中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第六部 憲三のアナーキズム傾斜と「現代大衆文学」の企画

第一五章 逸枝の平塚らいてうとの巡り会いと『戀愛創生』

逸枝の妊娠に気づいた憲三は、熊本県八代郡の弥次海岸での生活を切り上げ、再び東京に上ることを決意します。ふたりが寄寓したのは、以前世話になっていた世田谷の軽部家の一室でした。それからおよそ一箇月後の一九二二(大正一一)年四月一〇日、逸枝は、憲平と名づけた男児を出産します。しかしそれは、死産という不幸な出来事で幕を閉じます。逸枝の母性主義への開眼が、ここにありました。

 私の母性主義は、ここに開眼の契機をもつことになった。大正十五年刊の『恋愛創生』では、まだ単なる観念論ではあったが、新女性主義の提唱とまでなった。科学の進歩によって、人間が人為的につくられる時代、したがって現在の出産が無意味化するというような時代がくればともかくとして、そうでない段階、またはそれに到達するまでの過程では、産児は社会全体によって守られねばならず、これを阻害する条件はすべて排除されねばならないという強い意欲を、私は胎児の意志として感じた

これよりのち逸枝が論陣を張ろうとするのは、「産児は社会全体によって守られねばならず、これを阻害する条件はすべて排除されねばならない」という同時代における「母性主義」についてというよりは、どちらかといえば、「現在の出産が無意味化するというような」未来社会における婦人の生き方、すなわち「新女性主義」の展望についてでした。逸枝はいいます。「憲平ちゃんの死産後、私は『東京は熱病にかかっている』という長篇時事詩を書いた。これは私にとって画期的なもので、社会的関心を示した制作だった。大正十四年十一月に万生閣(平凡社)から刊行されている」

死産の翌年(一九二三年)のおそらく八月に、『東京は熱病にかゝつてゐる』を脱稿すると、逸枝は、次の作品となる婦人論を構想し、執筆に入ろうとしていました。そのときのことです、関東地方を大地震が襲います。死者と行方不明者あわせて一〇万人を超える、未曽有の被害をもたらしました。憲三と逸枝は無事でしたが、そのおよそ五箇月後の一九二四(大正一三)年二月のはじめに、被災親族が集まる軽部家を出て、上落合、そして次に東中野の借家に入ります。しかし、家のなかは、夫の憲三の知人や友人の無料宿泊所と化し、自由な執筆の時間が奪われてしまいました。そこで、一九二五(大正一四)年九月一九日、意を決した逸枝は、書き置きを残して家を出ます。高野山に入り、そこで婦人論を書くために、西へ行く列車の客になったのです。その旅には同伴者がいました。それは、西国への巡礼を計画していた、憲三の同僚で同居人の藤井久市でした。書き置きを読んで驚いた憲三は、家を解約し家財を処分し、逸枝と同じように家を出て、連絡のあった和歌山県の新宮へ逸枝を迎えに行きます。そこで再会を果たしたふたりは、逸枝の希望もあって、一〇月の上旬、再び東京に舞い戻ることになるのです。逸枝の企ては、貫徹されえませんでした。その結果ここに、「ナベ一つ茶わん一つ」の、再出発がはじまるのでした。

新生活の場は、次のような住まいでした。

 二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋郡の一つだった。……
 私たちの住居は部屋が三つ。東の小部屋は朝から陽が射してあたたかく、私はそこを専用勉強部屋にした。……居間は南面し、すぐ前は植木畑であるのが私たちを和ませた。
 この家ではもはや訪問客はかたく排除された

逸枝は、新しい生活を開始するに当たって、憲三に「夫婦の尊厳への認識」を求めました。逸枝は、こう書いています。

 私は家出から帰ってくると、こんどこそ従来のあいまいな姑息な態度を一擲して、はっきりと、Kに夫婦の尊厳への認識をもとめ、二人は同志的結合によって社会に貢献したいということを表白した。そしてKはこのとき厳粛に同調を約束した

そのおよそ二箇月後に、逸枝は、迎えにきた憲三から新宮の宿で受け取っていた手紙を再読し、書入れをしました。そこには、こう記載されています。

何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。……私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない

「こんどこそ従来のあいまいな姑息な態度を一擲して、はっきりと、Kに夫婦の尊厳への認識をもとめ……Kはこのとき厳粛に同調を約束した」という語には、逸枝の女/妻としての男/夫たる憲三への攻撃性の一端を読むことができます。他方、「私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない」という語には、逸枝(女/妻)の憲三(男/夫)への従順性の一面を見ることができます。もしこの見方に妥当性があるならば、家出後のこの時期、逸枝のこころのなかには、自分が理想に描く夫婦像を憲三に強要しようとする攻撃性と、憲三に仕え、そして尽くすことを自分の徳とする従順性とが共存していたことになります。

逸枝は、このようにも書いています。

 Kと私は、相知って以来、興味あるじぐざぐなコースをたどってきた、不思議な二人だった。私はとことんまで従順だが、窒息間ぎわになると、火の国の女の野性をまる出しにしてしまう(ただし愛と尊敬とだけは相手の出方の如何にかかわらず絶対にかわらない)。これにたいしてKは、私が従順な間は、無感覚で図々しいが、私が原始的な自由性をあらわにして立ち向かうと、急に理性のある男になってなだめ役にまわる。こうして少しずつ二人は完成していった

しかし、「完成」、つまり逸枝が求める「一体化」までには、いま少し年月を要すことになります。

他方、この時期の憲三の内面については、憲三が勤務する平凡社の社長の下中彌三郎が、「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」のなかで、次のように描写しています。

 橋本君と結婚してからはもう七年になるが、橋本君は全く、自己の生活を空しうして逸枝さんの才能を世にあらはすために一切を捧げてゐるといつてもよいくらゐ忠實な夫である。しかし、妻のために存在するばかりでなく、自分としての生活をも生活したいと考へるやうな傾向が少しでも見えると逸枝さん、たまらなく苦しむらしい。
 全然自身のものであつてほしいといふ利己的な盲目的な感情と文壇人として夫を活動させたいといふやうな感情とが内で闘ふからであらう

逸枝への奉仕者としてだけではなく、平凡社の編集者として、「自分としての生活をも生活したい」という考えはあったかもしれませんが、他方で憲三は、『山の郁子と公作』を一九二二(大正一一)年に、続く翌年に『戀するものゝ道』を出してからは、事実上、小説の執筆から離れていましたから、「文壇人として夫を活動させたいといふやうな感情」は、もうこのときには、逸枝の内にはなかったものと思われます。したがいまして、逸枝の内面を支配していたのは、一方の、「全然自身のものであつてほしいといふ利己的な盲目的な感情」ただそれだけだったのではないかと推量されます。つまり「一体化」がかなわなければ、窒息死回避のための「一時避難」の実行です。上の引用に続けて、下中は、さらにこう書きます。

『現代にあつては愛は別れを強ひる』
 といふのが家出當時のおさへやうとしておさへられない心情であつたのもそのため

下中のこの言説を参考にするならば、逸枝が家出をしたのは、梁山泊的な生活からの単なる「一時避難」というよりも、むしろ、これから書く婦人論のための、換言すれば、恋愛や結婚の深部を考察するうえでの、それに必要とされる、「おさへやうとしておさへられない心情」が繰り出す、家庭という縛りから決然と逃れ、あえて自らを孤独の道へと駆り立てる必然的な実践形態だったのではないかとも、考えることができるのです。そして同時に、そこには詩人や哲学者のような表現者に固有の「利己的な盲目的な感情」が避けがたく情動していたのではないかという推断もまた、否定できそうにないように思われます。逸枝がしばしばいうところの自分の「宿命」が、これなのではないでしょうか。

以下の文が、下中の「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」の末尾にある一節です。

 こんど、あゝしてまた夫の胸にかへつた逸枝さん、どうかそのまゝおちついて、あのするどい觀察を社會問題、婦人問題の上に深めてくれゝばよいがと私は今切にそれを望んでゐる

下中の「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」が掲載された『婦人公論』が世に出て数日後の一一月五日に、今度は逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』が、下中の別会社の萬生閣から上梓されます。これには、巻末に付録として「家出の詩」が付け加えられました。家出騒動からおよそ一箇月半のあいだ、苦悩と疲労のなかにあって、ただひたすらに逸枝は、「家出の詩」に取り組んでいたものと思われます。逸枝はこの詩に、以下のような前文をつけました。

下中先生のご好意で、恰度この本を萬生閣から出して頂くことになつた時分、家出をしたために、世間から誤解をうけて、先生に對して申譯がない。次の詩篇が幾分罪を贖ふことになるものであつたなら幸である。私は世間がもうすこし低級でないように望む10

「私は世間がもうすこし低級でないように望む」の語句に、逸枝の真骨頂を見るような気がしますし、本文たる、家出を主題とする長編詩においても、逸枝の婦人論が投影された詩句を見ることができます。以下に、そのなかから幾つかを選んで引用します。

所有被所有の雰圍氣は、
この社會の社會的雰圍氣の中心。
勞働者は資本家に。
小作人は地主に。
妻は夫に11

識者等よ。自覺せよ。
現在の不合理な社會を、
根柢から打破するには、
不合理な家庭、
家庭のなかの不合理な雰圍氣を、
このまゝにして置いてはならぬ。

雰圍氣とは何。
例へば妻のする仕事を夫がしたり、
加勢したりするのを、
恥ぢるやうな12

ある戀の日に、
青年が米を洗ひ、
少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、
不自然なことだらうか。

我々は、原始人類が、
かうした生活をしてゐたことを確信する13

『東京は熱病にかゝつてゐる』からおよそ二箇月が立ち、年が明け、一九二六(大正一五)年が到来しました。家出事件の余波も落ち着き、一月一〇日に憲三は二九歳の、一月一八日に逸枝は三二歳の誕生日を、穏やかな気持ちのなかにあって迎えたものと思われます。

ところで、『東京は熱病にかゝつてゐる』に心を奪われたのは、下中彌三郎だけではありませんでした。下中が、「讀んで下さい――序にかへて」において、当代の優れた女性として名を挙げていた「平塚明子さん、山川菊榮さん、奥むめおさん」のなかのひとりであり、かつて『青鞜』を創刊していた平塚らいてう、その人もそうでした。逸枝より八歳年長でした。らいてうは、逸枝の詩集との出会いについて、このように記述しています。

 わたくしが高群さんの存在を知ったのは遅く、大正十五年ごろかとおもいます。ふとした機会に、高群さんの詩集「東京は熱病にかかってゐる」ほか、二、三の彼女の文章を読んだときから、わたくしの魂は、すっかりこのひとにつかまえられてしまいました。
 初めて高群さんの著作にふれたとき、四、五日というものは、まるで恋人の姿や声やその言葉一つ一つが、たえず頭のなかを胸のなかを駆けまわるように、高群さんの詩句の断片で、わたくしの心は占められたかのようでした14

『東京は熱病にかゝつてゐる』は、すでに述べていますように、全二五節から構成される長編詩です。第十二節が「文士有島武郎」です。そのなかに、こうした詩句があります。

有島武郎
 誰がよいのでも悪いのでもない。
 善につれ、悪につれ、
 それは運命。
 わたし達は運命に率直であつたばかりです15

小説家の有島武郎と『中央公論』の記者で人妻の波多野秋子が、軽井沢の別荘で縊死するのは、一九二三(大正一二)年の六月でした。らいてうは、かつて自分が起こした心中未遂事件と重ね合わせるようにして、この一片を読んだかもしれません。一方で、逸枝が述べるところによれば、旧自然主義の芸術が小説を主とするものであったのに対して、新自然主義の芸術は詩を中心に置かれなければならず、いままさにその復興期に直面しているのです。らいてうは、芸術に対する、次のような逸枝の熱意に心を動かされたのかもしれません。

 新自然主義の藝術は、普遍我の表現である。普遍我の、熱情の、無政府的爆發である。詩である16

らいてうは、『東京は熱病にかゝつてゐる』を読むと、おそらく誰かに、逸枝に宛てた伝言を託したものと思われます。一九二六(大正一五)年の四月のある日、それを受け取って感動した逸枝は、近刊の『戀愛創生』を添えて、らいてうに一通の書簡を送りました。以下は、その一部です。

 長い間今日を期待しておりました。あなたからのご伝言を承ることは私にとっては当然なことでございます。私はあなたを母胎として生まれてきたものでございますし、私ほどあなたのために、激昂したり、泣いたりしたものがございましょうか17

逸枝はここに、「私はあなたを母胎として生まれてきたもの」と、はっきりといっています。つまり、逸枝が自覚する自身の妣君が、らいてう、その人なのです。そののち、石牟礼道子が自覚する自身の妣君が、高群逸枝であることを考えれば、ここに、三代にわたる妣の系譜のはじまりを見ることになります。

一九一一(明治四四)年に『青鞜』が創刊されたとき、逸枝はまだ一七歳の子どもでした。しかし、「新しい女」や「新しがる女」といった蔑称でもって世間から愚弄され、厳しく批判されることに触れた逸枝の魂は、怒りの炎に包まれていたのでした。逸枝の書簡は、次のように続きます。

 「人はみな悪人です。私が子供であって、かたきをうつことの出来ないのをお許し下さい」と、私は早い頃、あなたに対していのっていました。それはもう早い昔、あなたが世間から憎まれていらっしゃる頃でした。
 それから、事ごとに、あなたのために泣きました。それはもちろん私のためにでございます。私には、ひとの無知が、くるしかったのです18

この文から想像できることは、どのようなことでしょうか。らいてうの苦しみを自分の苦しみとして引き受け、「かたきをうつ」ために、そしてまた「ひとの無知」を瓦解させるために、その後の逸枝の、女性史研究という険しい学問への道は用意されたのではないか、そのようなことが想像できるのではないでしょうか。つまり、この文が暗示しているのは、らいてうが『青鞜』の創刊の辞として発した「元始、女性は實に太陽であつた」という仮説を、学問としてはっきりと実証してみたいという、逸枝の胸に深く刻まれた思いではなかったのか、そのような気がします。そうであれば、このときすでに逸枝には、詩人から学者へと向かう己の必然的な道筋が明確に見えていたにちがいありません。逸枝は、こういいます。

 私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった19

ここに、火の国の女がもつ正義感と義侠心が炸裂し、詩人としての熱い感性を携えて、学者固有の、冷徹なる知の産出へと向かう、逸枝の、その瞬間的契機を見るような思いがします。しかし、学者として女性史研究の道へ実際に向かうのは、一九三一(昭和六)年の七月のことで、そこに至るまでのこれよりのちのおよそ五年間は、逸枝にとって、必ずしも安寧で平坦な道のりというわけではなく、時の流れに身をまかせながら一進一退、逸枝は夫とともに、紆余曲折の街道を歩むことになるのでした。

逸枝にとって、「女性史研究」にたどり着くまでに、その土台として、どうしても事前に論じておかなければならないものがありました。それが、「恋愛論」でした。逸枝は、家出のさなか、恋愛論にかかわる原稿を書いていたにちがいありません。それが、家出のひとつの目的だったからです。下中も憲三も、『東京は熱病にかゝつてゐる』の続編として、その完成を強く望んだことでしょう。帰京後も、新しい生活の場を得て、さらに筆は加速していったものと思われます。実際に『戀愛創生』が公刊されたのは、一九二六(大正一五)年の四月一日のことでした。版元は、『東京は熱病にかゝつてゐる』と同じ萬生閣でした。この本には、いっさい章も節もなく、全文が書き流しです。本文に先立つ「巻頭に」において、本書執筆にかかわる要点が箇条書きにされています。それは、「婦人問題の経路」にかかわって八点、「戀愛の経路」にかかわって一〇点、そして「エレン・ケイの戀愛論」にかかわって一点、合計一九箇条で構成されていました。以下に、「婦人問題の経路」から三点、そして「戀愛の経路」のなかから同じく三点を選んで、紹介します。

一、婦人問題の経路は、女権主義、女性主義、新女権主義、新女性主義。
一、新女権主義は、科學社會主義を信奉してゐる。新女性主義は、科學社會主義の彼方に、新たに個性を語る。
一、新女性主義こそ、世界に對して日本婦人のする、最初の提唱であらう。私は豫想する。日本婦人の活動を。知的聡明を。新女性主義を、いま本書で説く。

一、戀愛の経路は、精神主義、肉慾主義、霊肉一致主義、一體主義。
一、一體主義は、戀愛の究極を、一體と見る。一體と感じた戀愛において、生殖し、人類における男女兩性の一體化、男女兩性の消滅期へまで、子孫を一體的過程の上において維持する本能。
一、一體主義は、科學上の、地球の冷却説に順應して、人類の自然消滅を豫想するものである。一體主義を、いま本書で説く20

新女性主義と一体主義、これが逸枝にとっての婦人論および恋愛論を支える基礎となる原理部分です。その上に立って逸枝は、マルクス主義を次のように見ます。

 マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる。
 彼等は、婦人が彼等の社會に所有されてゐるゆゑ、婦人に對して無關心である。
 社會上のすべての問題は、婦人を踏臺にした上でのものであるといふ眞理に對して無關心である。
 彼等は、婦人が踏臺にされてゐるといふことを忘れて、単なる経済的争奪戦の現象を、全體としての現象であると見てゐる。
 彼等は、甚だしい近視眼者、社會の表面だけを見る皮相論者にすぎない21

他方、サンディカリスムについては、以下のように書きます。

 サンヂカリズムは、議會主義を一笑に附し去り、無産階級の直接行動によつて、社會改造の目的を達成しようとする點で、修正派社會主義に正反對の地位に、その社會制度の内容を、生産階級の組合自治に委ねようとする點で、集産主義即ち國家社會主義と正反對の地位にある。
 國家的権力を軽視する點では、無政府主義に類するけれども、組織の必要と、積極的闘争とを主張する點では、無政府主義と同じでない22

加えて逸枝は、無政府共産主義者たちの理想について、こう述べます。

 無政府共産主義者として數へらるゝものに、プルードン、バクニン、クロポトキンがある。
 プルードンは、平等を力強く主張した。境遇の平等、機會の平等を。
 プルードンは、國家的支配を否定し、人間としての自由を熱望し、バクニンは、革命的無政府主義者として、革命の化身といはれ、人間平等の精神に立脚して、一切の特権制度に反對した。
 彼の理想社會は、政府といふ組織を持たないばかりでなく、いかなる種類の制度をも持たなかつた。
(中略)
 クロポトキンの思想は、「パンの略取」「相互扶助」論等で有名である23

以上が、逸枝が『戀愛創生』のなかで言及していたマルクス主義とサンディカリスム、および無政府主義にかかわる描写箇所からの部分的抜粋になります。逸枝は、いかなる強権的制度からも自由であることを望みます。現行の結婚制度(一夫一婦制)は私有財産制度の一環であり、学校制度も、同じく特権支配制度のなかにあって機能している以上、母性の本能的見地に立って、強く廃止を求めるのでした。

逸枝自身は、この自著『戀愛創生』について、こう論じています。

 この静かな落ち着いた環境で、私は恋愛論を書いた。……内容は序文が示しているように、母性保障社会の主張―新女性主義―であるが、借り着のない自己の思想であり、私にとっては後の女性史学建設へのいろいろな芽ばえを持っているものとしてたいせつなものに私は考えている。
 ただ残念なことは、資料と時間とに制約されたのと、疑いもない著者の未熟とが相まって多くの誤謬をおかしていることであるが、母子保障の必然性から社会主義の肯定に到達していることや、遠い将来における婚姻制の廃止を考え、かえってそれによって夫婦の純粋な一体化が生かされるという、いわばエンゲルス的な思想に、べつの道から到達していることが特徴といえよう。もっともエンゲルスの本はまだ私はそのころまで読んでいなかった24

「恋愛論・婦人論」の執筆から「女性の歴史」の研究へとただちに直線的に進んだわけではありませんでした。すでに『東京は熱病にかゝつてゐる』において、アナーキズムの萌芽がありました。このとき、逸枝のみならず、「私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」憲三にとって、将来の女性のあり方を展望し、そこに到達するに当たっては、その方法論と運動論が必要だったものと思われます。アナーキズムに根差した実践形態がふたりを呼んでいるのです。

再び「家出の詩」から、すでに引用した同じ箇所を下に示します。

所有被所有の雰圍氣は、
この社會の社會的雰圍氣の中心。
勞働者は資本家に。
小作人は地主に。
妻は夫に。

これが、男女関係を含む所有被所有についての現状認識であるとするならば、理想形の男女関係は、どこに求めればいいのでしょうか。

ある戀の日に、
青年が米を洗ひ、
少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、
不自然なことだらうか。

求められるべきは、旧来の役割分担を越えた、おそらくは、こうした自由で束縛のない男女の関係の新たな創出ということになるでしょうか。それでは、そこへ至るには、いかなる実践なり運動なりが必要なのでしょうか。しかしその前に、旧弊な役割分担や家父長制、その底流を流れる男尊女卑の思想は一体どこから来たのか、つまり、虐げられた女性の歴史は、太古から現代に至るまで、どのようなものとして、果たして実際に成り立っているのか。逸枝と憲三は、この時期、複雑に絡み合った社会的、思想的、歴史的問題群のちょうどその入り口に立っていたものと思われます。換言すればふたりは、恋愛論・婦人論の産出、女性解放運動の実践、加えて女性史学の確立、いまだ誰も目にしたことのない、鬱蒼とそそり立つこの三位一体の世界を前にして、身震いしていたものと思料します。しかし、そのまた一方で、憲三は、平凡社における自身の抱える問題に対しても厳しく格闘しようとしていたのでした。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、196頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、214頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、213-214頁。

(5)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、21頁。

(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、213頁。

(7)下中彌三郎「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、1925年11月、52頁。

(8)同「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、同頁。

(9)同「高群逸枝さん家出の遺書――生の倦怠が生んだ悲劇か――」『婦人公論』第10巻第12号、同頁。

(10)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、380頁。

(11)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、392-393頁。

(12)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、394-395頁。

(13)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、399-400頁。

(14)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、305頁。

(15)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、137-138頁。

(16)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、28頁。

(17)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、233頁。

(18)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。

(19)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、62頁。

(20)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、1-5頁。

(21)同『戀愛創生』、316-317頁。

(22)同『戀愛創生』、332-333頁。

(23)同『戀愛創生』、335-336頁。

(24)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、216頁。