中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

あとがき

橋本憲三の人となりに関して私は、「まえがき」のなかで、最初に、早稲田大学教授の鹿野政直と、妻で女性史家の堀場清子のふたりの言説を取り上げて、紹介しました。

鹿野は、憲三について、編集者として「有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった」と書きました。

堀場もまた、憲三をこう観察しました。「亡妻をたたえ、その業績を顕彰するほかに、なに一つ眼中にない男というものを、私は珍しく眺めた。四十余年の日本の暮らしと、短い外国生活のどちらでも、一度も見たことのない種類の男だった。新しい女はいても、新しい男はいないと、それまで私は思っていた。その考えが、この時変った。やっぱり、それもありうるのだな、と」。

しかしながら、これ以降の、憲三に向けられた女性史研究者からの言辞は、実に辛辣な人格批判となって現われました。

たとえば、もろさわようこは、憲三をこのように形容しました。「憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、婦選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった」。これは明らかに、障害者差別的な、また同時に、外見差別的な表現です。

一方、逸枝は「史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまった」とする栗原弘の言説を踏襲し、その妻である栗原葉子は、次のような言葉でもって、憲三を「共犯者」に仕立て上げました。「こうした逸枝の『意思的誤謬』を、夫の憲三が知らなかったということがありうるだろうか。……これを知らなかったという方が不自然である。否、それどころか、憲三は隅から隅まで知り尽くしていたのであった。……あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理であるとするならば、憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである」。

さらにその後も、罵詈雑言が憲三へ浴びせられます。以下は、山下悦子の言葉です。「女性の人権が語られ、ドメスティックバイオレンスやモラルハラスメント、セクシャルハラスメントが問題視される今の時代であれば、高群の『日記』に描かれた記述や、橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動はかなり問題であるように思う。少なくとも女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう」。

こうした、一部の女性史家たちによって浴びせられた人格中傷について、私は、すでに鬼籍に入っているとはいえ、傷つけられた魂をこのまま見過ごしてしまうわけにはゆかず、人権と名誉を擁護する観点やジェンダー平等の視点に立ち、本人の憲三はいうに及ばず、憲三の妻である高群逸枝や、憲三を自身の「最後の人」とみなす石牟礼道子のような、その周囲の人たちの代わりとなって反論してきました。それを集成したものが、著作集30『余滴を集めて――伝記書法研究』です。

鹿野政直と堀場清子による憲三像と、もろさわようこや栗原葉子、そして山下悦子が書く憲三像とでは、果たして、どちらが真実に近いでしょうか。私は、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』を執筆する前にあって、現存する幾多の歴史的資料から、鹿野や堀場が描写する憲三像の方が、真の像に肉薄していることを確信していました。しかしながら、その観点から書かれた「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を擱筆したのちも、私の個人の思いは、必ずしも平静を取り戻すまでには至らず、そこで改めて筆を執って、今度は憲三単独の伝記を書いてみたいと思いました。といいますのも、反論を単に反論として閉じ込めたくなかったからです。つまり、反論の全きあかしとして、反論を越えて憲三その人の実像を自らの手で造形したかったのです。これが、本稿「橋本憲三の生涯――ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」の出現のいきさつです。

あえてここに、道子の文から、それにかかわる貴重な一節を以下に引いておきます。

 彼女は神だ、とおっしゃる橋本憲三という人の生涯。(憲三氏を)いまだ書かれざる男性論としてみる場合、この人の懺悔僧あるいは布教者、いや彼女への帰依ぶりは徹底している。逸枝の下僕しもべという言葉がいちばんぴったりする。いまだ描かれざる宗教画が私の中に組立てられる。彼女は神だ、といい、まさに神を仰ぎみている男性の顔は苦悶の極でもあり、神に近い

この道子の言辞が、本稿の執筆に当たって、いかに私を励まし支えたか、それは、いうに及びません。近年、憲三とのかかわりに関して道子の言動を疑問視する研究者たちが存在するなかにあって、誰に遠慮することもなく、私はすべてをなげうって、ただただ石牟礼道子というひとりの女性の、瞠目すべき洞察力の鋭さに敬意を表すとともに、その詩人に、言葉に表現し得ない深い感謝の念をここに刻むことを、告白します。

私が、このように、一見すると華美にすぎるのではないかと思われそうな賛辞でもって、道子に感謝の気持ちを表わすのには、わけがあります。上の引用文に止まらず、本稿「橋本憲三の生涯――ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」のなかにあって、私は、道子の言説を多様に引用しました。もし仮に、それができなかったならば、本稿の成立は危ういものになっていたと思います。そしてもし、道子の言説によって橋本憲三の適切な存在に気づかされていなかったならば、その妻の高群逸枝の生涯についても、私の理解は、一面的で偏ったものになっていたにちがいありません。さらにいえば、もしそのような劣悪な知的環境に、いまもって立たされていたならば、私は、この国における女性史学という学問自体の発芽の様子を見誤ることになっていたでしょう。道子が遺した幾多の言説が、その危機を救ったのでした。

誰もが知るように、道子の業績は、人類に降りかかってきた前代未聞の公害を詩的に告発し、かつまた文学的にその実態を表現し得たところにありました。確かに、そのとおりです。しかし、本稿「橋本憲三の生涯――ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」を擱筆したいま、私の脳裏に存する印画紙に現像されているものは、道子の業績は、決してただそれだけではなく、この日本という国にあっての女性史学の誕生を、先験的な観察眼をもって自分のものとし、そして、その観察結果を、後世の私たちに見まごうことなく正確に伝えたことにあったのではないかという一枚の絵です。そのことを本人がどこまで意識していたのかはわかりません。また、その伝える言葉も、決して多弁なものでも陽気なものでもありません。むしろ逆に、どこか押し殺したような、鈍く低い音調の言葉です。私には、そこにこそ、疑うことのない真実を伝える響きがあるように感じられます。

私は、道子の言説が遺されていなかったならば、私たちは、この国の女性史学誕生の歴史的源泉に立ち会う機会を永遠に失っていたのではないかとさえ思量します。それへの道子の、静かなる尽力と貢献に対し最大限の賛辞を私が贈らなければならない理由が、まさしく、ここにあるのです。

さて、本稿にあって私は、偏見や先入観を捨て去ったうえで、すべての事象を証拠(エヴィデンス)となる一次資料に語らせるという今日の実証主義的な伝記書法に従い、文学青年であった憲三がいかにして筆を折り、その一方で、どのようにして「フェミニスト」として自身の姿を新たに再生し、パトロンとなって逸枝の筆を支え続けたのか、その道程を描写しました。これは、あくまでも憲三の生涯を描いた伝記ではありますが、しかしながら、単にそれだけに止まらず、執筆に込められた私の思いは、憲三の人権と名誉を回復させることを強く願う、一種の「闘争」というべきものでした。果たしてその思いは正当なものだったでしょうか。果たして記述は妥当なものになっているでしょうか。齢も傾き、そう多くを語る力は残されていません。成功しているかどうか、私はその判断を、これからこの分野の学問世界で活躍されることになるであろう、新進気鋭の研究者や伝記作家の諸氏の手にゆだねたいと思います。

その際、次の諸点もあわせて検討していただくことを希望いたします。

かつて明治の日本にあって、「新しい女」が出現するとき、こころない男は、それを疎ましく思いました。らいてうの家に、しばしば無言でものが投げ入れられたことが、それを例証します。しかし一方で、こころある男もいました。その男は、「新しい女」たちを吉原に誘い、苦しめられて生きている女たちの現場を見せ、考える機会を与える一方で、『青鞜』発刊一周年に際しての料亭での宴席にあっては、さりげなく支払いを買って出ました。また、別の男性は、『青鞜』の表紙を飾る木版画作製に積極的に協力しました。つまり、「新しい女」が出現するとき、「新しい男」も陰にあって存在していたのです。

他方、憲三が「フェミニスト男子」として出現するときは、どのようなことが起こったでしょうか。妻の逸枝は、その人に「神」の姿をかいま見ました。その人の実の妹の静子は、ふたりのその暮らしを誠心誠意、生涯にわたって支援しました。道子はその人を自身の「最後の人」とみなしました。さらには、女性史学者の堀場清子は、その人に「新しい男」を見出しました。しかしながら、そうした女たちとは対極に立つ女性たちもいました。その実際は、本稿にあって、記述したとおりです。

論点は、こうです。「新しい女」の出現には、それを支える男が存在する一方で、それに抗う反動的男たちがいます。他方、「フェミニスト男子」の出現には、それを支える女が存在する一方で、それに抗う反動的女たちがいます。私たちが描かなければならない「歴史」とは、何でしょうか。少なくとも私にとって必要とされる「歴史」は、そのことが全体として多層多元的に構築された真実の「歴史」です。といいますのも、異なる三つの力(たとえばこの場合は、フェミニスト男子としての本人の力、それを支えようとする力、それに抵抗しようとする力の三つの力)が、一体どのように働いて、その時代の時空は形成されていたのか、その実相が描き出される実証研究の結果としての「歴史」が構築されてはじめて、私たちは、そこから、いまに生きるうえでの、または、未来に踏み出すうえでの、信頼に足る力が得られるものと確信するからです。

そしてまた、「新しい女」や「フェミニスト男子」の出現は、「人権や名誉の尊重」や「ジェンダー平等」といった指標と同様に、これからも求め続けられなければならない、ひとつの重要な社会的な「ヴィジョン」です。夢想的小説「ユートピア便り」を書いた、一九世紀イギリスの、詩人でデザイナーで政治活動家のウィリアム・モリスは、そのなかで自身が描き出した理想郷的世界は、「夢というよりは、むしろひとつのヴィジョンと呼ばれるようになるかもしれない」と訴えました。しかし、「ヴィジョン」が達成されるうえでの長くて遠い道程にあっては、どうしても「闘争」が欠かせません。歴史家には歴史家にふさわしい「闘争」の形式があります。たとえば、差別や偏見に苦しむ人があれば救い出し、「歴史」のなかに再配置する必要があります。その一方で、「ヴィジョン」を前面に掲げて闘った人があれば光をあて続け、「歴史」から消え去ることのないようにしなければなりません。決して歴史家はそうした役割を見失ってはいけないというのが、確たる私の信念なのです。私は、この見解の当否にかかわる問題つきましてもまた、次世代の若い男女の研究者たちに、そして伝記作家たちに、この場を利用して投げかけておきたいと思います。

いよいよ最後になりました。本稿を閉じるに当たりまして、冗漫な駄文であるにもかかわりませず、「あとがき」に至るまで辛抱強くお読みいただきました読者のみなさまお一人おひとりに感謝し、ここにお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

なお、本稿の末尾にあります、「再録追記 橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法についての一考察」は、参考までに、著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」の第四話「橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法についての一考察」を再録したもので、それをもって本稿の本文を補う追記とさせていただきます。

(1)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、317頁。

(2)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), vol. XVI, reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, p. 211.