中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第六部 憲三のアナーキズム傾斜と「現代大衆文学」の企画

第一六章 憲三の平凡社での「現代大衆文学」企画と辞職

逸枝の『戀愛創生』が出版されて半年が過ぎた、一九二六(大正一五)年の一〇月、憲三は、相馬健作の筆名を使って、同じ萬生閣から『文壇太平記』を上梓します。そして、ちょうどそのころ、憲三の立案で、平凡社の社運をかけた「現代大衆文学全集」の予約出版が動き出します。幸いにも、翌一九二七(昭和二)年四月二日の第一次予約締め切りまでにおよそ二〇万を超える注文が舞い込みました。しかし憲三は、自身の企画が大成功に至る兆しが見えていたにもかかわらず、「退社の辞」と題された一文を草して、その月の一二日に平凡社をあとにするのでした。それではここで、入社から身を引くまでの憲三の四年間の平凡社時代を、『平凡社六十年史』の記載内容に即しながら跡づけてみることにします。

『平凡社六十年史』の巻末にある「略年表」によりますと、一九二三(大正一二)年六月一二日、資本金五万円、代表取締役に下中彌三郎が就任して、平凡社が株式会社になります。株式会社になる前の社員数は四名ほどで、そのうちのひとりが、事務社員の藤井久市でした。株式組織になるに際して社員募集が行なわれ、下中の教育運動における同志であった志垣寛の紹介によって応募したのが憲三でした。編集社員の第一号として憲三は入社するのです。志垣は、奈良女子高等師範学校で合科学習を提唱していた先進的な教育者であり、上京後、教育小説などを書いて作家活動をしていました。志垣の妻の美多子と逸枝が、熊本師範の女子部で同窓という仲にありました。入社から三箇月と立たぬ九月一日に発生した関東大震災で社屋が全焼すると、平凡社は大阪の出張所で活動し、東京に復帰したのは、翌一九二四(大正一三)年の一一月でした。この間東京の編集所にあって、主に憲三は、「標準漢字自習辞典」、さらには「新式漢和辞典」や「神祇辞典」といった辞典編集に従事します。そのころ、一方で下中は、別の関連会社を設けます。文園社が教育関係の雑誌や書籍を扱い、そのなかには、志垣寛の小説集『モスクバの掏模』が含まれます。文芸ものを扱ったのは、下中綠を名義人(発行者)とする萬生閣で、農民詩人である渋谷定輔の『野良に叫ぶ』のほかにも、「万生閣からは高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』『恋愛創生』、志垣寛『学園に芽む』、宮嶋資夫『金』、相馬健作『文壇太平記』……などが出版された。この中で相馬健作というのは橋本憲三の筆名であった」

『文壇太平記』が発行されるのは、一九二六(大正一五)年の一〇月二五日で、その内容は、憲三の観察する文壇、そして憲三と交流があった文士が、主に取り扱われていました。そのなかの「天才物語」という項目において、筆者は生田長江を取り上げ、「天才者」に関連して、こう記述している箇所がありますので、引用します。

長江は多くの人々を、何等かの特異な才能をもつ人を、そして私にいはせれば一般的な天才的な人々を文壇に推薦してゐる。與謝野晶子、平塚明子なども、何ほどか長江の提撕助言を受けた人々であり、佐藤春夫、高群逸枝の二人はまつたく長江によつて推薦されてゐる。長江がいはゆる「天才者」として推薦したのはこの二氏である。
 然るに佐藤春夫はどちらかといへば、名人肌玄人氣質の藝術的藝術家であり、高群逸枝は一般的人生的である

この本の巻末には、付録として「文士住所錄」があります。八七名の文士の住所が掲載されていて、高群逸枝の住所は「市外東中野一七二四」となっています。『文壇太平記』発行の翌月の一一月に、夫婦は上沼袋に転居します。そして、大正天皇の崩御に伴い、一二月二五日、大正から昭和へと改元されるのでした。

『平凡社六十年史』は、こういいます。「日本のマス・メディアは関東大震災の一、二年後に成立したとみなされている。一時震災によって壊滅状態におちいった東京の新聞・出版界も、数年たたないうちによみがえり、以前にました活況をしめしはじめる。大毎・東日が待望の百万部突破を実現したのも震災の翌年一月のことだ」

日本においてラジオ放送がはじまるのも、震災一年半後の一九二五(大正一四)年三月です。他方で、高等教育が充実へと向かうこのとき、新しい知識者層も形成されてゆきます。加えてこの時期、日清・日露のふたつの戦争ののち顕著となる産業革命と資本主義経済との発展に伴い、新しく「大衆」という社会階層が誕生し、彼らが求める娯楽性や生活情報を提供するマス・メディアも、かくして飛躍的な成長へと向かってゆきます。そうしたなか、出版界では、大衆(中間所得者層)の知的な欲求に応えるために、「全集」という形式の企画立案が相次ぐことになったのでした。

平凡社も、シリーズものの本格出版の流れに乗りました。『平凡社六十年史』は、こう書きます。「下中が最初に手がけた本格出版は、『尾崎行雄全集』(全十巻)と『大西郷全集』(全三巻)だった。……下中は『尾崎行雄全集』の企画をたてる前から、『大西郷全集』の構想をあたためていた。案を出したのは橋本憲三だったが、下中はすでに明治の末年と大正十四年にそれぞれ西郷の評伝を執筆刊行しており、受けてたつ態勢は充分だった。……定価八円の『大西郷全集』は、しかしよく売れた。部数も七千部から八千部を越え、『尾崎行雄全集』の失敗を埋めるだけの実績をあげた」

さらに『平凡社六十年史』は、「現代大衆文学全集」の誕生の経緯を、このように綴ります。「『大西郷全集』の成功で、対外的にも対内的にも信用を得た平凡社は、改造社の円本に刺戟され、あらたな全集の企画に乗り出す。そのプロモートをしたのは橋本憲三だった。……もっとも橋本の企画案は社内の重役会議で否定された。冒険すぎるというのである。……彼らは経営的なことを顧慮して、橋本の案を否定したのだったが、そのときすでに橋本は下中の意を体して対外的な折衝に動きはじめていた。さいわい下中の社内工作がうまくいって……橋本は作家たちとの折衝にあたり、下中は資金づくりに奔走した」

憲三には、自身のうちに、個人主宰誌である『萬人文藝』の刊行体験もあったし、相馬健作の筆名を使った『文壇太平記』の出版体験もありました。「作家たちとの折衝にあたり」、このふたつの経験が、大きな力となったものと思われます。ひょっとしたら、『萬人文藝』も『文壇太平記』も、「現代大衆文学全集」の企画提案を見越しての地均しだったのかもしれません。「現代大衆文学全集」が参考にしたのは、円本として先行する改造社の「現代日本文学全集」でした。このとき使われていた「円本」の用語は、単行本数冊分を一冊に収め、それをほぼ一冊の定価に相当する一円で販売する本のことを意味します。因みに、『文壇太平記』の定価が、三三五頁で壹円六〇銭でした。『平凡社六十年史』には、こうした記述が続きます。「下中の原案でははじめ七百ページ一円の予定だった。しかし新潮社の『世界文学全集』が五百ページ一円と発表したため、千ページ一円案に変更された。内容見本にも新聞広告にも、『千頁一円』が大きく掲げられている。……新聞広告も一ページ大から二ページ大へエスカレートし、大々的な宣伝戦を展開した。東京朝日新聞の昭和二年三月五日付と二十三日付の一ページ広告につづいて、同二十九日付では二ページ大になっており、社がこの全集に投入した資本と熱意が察しられる。……第一次の予約締切りは四月二日だった。このときまでにおよそ二十万を越す注文が殺到し、『現代大衆文学全集』の前途はにわかに明るくなった」。しかしそれとは全く逆に、憲三の胸中にあって、「前途はにわかに暗くなった」のでした。『平凡社六十年史』が伝えるところは、こうです。

社内の空気も一変し、それまで刊行をあやぶんでいた重役連も愁眉をひらいたが、その好況に足をすくわれて商業主義的な傾向を礼賛する空気もうまれた。何度も企画案を否定されながらもそこまで漕ぎつけた橋本憲三は、うって変って社内のうわついた雰囲気に耐えられず、第一次予約募集が終了した直後の会合でそれを批判し、平凡社が本来あるべき姿について種々献策したが容れられず、彼は白井喬二をふくむ「現代大衆文学全集」の首脳会議の席上、「退社の辞」という原稿用紙五十枚ほどの文章を提出して、社を退いた。この原稿は今日も残っているが、真情あふれるもので、橋本の当時の考えかたを率直に吐露している。橋本は数年後に社にカム・バックするが、「現代大衆文学全集」の刊行を目前にひかえた退社は、なみなみならぬ決意によるものと思われる

一九二七(昭和二)年四月一二日、憲三は平凡社を離れました。それではこの間、妻の逸枝は、どのような思いで夫を見ていたのでしょうか。逸枝の日記から、部分部分を抜粋して、それを跡づけてみたいと思います。

一月三十一日(昭和二年)
 こんどの上沼袋の家はお縁に日があたる。……
 夫はこの全集でこのごろ忙がしい。平凡社も浮沈をかけた事業で、千ページ一円の大衆版のよし。

二月一日
あたたか。きょうは全集参加作家の招待宴を催すので帰宅はおそくなるだろうと。

二日
 昨夜は午前二時ごろ彼氏帰宅。ひどく酒に酔い、門をあけたとたんに吐潟。心配のあまり眠れなかった。……
 午後三時ごろ出社。夫の健康にさわりのないように。また、全集がぶじに出版の運びになるように祈る。彼の弱点はいわゆる肥後人の「わまかし癖」だろう。……なるほど彼も私も、表面的には欠陥だらけだ。だが、内心はともに正直で純潔であることに疑いはない。われわれはこの正直かつ純潔な点こそ、たがいに助長しあわねばならない。とはいいながら私にはこんな忠告めいたことは彼にいえそうにない。

十一日
 私は書くことより生活を豊かにすることを好むようになった。彼が病気になるか失業したらどうなるだろう?
 「筆で金を取る」生活をこれからもつづけるだけでなく、すっかり、それにはまり込んでしまうことになりはすまいか?

二十五日
 けさ、全集の新聞広告出る。私の考えではすこしすっきりし過ぎるようだが、売れればよいが。
 私はどういうものだろう。こうして心からこういうものに愛を持つようになっているのだが、すこしそれが変に思われるのだが。
 きっとそれも夫を愛しているからだろう。

三月一日
 平凡社では自動車で街頭宣伝とのこと。帰りはたぶんおそくなるだろうと。好きでもないのにあまり深酒などしないように。

十日
 きょうは宣伝映画撮影、それと市内ビラまきとのこと。宣伝隊は全国の大都市をまわっているが、それには志垣さんが隊長さんとして参加していられるらしいと。
 ―彼はこのごろ何か不快の様子だ。会社の大資本化と彼自身の潔癖性の衝突のようにも思われる。やめるといい出しているが、どうなるかしら? こうなってはきっとやめるにちがいない。やめるとすれば生活にもひびくし彼の前途も思われる。でもそのために私が彼をむちうつことなどはできない。彼とともに運命にあまんじよう。

四月二日
 きょうも暮れた。もうすっかり暖かくなった。夫はいよいよ社をやめることになった。ずっと前から私にはその予感があった。そしてこの場になって決然といいうることは「彼は正しい」ということである。だが私どもの生活はどうなるだろうか。それはいいけれど、なんとなく力の抜けた変な気がするのはなぜだろう。
 私は立ち上がらねばならない。私はこの無力感に打ち克たねばならない。……
 今年は故郷へちょっと帰りたいが、父のことが気にかかる。

十二日
 彼はとうとう退社。二、三日前「退社の辞」を口述筆記した。つまり、生まではいいそこないや尽くせないところがあるといけないといって、半折原稿紙八十枚ばかりに、彼が口述するのを私が書き取ったのだ。そこできょう、正式に会議を要求して、下中さん(社長)、高橋守平さん(出資者、専務)、清藤幸七郎さん、☓☓さんに集まってもらい、その席で右の退社の辞を読みあげて引きあげてきたという。

十三日
 はれ。球磨から手紙。義父と武雄さんが来遊と。
 下中さんから手紙。退社を認めないと。出社がいやなら客員にでもと。
 うちのひと、三越に買い物に。さあ私はごちそうの工面をしなければ…

憲三が退社して一箇月後、「現代大衆文学全集」の配本がはじまりました。『平凡社六十年史』の記述にもどります。「『現代大衆文学全集』の第一回配本は昭和二年五月、第一巻の『臼井喬二集』だった。四六判、総布上製、函入のこの全集は、新鋳九ポイントの活字を用い、総振仮名付きの読みやすい体裁に組まれており、多数の挿絵を挿入した愛蔵本だった。……第一次案は三十六巻……第一回配本の部数は三十三万部、印税は一律に一割だった」10

憲三は、第一回配本に立ち会うことはありませんでした。しかし、その編集を遂行したのは憲三自身であったことはいうまでもなく、そしてそもそも、「現代大衆文学全集」の企画自体が憲三の手によるものであり、かくして憲三は、平凡社の歴史にその名を刻むことになったのでした。

憲三が平凡社を辞める前年の一九二六(大正一五)年一一月に、すでに憲三と逸枝は上沼袋に移転していました。この時期、逸枝は憲三を、このように評します。

 ここに移ってまもなくKは運命的な事件に突入することになった。彼の関与した出版の決定的な成功と、それにもかかわらずそれは彼の退社を結果した事件だったのだ。
 Kは私の見てきたところではきわめて透徹した孤独の持主だった。この孤独は自他の偏見を超越した普遍的な性格のものだった。俗な言葉でまた彼のきらう言葉でいえばそれは神に通ずるものだった。私が尊敬したのは彼の孤独だった。彼は男性なので社会が男性に与える世俗的な条件のために心身をさいなまれていた。そこに彼のやむをえない矛盾や錯誤もおこり不当に誤解されることもまた多かった。私は会わない前から電光の一閃でそれらのことをほとんど全面的に直感していた11

逸枝は、このように、憲三の孤独は「神に通ずるものだった。私が尊敬したのは彼の孤独だった」と書きます。ここは、朱線を引いて強調していい箇所かもしれません。

憲三が職を辞すと同時に、収入の道は途絶え、生活は、逸枝の筆に頼ることになります。逸枝は、このように書いています。「金取り仕事が大車輪にはじまった。朝日、読売、報知、サンデー毎日、週刊朝日、婦人(朝日)、婦人公論、婦人画報、女人芸術、講談社、小学館、宝文館もの、地方では大阪朝日、名古屋の新愛知等に私は送稿した。これは表面的にはあるいは一種の花ばなしい活動だったかもしれないが、自分自身の空しさ恥ずかしさはごまかすことができず、ふたたび三たび私は例の上落合このかたの窒息寸前の気もちにおちいらされている感じだった」12

憲三が退職して四箇月後のことです、逸枝のもとに悲報が届きました。「このような悪戦苦闘のさなかに故郷の払川では父勝太郎が亡くなった。私は人知れず暗涙をのんだ。父は昭和二年八月十日に釈迦院川の魚釣りから帰ってくると机の上の前で卒倒し、そのまま意識を失って、翌十一日に最後の息を引き取ったというのだった」13

逸枝が母の登代子を失くしたのは、一九二〇(大正九)年一二月一一日でした。その翌年の三月、父の勝太郎は、生きる力を喪失したかのように、払川尋常小学校の校長職を辞し、払川の高台の一角にある小さな家に移り住み、そこで静かに余生を送っていました。彼の唯一の楽しみは、夢に登代子が現われると、バケツをさげて墓地へ行き、「蓮華の一茎を描き添えた真意のこもった愛妻の墓碑面を洗い清めること」14でした。享年六四歳、三五年に及ぶ教職生活の生涯でした。勝太郎は、自身の四一巻からなる「嵓泉日記」を遺しました。死の二日前の八月九日の日記に勝太郎は、「火曜、曇、朝雪枝ドモハ紫疏ノ葉ヲ摘ミタリ。此日、各家トモ蚕児出生シタリ」15と記し、これが、絶筆となりました。勝太郎と登代子のあいだには、逸枝を頭に四人の子どもが生まれました。晩年逸枝は、『今昔の歌』(講談社、一九五九年)を著わし、そのなかで、三人の弟妹について、以下のように記述しています。

 父の葬儀は、まれにみる盛儀だったと、私と夫が行ったとき、村の人たちが話してきかせた。父を親しく見送ったのは長男の清人だった。彼はこのとし松永常彦収入役(のち村長)の妹雪枝をめとり、払川校に在勤していた。彼は父の希望で五高入試を受け、失敗して教師となったのだが、これは資性高邁な一面、父に似て孝心あつい彼が故意にえらんだ予定のコースだったことを、姉としての私はよく知っていた。のちに八代葉木の校長をやめて、同郷の移民団(日産農林)にしたがい、北ボルネオに行き、その地の学校を主宰したが、第二次世界大戦で捕虜になってオーストラリアに連行されて、終戦後引揚者となって帰り、いまは村に隠れて不遇ではあるが清潔な生活を送っている。次男の元男は当尾村曲野の高森みつえと結ばれ、父が死んだ頃は朝鮮の清津地方法院につとめており、妹の栞は小野部田の鉄眼生地の三宝寺に妙有尼となっていた。いま元男は父母のあとをおい、妙有は下関郊外の観音をまつる小さな山寺の庵主として、勤勉な日々を送っている16

勝太郎の墓の墓碑銘は、のちに弟の清人からの依頼を受けて、逸枝の手によって揮毫されました。逸枝は、こう回想します。

 釈迦院岳のふもと、払川部落の下鶴の丘に、私の父母の墓がある。母の墓碑銘は父が書き、父の墓碑銘は私が書いている。父は母の碑面に赤い蓮の花を自分で書いて愛情を表示しているが、私は父の碑の側面に、「叱られたこともありしが草の露」という句を手向けている。父はめったに叱ったことはない。あるいは全くないといってもいいかもしれないが、そうであればあるほど、私たち子供は自己を反省してむちうたれていたので、だからこんな句が父に対して最上の敬意を表するものとして浮かんだのだろうと思う17

振り返ってみれば、節目節目で、逸枝は父親にしかられていました。その幾つかを拾い上げてみます。資料に残る最初の事例は、「神隠し事件」でした。逸枝は、後年出版した『愛と孤独と』(理論社、一九五八年)のなかで、こう書いています。「五歳のとき私は『神隠し』にあった。なにかで父にしかられ、泣く泣くそとにでたが、いつか裏山をのぼっていたのだった。その夜の山上の景色、それはまだわすれない。月があった。雲がふくらんでほうと飛んだ」18。おそらくこれが、その後に続く逸枝の「家出事件」の最初のものでしょう。次は、家を出て、熊本の紡績工場で女工をしたときの事例です。逸枝は二〇歳になっていました。「女工になつたことが、故郷の父親に知れると、父親は火のやうに怒つて彼女を呼び戻した、そこで彼女は詮方なく故郷に歸つて代用教員となり濟ました、然し不安と、不満と、反抗とは常に彼女の胸に鬱積して、毎日退屈な日を送つた」19。最後に、二五歳ころに逸枝が憲三に宛てて書いた手紙から引用します。「妾はまるで、ほんのむすめです。妾はそれを妾の父母から氣に食わないと云つていつも叱られます。……ですからどう考へても妾には結婚の資格はないのです。妾はもつと妾の理想的な空想的な生活をいたしてゐたいのです。いまの普通のそれには耐へられないのです。それを自由、と妾は申します」20。こうした事例を挙げてゆきますと、「叱られたこともありしが草の露」という句のもつ語感の響きが、切切とほとばしります。

逸枝は、生まれてくる子を死産により失い、憲三の失職に伴い収入を失い、そしていま、母親に続いて父親も失いました。すべてを喪失し、もう何も失うものはなくなりました。夫との一体化願望と、望郷の念とが忍び寄ります。逸枝は、こう書きます。「両親が亡くなってみると、こうして私の身柄は根拠をなくして、いよいよ旅の空で、夫との結合のみに、運命づけられてきたようだった」21

そのころ逸枝は、売文書きに明け暮れていました。その結果、こころも体も、衰えを見せはじめました。「もし、われわれが故郷の村に帰ってしばらく静養されるようだといいが、それも現実にはゆるされないとすれば、ここになされうるたった一つの方法は、都心からずっとはなれた田園地に移転すること」22でした。しかし、それが実現するには、おおよそ一年を要すことになります。すでにこのときまでに、逸枝の筆は、収入を得る方向へと意に反して歩き出していただけでなく、その一方で、社会的良心の炎が、乾いた逸枝の心情のうえに勢いよく燃え盛りはじめようとしていたのでした。

(1)『平凡社六十年史』平凡社、1974年、78頁。

(2)相馬健作『文壇太平記』萬生閣、1926年、208頁。

(3)同『文壇太平記』、318頁。

(4)前掲『平凡社六十年史』、78頁。

(5)同『平凡社六十年史』、79-81頁。

(6)同『平凡社六十年史』、83-84頁。

(7)同『平凡社六十年史』、85、87、および91頁。

(8)同『平凡社六十年史』、91-92頁。

(9)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、219-224頁。

(10)前掲『平凡社六十年史』、92頁。

(11)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、217頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、228頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、230頁。

(16)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、239頁。

(17)同『今昔の歌』、238頁。

(18)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、73頁。

(19)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、1921年4月16日、5面。

(20)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、162頁。

(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、231頁。

(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。