中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第七部 『婦人戦線』の刊行と「最大の夫婦の危機」

第一七章 『婦人戦線』に立つ「黒い女」の逸枝と黒子役の憲三

『東京は熱病にかゝつてゐる』を上梓して以降の自身の思想的立ち位置について、逸枝は、こう書きます。

私はつまり当時アナキズムの立場に傾いており、その立場から権力階層や現状維持派にたいしてたたかいをいどんでいたのだった。そこには金取り主義ばかりではなく、『東京は熱病にかゝつてゐる』に系譜をもつ社会的良心の燃え上がりがあったことは否まれまい…

そこで、逸枝の「社会的良心の燃え上がり」に関する事例を概観してみたいと思います。そのひとつに、山川菊榮と高群逸枝の論争があります。菊榮は社会運動家の山川均の妻で、いわゆる「科学的社会主義」の立場にあるボル派であるのに対して、逸枝はアナ派の立場にあり、その考えは、どちらかといえば「空想的社会主義」でした。舞台は、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』の誌上。まず、その五月号に逸枝は、「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」を寄稿します。以下が、その冒頭の文で、逸枝の問題意識が開陳されています。

「婦人公論」一月號所載山川菊榮氏の「景品つき特價品としての女」を興味を以て讀んだ。といふのは、私が長い間、マルクス主義婦人思想家の戀愛觀を承りたく思つてゐたからである。
 私は常日頃、マルクス主義経済組織と戀愛――氏のいはゆる純悴素朴な戀愛とが、相容るゝかどうかについて、多くの疑ひを抱いてゐた。尤も、氏等マルクス主義思想家によれば、それは一も二もなく相容るゝもので、實にマルクス主義経済組織のみが、これら一切の難問題を解決する鍵であるといふのだつた。
 けれど、さういふ人々はただ漠然と眞の戀愛とか、純粋素朴な戀愛とか、婦人の悩みとか云つてゐるだけで、その實なんにも分かつてはゐないのだといふ風に、私には思われた

ここから本論に入り、逸枝は、「われらが心に久しく求めてゐる純悴素朴な戀愛とは何か、それはいかなる社會組織を母胎として芽生えるものであるのか」を念頭に論じられてゆき、結論としては、純粋素朴な恋愛が保障される社会組織は、「分業的、統割的社會ではなくして、綜合的、集約的社會でなくてはならぬ。それは即ち、現在、反マルクス主義的新興思想として、眞に自覺せる勞働者、農民、婦人の中に侮り難い勢力を確保しつゝある自由聯合主義思想の目ざす社會であらねばならぬ」というのです。そして最後に、菊榮に対して、こう厳しく断罪の言葉を投げかけるのでした。

 山川菊榮氏よ。氏はいたづらに純悴素朴な戀愛とか、婦人の欲求とかを口にされる。けれど氏がマルクス主義を捧持してゐられる限り、その言葉は、単なる無智な、単なる空疎な、そして無自覺であり、無責任であり、無内容である言葉であつて、眞に目ざめた婦人に對しては、何等の権威なき、嗤うべき、唾棄すべき振舞であるといふことを、自ら恥ぢられるやうにと、私は改めて、ここでおすゝめしたく思つてゐると

それに対して、次の六月号において菊榮は、「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新發見の『マルクス主義社會』について――」を著わし反論します。

 それでも、私は高群氏に對して直接にお答へする興味も義務も感じないのですが、しかし世間は廣いものですから、數多くの讀者の中には、天馬空をゆくにも似た高群氏の奔放な空想から生まれた『マルクス主義経済組織』――何といふ奇抜な新發見でせう!――なるものを、マルクスの社會學説・・・・と思ひ誤られる方もないには限られないと考へて、眞實のマルクス主義の一端を御紹介しておきたく思ふのです

こう述べたうえで菊榮は、自身のマルクス主義に関する知見を本文において詳細に開陳し、恋愛観については、末尾において、短く、こう述べるのでした。

 高群氏がその超論理的な文章の中に、取りとめもなく口走つて居られる美とか孌愛とかについての漫言も、一々本氣にとりあげて辨駁する必要はなささうに思ひます。たゞ私有財産の下においても、純粋な孌愛が絶對に存在しなかつたわけではない。しかし、それは私有制度と、それにもとづく不自然、不平等な両性関係のために虐げられ、歪曲せられて、一般的な原則としては存在しえなかつた。資本主義時代に至つて、それに對する反抗が起つたが、なほ一般的には、男女は自由な、純粋な孌愛を楽しむことはできない。それができるのは、未來の貧困もなく階級もない社會のみであるといふことを重ねて申しておけば足りると思ひます

これに対して逸枝は、「踏まれた犬が吠える――山川菊榮氏に――」と題した文をしたため、七月号の『婦人公論』に投稿します。「あなたの『ドマママから出た幽霊』を拝見すると、中心點には一切ふれないで、僅かな言葉尻をとらへて、したり顔にそれが即ち幽霊の正體でもあるやうに云はれる。甚だ不本意なことではあるけれど、それなら先づ其の問題から片づけて行きませう」と前置きし、「強権に對する自治の火は烈々と擧がつてゐる」ことを詳述したあと、恋愛論にかかわって十分な返答をもらえなかった逸枝は、最後に菊榮に、こう告げるのでした。

 山川菊榮樣
 以上であなたの「ドクマから出た幽霊」の例證としてお擧げになつた諸點につき、全部お答へしたと思ひます。……
 最後に申添へておきたいことは、あなたは唯、逆上なさるだけで、婦人の立場からの私の質問(母性の自由及び孌愛の純粋性)について何一つ御返答なさり得ないといふことである。……今からでも晩くはない。眞正面からお答へ下さい10

その二箇月後、平林たい子が筆を執り、「ロマンチシズムとリアリズム――山川菊榮・高群逸枝両氏の論争の批評――」を『婦人公論』九月号に寄せました。結論として、平林は、こう締めくくります。

 山川氏は、十年前と今日とでは婦人の個人主義的な自覺の程度には、著しい相異があるにしても……経済的打算をはなれた純粋な孌愛によつて女性が結婚するまでにはまだ十分な、否、質的な相異があることを云はれた。高群氏も山川氏と同樣に現在の婦人の自覺の程度には不満を持たれてゐる。しかしながら、山川氏が今日の婦人の自覺の程度を一應認めて、その個人主義的自覺から、もう一歩前進することを要求せられてゐるに反し、高群氏は婦人が封建的な孌愛関係に、も一度逆戻りすることを要求される。そこには到底融和することの出來ない、あらゆる階級、層、集團の異なつた心理がかち合つてゐる11

解放された女性の姿と、その人がかかわる恋愛、結婚、家族のあり様とを、過去の一時期の、女性が中心であったにちがいない社会に目を向けてそこから引用するのか、それとも、社会進化の必然的結果として出現するであろう近未来の世界に託すのか、平林は、逸枝と菊榮の論争を「ロマンチシズムとリアリズム」の対立としてみなしたのでした。

以上が、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』誌上における逸枝と菊榮のあいだで戦わされた「アナ・ボル論争」でした。その翌年(一九二九年)、この論争は舞台を変え、『婦人公論』から『女人藝術』へと持ち込まれてゆきます。

ここへ至って、ますます逸枝の心身が不調を訴えるようになります。こころを痛めた憲三は、転居を勧めます。「よい自然の環境とあたたかい日光との恵みに浴して健康をとりかえし、懸案の実行にはいれるようにこころみてみようではないかと私を説得するのだった。こうなれば彼はそのことに熱心を示し、かつ果断にそれを実行に移すのだった」12。憲三は、毎日朝から夕方まで、物件を探し回り、「ついに荻窪駅と甲州街道とに近い上荻窪の台地に適当の環境と頃合いの家とをみつけてきて私をもよろこばせた。私もしだいに彼の描いているところに同調し、期待をもちうるようになっていたのだった」13

その物件は、このようなものでした。

屋敷のぐるりは檪の木がとりまき、屋後は一面すすきの生い茂った広い原っぱだった。家は古びていたが、部屋は母屋の二室に、鍵の手に建て増した書斎と応接室の二室があって住みよかった。庭は広いとはいえないが見事な紅八重桜の老木と若干の庭木とがあった。家賃二十五円。私たちは昭和四年二月四日にここに移ったのだった14

一九二八(昭和三)年七月、長谷川時雨を主宰者として『女人藝術』の創刊号が世に出ました。年が変わり、ここへ引っ越す一箇月前に発行された『女人藝術』の初春号に、逸枝の長編詩「戀愛行進曲――月漸く昇れり」が登場します。あたかも逸枝と憲三の新しい生活を祝福するかのようなタイミングでの発表でした。逸枝は、冒頭、このように宣します。

世の戀人たちに此の詩をおくる。私は此の詩で、戀愛を遊戯視する近代的青年に對する若き女性の悩みと心の動きを描かうと試みた15

この「戀愛行進曲――月漸く昇れり」は、二頁から二一頁までを占める、初春号の巻頭を飾るにふさわしい長編詩でした。最後は、次の詩句で結ばれます。

夜の女王、満月が
正座して昇り行く

おゝ月とわが戀
漸く昇る

このとき妾はいふ
かの月とわが戀とは
高く昇るにしたがひ
輝きと冷たさを増すのであると16

「戀愛行進曲――月漸く昇れり」は、逸枝が久しぶりに書いた作品でした。しかも、詩題の「月漸く昇れり」は、いうまでもなく逸枝にとって、最上の心情の高まりを表現するときに使う、取って置きの決まり文句でした。一九二九(昭和四)年の幕開けに対する逸枝の大いなる希望が、ここに込められていたといえるかもしれません。

それから半年が過ぎた『女人藝術』七月号を開くと、「公開状」と題して、八木秋子が「藤森成吉氏へ」、松田解子が「小林多喜二氏へ」、熱田優子が「中川紀元氏へ」、そして伊福部敬子が「平塚明子氏へ」、最近の行動や仕事について、疑問を呈したり、質問を投げかけたりしていました。かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」の起点となる各論が、ここにそろいました。個別に見てゆきます。

八木秋子の自由連合の社会観は、こうです。

 眞の幸福な社會生活は人間の自發的創造的意思によつてのみ生れる――。マルキシズムの社會は國家の獨裁支配に第一歩を始めるに反して、自由聯合の社會は不完全な個人の自由に發生し、爛漫と花咲く自由へと限りなく伸長して行く聯合社會で、國家では最初からあり得ない17

熱田優子は、自己の芸術観を、こう述べます。

 私は空想する。かゝる理想的社會が到來し得るならば――そこにはブルジョアもなくプロ[レ]タリアもない。恐ろしい闘争もなければ利己的な野心もないのどかな社會である――その無政府的な美しい社會に於てのみ眞の藝術の王國は榮え得るのではなからうか18

伊福部敬子が主張する婦人運動論は、このとおりです。

 即ち、昨日の婦人運動は思想の自由を婦人に與へんためでありました。今日の婦人運動は、思想に従うて行動するの自由を得んためのそれであります。(中略)
而してこの家庭的因習、家庭的緊縛より脱せしめて中産知識階級の男性と同等同列にまで並び、男性と同じ自由さ、同じ困難さにまで到達せしむるのが今日私のいふ新しき婦人運動であり、こゝに來て婦人運動はその使命を完全に果したと見るべきでありませう。かくして中産知識階級婦人は、無産運動に合流することが出來るのであると思ひます19

続く八月号には、先月号の「公開状」に答えるかたちで、藤森成吉の「公開状について一言、八木秋子氏へ」が掲載され、「アナ・ボル論争」に火をつけることになるのでした。「公開状について一言、八木秋子氏へ」は、「應接室」の題をもつ短いコラム記事で、そのなかで藤森は、「……『アナ』のあなたと論争する氣はありません。ただ、あなたがもつと勉強され、小ブル的意識を抛棄される事を望みます。……」20と書きました。それに対して八木は、次の九月号ですぐに反論に出ます。以下は、「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」のなかの一節です。

 非常に完全に小ブル的である危険があるから勉強せよ、とあなたは親切にもいはれる、しかも私は勉強することによつて残念ながら愈々マルキシズムに對する疑念と誤謬を拾い出して行かなければならないのです、私の知り得たことはすべてのマルキストがあまりにも本統ママのアナキズムを「知らなさすぎる」という一事でした。……
 あなたがたの考へ方は非常に単純です。ブルジヨアとプロレタリアの區別を単に生産機関を所有するものと、所有せずして自己の労働力を賣る事によつて生活の手段とする者、とに片づけてゐる。同じプロレタリアートの間にさへも相克しあふ関係のある複雜な社會の諸相をそれほど簡単に理解して、人間の自由とプロレタリアートの自由の相違を将來社會に結びつけやうとする21

同じくこの九月号には、逸枝の「小ブル藤村成吉に與ふ」も掲載され、論戦に加わります。一四頁に及ぶ長編です。「一.小ブルといふ言葉」「二.勉強せよとの仰せ」「三.『アナ』への言ひ分」「四.アナキズムの絶對性」「五.方法論的な睨み合ひ」「六.過程といふこと」「七.過程の経済的基礎」の七節から構成されていました22

するとここで、隅田龍子が割って入って、一一月号に、「八木、高群両氏のアナーキズムに對する駁論」を書きました。この論文もまた、「前がき」「一 氏等の云ふ自由と、我々の自由との根本的相異」「二 政治的行動を否定するアナーキズムは反動的ユートピアである」「三 何故にプロレタリア獨裁は必要か」「四 プロレタリアートは如何に議會を利用するか」「五 過程とは何んであるか」「六 小ブルヂヨアは何人であるか」「七 機械の發達はプロレタリアをなくするか」「八 女人藝術十月號『凡人の抗議への若干の抗議』」からなる長編でした。内容は、タイトルのとおり、マルクス主義の立場からの、八木と逸枝へ向けられた数々の厳しい批判となっていました。その極みが、次の言葉でしょうか。

 高群氏の一六頁から一七頁へかけてのあの冗漫なおしゃべりを見よ。我々はこんな馬鹿氣た論文を(いかに女人藝術がおとなしく取り入れたにせよ)堂々雜誌上に發表される氏の勇敢さには敬服してゐる23

これには逸枝も無言を通すことはできなかったのでしょう。次の一二月号で、「お出になさつた」を発表します。この論文の副題は「一アナーキストの宣言」です。このとき、逸枝は、はっきりと「アナーキスト宣言」をしたうえで、きっぱりと『女人藝術』から離脱することを決意したものと思われます。この文の最後は「さよなら」24で結ばれています。そして同号(一二月号)に、八木秋子も「隅田の妄論を駁す」を寄稿しました。この論文のなかで八木は、このようなことを主張しました。「マルクス主義者が、ブルジヨア教育によつて與へられた國家偶像観の観念を清算することが出來ず、ブルジヨアジーと一緒になつてアナキズムを攻撃するのは、そして、その方便としてユートピア主義の烙印を捺さうとするのは、その根本的缼陥の暴露に他ならない」25

こうして、「アナ・ボル論争」は過熱し、頂点に達しました。編集人にとっては、これ以上の論戦は、単なる不毛の相互批判に陥るように思われたのでしょう。この号(一二月号)に、「社告」が掲載されました。それには、次の文字が並べられてありました。「アナアキズムとコンミニズムのこの度の論争は次號にて打切る」26

年が明け、一九三〇(昭和五)年の正月を迎えました。中島幸子の「アナーキズムの顚落」と隅田龍子の「再びアナーキズムを駁す」の二編の論文が、『女人藝術』の一月号を飾りました。『女人藝術』における「アナ・ボル論争」は、これで終幕です。常連執筆者や読者にとってアナーキズムとマルキシズムの違いが明瞭になった、この半年間の論議でした。

しかしながら、一方の当事者であった逸枝の筆力は、これをもって一段落したわけではありません。そのとき彼女は、無産婦人芸術連盟の創設という新しい動きのなかにありました。風雲急を告げる彼女の日記の一月の一部には、以下のようなことが記されています。この結社の設立と機関誌の刊行には、「K」のイニシャルが示すとおり、夫である憲三が深くかかわっていました。

一月二日 はれ
『婦人戦線』準備会。(K)

一月十日 はれ
『黒い女』解放社から届ける。

一月二十六日 はれ
無産婦人芸術連盟成立。機関誌『婦人戦線』。出席者平塚らいてうさんら十四名。(K)27

かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織することにより、ひとまずの決着に至ります。一月二六日に結集した創設会員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四人でした。続いて、機関誌『婦人戦線』が産声を上げるのが、この年(一九三〇年)の三月一日。「アナ・ボル論争」を経て、「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここにこうして誕生するのです。

しかしながら、無産婦人芸術連盟の設立も、機関誌『婦人戦線』の創刊も、そのときまでに逸枝が描いていた自身の将来構想から逸脱する、ある意味、不本意なものでした。それでは、どのようなことを逸枝は構想していたのでしょうか、そして、それがどう踏み出されようとするなかにあって、『婦人戦線』の創刊という新しいう動きが出現するに至ったのでしょうか、逸枝の文から引用しながら、それを再構成してみたいと思います。

 私はここで雑文書きのかたわら、婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手するはずだった。これは守富時代のたけくらべのころ、熊本の女学生時代のころ、弥次海岸の憲平ちゃん妊娠のころ以来、私に芽ばえ、そして私が持ちつづけてきた学問的欲求で、社会的開眼とともにいよいよ拡大されてきていたものだったが、夫婦生活を重くみる私の傾向から、この欲求がKとの融合をそこねることにならないようにねがっていたので……Kが自然にこの欲求に気づき、擁護者とならないかぎりは、私はあえてそれを彼の前に切り出そうともしなかった28

自身の欲求である研究者として学問に一意専心するには、収入のこと、家事のこと、編集のこと、対外交渉のことなど、どうしても「擁護者」として憲三が必要とされるわけであり、逸枝は、それを直接自分の口から言い出せないでいたようです。

ところがKは私が自己の欲求をおさえ、彼を本位としてとことんまでついてこようとする私のいわば愛の深さをひとりでに知るようになり、このころになると私の希望を実現させようとする心理状態に変わりつつあったらしい。正しくいえば、私の家出以来、彼はそれを切実に感じて機会を待っていたのだという。ちょうど平凡社をやめて客員の期限も切れたところだったことがその機会をつくってくれたのだった29

上荻窪の台地に見つけた、比較的環境の整った家に、一九二九(昭和四)年の二月四日に引っ越すと、憲三は、研究資料を整理するために、「これまで持たなかった大書棚を二つ買い入れた」30。こうしてはじまった新しい家での生活ですが、「平和だったのは当初の期間だけで、にわかにこの界隈も区画整理の渦中にまきこまれることになり……もはやここも勉強の場所、勉強の家には適しなくなってきた」31。そこで憲三は、逸枝が研究に専念するにふさわしい住居探しにこころを砕き、「これがけっきょく後に世田ヶ谷のいまの研究所となったのだった」32。つまり憲三は、かつて身を寄せていた豪農の軽部家から二〇〇坪の土地を借り受け、そこに、通称「森の家」と呼ばれる自宅兼研究所を完成させるのでした。竣工し、実際にふたりがこの家に入るのは、およそ二年後の一九三一(昭和六)年七月一日のことになります。

その間、上荻窪での生活は続きます。しかし、逸枝の研究構想は固まったらしく、一九二九(昭和四)年の年末に、逸枝は、「はじめて印刷した年賀ハガキをつくり……研究著述の計画を発表し、知人の援助をもとめた」33のでした。しかし、婦人論、恋愛論、日本女性史の婦人論三部作からなるこの「研究著述の計画」は、ここで頓挫することになります。以下も、逸枝の文からの引用です。

だが運命はなお私には酷だった。それを投函した直後の十二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発刊のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった34

一九三〇(昭和五)年の新春を迎えました。さっそく一月二日、『婦人戦線』刊行のための準備会が開かれました。そして続く一月一〇日、解放社から逸枝の短編小説集『黒い女』が届きました。前年の一九二九(昭和四)年一〇月にアメリカ合衆国で発生した世界恐慌が日本にも影響を及ぼしはじめた時期です。これよりこの年にかけて、日本経済が危機的状況に陥ってゆきます。その意味で『黒い女』は、いわゆる「昭和恐慌」と呼ばれるこの時代に対する先陣となって世に出るのです。『黒い女』は、「妻」「黒い戀」「風蕭々」の三章からなり、それぞれに六つの小品で構成され、「序」の末尾には、「東京郊外上荻窪二六九の寓居において」の文字が並びます。この本の広告文は、次のようなものでした。

極左中の極左、女流中の女流――世を擧げてマルキシズム政治主義の流行を見るとき、獨りアナーキズムの陣營にあつて、プロレタリア・ネオ・ロマンチシズムのために萬丈の氣を吐く著者の第一小説集である。
階級受難、女性受難、この二重の重厭下に、更らに醜怪なる強權主義者の間にあつて彼女はいかに闘つたか!!35

しかし、逸枝自身は、『婦人戦線』の刊行に、ためらいがありました。「はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。……だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって……火の国的熱烈さをもって不退転の献身を誓うことになる」36のでした。すでにこの時点で「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史」の構想ができていました。しかしここに来て、「大きな番狂わせ」が生じ、『婦人戦線』の創刊へと、逸枝の精力は注がれてゆくのです。これは、詩人から学者へ向かう道筋にあって、単なる通りすがりの寄り道だったかもしれません。しかし、自分の思想的立ち位置をより明確にするいい機会であるととらえるならば、この寄り道も、逸枝にとって意味のあるものであったにちがいありません。逸枝が述べる「火の国的熱烈さ」とは、大地を焦がす、あの大阿蘇の、炎のごとき熱情を指し示すのでしょう。こうして「番狂わせ」に火がついたのでした。

『黒い女』発刊の一六日後の一月二六日、無産婦人芸術連盟が結成され、同年三月に機関誌『婦人戦線』が創刊されました。第一巻第一号の奥付を見ますと、発行兼編集印刷人として、高群逸枝の名が明記され、発行所は「婦人戦線社」、その所在地は、逸枝の自宅住所である「上荻窪二六九」となっています。『黒い女』の版元である解放社が発売元です。その号の「お知らせ」において、結成の経緯と構成員の名前が、次のように、明かされました。

 新年早々から着々計畫を進められてゐた無産婦人藝術聯盟は、一月二十六日、いよいよ目出たく結盟を了しました。往年、新女性の先驅者としていはゆる「青鞜」運動を率ゐられた平塚らいてう氏もお加はり下さつて、當日の出席者左記十四名、病床の人竹内てるよさん、その他地方在住者を合せ、正しく「青鞜」によつて個人的自覺の第一歩をふんだわれわれ女性は、更にこゝに社会的自覺に立つて、人類解放の究極の運動へと出発することになりました。

伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子

 そして我々は、こゝに外部闘争の機關として「婦人戦線」をもち、内部相互敎育の機關として研究會をもつことになり、前者の經營はこれを當分解放社に委託し、後者は當分毎月第四日曜に聯盟事務所において開催することになりました37

無産婦人芸術連盟の会合や『婦人戦線』の編集作業は、逸枝の住まいの上荻窪の家で行なわれました。のちに憲三は、こう回顧します。「『婦人戦線』の表紙や目次づくり、内容のわりつけ(つまり編集)も全部私が彼女を代行しました。みんな私の好みです。編集会議だけ毎号会員でやりました」38

逸枝と憲三のふたりの住まいは、実に簡素な室内でした。らいてうの記憶によると、こうです。

 長い年月にすっかり薄れてしまった記憶のなかで、どことなく殺風景な家の中の印象が消えずに残っています。いわゆる家財道具といったもの、箪笥ママや茶箪笥のようなものは見当たらず、人が住んでいるともおもえないほど、がらんとした家の中で、メリンスの赤い派手な柄の鏡台掛けにおおわれた鏡台唯一つが、異様に目立っていたことを覚えています39

家だけではなく、逸枝の化粧も、初対面のらいてうには異様に映ったようです。

 異様といえば、初めてお会いした高群さんの印象のなかで、そのお化粧が、わたくしには理解にあまるものでした。高群さんのお顔は、生地のままでこそ輝く顔であって、白粉や紅の粉飾の似合うお顔ではないとおもわれる上に、それもあまり上手なお化粧ではありませんから、せっかくの生地をそこなっているとしかおもわれません。わたくしの目には、紅、白粉など洗い流したらどんなに美しいことかと映るのですが、しかし高群さんには、おそらくご自身独自の美的観念があってのことだったのでしょう。身ごなし全体がのろいという感じで、靴をはくのもテキパキはけないような人でした40

しかし逸枝には、思想の内容は別にしても、らいてうを夢中にさせるだけの魅力が十分に備わっていました。らいてうは、このように語ります。

思想だけなら、他にいくらも求められるばかりでなく、必ずしもわたくしと、すべてが一致するものではないのでした。高群さんがわたくしを夢中にさせたのは、あの情熱、あの感情の動きと表現の自由さ、ユニークさ――それらを無限に内蔵している、高群さんという人間そのものの魅力でした41

創刊号(三月号)に逸枝は、「婦人戦線に立つ」を書きました。それは、婦人の「個人的自覚」から「社会的自覚」へと踏み出すことを強く訴える内容になっています。冒頭、逸枝は、こう書きます。

 わが國における、婦人自覺史は、かの「青鞜」運動に、最初の頁を起した。それは、誰も知るやうに、婦人の「個人的自覺」によつたもので、その後、いく星霜かを経て、いま茲に、我々によつて、婦人の「社會的自覺」にもとづく、劃時代的の運動が、起こされようとするのだ42

逸枝によれば、労働者は労働者であることを「自覚」することにより、農民は農民であることを「自覚」することにより、そして、婦人は婦人であることを「自覚」することによって、それぞれに、自らの手になる「自治」を求める。いずれもそれらは、政治社会(強権社会あるいは専制社会)を完全に否定するし、同時に、「自治」への介入も拒む――。以下は、逸枝自身の言葉です。

……民衆は最早や、古い「政權運動」を捨て、新しく起つた「自治運動」、即ち労働者組合運動(職業者組合運動)及び、消費者組合運動、農民組合運動等によつて起つ。
 これらの新しい組合運動は、ごく自然にそれぞれの役割(破壊的、または建設的)をもつが、歸するところは、自治コンミュンの聯合社會であり、ここを目がける種々の分野戦である。
 實に、これらの諸組合運動こそは、近世特有の眞に新しき一大民衆運動の種々の相であるが、この運動を進める上に、古い「政權運動」が、いかに妨げとなるかは實例の示す通りである43

逸枝の主張は、創刊号に掲載されている「創刊宣言」または「綱領」と呼ぶにふさわしい以下の文言に端的に凝縮されています。これが、無産婦人芸術連盟の旗印となるものでした。

一 われらは強權主義を排し、自治社會の實現を期す。
 標語 強權主義否定!

二 われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。
 標語 男性清算!

三 われらは新文化建設および新社會発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。
 標語 女性新生!44

憲三は、こういいます。「社告の類は私。三綱領は私がつくり、彼女が修正したもの。編集会議にかけたとき誰も発言しないので、それでは引っこめましょうかと私がいったら、らいてうさんが、私はたいへんいいと思いますと言われたので、採用となりました」45

あえて以上の「創刊宣言」(ないしは「綱領」)を図式化すれば、「強権主義=資本主義=家父長主義の否定」、対するは「自治主義=組合主義=母性中心主義の新生」となるでしょうか。

翌月の第二号(四月号)に、逸枝は「家庭否定論」を書きました。逸枝は、文字の成り立ちからすると「家」という字は豚小屋を表わし、古来中国において常食としていた豚とともに生きる人のいる場所を意味し、「家財」は自分の所有物、すなわち妻子財産を指すことを明らかにし、その「自分」こそが「男」その人であるとの論理を展開します。つまり、「家」を支配し「財」を所有しているのが男性であり、女性はその「財」の一部でしかないというのが、逸枝の見解であり、それは、次のような主張へとつながります。

 そこで目ざめた婦人は、「家庭をケトバス」ことが唯一の最上の手段であることを知つた。
 家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐるではないか46

同じく第二号(四月号)に、らいてうは「婦人戦線に参加して」を寄稿しました。このなかでらいてうは、まず、婦人運動の近年の状況をこう描写します。

 又是等の無産政黨所屬の無産婦人團體によつて、在來のブルジヨア個人主義的婦人政治運動とは全然その立場を異にする無産階級的婦人政治運動もはじめて起こつて來ました。かうして無産者解放運動の全戦線があたかも政治戦線と化したかの觀を呈するようになりました。同時にこの運動理論としての社會主義研究、わけてもマルクス主義研究は殆ど流行的全盛の極に達し、マルクス思想やソウエートロシアに關する著書の洪水となり、マルクス主義の公式を暗誦したマルクスボイやマルクスガルの横行となり、知識階級のマルクス主義男女は前衛をもつて自負し、ブルジヨア作家の左翼への轉換が流行しました47

次に、こうした現状のなかにあって、自らのこれまでの歩みを見つめます。

 新婦人協會創立時のわたくしは、婦人の立場からしきりに女性による社會改造を叫びながらも、それは結局男性と資本主義の横暴と貧欲に只いくぶんの制限を置くことによつて、婦人、母性、兒童を保護しようとする程度のもので、言はゞ社會政策的及至は社會改良主義的立場以上のものではなかつたことは明白です48

そして、以下のような認識を示します。

 しかしそのわたくしももうそうした局部的社會改善をもつて滿足することは出來ないのでした。……しかしそれにも拘はらずマルクス主義社會運動は、第一その運動方法に於て、それの戦術に於て、第二にさうした實現されるマルクス主義の社会組織形態に於て、わたくし自身の本性(わたくしの個性とわたくしがもつ女心或は母心)との間に到底相容れない或ものを感知させ……わたくしの心はマルクス主義社會主義運動よりも同じく現代の資本主義組織に反抗する無産階級運動として……今や全世界にひろがり、次第に發展しつつある協同組合運動により多くひきつけられて行きました49

かくしてらいてうは、「婦人戦線に参加して」の一文を、こう結ぶのでした。

……母性主義の立場から、協同組織の経済的自治社會の建設を理想とするわたくしは、また當然無政府主義社會思想に、その理想社会の組織形態に興味と共感を見出さずにはゐられないわたくしです。……わたくしの精神的娘のやうにも感じられてゐた高群逸枝さんの主唱によつて無政府主義系の婦人を中心とする新な聯盟が結ばれ、第二青鞜ともいふべき「婦人戦線」が生れ出たことは、わたくしには何としても大きなよろこびであります50

らいてうが、逸枝のことを「精神的娘」と語るのも、『婦人戦線』のことを「第二青鞜」と語るのも、とても印象的です。

『婦人戦線』の第三号(五月号)が発行された五月のその二八日に、無産婦人芸術連盟と全国農民芸術連盟との合同講演会が読売新聞社の講堂で開催され、逸枝が演壇に立ちました。「実際的、活動的といったいわゆる運動家的な肌合いはみじんもなく、あくまでも創造的、天才的な詩人といった印象」51を逸枝に抱いていたらいてうに、このとき、かすかな不安がよぎりました。

わたくしはこんな高群さんが演壇に立つことを、幾分あやぶむ気持で見守ったものですが、大勢の人前での演説などまったく不向きとおもわれるこのひとが、精一杯しゃべるのには、感心もし、安堵もしました。しかし、このときの「婦人戦線の事業」と題する高群さんの話は、臨監の警官の中止命令のため、おわりまで続けられませんでした52

らいてうの「あやぶむ気持」は杞憂に終わりましたが、別の不安が、会場全体を包み込みました。官憲による「弁士中止」という言論の封殺です。一九二五(大正一四)年に治安維持法が制定されると、表現の自由や結社の自由が一段と制限される時代が出現していたのです。『婦人戦線』も、そうした時節の空気のなかで、翌年(一九三一年)の六月号(通計一六号)をもって休刊となりました。事実上の廃刊です。しかし、これによって、らいてうの逸枝に寄せる思いが、途切れることはありませんでした。らいてうはいいます。

 そのころ――いいえ、その後も終始、高群逸枝さんほど、わたくしを惹きつけたひとはありません。ただ、もう無性に好きなひとでした53

一方の逸枝にとっては、どうだったのでしょうか。「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手する」という自身の「新コースに大きな番狂わせ」が生じたにもかかわらず、無産婦人芸術連盟を発足させたことにより、らいてうと強いきずなを結ぶ現実的な場面が生み出され、その後の友愛にとっての土台がここに形成されたのでした。こうして、『婦人戦線』廃刊後も、逸枝とらいてうが織りなす信頼は厚く、逸枝死後も、憲三とらいてうの交流は、生涯にわたって確たるものとして続いてゆくのでした。

他方、注目していいのは、『婦人戦線』にかかわる憲三の関与の大きさです。「『婦人戦線』の表紙や目次づくり、内容のわりつけ(つまり編集)も全部私が彼女を代行しました。みんな私の好みです」とも、「社告の類は私。三綱領は私がつくり、彼女が修正したもの」とも、憲三は書きます。『婦人戦線』の奥付に記載されている「発行兼編集印刷人」の名義を見ますと、最終号(第二巻第六号)の「城夏子」を除けば、第一巻の第一号および第二号が筆名の「高群逸枝」が、第一巻第三号から翌年の第二巻第五号までが、国の指導によって本名の「橋本逸枝」(もっとも実際の戸籍名は「橋本イツエ」)が使われています。しかし、事実上の「発行兼編集印刷人」は、間違いなく「橋本憲三」だったのでした。明らかにこれは、『婦人戦線』の総合プロデューサーが憲三であり、憲三の企画立案に従って執筆が割り振られてゆくのが、逸枝をはじめとする各寄稿者だったことを意味します。それはまた同時に、逸枝が書く、次の文の内容を裏書きするものでもあります。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。とくに、後者とは長い一体の関係だったので、私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった54

逸枝が書く「私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊」とは、『婦人戦線』の刊行のことを指すのでしょう。また、逸枝は、「彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」と書きます。とはいえ、「パトロンであり……啓発者だった」憲三の姿は、そのほとんどが一次資料に残されていません。黒子役であったためでしょうか。しかしながら、上で見てきたように、『婦人戦線』は、逸枝主導の作物ではなく、憲三主導の産物だったのです。この雑誌の刊行は、逸枝にとっては「大きな番狂わせ」であり、憲三にとっては、おそらく、若き日の『少数派』以来の同人誌刊行へ向ける果てしない自己の夢の実現だったのではないかと推量されます55。そこで問題になるのが、憲三自身が素案を提示した『婦人戦線』の「三綱領」のうちの、とりわけ「二 われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。標語 男性清算!」は、その後、男性たる憲三の実生活に、どのようにかかわっていったのかという諸点です。「フェミニスト橋本憲三」の出現を巡っての大きな実践課題がここに存在していたのでした。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、228頁。

(2)高群逸枝「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』第13巻第5号、1928年5月、87頁。

(3)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、93頁。

(4)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。

(5)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。

(6)山川菊榮「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新発見の『マルクス主義社会』について」『婦人公論』第13巻第6号、1928年6月、49頁。

(7)同「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新発見の『マルクス主義社会』について」『婦人公論』、59頁。

(8)高群逸枝「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』第13巻第7号、1928年7月、41頁。

(9)同「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』、43頁。

(10)同「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』、47頁。

(11)平林たい子「ロマンチシズムとリアリズム――山川菊榮・高群逸枝両氏の論争の批評――」『婦人公論』第13巻第9号、1928年9月、35頁。

(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、231頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(15)高群逸枝「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』第2巻第1号、1929年1月、2頁。

(16)同「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』、21頁。

(17)八木秋子「曇り日の獨白」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、95-96頁。

(18)熱田優子「中川紀元氏に問う」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、99頁。

(19)伊福部敬子「平塚明子樣に」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、100-101頁。

(20)藤森成吉「公開状について一言、八木秋子氏へ」『女人藝術』第2巻第8号、1929年8月、48頁。

(21)八木秋子「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、18頁。

(22)高群逸枝「小ブル藤村成吉の與ふ」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、4-17頁。

(23)隅田龍子「八木、高群両氏へのアナーキズムに対する駁論」『女人藝術』第2巻第11号、1929年11月、12頁。

(24)高群逸枝「お出になさつた――一アナーキストの宣言――」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。

(25)八木秋子「隅田氏の妄論を駁す」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、52頁。

(26)「社告」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。

(27)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、238-239頁。

(28)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。

(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(30)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(31)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、233頁。

(32)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(33)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(34)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(35)『婦人戦線』第1巻第1号、婦人戦線社、1930年、1頁。

(36)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232-234頁。

(37)前掲『婦人戦線』第1巻第1号、16頁。

(38)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、158頁。

(39)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、306-307頁。

(40)同『元始、女性は太陽であった③』、307頁。

(41)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。

(42)高群逸枝「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』第1巻第1号、婦人戦線社、1930年、8頁。

(43)同「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』、14頁。

(44)前掲『婦人戦線』第1巻第1号、4頁。

(45)前掲『わが高群逸枝 下』、160頁。

(46)高群逸枝「家庭否定論」『婦人戦線』第1巻第2号、婦人戦線社、1930年、22頁。

(47)らいてう「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』第1巻第2号、婦人戦線社、1930年、37頁。

(48)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、同頁。

(49)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、37-38頁。

(50)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、39頁。

(51)前掲『元始、女性は太陽であった③』、307頁。

(52)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。

(53)同『元始、女性は太陽であった③』、305頁。

(54)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。

(55)たとえば、1918(大正7)年11月5日の『人吉時報』(3面)に、「若き人々に告ぐ 橋本憲三」の見出しで、「私達は私達の若き生命・・・・青春の日・・・・の永劫ならむことを祈ります。それがために、私達はこゝに小さき冊子を編まむことを思ひ立ちました。これから一年間、原稿とお金をためて。創作集(感想、小説、戯曲) 歌集(短歌)の二種を發行しやうと云ふのです。私達のこの小さきこゝろみ・・・・に貴下の御同情を仰ぎたいと思ひます」という記事が掲載されており、ここからも、若き日から橋本憲三に雑誌刊行へ向けての熱意が存在していたことがわかります。