中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第八部 逸枝の女性史研究の大戦を挟む前と後

第二一章 逸枝の『招婿婚の研究』と『女性の歴史』四部作

一九三八(昭和一三)年四月、女性史研究の第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』を脱稿するや、高群逸枝は手を休めることなく、引き続き「森の家」に蟄居し、面会を断って一日一〇時間、次の第二巻となる「招婿婚の研究」の完成に向けて、筆を執りました。しかし日本の前途は、自由な研究を許すほどに、明るいものではありませんでした。前年(一九三七年)七月の盧溝橋事件に端を発し日支事変(日中戦争)が起こると、その拡大とともに、言論や思想が一段と制約される一方で、物資や食料もさらに統制され、戦時国家に向けた体制再編がいよいよ急速に進み、ついに日本は、一九四一(昭和一六)年一二月に、アジア・太平洋戦争へと突入してゆくのでした。この時期を振り返って逸枝は、「『招婿婚の研究』着手後の約三年半、つまりは、昭和一三年四月から一六年末までの時期は、私の長い研究生活の上でも一種特別の意味をもつものだった」と、書き記しています。戦争へと向かう、そうした時世に身を置きながら、他方で逸枝は、研究上の「自信と不安」を抱えて執筆に明け暮れていました。

私はたえず研究の上に自信と不安とを交互にくりかえさねばならなかった。それは朝は希望をもって起き上がるが、夜は絶望におちいって眠りにつくというようなきびしい試練の毎日だった

それでは、その「自信と不安」を構成する内実とは、どのようなものだったのでしょうか。そのひとつに、著名な民俗学者の柳田国男が主張していた「聟入」という婚姻形態との対峙がありました。その学説によれば、男ははじめ女の家に婿入りするも、その後、数年のうちに、必ずや妻子を連れて男の家に帰るとされており、逸枝の研究は、それに真っ向から異を唱えようとするものでした。逸枝が想定している「招婿婚」が史料に基づき揺るぎないものとして実証されることになれば、女性が自由で自立していた女系時代(母系共同体)がかつて日本に存在していたことが白日のもとに晒されることになります。そうなれば、男性を主役に置き、男性の研究者たちによって叙述されてきた、これまでの日本の婚姻の歴史、あるいは恋愛の歴史は、大きく塗り替えられることが予想されるのです。しかし、その実証作業には幾多の困難が伴ったようで、本人の言葉を借りるならば、「自信と不安とを交互にくりかえさねばならなかった」のでした。

その一方で、幸運がもたらされました。逸枝は、こう書きます。

 この悲惨な時期に、ただ一つの幸運といえることは、服部報公会ならびに啓明会の二つの学術研究助成財団からの研究助成金が与えられたことだった。このことは学界の孤児である私にとって二つの意義をもつものだった。一はこれによって資料獲得に成功したことであり、二はこれによっていわばはじめて学者としての地位が保証されたことだった

服部報公会への紹介者は東京大学教授の穂積重遠で、助成金は、昭和一四年度と昭和一五年度、加えて昭和二三年度の三度にわたって交付されました。啓明会を紹介したのは、のちに東洋大学の学長に就任する高島米峰でした。助成金が採択されたのは、昭和一六年度でした。当時こうした研究助成金は、大学や研究機関に所属する学者で占められ、民間の独立研究者への配分は極めて稀で、さらに女性がこの恩恵にあずかることは、ほとんどなかったようです。逸枝は、こう回顧します。

たとえば服部報公会では十四年度決定百三十七件中、女性は私一人といったぐあいだった。また啓明会でも十六年度決定七件中の女性は私一人だったのである。いかにその頃女性のこの方面における機会不均等がはなはだしいものであったかがわかろう

こうして研究上の財政基盤が整いました。「両助成金および著作後援会寄金(このなかには相馬黒光さんの三千円を含む)等を合しての一万数千円の金額は当時としては大金であり、私はこれによって『招婿婚の研究』に要する大部分の資料を蒐集することができたのだった」。しかし、四千冊にも及ぶ資料がそろい、文献の読破が進むと、「ある理解に到達したために、これまでししとしてメモしてきた約一万のカード類がそのままでは役に立たなくなり、再びとり直さねばならないという重大な事態に直面したのだった」。「ある理解」とは、一九四〇(昭和一五)年三月二六日の逸枝の日記によると、こうなります。「今夜茫然自失。……コノ二年ノ勉強ニヨッテ、招婿婚ノ性質、種類、経過等ガ、タドタドシク理解サレタガ、トクニソレガ、今夜ニナッテ完全ニ全面的、体系的ニ把握サレタノデアル」。逸枝は、このときの様子を、さらに次のように描写します。

 招婿婚にたいして本質的な理解と体系的な見通しとを得たことは、私にはひじょうなよろこびだったが、同時にこれまで読んだ文献をここでまた読みなおさねばならないということが、それがあまり多量なのでなんとしても心気が沈んだ。だが私に与えられた道は不退転の道だ

その「不退転の道」に光明が差す日が来ました。

 その後、ある日私は、採集した婚姻語のカードをみて、ツマドヒ、ムコトリ、という婚姻語が日本古代の婚姻語の代表語であることを知り、この婚姻語の推移が、すなわち大まかには婚姻形態の推移をものがたっている――つまり、この二語がそのまま古代婚姻史の時代区分を反映している、ということを知った。そこで必然的にヨメトリ、という婚姻語の追求がこれにつづくことになる。
 このことは、かつて『母系制の研究』で、「多祖」現象を発見したときとおなじ一つの天啓的なひらめきというべきものだった。このとき私は、
「わがこと成れり!」
 と招婿婚研究への勝利感を覚えたのだった

しかし、机に向かい服の片袖だけが日に焼けて変色するほどの日々の長時間労働は、極度の疲労をもたらし、そのうえに栄養失調が重なり、目に異常をきたすと、天眼鏡で文字を拾うようになりました。また、本人が書くところによれば、「鼻から経血が逆出したり」10する生理的異変に見舞われることもありました。他方で、戦時体制へ向けての組織づくりが進み、「隣組」もこのとき発足します。生活物資の配給も「隣組」単位で行なわれ、運営は、各世帯の交代による輪番制でした。こうした常会へは、本人の記憶によれば、「この頃私は脚気ぎみで、歩行が自由を欠き、Kに杖をつくってもらって出勤した」11のでした。

そうした過酷な戦争が終わりました。脱稿をまぢかに控えた一九五二(昭和二七)年一月、『母系制の研究』のときと同じように、友人たちが集まり、出版へ向けて、どのような便宜を講じることができるのか、相談の会がもたれました。憲三は、このように記します。

……平塚らいてう、竹内茂代、市川房枝、山高しげり、志垣寛、鑓田研一さんらが婦選会館に集まって、出版社の選定および刊行後援会の組織が決定されて、実行に移された。その結果、本は講談社から出版されることになり、刊行後援会(高群逸枝著作刊行後援会)は発起人二百名の賛同のもとに発足した12

その一年後の一九五三(昭和二八)年の一月に、無事予定どおりに、大日本雄辯會講談社から『招婿婚の研究』が公にされました。逸枝は、巻頭の「例言」において、こう書きます。「この研究は、昭和一三年四月に着手、同二六年一二月に完了した。一三年九ヵ月、平均して一日一〇時間をくだらない勞働であつた」13。そして、その研究内容の意義に触れて、次のように書きます。少し長くなりますが、逸枝が寄って立つ学的地平が明確に現われていますので、引用します。

主題の招婿婚(婿取式)は、最古の典籍「記紀」「風土記」等から見えているものであるが、特に「萬葉」「伊勢」「大和」「落窪」「宇津保」「枕」「源氏」「榮花」「大鏡」「今昔」「源平盛衰記」「增鏡」等一聯の文學の上にあざやかにそのすがたをとどめていることは周知のとおりであり、さらにこれを確實に立證するものとして平安「小右記」から室町「言繼卿記」におよぶ六〇〇年間一貫した數十部にのぼる尨大な諸家日乘の存するがあり、また現に全國各地になお遺制を見ることもできるのである。すなわち招婿婚は、太古から室町期にあつて娶嫁婚(嫁取式)にその席をゆずるまでの時間においての支配的婚姻形態である。このように、この婚制は極めて長期間に亘る経過をもつ大きな歴史的事實として、單り女性史の問題にとどまらないことはいうまでもなく、その研究は、ひろく學界――歴史學・國文學・民俗學・社會學・人類學等――でも要望されているが、まだ、その本質、形態、變遷(發生・推移・終焉)等本格的探究において缺けている憾みがある。私の研究は、これらの點を明らかにしようとしたものである14

『招婿婚の研究』が公刊されると、さっそく東京教育大学教授の家永三郎が筆を執りました。日本史学を専門とする家永は、『日本女性社會史』が上梓された際にも書評を書いていましたが、今回はそのときとは違い、大いなる称讃の言葉で彩られました。しかも、長文となっています。以下は、その書評の冒頭の一節です。高群学説の衝撃に触れた箇所でもありますので、これも引用文としてはやや長くなりますが、そのまま紹介することにします。

 五十二字詰十八行組千二百頁の書下し論文が公刊されるといふことは、学界に於いても、ざらに見られることではない。高群女史の大著の公刊は、さういふ点からも稀有な大事業として刮目に値する。しかも著者はこの大著「招婿婚の研究」のほか、その所論の基礎づけとして「平安鎌倉室町家族の研究」「日本古代婚姻例集」二千八百枚の稿本をすでに完成されてゐるのであつて、これだけの大きな仕事を完成されるに至るまでの著者のたゆみなき精進を思ふとき、片々たる短文を書くより能のない評者など、たゞたゞ頭の下る思ひあるのみである。さきに昭和二十二年、著者が「日本女性社会史」を発表されたとき、著者の所謂「群時代」「氏族時代」といふ様なモルガン直訳の史的範疇によつて叙述せられてゐる部分については多大の危惧を感ぜざるを得なかつた評者であつたが、「夫婦別居から同居制へ」「招婿婚」等の各部に示された招婿婚に関する著者の見解には深く心を惹きつけられ、それらの見解が具体的に立証されるのをひそかに期待してゐたのである。五年後の今日その期待を裏切られず、この尨大な力作となつて我々の前に出現したことは、学界の慶事たるは云はずもがな、何よりもまづ評者個人の大きなよろこびであつた。必ずしも本書を批評する資格ありとも考へられぬ評者が敢てこの書評を買つて出たのは、近年家族道徳史の諸問題に興味を覚えてゐる処にも由るが、「日本女性社会史」を閲読して以来鶴首してゐた本書の出現に対する限り無い歓喜が進んで書評の筆をとらせる動機となつた次第である15

これが、高群学説の家永三郎に与えた学問的衝撃の実際でした。

この家永の評論を目にした逸枝は、前回の『日本女性社會史』のときと同様に、素早く応答しました。それは「家永博士の批評を読んで」と題された一文で、その内容は、家永が指摘していた、婚姻制度と生産関係の問題や農民の婚姻生活の実態に関する記述の不備に応えての、弁明であり補足となるものでした。しかし、その指摘は、逸枝にとってありがたいものであったにちがいなく、次の文言がそれを表わします。「家永博士が、私の『招婿婚の研究』について、貴重な御批評をなさつてくださつたことを、私は著者として心から感謝する。御批評は、教えられることの多いもので、今後の糧とさせていただきたいと思う」16。これは単なる社交辞令ではなく、着実に次の研究に反映されてゆくのでした。

『招婿婚の研究』が世に出た次の一九五四(昭和二九)年に、新版『母系制の研究』が上梓されます。これは、一九三八(昭和一三)年に発表された初版の『大日本女性史 母系制の研究』から数えて、四番目の版に相当します。この間、第三版において「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」が削除され、この改訂四版では、第三版にはかすかに小さい文字で残っていた「大日本女性史第一巻」の副題も完全に消え去り、書題は、単純で明快な『母系制の研究』という表現に一新されました。内容と書題にかかわるこの一連の改変をとおして逸枝の戦前思想は清算され、一九五三(昭和二八)年の『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社)と、遅れて一年後に出版された一九五四(昭和二九)年の『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社)との、このふたつの特殊研究によって、この時期、高群女性史学の土台となる基礎部分が、鮮明に造形されたのでした。これにより、逸枝の執筆は、通史研究である「女性の歴史」へと進むことになります。

思い起こせば、一九三八(昭和一三)年に発表された『大日本女性史 母系制の研究』の巻頭の「例言」のなかで、逸枝は、以下のように、これから自身が書く「女性史学」を全五巻で構成したい旨の抱負を述べていました。

一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。
  1 母系制の研究
  2 招婿婚の研究
  3 通史古代 国初より大化迄
  4 同 近代 改新より幕末迄
  5 同 現代 維新より現在迄17

本人も語っていますように、前半の二著が特殊研究、後半の三つの書物が通史研究ということになります。いまその前半の二著が、大作として姿を現わしたのです。しかし、まだ高群史学の壮大な計画は道半ばです。逸枝は、満を持して、このとき「女性の歴史」の執筆に向かったものと思われます。といいますのも、皇国史観に基づいて戦前戦中に書いていた『女性二千六百年史』(厚生閣、一九四〇年)と『日本女性傳』(文松堂書店、一九四四年)を乗り越え、さらには、戦後すぐに上梓した『日本女性社会史』(眞日本社、一九四七年一〇月)に手を入れる、絶好の機会がここに到来したからです。戦後史学の主題は、皇統の歴史から離れ、普通の人びとの歴史へ大きく転換していました。逸枝は、とりわけそのなかの女性の歴史に焦点をあてたのでした。結果として、逸枝が書いた「女性の歴史」は当初の計画から一巻多い、全四巻で構成されることになりました。それは、以下のとおりです。

(1)『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。
(2)『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。
(3)『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。
(4)『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。

最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが、逸枝六四歳と六箇月の一九五八(昭和三三)年七月ですので、一九三一(昭和六)年七月の「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけての全巻完成でした。構想力の明晰さと実行力の厳格さに、人はみな、一様に驚くのではないでしょうか。

それでは少し、全巻をとおしての『女性の歴史』の特徴を見てみたいと思います。この『女性の歴史』シリーズは、巻ごとではなく通巻において章と節が設定されていることが、大きな特徴となっています。そこで以下に、各巻から章と節を抜き出し、その全体像をここに示します。

第一章 女性が中心となっていた時代(上巻)
  一.日本列島のもつ原始性
  二.家庭を知らなかった社会
  三.無痛分娩の母たち
  四.族母卑彌呼
  五.女性中心の文化
第二章 女性の地歩はどんなぐあいに後退したか(上巻)
  一.文明の開幕
  二.私有財産がうまれた
  三.氏族がこわれた
  四.国家ができた
  五.女性文化がくずれた
第三章 女性の屈辱時代(中巻)
  一.世界史の基本法則からみた日本女性史
  二.市民社会が出現した
  三.「家」が形づくられた
  四.封建権力が天下をとった
  五.いわゆる庶民文化
第四章 女性はいま立ち上がりつつある(一)(下巻)
  一.開国とゲイシャガール
  二.明治政権と女性
  三.家父長制の再編
  四.近代恋愛の発生と挫折
第五章 女性はいま立ち上がりつつある(二)(下巻)
  一.婦人問題の展開
  二.女性の自覚と運動
第六章 女性はいま立ち上がりつつある(三)(続巻)
  一.労働婦人のあゆみ
  二.婦人労働の諸問題
第七章 女性はいま立ち上がりつつある(四)(続巻)
  一.第二次大戦の前後
  二.危機の文化と女性
第八章 平和と愛の世紀へ(続巻)
  一.平和運動
  二.愛の世紀

このように連続させて章と節をつなげますと、高群女性史学の全体像が鮮明に現像されます。一言でいえば、「女性中心の社会」から「女性の屈辱時代」を経て、やっといま「女性時代の再来」を迎えようとしているというストーリーになるでしょうか。今日的視点からすれば、単純にすぎる、あるいは楽観にすぎる傾向は否めませんが、この国にあって事実上はじめて出現した、女性を対象とする歴史書であれば、その学術的価値は極めて高いといわなければなりません。その一方で、『女性二千六百年史』と『日本女性傳』から『日本女性社會史』を経て『女性の歴史』(全四巻)へと続く、「女性史」研究の経緯をつぶさに見れば、その歴史は、逸枝本人の研究者としての苦闘の「女性の歴史」を表象しているようにも感じられます。さらに別の観点に立てば、こうした研究に迂回をもたらしたひとつの大きな要因が「戦争」にあったとするならば、「戦争と学問」の一頁を、逸枝は間違いなく体現していたことになります。

以上が、全体的特徴の概略ということになります。それでは続けて、内容に関しまして、幾つか具体的例を挙げて吟味したいと思います。

まず、家永三郎の指摘との関連においてです。家永は、『日本女性社會史』の書評において、逸枝が用いていた「群時代」「氏族時代」「氏族崩壊時代」「家族時代」「家族崩壊時代」といった時代区分について難色を示していました。その指摘を、おそらく取り入れたものと思われますが、時代区分の名称、つまり各章題名を柔らかい表現に置き換えています。もっとも、書き手が女性であること、そして読者の多くが女性であることを踏まえると、必然的にこうした表現へとたどり着いたのかもしれません。表現の男性化から女性化がここに認められるのです。

また、家永は、『招婿婚の研究』の書評において、婚姻制度と生産関係の問題や農民の婚姻生活の実態に関する記述の不備を指摘していました。おそらくその指摘への対応でしょうが、第一章第二節の「家庭を知らなかった社会」において、「いわゆる上部にあらわれる一部の文化物と、内部や下部にわだかまる生産関係や構造」18について言及し、第三章第五節の「いわゆる庶民文化」において、「女のなかでも、もっとも下積みの女であるとされた江戸封建期の子守娘たち」19を取り上げ、逸枝の原郷である肥後国に伝わる「五木の子守歌」へ言及します。

一方、平塚らいてう、山川菊栄、市川房枝については、どのように言及しているのでしょうか。それを、第五章第二節の「女性の自覚と運動」に読み取ることができます。この節は、「黎明期の女性たち」「先駆者平塚らいてう」「共産主義と山川菊栄」「婦選運動と市川房枝」の四項で構成されています。以下にそのなかから、三者それぞれを要約した人物評を拾い出してみます。「『青鞜』の出現は、わが国女性の自覚史上、はじめておおきな時代を画したものであった。……創刊号にのせられたらいてうによる『元始女性は太陽であった』という宣言こそは、まさに日本における『女権の宣言』の第一声であった」20。「山川菊栄がもつ女性史的意義は、らいてうに代表されたいわゆる中産階級的婦人解放運動を克服崩壊させ、その廃墟のうえに無産階級的婦人運動のヘゲモニーを打ち立てた一点にあった」21。「平塚らいてうを信念の人、山川菊栄を言論の人とするならば、市川房枝においては実践が先行し、そのうえに言論がめばえ、信念が固められるといってよい行動過程がみられる」22。「房枝は、自己の能力と、運動の究極的必然性(社会主義)と、現段階での可能面とをふまえて『実践』する実践者であった。そして、その実践には、つねにつよく『貫徹』が期された」23

実は、第五章第二節の「女性の自覚と運動」において「先駆者平塚らいてう」を取り上げたことには、逸枝にとって大きな意味が込められていました。一九二六(大正一五)年の四月、逸枝は、らいてうからもらった伝言に応えて、返信を書きました。これがらいてうに宛てて出された最初の逸枝の手紙です。以下は、その一節です。

あなたの伝記を書くことのできる、たった一人の存在が、私であることさえも、私はかたく信じています。私はもしかしたなら、あなたご自身よりも、もっとあなたをいい現わすことができるかも知れません。なぜなら、私はあなたの娘ですもの。あなたの血の純粋な塊が私ですもの24

それから三一年の歳月が流れます。一九五七(昭和三二)年一二月、逸枝は、らいてうに宛てた手紙で、こう書くのでした。『女性の歴史』(下巻)のなかの「先駆者平塚らいてう」の項(四百字詰め原稿用紙で八八枚)を書き終えたときのことです。

 らいてう伝を書くことは、私の年来の願いでしたが、いまこれを著書のなかで果たすことができました。思い切ってページを割き、心に祈って公平と的確を帰し、全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表を書きました。私はいまひどく愉しい気持ちです25

さっそく、らいてうから応答文が届きました。らいてうもまた、逸枝と同じく、このとき「ひどく愉しい気持ち」に浸っていたにちがいありません。

「先駆者平塚らいてう」が所収された下巻に続けて、さらに逸枝は、『女性の歴史』の最終巻となる続巻を書きます。そして、その「はしがき」をこうした言葉で締めくくりました。

 「女性の歴史」はこれでおわる。
 「女性の歴史」四巻は、探求の書であって、もとより政治的イデオロギーの宣伝の書でも、希望的観測の書でもない。
 これは、「母系制の研究」と「招婿婚の研究」に、根拠と出発点をもつ、私のあたらしい学説をつらぬいた日本女性全史であるが、独自の学説ゆえに、日本史批判とも、世界史・人類史への提言ともなっている。
 これは、三〇年ちかく「われらはいかに生くべきか」をひとすじに探求してきた一女性学究の、同時代の友人やのちにくる人々にささげる、ただ一つの貧しい花束である。
 私の齢はすでに傾ており、したがって私はこの書をはじめから遺書のつもりで、いうべきこと、いいたいことを書いた。そして、いまいくらか満足して筆をおくことをできたことをよろこぶ。

脱稿の日世田谷の草屋で
著者26

こうして、『女性の歴史』の上巻、中巻、下巻、続巻の計四巻が、一九五八(昭和三三)年の七月に完結したのでした。

『女性の歴史』全四巻が完結しますと、その後、生前の逸枝の最後の本となる『日本婚姻史』が、一九六三(昭和三八)年五月に至文堂から刊行されます。その「奥付」の上に記載された「著者略歴」には、次のように書かれてありました。

明治27年 熊本県に生まる。
昭和6年~現在 女性史・婚姻史専攻。
著書 母系制の研究、招婿婚の研究、女性の歴史(4巻)。

これを見る限り、詩人としての逸枝の、アナーキストとしての逸枝の、それに続く、国体主義者としての逸枝の、かつて展開した鮮烈な活動の面影は、もはやどこにもありません。『母系制の研究』、『招婿婚の研究』、そして『女性の歴史』(全四巻)、さらに加えて『日本婚姻史』を著わした、女性史・婚姻史専攻の学者としての顔のみが、読者に向き合っているのです。そして、この本の上梓から一年後の一九六四(昭和三九)年六月、自伝「火の国の女の日記」を途中書き残したまま、七〇歳にして帰らぬ人となるのでした。

それでは、本章「逸枝の『招婿婚の研究』と『女性の歴史』四部作」を閉じるに当たり、逸枝の『女性の歴史』に通底している史観について、それと同時に、このことへの憲三の関与の有無についてもあわせて、ここに考察しておきたいと思います。

逸枝が、単身熊本の片田舎から上京し、時期を同じくして『日月の上に』(叢文閣)と『放浪の詩』(新潮社)のふたつの詩集を上梓するのは、一九二一(大正一〇)年の六月のことで、二七歳になっていました。それから五年後の一九二六(大正一五)年四月、夫の憲三が勤務していた平凡社の別会社である萬生閣から『戀愛創生』が世に出ます。

ここに、マルクス主義と無政府主義者(アナーキスト)について、本人自らが言及していますので、以下に、その一部を引用します。最初は、マルクス主義に関しての部分です。

 マルクス主義の理論は、その有名な唯物史観に根をもつてゐる。
唯物史観といふのは、人間の一切の生産樣式は、物質的事情、経済関係の如何によつて決定する。人間の社會生活の外観は勿論、その精神生活、政治、法律、道徳、宗教、文藝、科學、哲學等も、すべて、その時代の経済組織を中心として變化する。といふのである。
(中略)
 この生産関係の総和が、社會経済の骨組みをするので、法律、政治など、上部構造を作り上げる、眞實の基礎。また、それに相應する、ある社會的自覺を生む基礎27

重要なことは、早くもこの時点において逸枝は、社会の歴史的発展は、生産力と生産関係で成り立つ経済的基盤が変化することによって決定されるという、マルクスの歴史観を理解していたということです。いうまでもなく、マルクス主義の基本部分は、政治制度、法律、宗教、それに思想や文化といった上部構造は、生産力と生産関係の総体としての下部構造に依存し、社会の経済的条件に応じて変化するとする考えにありました。

次の引用は、無政府主義者(アナーキスト)についての部分です。

 無政府共産主義者として數へらるゝものに、プルードン、バクニン、クロポトキンがある。
 プルードンは、平等を力強く主張した。境遇の平等、機會の平等を。
 プルードンは、國家的支配を否定し、人間としての自由を熱望し、バクニンは、革命的無政府主義者として、革命の化身といはれ、人間平等の精神に立脚して、一切の特権制度に反對した。
 彼の理想社會は、政府といふ組織を持たないばかりでなく、いかなる種類の制度をも持たなかつた。
(中略)
 クロポトキンの思想は、「パンの略取」「相互扶助」論等で有名である28

逸枝は、マルクス主義のみならず、この文からわかりますように、世界の無政府主義の動向に関心をもち、主だった無政府主義者たちの考えにも精通していたのでした。

それではこのとき、逸枝は、いずれの思想的立場に立っていたのでしょうか。

『戀愛創生』には、本文に先立つ「巻頭に」において、本書執筆にかかわる要点が箇条書きにされています。それは、「婦人問題の経路」にかかわって八点、「戀愛の経路」にかかわって一〇点、そして「エレン・ケイの戀愛論」にかかわって一点、合計一九箇条で構成されていました。以下に、「婦人問題の経路」から三点を選んで、紹介します。

一、婦人問題の経路は、女権主義、女性主義、新女権主義、新女性主義。
一、新女権主義は、科學社會主義を信奉してゐる。新女性主義は、科學社會主義の彼方に、新たに個性を語る。
一、新女性主義こそ、世界に對して日本婦人のする、最初の提唱であらう。私は豫想する。日本婦人の活動を。知的聡明を。新女性主義を、いま本書で説く29

このように、逸枝が信じる婦人問題の最終的な発展の地平は、「新女権主義」の「科學社會主義の彼方に」あるところの「新女性主義」です。「新女権主義」がマルクス主義に、「新女性主義」が無政府主義に根拠を置いていることは明らかです。そして同時に、逸枝にとっての婦人論および恋愛論を支える基礎となる原理部分が、この「新女性主義」でした。その上に立って逸枝は、マルクス主義を次のように見ます。

 マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる。
 彼等は、婦人が彼等の社會に所有されてゐるゆゑ、婦人に對して無關心である。
 社會上のすべての問題は、婦人を踏臺にした上でのものであるといふ眞理に對して無關心である。
 彼等は、婦人が踏臺にされてゐるといふことを忘れて、単なる経済的争奪戦の現象を、全體としての現象であると見てゐる。
 彼等は、甚だしい近視眼者、社會の表面だけを見る皮相論者にすぎない30

この文が明示するように、逸枝にとっての婦人論および恋愛論からすれば、「マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる」のでした。

ところが、『女性の歴史』の下巻において、逸枝が戦前その立場に立っていたアナーキズムの限界について語ることになるのです。以下が、その箇所です。

アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる31

この言説は何を意味しているのでしょうか。女性の歴史を通史として描こうとするこの段階にあって、逸枝は、アナーキズムを捨て去り、マルクスの唯物史観に頼らなければ、女性の歴史を通史として描くことはできないのではないかという問題に直面したのではないでしょうか。これが、私が愚考するところです。

いずれにせよ、アナーキズムの欠点にかかわるこうした認識に、逸枝がいつ到達したのかは正確にはわかりませんが、明らかにこれは、逸枝にとってのアナーキズムからの撤退を意味します。戦前の積極果敢な言動との落差を感じないわけにはゆきません。しかし時代は、皇国史観に代わる、新たな歴史観の登場を要請していたのでした。

それでは、『女性の歴史』を執筆していたころの逸枝は、マルクス主義にかかわって、どのような理解に達していたのでしょうか。以下は、一九六〇(昭和三五)年の日記に記されている一節からの引用です。

 寸感メモ。女性史については、あらゆる学問-社会・民族・歴史等が冷淡であるなかに、ただ一つ、マルクス主義史学のみが、これに関心を示していることを知ったとき、はじめてマルクス主義に無知であり反感さえもっていた私は、あらためてこれに敬意を感じはじめた32

ここに書かれてある、「マルクス主義史学のみが、これ[女性史]に関心を示している」という言説に対して、『戀愛創生』のなかの「マルクス主義は、婦人問題に無關心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる」という言説を対置するならば、逸枝のマルクス主義理解の深化は歴然とします。さらにこの文言に続けて、逸枝はこうも語ります。

 私の目的は「真理」であるので、マルクス主義がいわゆる「赤」であろうと、私にはそのような世俗的なとりさたは問題でない。私はいろいろなマルクス文献をむさぼりよんだが、こんどソビエトで出された『世界史』は、もっとも女性史とその基礎である世界の各段階の社会関係を示すものとしてうれしいものであった33

以上に見てきましたように、明らかに逸枝の思想的立場は、終戦を境として、戦前の「アナーキズム礼賛/マルクス主義断罪」をまさしく反転したところの、「アナーキズム否定/マルクス主義賞賛」という新しい地層へと移植されたのでした。しかもその地層には、「皇国史観絶対/唯物史観拒絶」から「皇国史観追放/唯物史観受容」へという別の反転された地層が連なっており、逸枝の戦後の思想的着地点は、極めて重層的で複雑化された地層であったものと想像されます。

しかし逸枝は、その独自の着地点へ到達してゆきます。とりわけその様相の一部は、山川菊榮にかかわる評価にはっきりと現われます。

逸枝は、その三〇余年前の一九二八(昭和三)年、『婦人公論』五月号へ「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」と題した一文を寄せ、マルクス主義における女性観や恋愛観にかかわって、以下にみられるように、山川菊榮を断罪していました。

この文は、「われらが心に久しく求めてゐる純悴素朴な戀愛とは何か、それはいかなる社會組織を母胎として芽生えるものであるのか」34を念頭に論じられてゆき、最終的に、純粋素朴な恋愛が保障される社会組織は、「分業的、統割的社會ではなくして、綜合的、集約的社會でなくてはならぬ。それは即ち、現在、反マルクス主義的新興思想として、眞に自覺せる勞働者、農民、婦人の中に侮り難い勢力を確保しつゝある自由聯合主義思想の目ざす社會であらねばならぬ」35という結論に到達していたのでした。そして、最後のまとめに当たって逸枝は、山川に対し、こうした厳しい言葉を投げかけるのでした。

 山川菊榮氏よ。氏はいたづらに純悴素朴な戀愛とか、婦人の欲求とかを口にされる。けれど氏がマルクス主義を捧持してゐられる限り、その言葉は、単なる無智な、単なる空疎な、そして無自覺であり、無責任であり、無内容である言葉であつて、眞に目ざめた婦人に對しては、何等の権威なき、嗤うべき、唾棄すべき振舞であるといふことを、自ら恥ぢられるやうにと、私は改めて、ここでおすゝめしたく思つてゐると36

しかし、見てきましたように、一九六〇(昭和三五)年の日記には、明らかに、マルクス主義に関する好意的受け止めが示されているのです。そのことは、戦前の論敵であった山川の業績に対する再評価へとつながってゆきます。以下は、『女性の歴史』(下巻)からの引用です。

 山川菊栄がもつ女性史的意義は、らいてうに代表されたいわゆる中産階級的婦人解放運動を克服崩壊させ、その廃墟のうえに無産階級的婦人運動のヘゲモニーを打ち立てた一点にあった37

こうした、上に挙げた、山川の業績評価にかかわる変容の事例から判断しますと、逸枝は「戦前」の自分を捨てて、「戦後」の新しい自分のなかに活路を見出していることが判明します。繰り返しになりますが、その様相は、「アナーキズムからマルクス主義へ」「ロマン主義から現実主義へ」、あるいは「詩人から学究へ」、さらには「皇国史観から唯物史観へ」といった用語で形容することができるかもしれません。確かにここに、逸枝の思想的変移の一端があったのでした。

では、マルクス史観への開眼という文脈から、『女性の歴史』にかかわって、少し検討してみます。

『招婿婚の研究』が世に出ると、家永三郎が、その書評を書きました。以下は、その一節です。

 著者は母系制の存続といふ一点張りで、すべての招婿婚に関する現象を割り切らうとした。しかし、評者は他の多くの歴史家と同じく生産関係との聯関が婚姻の形態に最も根本的な規定力をもつことを考へずにはゐられない。評者は、群婚といつた実証のできない仮説によつて招婿婚の成立を説明するよりも、原始農業に於ける女性の生産的労働力の重要性といふ実証的事実によつて説明する方が、少くとも現段階に於いてはより一層科学的であると信じるものである38

これに対して逸枝は、こう応答しています。

「評者は他の多くの歴史家と同じく生産関係との聯関が婚姻の形態に最も根本的な規定力をもつことを考へずにはゐられない」以下一連の評言……私には思いもよらない受取れない言葉であるということである。
 これはまつたく私の文章の不備か、そうでなければ、博士のちよつとした読みちがいからきているのではないかと思う。というのは、私も博士とともに、生産関係を婚制や族制の前提とする立場にたつているものであり、終始この立場において、全巻の立言を行つたつもりである39

この逸枝の言説からすると、すでに『招婿婚の研究』は、「生産関係を婚制や族制の前提とする立場」から書かれていたことになりますが、おそらく家永の指摘を受けて再度徹底しようとしたのでしょうか、すでに紹介していますように、逸枝は、『女性の歴史』の上巻の第一章第二節「家庭を知らなかった社会」において、「いわゆる上部にあらわれる一部の文化物と、内部や下部にわだかまる生産関係や構造」について言及するのでした。

しかしながら、逸枝の、上部構造と下部構造に関するマルクス主義的認識は、『戀愛創生』においては、明らかに否定的な立場からなされており、なぜ、戦後のここに至って、その認識が改められ、肯定的なものへと転じたのか、それについて逸枝も憲三も何も語っていませんので、詳細は不明です。しかし、皇国史観に代わって唯物史観へと転進することは、家永を含め、当時の多くの歴史学者に認められるものであった以上、逸枝の、「私も博士とともに、生産関係を婚制や族制の前提とする立場にたつているものであり、終始この立場において、全巻の立言を行つたつもりである」という言説も、その文脈において首肯する必要があるものと承知します。

のちに逸枝の葬儀に際して家永は、友人代表のひとりとして名を連ねることになります。これが、憲三の要請に基づくものであったことは明らかでしょう。

一方、高群逸枝『女性の歴史』(下巻)には、唯物史観の受容というテーマとは全く別の次元ながら、どう見ても奇異に映る言説が一点含まれています。それは、無政府主義やマルクス主義について知りえた時期について言及がなされている箇所です。逸枝は、こう告白します。

アナキズムにたいしては、ほとんどそれ[大逆事件で落命した郷土の無政府主義者たち]以上のことを知らず、したがってクロポトキンも、バクーニンも、プルードンも、ルクリュも知らず、これらについては、昭和六年の六月に「婦人戦線」を廃刊(通巻一六)して、郊外の森の中に退き、日本女性史研究に学究として専心するようになってから、マルクス、レーニンらの学説をも含めて、はじめてようやく知りえたといえるくらいのものであった40

しかし、上で詳しく述べていますように、実際には、「郊外の森の中に退き、日本女性史研究に学究として専心する」もっと早い段階において、疑いもなく逸枝は、マルクス主義を知り、海外のアナーキストたちの存在についても理解していたのでした。何ゆえに逸枝は、明らかに虚偽なる言説を、晩年の一九五八(昭和三三)年に刊行した『女性の歴史』(下巻)に盛り込んだのでしょうか。あえて憶測すれば、「森の家」において学究生活に入る以前の自身のアナーキストとしての姿に蓋をして、人目から遠ざけたかったからなのではないでしょうか。しかし、たとえそうであったとしても、実際には、『戀愛創生』や『婦人公論』のような、本や雑誌に書いた文まで消し去ることはできず、そう思うと、逸枝のこの仕業は理解に苦しみます。そして同時に、夫である憲三がこのことに関与していたのかどうかも、気になるところです。

前章の「逸枝の女性史学における国体思想の展開とその清算」において詳述していますように、逸枝の言葉として、次のようなものが残されています。「主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない『女性史』を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです」。一方、憲三の言葉として、次のようなものがあります。「ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです」。このふたりの言説から推量するならば、逸枝が、アナーキズムを放棄してマルクス主義に傾斜したことも、皇国史観から脱してマルクス史観に根拠を置く歴史家に転身したのも、いずれも憲三の指導によるものだったのかもしれません。一方、アナーキズムやマルクス主義を知るようになった時期についての逸枝の証言に関しても、憲三が、何らかの示唆を逸枝に与えた可能性があります。しかしながら、残されている一次資料からそのことを十全に立証することはできません。新資料が発掘されない限り、いまのところ、憲三が具体的にどのように関与していたのか、その真相は、闇のなかにあるのではないかというのが、私の考えるところです。

しかしながら、「昭和六年の六月に『婦人戦線』を廃刊(通巻一六)して、郊外の森の中に退き、日本女性史研究に学究として専心するようになってから、マルクス、レーニンらの学説をも含めて、はじめてようやく知りえたといえるくらいのものであった」という逸枝の言説が、決して虚偽なるものではなく、疑うことなく真実なものであるとするならば、そのおよそ六年前に出版された『戀愛創生』のなかに書かれてある、「唯物史観といふのは、人間の一切の生産樣式は、物質的事情、経済関係の如何によつて決定する。人間の社會生活の外観は勿論、その精神生活、政治、法律、道徳、宗教、文藝、科學、哲學等も、すべて、その時代の経済組織を中心として變化する。といふのである」という言説を含む、マルクス主義や無政府主義に関する記述は、一体誰が書いたのでしょうか、果たして憲三の手によって書かれたのでしょうか。

『戀愛創生』という書名は、もともと憲三が発案したとする資料が残されています。以下は、憲三の言葉です。

 下落合での執筆のとき、私が『恋愛創生記』の案を出しました。あとで下中さんが『記』を除いた方がよかろうというので私も賛成しました。著者をさしおいての話でむちゃですね41

このことから判断しますと、書名がそうであれば、本文にも憲三の手が入っている可能性を排除することができないかもしれません。かといって、憲三が、「著者をさしおいて」「むちゃ」な行為を日常的にしていたという一片の証拠もありません。

これ以上は、妄想の類になり、慎みたいと思います。といいますのも、人の人生など複雑怪奇な箇所が多々あり、わずかに遺されている一次資料からだけでは、そのすべてを立証することはできず、不明な箇所が山のように残ることが通例であり、まして私は小説家でも評論家でもなく、大言壮語といったものとは無縁の、一次資料(エヴィデンス)が語る「真実」だけを「真実」として描く、小さな一介の歴史家であり伝記作家にすぎないからです。しかしながら、この点にかかわる憲三の関与の有無は、憲三の生涯を描くにあって極めて重要な要素であることはいうまでもなく、そこで、その立証に必要とされる史料は現時点において不在であることだけをここに指摘し、本章「逸枝の『招婿婚の研究』と『女性の歴史』四部作」を閉じることにします。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、286頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、286-287頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、287頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(6)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、288頁。

(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、289頁。

(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、290頁。

(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(11)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、292頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、369頁。

(13)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄弁會講談社、1953年1月、4頁。

(14)同『招婿婚の研究』、1-2頁。

(15)家永三郎「高群逸枝著『招婿婚の研究』」、史学会編『史学雜誌』第62編第7号、1953年7月、76-77頁。

(16)高群逸枝「家永博士の批評を読んで」、史学会編『史学雜誌』第62編第10号、1953年10月、75頁。

(17)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、1-2頁。

(18)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954年、32頁。

(19)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955年、319頁。

(20)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、257頁

(21)同『女性の歴史』下巻、294頁。

(22)同『女性の歴史』下巻、314頁。

(23)同『女性の歴史』下巻、316頁。

(24)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、234頁。

(25)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、442頁。

(26)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958年、ノンブルなし。

(27)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、303頁。

(28)同『戀愛創生』、335-336頁。

(29)同『戀愛創生』、1-3頁。

(30)同『戀愛創生』、316-317頁。

(31)前掲『女性の歴史』下巻、287頁。

(32)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、462頁。

(33)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。

(34)高群逸枝「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』第13巻第5号、1928年5月、93頁。

(35)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。

(36)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。

(37)前掲『女性の歴史』下巻、294頁。

(38)前掲「高群逸枝著『招婿婚の研究』」、史学会編『史学雜誌』第62編第7号、81頁。

(39)前掲「家永博士の批評を読んで」、史学会編『史学雜誌』第62編第10号、75頁。

(40)前掲『女性の歴史』下巻、287頁。

(41)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、97-98頁。