中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第六部 憲三のアナーキズム傾斜と「現代大衆文学」の企画

第一四章 憲三によるアナーキズム世界への逸枝誘導

すでに見てきていますように、青年期の憲三が同人雑誌『少数派』を発刊するに際して、社会主義者の小山勝清が最初から参加していたことから推量しますと、憲三自身も、そうした思想傾向にあったものと思われますし、一方の同時期の逸枝は、その対極にある、センティメンタルな唯心論者を自認していました。

いま熊本市立図書館に、『黒い女』(解放社、一九三〇年)の初版本が所蔵されています。黒は、アナーキスト(無政府主義者)たちが使う旗の色です。したがって、「黒い女」は、「アナーキスト女性」を暗に示します。この本を手に取ると、表紙裏の見返しに、逸枝が橋本静子に宛てた献呈の辞が自筆されています。日付は、亡くなる二年前の「一九六二年五月」、橋本静子は、夫憲三の妹です。「わかりがよい」という語句は、「わかりが早い」と読めなくもありません。

風がわりな小説です。散文詩的または寓話的小説とでもいえば、わかりがよいかもしれません。心理的には自叙伝ともいえましょう。私の愛の哲学が語られていると思います。ほんの芽生えにすぎませんが。

『黒い女』のなかの、とりわけ第一章に相当する「妻」を構成する短編の六作品は、どれも、「散文詩的または寓話的小説」であり、逸枝の前半生の総括として読むことができます。そのなかから核心部分にちがいないと思われる幾つかの断片を抜き出し、山奥の寒村の純朴な乙女が、いかにして、熱病にかかっているかのような大都会にあってアナーキストへと変貌してゆくのか、その姿を、短く以下に組み立ててみたいと思います。ここから、夫を深く愛しながらも自由のない家庭生活を拒み、それでも、夫の唱導のもとにアナーキストへと向かう逸枝の道程を読み取ることができます。

 私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか

人生は刑罰に満ちてゐた。何處から何處まで辛いことばかりだつた。
 けれど、けれど、
『妾に学問があるなら……』
 朝になると學校の鐘が鳴る。……
 私の心は、長い間、學校へ憧れた。それを人がわらつた

 一六のときに、私はいまの夫と、その盆地で出會つた。……不思議なやうに、彼はどこの誰とも分らぬ小娘に對して、丁度何も彼も知り盡してゐるやうなふうをした

 初めて東京駅に下りたとき亭主がいふには、
『たまらない不調和を感ずるね。さあ、こいつを踏みにじつて行かう』

 彼女は一分間も夫を離れては生きてゐられなかつた。けれどもそんなことを仮にも彼女がいふなら夫もわらふだらうし他人はなほ嘲るだらう

『洗濯はいやだ』と私の心がつぶやく。
『裁縫も……』
 そしてたゞ溜息をついて私はゐる

『きれいな晩ね。あなた』
 私は遠い夫へ叫んだ。そして心から、
『さよなら、さよなら』と、おじぎした。……
 私は涙にぬれたが、しかし、行くといふことが、もう私の宿命であつたから、私は草履のひもを結んで立ち上つた

 どんな可憐な野の花も、庭におけば惨めである。だが然し、野においたら、何と美しく見えることか

 私は、此上もなく、おづおづと、夫を恐れてゐた。けれど、私がどんなに夫を愛してゐるか、そして夫を離れると、もう私というものはなくなつてしまふといふことを、ひとこと、夫に云ひたいと思つた。けれど、それは云へないことだつた

 だが、やがて、私は夫と共に、暗い、低い、夜空の下を歩いてゐた。
『うちを出たのが悪かつたのだ』
 と、夫がいつた10

 私は心に思ふことを口にだしていふことのできない女である。けれど思ふことがあまりに多くなると、たへることができなくなる。……そのとき私は卒倒しさうになる。それからカツと逆せあがる。そして無茶苦茶なことを口から出たらめに云つてしまふ。
 私はあとで、それを悔ひもし、恥ぢもする。そして心で、夫にわびをいふ。けれど夫にはそのときの私を可愛いく思ふ様子がある。それがだんだん分つてくるのだつた11

『俺はお前も知つてゐる通り、小作人の子だ。お前はお前で、もつと酷い者の子だ。だから俺達は當然、階級といふものを勉強しなくてはならん』
 こうして彼らは、事物に關し二つの相反する意見といふものを持ちはじめた12

 彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。
『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』
 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。
『だつて……』
 と妻はつぶやく。
『あたしそんなら何を歌へばいいの』
そして涙ぐむ13

『すべて人生を知らない奴は、書物からだけ描かうとする』
 今や、夫の胸には、書物を批判する意識が動いてゐた。そして彼女も當然さうであつた14

以上は、自叙伝的小説『黒い女』のなかにおける経緯です。それでは現実世界における逸枝のアナーキストへと至る経緯は、具体的に、どうだったのでしょうか。

逸枝は、こう書き記します。「私がアナキズムにひかれたのは書物からではなく、大逆事件に私の故郷から無実と思われる犠牲者たちを出したことが火の国の娘の胸を打ったのが遠い動因の一つ」15

大逆事件とは、捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が逮捕され、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡し、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行された一連の出来事を指します。このとき逸枝は一七歳、そしてまた、平塚らいてうによって『青鞜』が創刊された年でもありました。死刑の犠牲者のなかに、逸枝と同郷の新美卯一郎と松尾卯一太がいました。ふたりとも、熊本県尋常中学校(現在の熊本県立濟々黌高等学校)の卒業生で、一九〇七(明治四〇)年に『熊本評論』を創刊していました。この肥後人の非業の死が、まさしく「火の国の娘の胸を打った」のでした。のちに逸枝の弟の清人も元男も、この学校で学びます。

前章においてすでに引用により示していますように、逸枝は、「大正十一年には、『東京は熱病にかかっている』を書いた(翌年脱稿)」と書いています。「大正十一年」は、弥次海岸での二回目の新婚生活を切り上げて、東京に舞い戻ってきた年です。『黒い女』に書かれてある、「初めて東京駅に下りたとき亭主がいふには、『たまらない不調和を感ずるね。さあ、こいつを踏みにじつて行かう』」の一節は、このときの憲三の言葉であったにちがいありません。そしてまた、「俺はお前も知つてゐる通り、小作人の子だ。お前はお前で、もつと酷い者の子だ。だから俺達は當然、階級といふものを勉強しなくてはならん」という言説に認められるように、このころからふたりは、階級意識に強く目覚めるようになったものと考えられます。

それから一年が過ぎた、一九二三(大正一二)年六月に、憲三は、下中彌三郎が社長を務める平凡社に編集者としての職を得ます。すると、その三箇月後の九月、ふたりは、関東大震災により被災し、翌年(一九二四年)の春に、寄宿していた軽部仙太郎家を辞して路地裏に住まいを設け、新生活に入ります。しかし、上に見るように、そこには、「『洗濯はいやだ』と私の心がつぶやく。『裁縫も……』そしてたゞ溜息をついて私はゐる」のでした。

これとは別の意味でも、この生活は、逸枝にとって実につらいものがありました。次も、前章で引用している逸枝の言辞です。「きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うだろう。これはブルジョアがプロレタリアにたいして、その弱身につけこんでいう悪辣な言葉とおなじに悪辣である。こうした言葉は使って欲しくない」。一方、『黒い女』には、上で引用した、こうした表現があります。逸枝が家を出る瞬間の描写です。

『きれいな晩ね。あなた』
 私は遠い夫へ叫んだ。そして心から、
『さよなら、さよなら』と、おじぎした。……
 私は涙にぬれたが、しかし、行くといふことが、もう私の宿命であつたから、私は草履のひもを結んで立ち上つた。

家出をしたのち東京にもどると、その二箇月後、逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』が、平凡社の別組織である萬生閣から刊行されました。この詩の大きな特徴は、叙情詩ではなく、時事詩であるということです。

逸枝は、自身がアナーキズムに関心をもつようになった要因について、大逆事件を遠因としながらも、直接的な要因を平凡社の下中の思想に求め、それについて逸枝は、こう書きます。「またKが下中さんの教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して自然に私にアナ系の思想を持ち込んだことが近い契機の一つとなったともいえよう」16。「教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して」いた「K」とは、下中の思想に共鳴し、そのもとで働いていた夫の憲三であることは、いうまでもありません。

これに関しては、すでに引用していますように、『黒い女』のなかの、次の語句が対応します。これは、憲三と逸枝の実際の会話ではないかと、推量されます。

 彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。
『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』
 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。
『だつて……』
 と妻はつぶやく。
『あたしそんなら何を歌へばいいの』
そして涙ぐむ。

この会話から、夫が、いま世間のはやり歌を家に持ち帰り、それを妻に歌って聞かせると、すばやくそれを覚えた妻は、何と誰よりもうまくその歌を歌い出す、といった情景が目に浮かびます。つまり、社長である下中の思想や哲学に共感するとともに、仕事上、新聞雑誌をにぎわす時事問題に積極的に目を向ける憲三が、そうした新鮮な取り立ての情報を家に持ち帰り、逸枝に話して聞かせると、いつのまにか逸枝は、それを自分の言葉で話すようになるのです。

『東京は熱病にかゝつてゐる』の刊行には、脱稿から二年が経過していましたが、前後の状況から判断して、そうした過程を経て最終的に世に出た作品だった可能性があります。そうであれば、『東京は熱病にかゝつてゐる』のプロデューサーは、平凡社社長の下中彌三郎であり、他方、ディレクター役が、編集者としてその下で働く、夫の橋本憲三であったことは、ほぼ間違いないものと思われます。逸枝の役割は、このふたりの意向に沿って舞台の中央に立ち、太古の衣装に身を包んで舞い踊る、女神としての表現者だったのです。

このような憲三と逸枝の関係は、その後も、そしておそらく生涯にわたって続きます。といいますのも、晩年、憲三自身、こう語っているからです。

彼女は起稿のとき、新しい原稿用紙に向かって、私に第一章の題目を書かせる。最初のとき、あなたの原稿の書きはじめを、なんで私がしなくてはならないのですか、と文句をいうと、
 「あなたが題目を書いてくだされば、本文がらく・・に書き出せるのよ」
 といった17

憲三は、こうしたことは「『招婿婚の研究』の原稿からであったらしい。……ただ、彼女は雑文の原稿にも、よくこの題目を書かせたから、この習慣は早く熟していたのかも知れない」18と書いています。そうした憲三の記憶が正しければ、すでにこの時期にあって、演出家橋本憲三、表現者高群逸枝の、分かちがたく一体となった著述を巡る産出関係が成立していたのではないかといった仮説も、ほぼ間違いなく実証の域へと進むことになります。

逸枝の六番目の詩集である『東京は熱病にかゝつてゐる』の大きな特徴は、すでに指摘していますように、これまでに見られたような叙情詩ではなく、時事詩であるということです。これをもって、「唯心論者」から脱皮して「アナーキスト」となる、逸枝にとっての作品上の具体的な変節点とみなすことができます。以下に、『東京は熱病にかゝつてゐる』の第二十一節の「アナとボルとの話」から、次の詩片を引用します。

あれはアナとボルだ。
とばちる
悲憤。もがく芽生え。風は吹く。吹く。

暗夜。星。木の根。彼方は明るい。
アナ行け。ボル退け。
時代も歴史も。
自由。悪夢。行け。行け。利己心。正義19

思うに、逸枝のアナーキズムは、この詩片に出発点をもちます。「アナ」とは、アナルコ・サンディカリスム派(アナ派、無政府主義、組合主義)を、「ボル」とは、ボルシェヴィズム派(ボル派、マルクス主義、レーニン主義)を指します。この両者間の論争は、社会運動や社会主義運動を巡る思想的、実践的対立として、日本にあっては一九二〇年代のはじめから展開されてきていました。たとえば、労働組合運動の組織論に関しては、アナ派は自由連合論を唱え、政党の指導を排除すべきであると主張しました。それに対してボル派は、中央集権的な組織論を展開していました。

これよりのち、逸枝の関心は、明らかに時事問題へと移行します。とりわけ、女性の置かれている状況を巡る政治的認識の問題へと発芽してゆくのです。

前述のとおり、逸枝がアナーキストになる過程には、大きく夫の憲三がかかわっていました。そこで、逸枝の言説にこのようなものがありますので、ここに紹介します。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。とくに、後者とは長い一体の関係だったので、私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった20

ここまでの論述を踏まえるならば、逸枝がここに書く「私の本の出版」のなかにあって、『東京は熱病にかゝつてゐる』の出版こそが、「彼の発意または勧告による」最初の作品だったとみなしてもいいのではないかと思料します。そして、その認識が正しければ、「彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」その実質的なスタート地点が、まさしくここに、存することになるのです。

この『東京は熱病にかゝつてゐる』が逸枝の最後の詩集となり、これをもって逸枝の詩人の時代は終了します。これまでの詩集を並べると、以下のようになります。

『日月の上に』(叢文閣、1921年6月15日刊)
『放浪者の詩』(新潮社、1921年6月17日刊)
『美想曲』(金星堂、1922年2月5日刊)
『妾薄命』(金尾文淵堂、1922年6月5日刊)
『戀唄 胸を痛めて』(京文社、1922年11月28日刊)
『東京は熱病にかゝつてゐる』(萬生閣、1925年11月5日刊)

これ以降逸枝は、詩作から遠ざかります。しかしながら、この最後の詩集を通じて逸枝は、平塚らいてうとの最初のつながりをもつことになるのです。次章で、そのことについて触れてみたいと思います。

(1)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、63頁。

(2)同『黒い女』、61-62頁。

(3)同『黒い女』、38頁。

(4)同『黒い女』、59頁。

(5)同『黒い女』、8頁。

(6)同『黒い女』、26頁。

(7)同『黒い女』、51頁。

(8)同『黒い女』、60頁。

(9)同『黒い女』、42頁。

(10)同『黒い女』、同頁。

(11)同『黒い女』、24-25頁。

(12)同『黒い女』、11頁。

(13)同『黒い女』、5頁。

(14)同『黒い女』、12頁。

(15)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、236頁。

(16)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(17)橋本憲三「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、35頁。

(18)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、同頁。

(19)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、273頁。

(20)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。