなった。 私はこのような祖国の危機、恩師の物故、Kの失業等を苦難の序幕としながらも、自分に与えられた女性史学樹立への一途を是が非でも進まねばならない、せっぱつまった境遇に置かれた22。
一方、執筆当時、「母系制」について逸枝は、このように考えていました。
母系制度というのは、家系が母方によって相続される制度で、原始社会が母系であったか父系であったかについては、久しく論議されたところであるが、こんにちでは母系説が学会で有力とみられている。マグレナン、モルガン等の説では、古代の雑婚時代には、人は母あることを知っても父あることは知らない。これが母系の淵源であるというのである。……そこで問題は、わが日本に母系制度の時代があったか否かということである。このことはこれまで男性史家の研究の手がまだまわりかねていて、女性史家のために未開拓のまま残されている処女地である23。
母系制を明確化する手立ては、どのように親から子へ継承がなされたか、その系譜を明らかにする研究と、婚姻がどのような制度として成り立っていたのか、その仕組みを明らかにする研究とから成り立つというのが、逸枝の考えるところでした。逸枝は、女性史研究の全構想(全五巻)のうち、第一巻の「母系制の研究」において日本における原始母系制の存在を発掘し、続く第二巻の「招婿婚の研究」において、そこにおける婚姻制の実態を解明しようとしたのでした。もしそのことが、明確化されることになれば、日本の国家の成り立ちとその後の中央統制には、逸枝の言葉を借りれば、「女性の秘められた犠牲と奉仕」とが、その基盤として存在していたことになります。逸枝は、この自らが構築した仮説を自らの手で実証すべく、まずは初手として「母系制の研究」へと入ってゆくのでした。
逸枝は、研究の過程にあって、本人の言葉によれば、「天啓」に遭遇します。それは、古代系譜に残る多祖現象の発見でした。逸枝は、天からの啓示である「一瞬のひらめき」について、このように、回顧しています。
一瞬のひらめき――原始の母系共同体の女たちのもとに、招婿婚で他から男たちが妻問いして、そこに、多くの子が生まれて育ったとなると、その母系共同体には、同時に、またはつぎつぎに多くの他氏の子孫が生まれそだち、一方において父系認識がたかまってくると、氏称には固有母系を名乗りながら、父系である招婿出自によって多祖現象をおこすのであり、それは母系共同体解体の過程をあらわしているものではないかとする考えであった24。
こうして「母系制の研究」の核心部分が生み出されたのでした。
しかしその一方で、「高群逸枝著作後援会」からの温かい支援の手とは逆に、別の手が背後に存在し、強大な暗雲となって立ち込めていたのでした。一九三八(昭和一三)年四月一〇日の日記に、こう記されています。
昨日、特高検閲からの出頭通知書を駐在お巡りさん伝達。きょうKが代わって世田谷警察署を訪ねると、警視庁の著述家調査ということで、代人ではいけないということだったが、Kは当人は外出不可能だといい、けっきょく用件をすまして帰ってきたという。 これは学問、思想弾圧の深刻化を意味するものだろう。 この夜おそく、『母系制の研究』脱稿。表題を加えて千二百枚か25。
それから二箇月後の一九三八(昭和一三)年六月に、『大日本女性史 母系制の研究』が、前書の『大日本女性人名辭書』と同じ書肆の厚生閣から世に出ました。副題の「母系制の研究」の背表紙の文字は、あたかも人目を避けるかのように、目立たぬ小さな文字で組まれていました。
この著作も、前書と同じく、六四九頁に及ぶ浩瀚なものでした。逸枝は、「例言」のなかで、研究の方法、本書の構成、および研究の意義について述べます。ここに、その核心部分を抜き出してみます。
私の研究は、古文献に埋蔵されたる母系的遺産を發掘組織化し、これを系譜と婚姻の両面より観察したものである。……私の取つた方法は、これを(一)多祖の研究、(二)複氏の研究、(三)諸姓の研究、(四)賜氏姓の研究に大別し得るが、一言に要約すれば、すべてを多祖説とすることもできる。この多祖説こそ、私が學界に問はんとするものである。……この研究は、次の三つの意義を含んでゐる。其一は、上代における家族制の問題であり、他の一は、母系的遺習が國家の中央統制として、之を比較的平和裡に進捗せしめた隠れたる要因をなしてゐる事實である。……このことは第三に、わが國民の血の歸一を物語るものである。女性史の第一歩において、すでに母系の犠牲と支持による國家の統制乃至一家族化といふ必然の結論に達した私は、以後の發展においても恐くは女性の秘められた犠牲と奉仕との絶大なる貢献を顕彰することが出來るであらう26。
ここに言及されている「多祖説」と「わが國民の血の歸一」とが、本書の主要な結論に相当します。この本は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」も、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」、そして「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられています。「第三章 吾等の収穫」のなかで、逸枝は、第一節で「多祖説」を、そして第二節で「血の歸一」を語ります。「血の歸一」について、その一部を引用して、以下に示します。逸枝の『大日本女性史 母系制の研究』の結論部分として、最も重要な箇所であると思われます。
此世のこと皆正し、母系より父系への推移は黨然の發展である。母系は保守的排他的な血族團體であり、父系は進歩的抱擁的婚姻團體である。社會の推移はすべて此線に沿つて流れるであらう。 ここに吾等は、偉大なる日本父系の進歩的態度――凡ゆる異族、蠻民等と進んで婚姻し、彼らを完全に自系下に結合し、國作り、氏作り、部作りをなしたこと、或いはまた、なさざるを得ない天與の事情にあつたことを限りなく喜ぶものである。 (中略) 氏姓の進化は云ひかへれば系譜の一姓化である。我國ではいかなる異族も歸化人も、その母系の犠牲と支持によつて系譜的に、明文的に、相率ゐて皇別化し、神別すを得た。すなはち、一姓化への方向に促進せられた。次に血の純化は前に述べた血の歸一をいふ。 これを要するに、系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもつて、吾等の収穫の最後のものとする27。
『大日本女性史 母系制の研究』の序文は、逸枝にとって同郷人であり、「皇室中心以外には一億一心の団結はあり得ないとする信念」28をもつ徳富蘇峰の手にゆだねられました。逸枝は回顧します。「徳富蘇峰の序文が、私の『母系制の研究』を発禁から護ってくれたことは疑いなかった」29。思いもよらず、結果的に「護ってくれた」のか、そうではなく、そうなることを期待して執筆の依頼が徳富になされたのか、これもまた、検討の余地を今後に残す論点ではないかと思料するところです。
一方、巻末には、「紹介辭」が収録されました。これは、「高群逸枝著作後援会」作成の近刊案内にかかわる印刷物に寄せられていた推薦文を再録したものでした。執筆したのは、麻生正藏、市川房枝、尾崎行雄、金子しげり、下田次郎、下中彌三郎、高嶋米峰、竹内茂代、竹田菊、新妻伊都子、福島四郎、三木清、吉岡彌生、らいてうの各氏でした。
そのなかのひとりである下中彌三郎は、以下の引用のとおりに書いています。かつて平凡社時代に下中は、逸枝の長編詩『東京は熱病にかゝつてゐる』に、「讀んで下さい――序に代へて」を寄稿しており、逸枝にとっても、また、平凡社での勤務歴のある夫の憲三にとっても、下中とは旧知の間柄でした。
高群さんを私はよく知つている。……不遇なる民間學徒の例に洩れず、貧しい中から研鑽を積まれるのは、想像以上に骨が折れることと思ふ。 此人の潑刺たる祖國認識と祖国愛は、かつての長篇詩や論文の何れの部分にも脈搏つてをる。高群さんが、日本女性史を作ることは黨然である30。
哲学者である三木清の文は、このようなものでした。
久しく待望されてゐた日本女性史が愈々世に出ることになつたのは悦ばしい。これは日本の一女性が日本の全女性のために建てる記念碑である。 殊にその第一巻は母系制といふ最も興味深いテーマを取扱ひ、學界の宿題に解答を與へてゐる。 家族制度は今日思想上においても重要な問題になつてゐるのであるが、この篤學な著者の多年の苦心の研究に成る業績は凡ての人によつて顧みられねればならぬものと信ずる31。
のちに逸枝は、唯一この三木の推薦文を、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」のなかにおいて全文引用し、紹介することになります。晩年に至るまでこの一文は、逸枝のこころを支えていたものと思われます。
らいてうも、以下のような、全身から湧き出る讃美の言葉を、「畏友、高群逸枝」へ贈ります。
畏友、高群逸枝女史、久しき以前より我が國に眞の女性史なきを慨嘆し、昭和五年、大發願を起し、爾來その研究、編纂に全生活を没入し、獨力、奮勵、今日に至つたことは、すでに世に知られてゐます。一昨年、女性史に先立ち、その副産物「大日本女性人名辭書」を上梓、朝野を驚嘆させましたが、今回いよいよ、その本願である女性史、第一巻、出版の運びとなりましたことは、慶賀の極みで、女史を知り、女史の胸中を察しうるわたくしは、まことに感慨無量、言うべき辭を見出しません。 女性自身、女性の立場から書いた女性史が、いかに意義あるものであるか、今更言ふまでもありませんが、特に女性の中の女性、高群女史その人によつて書かれたことを一層のよろこびとし、こゝに二重の意義を見出すものであります32。
らいてうは、これに続く、「早く、早く本の顔を見たく、その日が待たれます」の一語でもって、自身の「紹介辭」を結ぶのでした。この本が手もとに届くや、すぐにも目を通したことでしょう。そしておそらく、らいてうの頬には、感涙が伝わったにちがいありません。以下は、短いながらも、らいてうによる回想の一節です。
高群さんのこの研究[「母系制の研究」「招婿婚の研究」その他]によって、明治四四年「青鞜」の創刊に際して、わたくしの内部から噴きこぼれるようにして叫ばれた「元始、女性は太陽であった」という言葉に学問的な実証が与えられることになったのです33。
『大日本女性史 母系制の研究』は、あくまで学術の書として書かれたものです。しかも、いまだ日本でなされることのなかった研究内容であるだけに、逸枝にとっては、学会からの反応が気になるところであったものと思われます。逸枝は、この研究を発表することによって、まさしく具体的に、学術世界と接点を結ぶようになりました。こう逸枝は書いています。
私はこの書の刊行によって、いわば直接的な若干の知己を恵まれることになった。穂積重遠博士(東大教授)、太田亮教授(立命館大)、柳田国男さん(民俗学)、喜田貞吉博士(東北大・京大)、穂積先生の紹介による、中川善之助教授(東北大)等がそれであり、ほかにも高島米峰(後の東洋大学長)、麻生正蔵(前日本女大校長)、相馬黒光(中村屋マダム)、尾崎行雄さん等の知遇をも受けることになった34。
しかしながら、逸枝の研究には、喜田、太田、柳田らの学説や見解にとって相容れない部分が含まれていました。逸枝は、個々の学者について、以下のように書き記しています。
当初喜田貞吉は、本書を『歴史地理』に紹介する意向を示しながらも、それが実現しなかったのは、「私の招婿出自説……に対して、仮冒説を主旨とされる喜田博士が困惑されたからではないか」35と、逸枝は推測しています。太田亮については、「単純に父系の視点から古系譜を解釈している」36太田の研究と本書とのあいだには、対立する点が多くあったことを認めています。逸枝は、こう振り返ります。
これらのことは後進学徒として避けがたいことで、とくに未開拓の女性史学の視点から当然従来のあらゆる学説を破って独自の学説を樹立せねばならない必至的な宿命にある以上、諸先輩の学恩は学恩としても、自説は率直に表明されねばならない。幸いに喜田さんも、太田さんも、最後まで私の研究に好意を寄せられたことは感謝にたえない37。
それでは、柳田国男については、どうだったのでしょうか。逸枝は、このときの柳田から送らてれきた手紙を紹介します。「あなたのような筆の力の大きい方に近世日本女性の辛苦を世に紹介していただきたい希望は切です。私のもつ資料は何でも利用に供します」38。しかし、招婿婚(しょうせいこん)に関する資料の問い合わせについての柳田からの回答は、「招婿婚という語は私は賛成しません。私の『聟入考』をご覧になりましたらこのなかに私の意見かたっています」39というものでした。
ここで柳田がいっている「聟入考」とは、『母系制の研究』の刊行からさかのぼること九年前の一九二九(昭和四)年に岡書院から上梓されていた『三宅博士古希祝賀記念論文集』に所収されていた柳田の論文「聟入考――史學對民族學の一課題――」を指します。「聟(せい)は「婿」の俗字です。「むこ」や「むすめの夫」を意味します。したがいまして、「聟入」は、聟に入る男性を主体とした用語で、「招婿」は、婿を招く女性を主体とした用語になります。立場が異なります。それについて、逸枝は、こう述べています。
お手紙のなかに、招婿婚の語に賛成できないとあるのは、柳田さんの母系制や母系婚を否定する考えかたから出ているもので、それは私とは根本的に異なる見解だった。だから後に私は『招婿婚の研究』で柳田学説を批判することになるが、これも学者としての私にとってはやむを得ないことだった40。
他方で逸枝は、当時の民法の概念を穂積重遠の著書『親族法』から学び、穂積が紹介した中川善之助からも、家族についての法制度にかかわって多くを学びました。
こうして、在野研究者、あるいは独立研究者としての見事なデビューを果たすと、逸枝は、次の第二巻「招婿婚の研究」に着手します。そこには、膨大な資料が横たわっていました。
第一に江戸期以前の全文献を対象とし、第二に考古、民俗、法制その他の隣接諸学から先人の報告等を対象とするものだった。その蒐集と消化が先決だった41。
そこで逸枝は、「以前からのやりかたに、さらに鉄のたがをはめた。自分に鉄の規律を課したのである。労働時間は一日平均十時間をくだらないこと。面会は原則として謝絶することが再確認された」42。かくして逸枝は、「鉄の規律」で身を固め、次の目標である「招婿婚の研究」の完成に向けて再出発するのでした。
その一方で、「森の家」の外に耳を向けると、自由や学問から大きくかけ離れた、そして、逸枝の幻の本の題名であった「強権に抗す」ことなどもはや許されない、軍靴の轟音がありました。こうして、『大日本女性史 母系制の研究』の再版が一九四一(昭和一六)年七月に世に出て五箇月が立った一二月、日本はアジア・太平洋戦争へ突入するのでした。
(1)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、113頁。
(2)同『戀愛創生』、278-279頁。
(3)同『戀愛創生』、44-45頁。
(4)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、239頁。
(5)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、242頁。
(6)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、244頁。
(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、244-245頁。
(8)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、9-10頁。
(9)同『愛と孤独と』、9-10頁。
(10)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、1-2頁。
(11)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、248頁。
(12)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。
(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、256-257頁。
(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、257頁。
(15)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、245頁。
(16)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、356頁。初出は、石牟礼道子「『最後の人』覚え書き(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、52頁。 しかし、本文に使用しています『最後の人 詩人高群逸枝』からの引用文のなかの「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも」という字句は、対応する初出にはありません。のちに加筆挿入されたものと思われます。
(17)高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「凡例」の1頁。
(18)同『大日本女性人名辭書』、「跋」の1頁。
(19)『婦人戦線』第1巻第1号、婦人戦線社、1930年、4頁。
(20)前掲『大日本女性人名辭書』、「跋」の4頁。
(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、261頁。
(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、259頁。
(23)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、263頁。
(24)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、251頁。
(25)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、271頁。
(26)前掲『大日本女性史 母系制の研究』、2-3頁。
(27)同『大日本女性史 母系制の研究』、637-638頁。
(28)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、275頁。
(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(30)前掲『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の4頁。
(31)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の8頁。
(32)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の10頁。
(33)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、309-310頁。
(34)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、277頁。
(35)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、279頁。
(36)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(37)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、279-280頁。
(38)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、280頁。
(39)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(40)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(41)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、281頁。
(42)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、281-282頁。