中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第八部 逸枝の女性史研究の大戦を挟む前と後

第二〇章 逸枝の女性史学における国体思想の展開とその清算

天皇を中心とする国家体制や個人に基づく私有財産制に異論を唱える政治的、社会的運動を取り締まる目的で一九二五(大正一四)年四月に制定された法律が、治安維持法でした。これよりのち、言論の自由や結社の自由が著しく制限されてゆきます。また、一九三一(昭和六)年九月の柳条湖事件に端を発した満州事変、一九三七(昭和一二)年七月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争、さらにそのあとに、一九四一(昭和一六)年一二月の真珠湾攻撃とマレー作戦に端を発したアジア・太平洋戦争が続き、一九四五(昭和二〇)年八月にポツダム宣言を受諾して降伏するまでの足かけ一五年間、日本は戦争の時代へと入るのでした。果たしてこの間、逸枝の執筆活動は、時代の影響をどう受けたのでしょうか。本人は、自身を「国体主義者」とは称していませんが、実質はそれに相当するものであり、以下に、その執筆実態の概略を描いてみたいと思います。

治安維持法の制定からおよそ半年が過ぎた一九二五(大正一四)年一一月に、逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』が上梓され、それから二年後に父親の勝太郎が死去します。そのころを振り返って、逸枝はこう書きます。

私はつまり当時アナキズムの立場に傾いており、その立場から権力階層や現状維持派にたいしてたたかいをいどんでいたのだった。そこには金取り主義ばかりではなく、『東京は熱病にかゝつてゐる』に系譜をもつ社会的良心の燃え上がりがあったことは否まれまい…

一九二九(昭和四)年一〇月にアメリカ合衆国で発生した世界恐慌が日本にも影響を及ぼしはじめようとしているなか、一九三〇(昭和五)年の年が明けると、次第に日本経済は危機的状況に陥ってゆきます。

そうした社会的背景にあって、一月二日、『婦人戦線』刊行のための準備会が開かれました。そして続く一月一〇日、解放社から逸枝の短編小説集『黒い女』が届きました。まさしく『黒い女』は、いわゆる「昭和恐慌」と呼ばれるこの時代に対する先陣となって世に出るのです。黒は、無政府主義者の団体が旗に使う色です。あるいは、黒子、黒幕、黒衣に通じる色でもありました。一九三〇(昭和五)年の一月二六日、逸枝を主宰者とする無産婦人芸術連盟が生まれ、そして、同年三月には、その結社の機関誌『婦人戦線』の創刊号が世に出ます。

『婦人戦線』の発刊へ逸枝が参画するに当たっては、特別な事情が背後にありました。逸枝は、このように振り返ります。上荻窪に引っ越した当時、「私はここで雑文書きのかたわら、婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手するはずだった」。「[一九二九年の]年末に、私ははじめて印刷した年賀ハガキをつくり、前に述べた研究著述の計画を発表し、知人の援助をもとめた。だが運命はなお私には酷だった。それを投函した直後の十二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発刊のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった」。「はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。私はアナキズムについてはまだほとんど知識を欠いており、『その他大ぜい』ぐみの一人として研究していきたい段階にあったからだった。だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって承諾せざるを得なかった」

『婦人戦線』が刊行されると、投稿原稿の執筆に専心するだけではなく、大衆の前に立っての講演にも力を注ぎました。『婦人戦線』の第三号(五月号)が発行された五月のその二八日に、無産婦人芸術連盟と全国農民芸術連盟との合同講演会が読売新聞社の講堂で開催され、逸枝が演壇に立ちました。平塚らいてうは、そのときの様子を、「大勢の人前での演説などまったく不向きとおもわれるこのひとが、精一杯しゃべるのには、感心もし、安堵もしました。しかし、このときの『婦人戦線の事業』と題する高群さんの話は、臨監の警官の中止命令のため、おわりまで続けられませんでした」と、書いています

ここで着目していいのは、官憲による「弁士中止」という言論の封殺です。一九二五(大正一四)年に治安維持法が制定されて以降、日本社会は、表現や言論の自由、そして学問の自由がさらに一段と制限される道を歩み出していました。また、時代に抗い社会の変革を求める、社会主義(ソーシャリズム)も無政府主義(アナーキズム)も、国家権力の弾圧により、もはや風前の灯となっていました。『婦人戦線』の刊行も、結局次の年の六月、第二巻第六号(通巻一八号)をもって廃刊となります。

『婦人戦線』を廃刊にするとき、憲三は逸枝に、こういいました。「あなたの才能は非凡だ。稀有のものだ。それはむしろ天来のものだ。私はそれをこの眼でみてきた。才能のみでなく、性格の底知れぬ純粋さも」。「社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する」

ちょうどこのとき、憲三の才覚により、軽部仙太郎から借りた土地に、同じく仙太郎が所有していたある宮家の解体資材を再利用して建てた、「森の家」と呼ばれる自宅が完成したところでした。「私たちのこうした新しい家-研究所兼住居-は……私が『婦人戦線』の断末魔の苦しみをしているあいだにKの強行ででき上っていた。そこで私は『婦人戦線』の廃刊と同時に、身にそぐわない過去の売文生活をも清算して新生涯に入るべく、昭和六年七月一日という日に……不安と恐怖とを抱いてやってきた。……五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)を一冊のせて座ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた……」

こうして、「女性史の体系化」へ向けての逸枝の勉学がはじまりました。着手したのは「母系制の研究」でした。しかし、その四年後、憲三が勤務していた平凡社が破産し、憲三も解雇されます。収入を失ったふたりは、「母系制の研究」の脱稿に先立って、これまでカード化していた女性人名を集成し『大日本女性人名辭書』として上梓することを決意しました。

逸枝は、こう書きます。「年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。……今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった」

一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。

この『大日本女性人名辭書』は、女性を五二の項目に分類しています。「皇祖」「御宇」「神話」にはじまり、「大奥女中」「遊女」「美人」などを挟み、最後は、「婚姻」「母系」の項目で終わります。なかに「社會運動」の項目があり、ここには、官憲の手で最近虐殺されたアナーキストの「伊藤野枝」も入っています。また、「記者」の項目には、有島武郎と無理心中を図った出版社の編集者の「波多野あき子」も収録されていました。生没年は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法(つまり皇紀)によって表記されています。たとえば、「伊藤野枝」の場合は「二五五五-二五八三」、「波多野あき子」の生没年は「二五五四-二五八三」です。逸枝は、あるいは憲三は、なぜ生没年を皇紀で表記したのでしょうか。そしてまた、書題になぜ、「大日本」の三文字を組み入れたのでしょうか。これを時代の影として見ることも可能でしょう。

それから二年後の一九三八(昭和一三)年六月、いよいよ『大日本女性史 母系制の研究』が厚生閣から出版されました。逸枝によれば、この本は「母系から父系への転移過程を系譜的にとらえたもので、それは原始共同体の崩壊過程に照応するもの」10でした。

前年の一九三七(昭和一二)年七月の盧溝橋事件を契機に、すでに日本は、中国との全面戦争に入っていました。その時代状況を逸枝は、次のように書き記します。

 日華事変[日中戦争]前後から日本は急速に軍部独裁化をたどり、学界では京大滝川事件、東大美濃部事件等が相つぎ、学問研究の自由が奪われつつあり、私自身も特高の訪問を受けたり、警察署に呼び出され(K出頭)たり、また出版を通じて警告されたりした。脱稿直前には、数条の『特達』が通告されたが、それは、『高天原は高天原以外の何処でもない』とか『皇室の恋愛に触れてはならない』とかいうものだった11

続けて逸枝は、以下のようにも書きます。

 満州事変の前後から、政府は強圧的に学問・思想の統制にのり出した。文部省が『国体の本義』を出して、神話を歴史事実の如く解釈することを強要するようになって、歴史は神がかりしてしまった。学者の自由な研究は学問上でもさし控えねばならぬようになった。
 アカデミズムの多くの学者は、神秘的な皇国史観が日本人として唯一の歴史観でなければならぬと高唱した12

父系つまりは男系の血筋(皇統)を絶対視する婚姻制度の観点からすれば、逸枝の「母系制」にかかわる論考は、まさしく論外の研究ということになります。そこで、「序文」の執筆が、逸枝にとって同郷人であり、しかも「皇室中心以外には一億一心の団結はあり得ないとする信念」13の持ち主である、徳富蘇峰にゆだねられました。それは毛筆によるもので、「例言」に先立つ巻頭に配置されました。こう逸枝はいいます。

 私には前に書いた「特達」の内容は恐怖に値するものだった。私の『母系制の研究』はたとえ無事に出版されたとしても、「発禁」の公算は大きいとしなければならなかった。現行家族制は「固有」のものであり、それは国体の支えとされているのであって、それを根底からひっくりかえす研究が看過されるはずはなかろう。徳富蘇峰の序文が、私の『母系制の研究』を発禁から護ってくれたことは疑いなかった14

この著作も、前書の『大日本女性人名辭書』と同じく、六四九頁に及ぶ浩瀚なものでした。内容は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」も、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」、そして「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられています。「第三章 吾等の収穫」のなかで、逸枝は、第一節で「多祖説」を、そして第二節で「血の歸一」を語ります。「血の歸一」について、その一部を引用して、以下に示します。逸枝の『大日本女性史 母系制の研究』の結論部分として、最も重要な箇所であると思われます。

 此世のこと皆正し、母系より父系への推移は黨然の發展である。母系は保守的排他的な血族團體であり、父系は進歩的抱擁的婚姻團體である。社會の推移はすべて此線に沿つて流れるであらう。
 ここに吾等は、偉大なる日本父系の進歩的態度――凡ゆる異族、蠻民等と進んで婚姻し、彼らを完全に自系下に結合し、國作り、氏作り、部作りをなしたこと、或いはまた、なさざるを得ない天與の事情にあつたことを限りなく喜ぶものである。
(中略)
氏姓の進化は云ひかへれば系譜の一姓化である。我國ではいかなる異族も歸化人も、その母系の犠牲と支持によつて系譜的に、明文的に、相率ゐて皇別化し、神別すを得た。すなはち、一姓化への方向に促進せられた。次に血の純化は前に述べた血の歸一をいふ。
 これを要するに、系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもつて、吾等の収穫の最後のものとする15

このように逸枝は、「系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもつて、吾等の収穫の最後のものとする」という言葉でもって本書の最後を結ぶのでした。

しかし、徳富蘇峰の「序文」も、そして、「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」も、終戦より三年後の一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において、いずれも削除されることになるのです。なぜ削除されなければならなかったのでしょうか。当時の逸枝の思考のすべてが、この部分に投影されており、戦後の価値観とは相容れない内容だったからではないかと推量されます。

もっとも逸枝は、そののちに書く自叙伝「火の国の女の日記」において蘇峰の「序文」に触れ、このように述べています。

それにしてもこの序文が『母系制の研究』を事なく世に送りとどけてくれた事実、また、その後の研究をも可能としてくれた事実について私は深く感謝している16

こうして、『大日本女性史 母系制の研究』を世に送り出し、在野研究者、あるいは独立研究者として見事なデビューを果たすと、逸枝は、次の第二巻「招婿婚の研究」に着手します。そこには、膨大な資料が横たわっていました。そこで逸枝は、「以前からのやりかたに、さらに鉄のたがをはめた。自分に鉄の規律を課したのである。労働時間は一日平均十時間をくだらないこと。面会は原則として謝絶することが再確認された」17

かくして逸枝は、「鉄の規律」で身を固め、次の目標である「招婿婚の研究」の完成に向けて再出発します。しかし、その一方で、「森の家」の外に目と耳を向けると、次のようにらいてうが書くように、自由や学問から大きくかけ離れた、軍事体制下の困苦の生活が広がり、そしてまた、軍靴の轟音がありました。

 日支事変[日中戦争]の拡大以来、戦時国家への再編成は急速に進められ、市民に対する防空、防火心得の宣伝が行なわれるようになり、昭和一三年の四月には、燈火管制規則が実施されることになりました。……昭和一四年になると警防団がつくられ家庭防空・防火体制は一段と強化され、町内自治会は、もんぺの仕立講習会をひらいて、戦時下の家庭婦人がもんぺを着用する、国民精神総動員運動に協力しました18

「招婿婚の研究」に着手したものの、生活のために売文も書きました。そのころ逸枝は、『婦女新聞』『都新聞』『家庭新聞』『輝ク』『女性展望』『ホーム・ライン』『日本談義』等に文を寄せています。そのなかには、次の一文も含まれます。一九四〇(昭和一五)年は、神武天皇が即位してから二六〇〇年に相当する年でした。この皇紀二千六百年の記念すべき年頭に際し、逸枝は、『婦人朝日』(新年号)に「女性二千六百年史」を寄稿します。それがきっかけとなって出版の依頼を受けた逸枝は、それに手を加え、わずかおよそ二週間で『女性二千六百年史』という題の一巻本に仕上げ、厚生閣より公刊します。この本は、「女性二千六百年史」「女訓」「日本女性の本質」「女性史のために」「女性史話」「道遠し」から構成されています。「女性二千六百年史」は、「第一 古代」「第二 中代」「第三 近代」「第四 現代」で成り立ち、「女性二千六百年史」以外は、それまでにさまざまな紙誌に書いていた小文を集成したものです。この書に、戦時体制下における逸枝の歴史観と女性観の一端を見ることができます。「女性二千六百年史」は、天照大神の御代から書き起こされていますし、日本女性の美質を、逸枝は、健全な保守性と中庸な性格に求めているのです。これらに関連して、『女性二千六百年史』から二箇所、以下に引用します。

 日本の歴史を、どこからはじめるかといふことには、いろいろ説があるが、黒板勝美博士のごとく、天照大神の御時にはじむべしとするのは、今日最も妥當な見解であろう19

 もちろん、女性の保守性は、文學に限つたことではない。今日耳慣れた國防のことにしても、この精神を文獻について云へば、記紀に見えてゐる素尊に對して武装し給うた天照大神の御事がその始めであるといふべく、國威の發揚にしてもそれは神功皇后の征韓事變に發してゐると云へる20

おそらくこうした記述と歴史観が、『女性二千六百年史』の刊行から二年後の、大日本婦人会が主宰する『日本婦人』における連載執筆へとつながっていったものと思われます。

一九四一(昭和一六)年七月に『大日本女性史 母系制の研究』の再版が世に出て五箇月後の一二月、日本はアジア・太平洋戦争へと突入します。翌年(一九四二年)の二月には、既存の愛国婦人会と大日本連合婦人会と大日本国防婦人会の三団体が統合され、大日本婦人会が発足します。これにより、国家総力戦へ向けてすべての女性を動員する体制がつくられ、機関誌『日本婦人』も発刊されるに至ります。逸枝も、これに寄稿し、この団体の活動に協力します。

『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」(逸枝自叙伝)の執筆は、逸枝の死亡により、戦中戦後の記述から夫の憲三に引き継がれますが、それには、逸枝が行なったこの機関誌への寄稿について、こう記されています。

この『日本婦人』の寄稿(一五枚)は二十年終戦直前の廃刊までつづき、私たちの家計はその間この毎月の稿料百五〇円でほぼまかなわれ、他の雑文も書かないですみ、研究に停滞をもたらさなかったことは思いがけない幸運だったとしなければならないだろう21

しかし憲三は、逸枝が『日本婦人』に寄稿した記事の内容については、何も具体的に言及していません。加えて、『日本女性傳』についても、等しく言及を避けました。この本は、一九四四(昭和一九)年七月に、文松堂書店から上梓されたものです。少し長くなりますが、「はしがき」の全文を以下に引用します。

 本稿はもと大日本婦人會の機關誌「日本婦人」のために一年間執筆(同誌一ノ一-一ノ十二)したものであります。今回、いささか補訂のうへ、上梓することにいたしました。
 これは、國史から特定の女性-主として國家の生成發展に寄輿し若くは國家生活の動脈に觸れたもの-を選び、その業績を時代的に意義づけて、ここに一貫した日本女性の傳統的奉公の精神と實踐のすがたをみようとこころみたものであります。
 私たちは、國史への尊敬とともに女性史への親しみをもち、かくて先人の道統をつぐものとして、つねに日本女性たるの自覚と矜持に生き、特に現下の女性に課された國の要請にたいし、充分確信のうへに立つて、これを果して行きたいと思ひます。
 右の意味でこの書が多少なりお役にたちますならば、私のよろこびこれに過ぎるはありません。
 題簽は徳富老先生のおめぐみによるものでございます。

著者22

目次は、「第一 御女帝の聖徳」「第二 倭姫命」「第三 神功皇后」「第四 橘三千代」「第五 清少納言」「第六 北條政子」「第七 大楠公夫人」「第八 戦國の烈女たち」「第九 荒木田麗」「第十 和宮」「第十一 神風連の女性」と続き、そして最後が「第十二 奥村五百子」です。

『女性二千六百年史』は、見てのとおり、書題は皇紀表記となっています。他方、四年遅れて戦時中に刊行された『日本女性傳』は、事実上『女性二千六百年史』の姉妹編に相当する書物です。すでに引用によって示していますように、逸枝は、晩年の自叙伝「火の国の女の日記」におきまして、「満州事変の前後から、政府は強圧的に学問・思想の統制にのり出した。文部省が『国体の本義』を出して、神話を歴史事実の如く解釈することを強要するようになって、歴史は神がかりしてしまった。……アカデミズムの多くの学者は、神秘的な皇国史観が日本人として唯一の歴史観でなければならぬと高唱した」と、あたかも他人事のように書きました。そのように書く逸枝も、実は、上で見てきたように、当時にあっては、「神秘的な皇国史観」の持ち主だったのでした。

この時期を振り返って、のちに逸枝は、「『招婿婚の研究』着手後の約三年半、つまりは、昭和一三年四月から一六年末までの時期は、私の長い研究生活の上でも一種特別の意味をもつものだった」23と、書き記します。しかしながら、「一種特別の意味」の内実については、自ら多くを語ることはありませんでした。

一九四五(昭和二〇)年八月一四日、日本はポツダム宣言を受け入れ、日本が降伏することにより、アジア・太平洋戦争は終わりました。翌一五日の正午、昭和天皇自らがラジオを通じて国民に直接終戦を伝えます。いわゆる「玉音放送」です。その内容の一節は、「朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」というものでした。そして九月二日に、正式に降伏文書への調印がなされることになります。

「玉音放送」から一夜が明けました。次は、八月一六日の日記に書かれている一文です。

昨日正午戦争終結の天皇放送!
 ふかい痛苦をひしひしと胸に感じて 泣き哭くのみ
 ただ泣き哭くのみ
 夜はねむりてさめて 泣き哭くのみ 朝も泣くのみ
 しばらくも涙やまず
 苦しき涙なり
 涙なき涙なり
 色なき涙なり
 これは何を意味する痛苦か われらいまだこれを知らず
 ただ苦しむ 四六時苦しむ24

この時期の日記は、逸枝と夫の憲三とによる夫婦の「共用日記」です。八月二一日の日記には、「逸枝立ち直り新仕事場にはいって勉強をはじめた」25、続く二七日の日記には、「階上の書齊を整理、模様がえした」26の文字が並びます。このとき、二階にあった書斎が一階に移されました。こうして、戦後の研究生活がはじまったのでした。

逸枝の頭のなかでは、どのようなことが行き来していたでしょうか。本人は何も書いていませんので想像するしかないのですが、おそらく、どう自身の戦前の歴史観から離脱するかにかかわる論点であったろうと思われます。それを象徴するものが、以下の出来事でした。終戦から二年後の一九四七(昭和二二)年の一〇月に『日本女性社會史』が、翌一一月に『女性史学に立つ』が刊行され、その翌年の一九四八(昭和二三)年一一月に、戦前の『大日本女性史 母系制の研究』(初版と再版)が『母系制の研究 大日本女性史第一巻』に改題されて、新たに改訂三版として世に出ます。それでは、この三つの著作を通して、いかにして逸枝は、自身の「戦前」を払拭したのかを見てみたいと思います。

抽象的な表現をすれば、それは、古事記や日本書紀の神話を歴史的事実とし、万世一系の天皇を中心とする国体発展の叙述をもって正当な歴史とみなす皇国史観からの脱皮を意味し、それに代わって、日本国憲法に国民主権が明記されたことを踏まえ、歴史の対象を皇統から広く国民に置き換え、同時に神話から離れ、図書館や博物館に眠る文献資料と、人びとの生活にいまに遺る発掘資料とを援用することによって成り立つ実証史学への転換を意味しました。

それでは、具体的に逸枝は、それをどう実践したのでしょうか。

最初に、『日本女性社會史』を見てみます。

この本の「序」のなかに、逸枝のこれまでの研究の総括と、戦後の再出発に当たっての決意のようなものを読み取ることができます。少し長くなりますが、以下に引用します。

 著者は、昭和五年一月一日に志をたて、女性史研究に半生をささげる決心をした。爾來十七年、下界と斷つてくる日もくる日もただ机を友としているが、十三年に女性史第一巻として「母系制の研究」を世に送つたのみで、業は遅々として進まない。第二巻「招婿婚の研究」は、昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない。このときこの小著が求められた。この種の執筆を求められたことは、これまでいくたびかあつたが、著者は自己の研究が中途にあるため、辭するを常とした。しかるに終戦後、女性の上にも畫期的變革がもたらされることとなり、新しき日のために、ふるき生活の反省が絶對の要請になつた。われわれは、現在の自己の歴史的位置をたしかめることによつて、賢明な明日をもたなければならない。ここに同時代人としての義務心から、あえて求めに應じてこれを書いたのであるが、當然不完全はまぬがれないであろう。ねがわくば、読者の高敎と助言によつて、今後補正するところありたい27

終戦後、「女性の上にも畫期的變革がもたらされること」になった大きな要因のひとつは、新憲法の第二十四条が謳う婚姻に関する規定だったにちがいありません。といいますのも、その一項には、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と述べられており、旧来の封建的で家父長的な制度のもとでの婚姻とは、大きく異なる「畫期的變革」の思想が示されていたのでした。しかしながら、いまだアカデミズムの歴史学は、「女性史」自体を問題意識の外に置いていました。逸枝がどうしても終戦直後のこの時期に、目下着手中の「招婿婚の研究」を横に置いてまで、『日本女性社會史』を上梓しなければならなかったのは、まさしく本人が書くように、「同時代人としての義務心」によるものだったに相違ありません。もっとも、さらに踏み込めば、自身の深部に存在する戦前思想と一日も早く決別しなければならないという強い強迫観念がつきまとい、それに導かれた結果だったのかもしれません。

逸枝は、『日本女性社會史』と題されたこの本において、女性の婚姻や家族生活のあり様を主題に、「群時代(女性の自由時代)」「氏族時代(自由時代)」「氏族崩壊時代(半自由時代)」「家族時代(被厭迫時代)」「家族崩壊時代(半解放時代)」の五つの時代に区分して、通史的に記述しました。

特徴的なことは、前作となる、戦前に書いた『女性二千六百年史』と『日本女性傳』には、いっさい触れていないことです。そしてまた、神話世界に登場する女性は、ここに至って完全に排除されていることです。こうして逸枝は、無言のうちに、つまりは、過去の発表作品を闇に葬ったうえで、自身の「戦前」を乗り越えようとしたのでした。

次に、『女性史学に立つ』を見てみます。そのなかで逸枝は、「學問の自由」について、こう語っています。

 日本歴史の新しい検討ということがもとめられている。女性史の一研究者として、私はこの際若干の感想をのべてみたい。わが國の歴史研究が狭く浅く、政治史にかたよつている點は、すでに多くの人からいわれてきたとおりであるが、敗戦を機會にそれらのことはむろん反省せられねばならない。
 根本の問題は學問の自由、眞理の探求であるが、學者がつねに政治的制壓をうけることはまぬがれ得ない。
 私の経験からいえば、女性史なども、なにか社會や男性に反抗する危険思想ででもあるかのように思われがちで、随分不愉快な壓迫や俗見とも戦わなければならなかつた。
 私は、昭和十三年に、九年の勞作になる女性史第一巻を、「母系制の研究」として世に出した。この題目など、特に、現行家族制度の父系思想からみて、好ましからぬ印象をもたれたことも、肯けないことではない。私は江戸時代の儒者たちが、天照大神の男性説を唱えねばならなかつた心持がいまだに殘つて、學問研究を妨げているのを殘念に思う。
 上梓に際し、出版書肆からは、わざわざ當局の注意事項が傳達された。それはかなり非常識なものであつた28

他方、「史学の革新」に関しては、こう述べます。これもまた、少し長くなりますが、逸枝の「戦前」から「戦後」へと至る、学者としての思想的変容を物語る重要な部分ですので、引用します。

 女性史は、文化史中のまつたく新しい分野を開拓するものであつて、この研究が進められて行けば、當然従來の史觀の誤謬を訂正する部分も多いはずである。
 私もこの研究に専念するようになつて、まだ十五六年位にしかならないけれども、それについて氣づいている事例はすくなくない。私は第一巻「母系制の研究」を出してから、第二巻「招婿婚の研究」に没頭し、まだ成稿の運びにいたつていないが、この招婿婚の問題にしても、考えさせられることが多い。
(中略)
 つまり招婿婚は、國初以前から室町におよぶ長期間繼續した著明な現象であるが、その内面に母系族制から父系のそれへの完全移行を、きわめて秩序正しく具體的に裏づけているのである。
 くわしいことは、拙著にゆずるほかないが、とまれこうした事實があきらかになれば、家族制も爾餘の制度とおなじく發展的なものであり、俗間に、「わが固有の家族制度」などと現行家族制度に固定性、永遠性を付輿していることの虚妄も消散するであろう。
(中略)
 要するに、見て見ぬふりをしたり、ことさらに輕視したりすることをやめて、なにごとも謙虚に、學問の對象としてとりあげ、さらにそれを人類史的關係にまで引きあげ、普遍化することにこそ、學者の本領はあるべきであろう29

逸枝は、「要するに、見て見ぬふりをしたり、ことさらに輕視したりすることをやめて」と書きます。何も揚げ足取りをするわけではありませんが、もしそうであれば、戦前に『女性二千六百年史』や『日本女性傳』などを出版していたことも「見て見ぬふりをしたり、ことさらに輕視したりすることをやめて」、自分史の一部として、「敗戦を機會にそれらのことはむろん反省せられねばならない」ことだったのではないでしょうか。

三番目として最後に、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』を見てみます。

一九四一(昭和一六)年七月刊行の『大日本女性史 母系制の研究』の再版は、体裁、内容ともに初版と変わりありませんでした。しかし、戦争が終わって三年が立った一九四八(昭和二三)年一一月に発刊された改訂三版においては、体裁と内容に大きな変化が認められます。すぐにも目に止まるのは、主題と副題が入れ替わり、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』へと改題されていることです。他方、初版と再版の『大日本女性史 母系制の研究』の題簽は吉岡彌生の揮毫によるものでしたが、改訂三版の題字は活字で組まれ、しかも、副題の「大日本女性史第一巻」には、ほとんど目につかないほどの小さな活字が用いられていました。戦前にあっては、「大日本女性史」が強調され、戦後にあっては、「母系制の研究」が前面に出ます。戦争を挟む前後の際立つ特徴をこの書題は担うことになったのです。

体裁だけではなく、内容においても、大きな改変がありました。このことについて逸枝は、改訂三版の「例言」のなかのひとつの項目において、このように触れていますので、以下に引用します。

一、本書は昭和一三年六月四日初版第一刷、一六年七月二〇日再刷、今回は第三刷である。第三刷は、初版第三篇の第三章を除きたるほか全體にわたつて若干の改訂を施したが、それは主として、たとへば「母系」といふ文字すらややもすれば伏字しなけらばならなかつた初版發行當時の社會状勢を顧慮するあまりなされた學術書にはふさわしからぬ贅語的表現を整理したのであつて、内容的變化はない30

逸枝は、このように「例言」において、「初版第三篇の第三章を除きたる」事実については確かに言及していますが、しかし、その理由については直接の明言を避け、「初版發行當時の社會状勢」をほのめかすに止めるのでした。畢竟この示唆は、「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」は、自身の意に反して、「初版發行當時の社會状勢」にやむなく身をゆだねて書いたまでのことであって、ここで抹消しようと、それによって大きな「内容的變化はない」ということを含意しているように読めます。

しかしながら、すでに述べていますように、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」は、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられていました。また、「第三章 吾等の収穫」では、第一節で「多祖説」が、そして第二節で「血の歸一」が語られていました。このことから判断しますと、「第一節 多祖説」と「第二節 血の歸一」とから成り立つこの「第三章 吾等の収穫」は、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)の中心となる考察と結論の部分であり、同時に、本書最大の「収穫」の部分である以上、「初版發行當時の社會状勢」に従って不本意ながらも書いてしまったことを示唆する逸枝の言辞は、どうしても説得力を欠くものといわざるを得ません。裏を返せば、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)を書いた戦前の逸枝は、「多祖説」と「血の歸一」を本心から信ずる歴史家であり思想家であったにちがいなく、したがって、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において「第三章 吾等の収穫」を削除せざるを得なかった逸枝は、歴史家として、また思想家として、大いなる敗北に見舞われたことになったものと思料されます。

しかしこのとき味わった「苦杯」は、逆の見方に立てば、戦前思想から離れ、戦後思想のなかでこれから生きてゆこうとする、逸枝にとっての内なる一種の契りを意味する、ささやかなる「祝杯」だったかもしれません。といいますのも、初版(一九三八年刊)および再版(一九四一年刊)にみられる『大日本女性史 母系制の研究』が、この改訂三版において、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』に改題され、研究内容を直接言い表わした「母系制の研究」を前面に出すことができたからです。初版と再版の「大日本女性史」の一文字に、おそらく逸枝は、「皇国女性の歴史」ないしは「大日本帝国女子の歴史」を含意させていたものと思われます。しかし改訂三版において、こうして、完全に主題と副題を入れ替えることにより、加えて「第三章 吾等の収穫」を抹消することにより、さらにそれだけではなく、巻頭の徳富蘇峰の毛筆になる「序文」も巻末の「紹介辭」も削除することにより、逸枝は、戦前思想からの解放の一歩を踏み出すことができたのでした。

しかしながら、当時の逸枝の思想の本質部分が投影されていると思われる「第三章 吾等の収穫」が戦後の価値観とは相容れない内容とみなされ、完全に闇に葬られていったことを、私たちはどう受け止めればいいのでしょうか。「多祖説」と「わが國民の血の歸一」を抜きにして、この『大日本女性史 母系制の研究』は、本論と結論のあいだで齟齬を来たすことなく、一貫した論理的安定性のもとに成立しうるのか、どうしても疑問がつきまといます。

以上、『日本女性社會史』『女性史学に立つ』『母系制の研究 大日本女性史第一巻』の三つの大戦後に公刊された著作につきまして、その内容とあわせて、戦前思想を離れ、戦後の思想と逸枝がどう向き合ったのか、その様子を概観してきました。しかし、それで終わったわけではありません。さらに、戦前の著作の改訂が続きます。今度は、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から新版が登場します。順番からいえば、第四版に相当します。この版においては、もはや「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」の削除についてはいっさい触れられることはありませんでした。しかも、改訂三版にはかすかに小さい文字で残っていた「大日本女性史第一巻」の副題も完全に消え去り、書題は、単純で明快な『母系制の研究』という表現に一新されるのです。

他方で、この新版の跋文には、従来のそれへの加除が認められます。加えて、改訂三版までの跋文においては「高群逸枝著作後援会」の発起人として六五名の名前が挙げられていましたが、新版の「跋」におきましては二〇八人の名が挙がっています。しかしながら、新版の跋文において、そうした加筆訂正への言及はありません。それどころか、執筆日が「昭和十三年春」となっており、初版と再版にみられた皇紀による表記である「二五九八年五月」、改訂三版にみられた元号による表記である「昭和十三年五月」と、表記の違いはあるものの、実質上同じ年月になっています。したがって、新版をはじめて手にする読者にあっては、新版の「跋」をもって初版の「跋」と思い違いをする人も多かったのではないかという危惧も残ります。

いずれにしましても、初版(一九三八年、厚生閣刊)と再版(一九四一年、厚生閣刊)の『大日本女性史 母系制の研究』、続く戦後の改訂三版(一九四八年、恒星社厚生閣刊)の『母系制の研究 大日本女性史第一巻』――こうした先行するどの版のなかにも認められた「大日本女性史」という文字は、新版(一九五四年、大日本雄辯會講談社刊)に至って完全に消し去られ、新たに単独の『母系制の研究』という書名に変わったのでした。このときすでに、初版発行から戦争を挟み一六年の歳月が流れていました。かくして書名改変の道程をたどりながら、やっとこの新版において逸枝の戦前思想の払拭は完結したものと推量されます。

いよいよこうした過程を経て、一九五三(昭和二八)年刊行の『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社)と、続く一年後に出版されることになる、かかる一九五四(昭和二九)年の『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社)の、このふたつの大作によって、この時期、高群女性史学の土台となる基礎部分が、鮮明に造形されていったのでした。換言すれば、ここに至ってようやく逸枝は、本当の意味で「女性史学に立つ」ことができたものと思われます。

それでは、本稿の副題にあります、「ひとりの『フェミニスト男子』の誕生経緯」という文脈に沿って、本章「逸枝の女性史学における国体思想の展開とその清算」にかかわる、そのまとめをしたいと思います。繰り返しになりますが、戦前戦中、および戦後の約一〇年間の逸枝の主要著作は、以下のとおりです。

『大日本女性人名辭書』(厚生閣、一九三六年)
『大日本女性史 母系制の研究』(初版、厚生閣、一九三八年)
『女性二千六百年史』(厚生閣、一九四〇年)
『大日本女性史 母系制の研究』(再版、厚生閣、一九四一年)
『日本女性傳』(文松堂書店、一九四四年)
『日本女性社会史』(眞日本社、一九四七年一〇月)
『女性史学に立つ』(鹿水館、一九四七年一一月)
『母系制の研究 大日本女性史第一巻』(改訂三版、恒星社厚生閣、一九四八年)
『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社、一九五三年)
『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社、一九五四年)

ここで論じるのは、戦前戦中の、および戦後の約一〇年間の逸枝の主要著作にかかわって、夫の憲三がどのように関与していたのか、というテーマです。しかし、このことを直接例証する資料(エヴィデンス)は残されていません。そこで推論するしかほかありませんが、先に結論的にいえば、私自身は、『大日本女性人名辭書』のときと同じように、それ以降の刊行物についても、憲三は大きく介在していたものと考えています。それは、以下のような傍証を重ねることによって、ある程度の実証が可能となります。

まず、逸枝が無産婦人芸術連盟の機関誌である『婦人戦線』の発刊に際しての憲三のかかわりについてです。逸枝自身、こう書いています。

この『婦人戦線』はアナキズム系の無産婦人芸術連盟の機関誌として出されたのであるが、はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。……だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって承諾せざるを得なかった31

ここで重要なのは、「Kのすすめもあり」という文言です。

次に、逸枝が「森の家」で女性史研究に入るときの、憲三の関与についてです。逸枝の認識は、次のようなものでした。

こうして、私は夫のつよい心からのすすめもあって、意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界にはいっていったのであった32

ここで重要なのは、「夫のつよい心からのすすめもあって」という文言です。

以上のふたつの事例からも明らかなように、『婦人戦線』の主宰者になるときも、また、女性史研究に入る際も、夫の憲三の「勧め」が存在していたのでした。

亡くなる一年前から逸枝は、自伝「火の国の女の日記」を書き始めます。それに当たっての「自叙伝メモ」が残されていますので、その一部を以下に示します。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。
 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう33

この一文から、憲三が「教育者」ないしは「投資家」であり、それに対して、逸枝が「労働者」ないしは「開拓者」であるという相互関係あるいは役割分担が、このふたりのあいだにあって成り立っていたことがわかります。

逸枝は、「私の人生はすべて受け身に終始したように思われる」と書いています。こうした「受け身」に甘んじる逸枝の性格は、すでに憲三との付き合いがはじまるころには自覚されていました。そのことは、逸枝が憲三に宛てて書いた、以下の手紙文が例証します。おそらく約婚前に出された手紙と思われますが、そのなかで逸枝は、憲三に対して、こう打ち明けているのです。

 妾には主義も方針もありません。安心することも出來ません。生きてゐるあいだ幸福であればよろしう御座いますが、その幸福だとて樣々なので何やらわかりません34

この文は、「主義も方針も」ない自分を、決して独りにはせず、こころ安らかなる境地へと、そして、ひとつの確たる世界へと導いてほしい、それをもって自身の幸福と受け止めたい、という強い願望を憲三に告白しているように読めます。この手紙にある内容は、上に引用した、「自叙伝メモ」の内容と、おおかた合致します。そのことは、約婚前から死に至るまでの生涯にわたって逸枝には、とくに明快な「主義も方針も」備わらず、そのうえに事物に対する主体性にも恵まれず、その性格に変わりがなかったことを明らかにします。

こうした自分の性格を、自身の欠点として、「優柔不断」とも「曲従」とも、そしてのちには「奴隷根性」とも呼びました。それは、次の逸枝の文が立証します。

私は自分に自信がなく、ひとに対して依頼心と依存心があり、自分自身だけでは考えを 発展させることができないのをなんとしよう。ここに私の夫への奴隷根性があるのだろう35

そのことは、逸枝には、自らの判断で自身の人生の枠組みをつくったり、物事への対応方法を構築したりする能力に欠け、その部分に関しては夫の憲三にすべてを依存せざるを得なかったことを意味します。

逸枝が性格に宿す「奴隷根性」は、「自主性がない」こととほぼ同義です。「自主性がない」ことについて、逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。

 逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。
 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう36

ここで重要なのは、自分に開かれた「社会」がまさしく夫であったことを、妻の逸枝本人が自ら認めていることです。とりわけ「森の家」での学究生活は、日々一〇時間に及ぶ労働でした。また、外部からの訪問も、断ち切っていました。「私には『社会』がなくなった。夫は私の『社会』であった」という一文は、そうしたなか、逸枝の耳に届く情報は、おおかた憲三からのものであったことを明確に示します。

さらに、ここで重要なのは、逸枝の「自主性がない」という自身についての認識です。しかしながら、それと同様に重要なことは、実際に「自主性がない」状態に逸枝はあったとしても、上の引用で示した「自叙伝メモ」にあるように、決して憲三は、逸枝への「命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった」ということです。たとえば、ひとたび憲三によって枠組みが与えられるや逸枝は、自由律詩あるいは長詩の獲得において、そして、アナーキズムの論戦において、さらには、女性史学の開拓においてそうであったように、実行や実践という地平にあって、周りの予想と期待をはるかに超えるその能力を発揮するのでした。これこそが、「物質的精神的な投資家」としての「夫の希望でもあった」のです。

それでは、この役割分担に関して憲三は、どう認識していたのでしょうか。これは、晩年に憲三が石牟礼道子に語った言葉です。

 彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです37

「僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです」という憲三の言辞に誇張はないものと思われます。といいますのも、逸枝の「自叙伝メモ」には、こうした文言もみられるからです。

[夫とは]長い一体の関係だったので、私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった38

この文言にあるように、機関雑誌の発刊も、女性史の創業も、すべて憲三の「発意または勧告によるものだった」のでした。そして、憲三その人が、「私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」のです。

それでは、戦争前後における逸枝の著作への憲三の関与は、具体的には、どのようなものだったのでしょうか、調べる限り、それを明確に例証する資料は残されていないようです。しかし、間接的な傍証は存在しますので、以下に三点、紹介します。

一点目。晩年、憲三自身が、こう語っています。

彼女は起稿のとき、新しい原稿用紙に向かって、私に第一章の題目を書かせる。最初のとき、あなたの原稿の書きはじめを、なんで私がしなくてはならないのですか、と文句をいうと、
 「あなたが題目を書いてくだされば、本文がらく・・に書き出せるのよ」
 といった39

憲三は、こうしたことは「『招婿婚の研究』の原稿からであったらしい。……ただ、彼女は雑文の原稿にも、よくこの題目を書かせたから、この習慣は早く熟していたのかも知れない」40と書いています。おそらくその習慣は、弥次海岸での第二の新婚生活時代からはじまったものと思われます。といいますのも、逸枝自身、こう書いているからです。「私が熱心に勉強しているのを親しくみたり、また私が無心に思索しながら庭先などをうろついているのをみたりしているうちに、そうした私に〈不思議な魅力を感じた〉そうで、しだいに私の押しつけ原稿もよろこんで見るようになったのだった。……こうして彼はついに毒舌と賞讃とで私の成長をたすけてくれるようになっていったのだった」41

以上の憲三と逸枝の言説を総合しますと、弥次時代からはじまり、『招婿婚の研究』の執筆時以降にあっても、切れ目なく憲三は、「毒舌と賞讃とで私の成長をたすけてくれるようになって」いたものと思われます。

次に二点目。これは、憲三が道子に語った、逸枝についての性格描写です。

[逸枝は]乞食にもなれたし、おかみさんにも女王にも革命家にもなれた。……そばにいる人間がのぞめば何にでもあなたはなれました。最善を尽くしてなったでしょう42

すでに紹介していますように、憲三は、「僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです」と書いていますが、「そばにいる人間がのぞめば何にでもあなたはなれました。最善を尽くしてなったでしょう」という言辞にも、「教育者」(ないしは「投資家」)である憲三の容姿と、「労働者」(ないしは「開拓者」)である逸枝の容姿とが、はっきりと現像されることになります。このことは、憲三の考えと助言次第で、容易に、しかも「最善を尽くして」逸枝は、国体主義者にも、民主主義者にもなれたことを示唆します。

さらに、三点目としての傍証を、以下に挙げておきます。これは、逸枝が、憲三の妹の橋本静子に宛てて出した手紙の一部です。

主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です43

この一文に解釈は不要です。まさにここに書かれてあるとおり、「主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない『女性史』を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです」。これが、「森の家」における憲三と逸枝の実態であったものと思われます。

以上が、戦前戦中の、および戦後の約一〇年間の、逸枝の主要著作にかかわって、夫の憲三がどのように関与していたのか、そのテーマを構成する傍証の一覧です。ここから総合的に判断しますと、憲三の関与は、「私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった」という範囲に留まるものではなく、戦前戦中、さらにはそれ以降の逸枝の主要著作の公開に当たっても、逸枝にとって憲三が、引き続き「大なるパトロンであり、また……啓発者だった」ものと思料されます。といいますのも、何事につけ自身の「奴隷根性」によって憲三を頼ろうとする逸枝の依存心も、「社会」の窓としての憲三の役割に期待をかける依頼心も、「女性史への創業まで」で完全に途絶えてしまったとは考えにくいからです。おそらく、逸枝に死が訪れるまで、憲三がいうように、「僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなもの」だったにちがいありません。

そうした判断に立つ私は、戦前戦中の逸枝の著述、および、終戦ののちの、かかる著述に関しての清算行為、この両面にあって憲三は大きく関与し、編集者としての実務のみならず、パトロンとしての啓発的な役割もまた、途切れなく果たしていたものと推量します。個別的には、次のようなことが考えられます。

(1)国体主義と皇国史観に基づく、『女性二千六百年史』(厚生閣、一九四〇年)および『日本女性傳』(文松堂書店、一九四四年)の執筆へ向けての「発意または勧告」。
(2)戦後の新時代の到来を受けての、『日本女性社会史』(眞日本社、一九四七年一〇月)および『女性史学に立つ』(鹿水館、一九四七年一一月)の執筆へ向けての「発意または勧告」。
(3)戦前戦中の皇国史観の払拭と清算のための、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』(改訂三版、恒星社厚生閣、一九四八年)および『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社、一九五四年)の刊行へ向けての「発意または勧告」。

他方、私は、以上にみられる「発意または勧告」以外にも、逸枝が使う資料の収集と整理、逸枝が書いた原稿の校閲と清書、出版社の選択と原稿や校正紙のやり取り、印税や家計の管理、さらには、炊事洗濯を含む日常の家事全般が、この間の憲三の業務として含まれていたものと推量します。したがいまして、「森の家」から生み出されたこの間の、雑誌や新聞への寄稿文を含む一連の逸枝の著作物が、逸枝本人がいうように、「名前は私ですが、主人と私の合作です」という状態にあったことは、ほぼ間違いない真実であると、私には思われます。

今日の日本にあって、わが国における女性史学の創設者が高群逸枝であることに疑問を挟む人は、おそらくいないでしょう。しかしながら、その業績の半分は、夫の憲三に帰されて当然な事実がここにあるのです。であれば、日本における女性史学の創設者を特定するに当たっては、高群逸枝ひとりに担わせるのではなく、「ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない」、それ程までに分かちがたく一体となっていた、まさしくこの夫婦に担わせるのが至当ではないかというのが、私が愚考するところです。今日に至る日本における女性史学の発展は、高群逸枝と橋本憲三との、このふたりの多大なる献身と尽力とを礎として成り立っていると、たとえ大声を張り上げて明言したとしても、それは、すべて一次資料(エヴィデンス)が語るところである以上、何人たりとも、それに暗幕を張り、覆い隠すことはできないものと確信します。

こうして、「そばにいる人間がのぞめば何にでもあなたはなれました。最善を尽くしてなったでしょう」という憲三の言葉どおりに、「そばにいる憲三がのぞめば」、逸枝は、真の女性史学者として立つために、「最善を尽くして」戦後のこのおよそ一〇年間を疾走したのでした。かくして、逸枝のこれまでの著作から戦前思想が姿を消し、それに代わって、『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社、一九五三年)と『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社、一九五四年)が上梓されたことにより、やっとここに、特殊研究が終わり、逸枝は、不動の女性史学開拓者として、夜の天空にきらめく孤高の星のごとくに、学術世界に立つことができたのでした。いよいよこれ以降、通史研究としての「女性の歴史」の執筆が本格化し、待ち望む女性たちの期待に応えて、逸枝はさらに燦然と輝いてゆくのです。それを私は、次章の「逸枝の『招婿婚の研究』と『女性の歴史』四部作」で描写してみたいと思います。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、228頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、233頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、234頁。

(5)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、307頁。

(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241頁。

(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241-242頁。

(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、244頁。

(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、257頁。

(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、274頁。

(11)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、275頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(15)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、637-638頁。

(16)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、276頁。

(17)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、281-282頁。

(18)前掲『元始、女性は太陽であった③』、319頁。

(19)高群逸枝『女性二千六百年史』厚生閣、1940年、13頁。

(20)同『女性二千六百年史』、143頁。

(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、306頁。

(22)高群逸枝『日本女性傳』文松堂書店、1944年、1-2頁。

(23)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、286頁。

(24)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、259頁。
 この巻の巻末に付けられた、編者で夫の橋本憲三による「解題/編者」には、「昭和二〇年以降は完全に夫との共同日記になっている」と、記されています。したがいまして、この注(24)をはじめとして、これより以降に引用する日記は、逸枝の単独の日記ではもはやなく、逸枝と憲三との共同日記となるものです。

(25)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。

(26)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。

(27)高群逸枝『日本女性社會史』眞日本社、1947年、1頁。

(28)高群逸枝『女性史学に立つ』鹿水館、1947年、8-9頁。

(29)同『女性史学に立つ』、9-12頁。

(30)高群逸枝『母系制の研究 大日本女性史第一巻』恒星社厚生閣、1948年11月、3-4頁。

(31)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、233-234頁。

(32)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、10頁。

(33)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。

(34)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、331頁。

(35)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、46頁。

(36)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、419-420頁。

(37)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。

(38)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。

(39)橋本憲三「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、35頁。

(40)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、同頁。

(41)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、194頁。

(42)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、146頁。

(43)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。