中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第七部 『婦人戦線』の刊行と「最大の夫婦の危機」

第一八章 「最大の夫婦の危機」と「フェミニスト憲三」の誕生

『女人藝術』における「アナ・ボル論争」に見られたように、詩編を含む逸枝のアナーキズム論は、超現実的で夢想的で、非論理的なものとして、とりわけ「科学的社会主義」の立場に立つ論者から強い非難を浴びました。あるいは、一笑にふされることも、しばしばありました。逸枝は、自分の著書について、このように論じます。

大正一〇[年]に生田長江の推せんで「新小説」に自叙伝的長篇詩「日月の上に」を発表し、ついで「放浪者の詩」、関東震災直前の陰鬱な時代相をえがいた長篇叙事詩「東京は熱病にかかっている」を出していた。いずれも自己に忠実な作風のものであって、またそれらは、山川菊栄がらいてうの「青鞜」を嘲笑していったいわゆる空想主義やセンチメンタル性が、もっとも極端につきつめられ、謳歌された、あるいは投げ出され、それらを通じて生きる道を知ろうとしていた必死的な身がまえをもった作品だったといえる

逸枝の一連の詩編は、蔵原惟人たちが主張していたプロレタリア文学と全く異なっていました。プロレタリア文学が、プロレタリア・イデオロギーのプロパガンダとして、主として小説という形式によって階級闘争の実相を描こうとするのに反して、逸枝の文学は、あたかもその昔の野生の小鳥の美しいさえずりに似て、自身の生まれながらの言葉を誰に遠慮することもなく大声で発する詩歌の形式のなかに誕生しました。つまりこの文学は、理論の宣伝手段でも、理屈の強制支配でもなく、独り自身の解放を奏でる歌声だったのです。しかし、それに共鳴した女性たちが少なからずいました。すでに書いていますように、そのひとりが、平塚らいてうでした。逸枝は、自分を客体化した表現を使って、こういいます。

らいてうは、こうした逸枝を東京の片隅で発見し、ある面での自己の後継者とみなしたのである。ただ、らいてうと逸枝とのちがいは、前者が高等教育をうけた高級官吏のお嬢さんであったのにたいして、後者はほとんど無教育といっていい山間の農家出身の貧しい小学教師の娘でしかなかった点であった

一方のらいてうは、逸枝についてこう書きます。

 ともあれ、門外不出の研究生活に精進される高群さんとの文通は、そののちも折にふれて続けられ、「無性に好きなひと」として、高群さんの存在はいつもわたくしの心から消えることはないのでした

すでに指摘していますように、らいてうと逸枝の相互には、深い友愛が形成されてゆきました。それは終生続くことになります。

これも、すでに論じましたように、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織するという道を開きました。一九三〇(昭和五)年一月二六日、無産婦人芸術連盟の創設に向けて結集したのは、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の計一四名でした。続いて三月一日に、逸枝を主宰者とする『婦人戦線』が産声を上げます。こうして「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここに誕生したのでした。

『婦人戦線』は、蔵原惟人らが唱導するマルクス主義系の雑誌である『戦旗』などに対抗する、当時におけるアナーキズム系の機関誌でした。逸枝は、こう振り返ります。

 『婦人戦線』は……当時のボル系の『戦旗』や『文芸戦線』等のはなやかさにくらべると、明治末年の大逆事件、大正十一年の労働組合総連合創立大会事件、震災直後の甘粕事件等以来、不運の過程をたどりつつあったアナ系のものとしてははなはだ微力なものだったが、時代を語る歴史的存在としては記憶されてよいものだろう

それと同時に『婦人戦線』は、らいてうが「婦人戦線に参加して」(『婦人戦線』第二号)において述べているように、『青鞜』を引き継ぐものでもありました。逸枝は、『青鞜』と『女人藝術』を比較して、こう回顧します。

 明治末創刊の「青鞜」と昭和四年発刊の「女人芸術」とをくらべると、時代色のちがいがはっきりする。前者にはもゆる情熱と理想へのあこがれがあり、後者にはニヒリズムやナンセンス、エロ、メカニズムが混在し、中心的性格がみとめられない

『婦人戦線』は月刊の雑誌で、各号それぞれに主題が設定されていました。この雑誌の編集上の輪郭を把握するために、以下に、創刊から廃刊までの通巻一六号の主題と、加えて逸枝自身の主な掲載文のタイトルを一覧にします。


□一九三〇(昭和五)年
三月号(第一巻第一号)主題「創刊宣言」/高群「婦人戦線にたつ」
四月号(第一巻第二号)主題「家庭否定」/高群「家庭否定論」
五月号(第一巻第三号)主題「戦闘小説」/高群「女闘士殺さる(戯曲)」
六月号(第一巻第四号)主題「ブル・マル男をうつ」/高群「無政府主義の目標と戦術」
七月号(第一巻第五号)主題「性の処理」/高群「無政府主義と性の処理」
八月号(第一巻第六号)主題「女流糾弾」/高群「生田花世さんに私信がはり」
九月号(第一巻第七号)主題「無政府孌愛」/高群「無政府孌愛を描く」
一〇月号(第一巻第八号)主題「都會否定」/高群「美人論(都會否定論の一)」
一一月号(第一巻第九号)主題「無政府道徳」/高群「階級道徳と無政府道徳」
一二月号(第一巻第一〇号)主題「無政府自傳」/高群「高群逸枝」

□一九三一(昭和六)年
一月号(第二巻第一号)主題「我等の婦人運動」/高群「我等の婦人運動」
二月号(第二巻第二号)主題「性の経済」/高群「新無政府主義問答(八)」
三月号(第二巻第三号)主題「一周年記念號」/高群「婦人戦線一年 婦人思想史」
四月号(第二巻第四号)主題なし/高群「随筆・夜を行く」
五月号(第二巻第五号)主題「男性物色」/高群「孌愛と性慾」
六月号(第二巻第六号)主題なし/高群「みぢめな白百合花の話」
 

これ以外に逸枝は、「吠えろ女性」を第一巻第四号から第二巻第一号までと、第二巻第四号に連載しています。これは、松井須磨子の人生を題材にした長編叙事詩で、第一章が「序曲」で、最後の第十六章の表題が「妻」です。そこから判断しますと、「吠えろ女性」は、連載誌廃刊に伴う未完の作品となった可能性もあります。

また、第一巻第六号の巻末や第一巻第八号の巻頭を見ますと、解放社から出版予定の高群逸枝著『強権に抗す』の広告が掲載されています。そのなかに「内容目次」が紹介されており、第一篇「無政府主義の思想と實行」、第二篇「無政府主義者宣言」、第三篇「無政府原理考」となっています。その説明によると、既発表の雑誌論文等を集めて一著に編集されたもののようで、この本は『黒い女』の姉妹編として位置づけられていました。広告の文面には、次のような文字が踊ります。

 全人類を、民衆を、労働者農民を、婦人を、眞に開放し眞に導く思想は何か、無政府主義である!……醜怪なる強権マルキシズムの没落は既に時間の問題となり終わり、今や全民衆の認識と創造力はアナーキズムにおいて偉大なる飛躍を準備しつゝある時、我等いかに生くべきか? 何を為すべきか? 本書は強くそれに應ゆるであらう。

しかし、この本については、調べた限りでは国立国会図書館にも所蔵がありませんので、出版されることなくお蔵入りしたのではないかと思われます。当局によって「発禁」が命じられた可能性も否定できませんが、他方で、著者の側に何か個人的な問題が生じ、それにより原稿が取り下げられたことも考えられます。といいますのも、この時期逸枝は、「最大の夫婦の危機」に向かおうとしていたからです。憶測するに、そのような事情が背後にあったためなのでしょうか、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」において、逸枝自身、この本については何も言及しておらず、いまになっては、その出版事情は闇に閉ざされたままとなっています。しかし、『強権に抗す』という書題、それに加えて、広告に示された「内容目次」から判断しますと、労働者に対する資本家の、農民に対する地主の、婦人に対する男性の、その強権と抑圧とを糾弾し、そこからの真の解放を目指して、マルキシズムに備わる強権的専制主義を排除する一方で、アナーキズムの絶対自由の思想内容が述べられていたものと思われ、『婦人戦線』の路線を強く背後で支える読み物となることが想定されていたにちがいありません。

もっとも、『婦人戦線』の刊行継続には、幾多の問題が横たわっていました。

『婦人戦線』は、逸枝が思い描く「ユートピア」を発信する拠点となるものでした。しかし、その一方で、この拠点が置かれた憲三と逸枝の夫婦が住む「上荻窪二六九」の自宅には、さまざまな人が吸い寄せられてきました。逸枝が回顧するところによれば、「筋ちがいの個人や団体の寄付勧誘者もあれば、家出した娘や妻、身の上相談の母や夫たちもくる。むろん、特高や憲兵も。……それに私は『婦人戦線』には別名、匿名までつかって四、五種の原稿を書かなければならない。それらの過労が編集の上にも影響をしないはずはなく、雑誌は生気を失ってきた」

そのころのことです、もともとは夫の憲三の主導ではじまった雑誌の刊行であったにもかかわらず、その夫が、消極的な態度を見せ始めます。なぜだったのでしょうか。アナーキズムに対する熱情が冷めてしまったという精神的変容が底辺に存在していたことは明らかであるとしましても、それに関連した具体的な要因も幾つか考えられそうです。たとえば、解放社に支払う負担金が重荷になっていたのではないか、特高や憲兵による連行を避けようとしたのではないか、あるいは、当初志していた女性史研究の道に妻を連れ戻そうとしたのではないか、はたまた、夫婦のあいだに表に出すことがはばかられるような逸枝の恋愛問題が発生し、そのことへの対応が迫られていたのではないか――おそらくは、何かひとつの要因によってというよりも、むしろ複合的な要因が絡み合って、そのときの憲三の内なる思いは形成されていたのではなかろうかと推量されます。ここに、「最大の夫婦の危機」が到来したのでした。逸枝は、このように記述します。

『婦人戦線』は年を越したころから売れ行きががた落ちして、解放社から負担金を要求されるようになったが、私がKと真剣に話し合ったのがちょうどこのときで、私の苦悩は倍加したが、それでも責任をさける考えはなく、あらゆる方法で負担金をつくって命脈を保とうと努力した

『婦人戦線』の刊行を断念することは、この夫婦にとって、分裂を回避し、夫婦の関係を何とか持続させるうえでの、残された唯一の道でした。その選択肢が、ふたりのなかでどう形づくられていったのか、以下は、それについてのひとつの素描ということになります。

このころ逸枝は、『婦人戦線』の月例研究会や、他組織との合同研究会等にしばしば出席していました。それは彼女にとって大いに裨益するものでした。しかしながら、それに対して夫が示した態度は、実に冷淡なものでした。それでは、妻の言葉に耳を傾けたいと思います。

 こうして私には研究集団も革命運動の一環たるべきことがようやく切実に自覚されてきた。私は革命者でなければならなかった。ところが私がこの転機に直面し、いわばウルトラの自分に良心の呵責を感ずるようになってくるにつれて、それと反比例してKの興味は去っていくようだった。私は彼をともに会合に出るように誘ったが、彼は、
「ひとりで行きなさい」
 と突き放した

なぜ憲三は、会合への出席に対して後ろ向きの態度をとったのでしょうか。その理由については、逸枝は直接何も明確に述べていませんが、その結果がどのようなことをもたらすかについては、十分に理解できていたようです。

 こうなると彼が冷酷であることはかつて城内校で経験ずみだった。しかし城内校の場合は繊月城跡とか球磨川探訪等の問題にすぎなかったが、こんどはそれとちがい、私がひとりで私の目ざすコースをとることは、きょくたんにいえば彼と私とが、敵味方に分裂することだった。ここにきて私は最大の夫婦の危機感にさえ、見舞われる思いだった

「敵味方に分裂する」という言葉に着目すれば、「最大の夫婦の危機」とは、逸枝は、革命者であることを強く望み、一方の夫の憲三は、それへの情熱がすでに薄れ、日和見主義者へと後退した結果、そのことによってもたらされるであろう、夫婦間の亀裂ということになるのではないでしょうか。こうして、ここに来て、アナーキズムに対する親密度の差が「最大の夫婦の危機」をもたらしたのでした。夫婦それぞれに言い分はあるでしょう。逸枝は、両者の言い分を、このようにまとめています。少し長くなりますが、この時期のふたりの立場をよりよく理解するうえで必要かと思われますので、以下にその箇所の全文を引用します。まず、自身の言い分について――。

 私は最初から集団を組織する確信も、ましてその集団の主宰者となる自信もなかったが、それらのことをむしろ強くすすめたのはKではなかったか。それだのにKが途中で外れて私をひとりにすることは無責任ではないか。これが他のことなら私はこれまでやってきたようにKに曲従するだろう。しかし、この場合はそうした私的問題ではない。すでに引き受けたときに私の態度は決定している。私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならないというのが、私のいい分だった10

次に、夫の言い分について――。

 彼のいい分は、彼は私に女性史研究をすすめておきながら、いっぽう偶然のことで『婦人戦線』を持ち込んで、こんな手違いになったことをあやまりたい。けれど前から懸案の研究所の場所も世田ケ谷に物色中であるから、彼はそのほうを押し進めることにしよう。研究と運動とが両立しないわけでもなかろうというのだった11

このように、『婦人戦線』と女性史研究を巡って、ふたりの見解が対立します。それぞれがそれぞれの立場を強く主張し譲らなければ、「最大の夫婦の危機」は現実のものとなり、夫婦の関係は崩壊します。そこで、逸枝が書くところによれば、「研究生活に入る前に私とKとはつぎのような話し合いをした」12のでした。どのような「話し合い」をしたのでしょうか。以下は、それについてのひとつの素描です。

夫は妻に、このようなことを伝えます。

……そのくるしみのためによそ目には逆上して支離滅裂にさえなり手のつけようもなくなったようなあなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの全面的に人をはっとさせる野性的な美貌――これらの抑圧されていたものが一時に輝き出たことはまさに驚嘆すべき現象だったと思う。……どんなことをしてもあなたを手ばなしたくなかったのです。しかし馴れてくると、あなたがやはり従順なので、私もまた持ちまえの独裁者になったようだった。……もう私たちも三十歳をいくつか越した。ここらで根性をすえてかからねばならない。……私はあなたのもっとよい後援者になろうと思うのだ。……社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する13

すると、かつての「独裁者」から変容したこの夫の言葉に、妻は「感謝のあまりいつものくせで泣いてしまった」14のでした。そして妻は、こう応じます。

 でも私には長所なんてものはないの。だから長所をもって貢献するという自信もないの。ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。これはもちろん一種のエゴイズムでしょう。……名声も収入もなく、だからただ貧困と病苦とだけが伴う。……それは、こんな私をただ一人で保護してくださるあなたをまでもたぶんまきこんでしまうことになるでしょう15

それに対して夫は、「いいよ、二人でやろう」16といって、笑ってうなずくのでした。

実に仲睦ましい会話内容です。かくして、「最大の夫婦の危機」はこれで消滅し、新しい夫婦の未来像が構築されてゆきました。

このとき憲三は、「私はあなたのもっとよい後援者になろうと思うのだ」といっていますし、一方の逸枝は、「こんな私をただ一人で保護してくださるあなた」といいます。その言辞を踏まえますと、逸枝と憲三のふたりの頭のなかにあっては、逸枝を「学者」ないしは「坑夫」に、憲三をその「後援者」ないしは「保護者」に位置づけ、ここに至って、さらに明確な夫婦の役割分担が描き出されていたものと思料します。

逸枝は、次のごとくに、いいます。

こうして、私は夫のつよい心からのすすめもあって、意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界にはいっていったのであった17

さらに逸枝は、こうも書きます。

 この物すごいエゴイストは興味のない事柄や人物には冷淡だが、決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた。私はいまは遠慮なくそれに依存しようと思った18

逸枝が亡くなったあと、憲三は「森の家」で石牟礼道子とおよそ五箇月間の同居生活をします。そのときの生活の様子を石牟礼道子はノートに書き留めていました。主としてその内容を綴った作品が「最後の人」で、そのなかに、憲三にとっての逸枝像が、こう描写されています。「最後の人」は、その後水俣に帰還した憲三が発行することになる『高群逸枝雑誌』に連載された、逸枝と憲三を扱った評伝です。

 あのひとは、あのひとの心は、人類とともにいつもあって、僕はそれをおもう……彼女はやはり天才者だった……。彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった……19

このように憲三は、妻の逸枝を「天才者」であることを認めているのです。

このふたりの「話し合い」のなかで、憲三は、妻に対する態度を変える必要性に気づかされたものと思われます。それは、それまでの憲三が無自覚のうちに身につけていた伝統的な男性の存在様式に手を加えることでした。晩年に至って憲三は、同居中の道子に、こうささやきます。かつて逸枝は、「家庭をケトバス」という表現を使いましたが、このときの憲三は、「家庭爆破」という言葉を用います。

 ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ。かといって僕たちはとくにボクは、家庭の遺制、つまり男権社会の遺制の中に育ったから、とくにボクはそれをひきずっていたから、一度これを爆破しなければ、女性は、全面的に生れ替ることはできない。それが自分の体験でよくわかるのです20

「家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐる」――これが逸枝の認識でした。しかし、かくして「家庭爆破」により「豚小屋と刑務所」が、その姿を消した以上、それに代わる新しい何らかの空間が再建されなければなりません。それは、どのようなものだったのでしょうか。

それは、逸枝にとっては、憲三の要求を受け入れ、本来的に身に宿していた詩人である部分とアナーキストである部分を振り捨て、それに代わって、しっかりとした婦人解放の自覚のうえに立って、女性史の未出現の書き手としてその王道へと進み入ることであり、憲三にとっては、望むと望まざるとにかかわらず、いつしかしみついてしまっていた「男権社会の遺制」を意識的に振り払い、編集者としての職分をしっかりと自覚したうえで、「天才者」である書き手だけが含み持つ金色の才能を探り当てることだったのではないかと推量されます。

ここでいう「編集者としての職分」とは、出版社との事前の打ち合わせや契約、書き手の書く原稿の整理やとりまとめ、献本や寄贈本の送付、印税収入の管理、原稿用紙やインクなどの購入、図書館での調査、古書店などにおける史料等の発掘と入手、日々送られてくる雑誌や新聞や手紙類の整理整頓といった業務を含みます。その一方で、生活のためには、やむなく、いわゆる「売文」も書かなければならず、そのためには雑誌社や新聞社などとの交渉が欠かせません。そして、さらに重要なことは、日常的に書き手のよき相談相手になり、悩んでいるときなどには、執筆の方向性を与えたり、打開策を示したりする業務も加わるのです。先を読む力に裏打ちされた高度の管理能力が問われる仕事であるといわざるを得ません。まさに、平凡社での経験が生かされる場面です。当然ながら、編集者なくして書き手は存在できませんし、書き手なくして編集者は存在できません。それは、たとえば金魚鉢という空間における金魚と水の関係に似ています。

他方で、前述のとおり、らいてうが観察するところでは、逸枝は、「身ごなし全体がのろいという感じで、靴をはくのもテキパキはけないような人でした」。このことは、身体的にひ弱であったことを表わします。加えて、憲三が道子に語ったところによれば、逸枝は「洗濯がとても下手で、僕の方がずっと上手で……放浪は出来ても商売など出来る筈はない」21女性でした。憲三の役割分担のなかには、編集者としての役割のみならず、家事従事者の役割もまた含まれていたものと思われます。

結論的にいえば、「家庭をケトバス」ことで「家庭爆破」が起こったのちに再建が予定されていた夫婦の関係とは、そのような次元においてはじめて機能する新しい男女の関係だったのではないかと思われます。これが、逸枝が『戀愛創生』で説いた一体主義の原像だったのかもしれません。そしてここに、「フェミニスト橋本憲三」が、本格的に誕生することになるのでした。

これから幕が開く、最少人数によるプロフェッショナルな家内制生産工房には、こうした特殊な力が存在し、作用しはじめようとしていたのです。これが、旧い「家庭」が崩壊し、その後に新たに生まれ出ようとする「職場」における、いわば「職務規定」となるものでした。文学的でもあり、経営学的でもある、この空間的構造を支える原理的力学をふたりは相互に認識することによって、「森の家」で操業を開始するにあたっての「話し合い」は、最終合意へと導かれていったのではないかと、愚考する次第です。

以上を内容とする「話し合い」の結果、『婦人戦線』の継続について「私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならない」という逸枝のひたむきな思いは退けられ、これまでと同じように夫の主張に、否、もはや夫ではなく「後援者」(あるいは「保護者」)としての主張に、逸枝はやむなく、あるいは喜んで、従うことになります。かくして、奥付に名が挙がる「発行兼編集印刷人」たる逸枝の頭を越えて、おそらく憲三の強力な主導のもとに解放社との協議が進められ、『婦人戦線』は廃刊へと至る一方で、同じ版元から出版が予定されていたアナーキズム論集である『強権に抗す』も、同じ運命をたどることになったものと思量されます。

かくして逸枝は、強く意識にあった責任感と使命感を投げ捨てて、一九三一(昭和六)年の六月号を最後に『婦人戦線』の刊行も、「私は革命者でなければならなかった」という熱い思いも放棄するのでした。そして一転して逸枝は、集団的婦人運動に幕を降ろし、婦人問題を考えるうえでの原点にさかのぼるべく「女性の歴史」にかかわる孤高の学術研究へと突き進んでゆくのです。

『女人藝術』が終刊するのが、翌年(一九三二年)で、その次の年(一九三三年)には、プロレタリア文学の旗手と目されていた小林多喜二が官憲の一方的強権により虐殺されます。その意味において、憲三の「編集者」としての、そしてまた「後援者」としての目が、ここにおいて実に「機を見るに敏」に機能し、逸枝の身を救ったといえなくもありません。

この時代の自身の仕事について、逸枝は後年、こう振り返ります。

 上落合から上荻窪にかけてのいわば路地裏時代は私にとっては不毛の時代だった。わずか下落合の閑居での『恋愛創生』と、主として上沼袋で書いた散文詩めいた小説集『黒い女』が心にのこっている。……
 その他には、六年四月に『女教師解放論』(自由社)、同七月に『婦人生活戦線』(宝文館)が出されているが、これらは路地裏時代の雑文集に過ぎないだろう22

逸枝は、この時代を「不毛の時代だった」と回顧します。『婦人公論』や『女人藝術』における論戦も、『婦人戦線』における主義主張も、「学者」(あるいは「坑夫」)としての視点からすれば、逸枝にとっては、実りのない単なるあだ花だったのかもしれません。

他方、「編集者」(あるいは「後援者」)たる憲三にしてみれば、それを自分のふがいなさに帰し、その失地挽回に、新たな生き残りのための道を見出そうとしていたのかもしれません。「僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった」という言葉に、憲三の悔悟の思いがにじみ出ています。

ここで想起すべきは、すでに引用により紹介している、以下の逸枝の言辞でしょう。

私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった。

ここに書かれてあるとおり、「女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった」のです。しかし、明らかに、「私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊」については、「パトロンであり……啓発者だった」憲三の「手違い」であり、逸枝にとっては「番狂わせ」でありました。憲三の後悔は、ここにあったといえます。しかしいまや、「彼の発意または勧告」によって、「女性史への創業」が開幕しようとしているのです。

次も、逸枝の言辞です。

アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる23

このように、アナーキズムの限界について逸枝が語るのは、『女性の歴史』(下巻、大日本雄辯會講談社、一九五八年)においてです。こうした認識にいつ逸枝が到達したのかはわかりませんが、『婦人戦線』を廃刊に持ち込む一方で、逸枝の「女性史への創業」を後援する「保護者」たらんと決意したこのときの憲三の心情が、こうであったのではないかと推量されます。

一方で、憲三が私淑した平凡社の下中彌三郎も、このころから、思想的に右傾化します。時代は、確実に国体主義へと傾き、戦時体制が人びとの生活を縛ってゆきます。『婦人戦線』の発行停止から三箇月後の一九三一(昭和六)年九月に、柳条湖事変が起きると、これよりのち、日本は、いわゆる「一五年戦争」の過酷な道へと突入してゆくのでした。

以上述べてきましたように、かくして「最大の夫婦の危機」は乗り越えられ、逸枝が強く求める「不離の愛」(あるいは「一体化」)は結実し、一方で「フェミニスト憲三」の出現もここに見ることになりました。そして同時に、これを境に、逸枝の「火の国の女の日記」から「曲従」の文字も消えてゆくのでした。

震災後軽部家を出て上落合で借家生活をはじめたのが、一九二四(大正一三)年の二月のはじめでした。それからおよそ七年半の路地裏時代(上落合、東中野、下落合、上沼袋、そして上荻窪)を経て、一九三一(昭和六)年の七月一日、世田谷町満中在家五六二番地に建築した「森の家」に憲三と逸枝は入居し、逸枝は、女性史研究の一歩を踏み出し、一方の憲三は、おおかたの家事を行ない、逸枝の執筆を支える編集の業務に専念することになります。

ヘビの夫婦は仲よく土のなかで暮らしているといいます。憲三と逸枝は、ともに一方の尾を口にくわえ輪となって生きる「双頭の蛇(ウロボロス)」よろしく、世間から隔離されたここ「森の家」に、こうして住み着いたのでした。

逸枝が「森の家」の家において女性史研究に入って六年後の一九三七(昭和一二)年の逸枝の日記から、その一節を以下に引用します。

 憲三午後から白木屋古書店へ。……近頃の私は悪婦の標本ではないかと思う。家事に対する驚くべき怠まん。……
 うちのひとの指導、援助がなかったら、何が私にできよう。私に何の力があるかと思う24

そこには、外出しては古書収集に当たり、家にあっては家事を担う憲三の姿がありました。逸枝は、はっきりと認めています。「うちのひとの指導、援助がなかったら、何が私にできよう。私に何の力があるかと思う」。「曲従」の言葉に隠された被害者意識など、そのかけらも、もはやありません。まさしくここに、日本の前代までにはほとんど見ることがなかった、全く新しい夫婦の関係像が出現しているのです。

こうして、学者である妻と、それを支えるフェミニストの夫――その実践形態が、この「森の家」において新たに誕生したのでした。それ以降ふたりの愛は、さらに一体化を深め、「その日がきたら/最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない/すべてを土に帰そう」という、「両者の不離の愛」の最終的完成形へと邁進してゆくことになります。

(1)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、286頁。

(2)同『女性の歴史』下巻、同頁。

(3)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、310頁。

(4)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、236頁。

(5)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、217頁。

(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237頁。

(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、236-237頁。

(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237頁。

(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(11)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241-242頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。

(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(16)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(17)前掲『愛と孤独と』、10頁。

(18)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。

(19)石牟礼道子「最後の人4 序章 森の家日記(四)」『高群逸枝雑誌』第4号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年7月1日、23頁。

(20)石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、22頁。

(21)石牟礼道子「最後の人 第十一回 第一章 残像2」『高群逸枝雑誌』第23号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年4月1日、28頁。

(22)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237-238頁。

(23)前掲『女性の歴史』下巻、287頁。

(24)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、250頁。